イワンは、復興の中々進まない、東京の町を歩いていた。
イワン=タワノビッチ――
その風貌に、多くの人々が、思わず振り返った。
イワンは、一八〇センチにも及ぶ自らの身体を、殊更に縮めて歩いていた。
当時、一七〇あれば、充分に高身長であった。それを更に一〇センチも上回るイワンは、最早、異質であった。
それでも、何とか、その視線に晒されるだけで済んでいたのは、彼の顔立ちが、日本人に寄っていたからである。
母親が、ロシア人であるが、父親は、日本人だ。
その顔が、げっそりとしていた。
頬が、ナイフで抉ったかのように、ぞっくりと削れているのである。
眼が、虚ろであった。
精神的に、かなり参っているように見える。
それに、周囲の人たちの視線に依るストレスが加わり、益々、イワンの顔には疲労が浮かび上がっていた。
とても、二六歳には見えない。
終戦後、イワンは、日本へとやって来た。
ドイツから、である。
アウシュヴィッツで、生体実験を主に執り行っていた。
同盟国に所属していたとは言え、何故、日本へやって来たのか。
幼少期は、東京で過ごした。しかし、戦後間もない故郷に再び足を踏み入れたのは、何の為であろうか。
或る男に、呼ばれたからだ。
いや、男とは言うが、本当に男であるかどうかというのは、分からない。
しかし、どちらでも良かった。
終戦後、絶望に暮れるイワンに、或る筋から連絡が入った。
“日本へ来給え”
最初、イワンは、それに返答する心算はなかった。
ナターシャの事があった。
三つ下の妹である。
元から病弱であったのだが、終戦前に、命を終えた。
イワンは、ナターシャの遺体を冷凍し、彼女を蘇らせる術を探し始めた。生体実験に協力したのも、ナターシャの延命の為の技術を手に入れる事が目的であり、終戦までナチスに籍を置いていたのも、余りにも早い死を迎えた彼女を生き返らせる為だ。
だが、それらの願いは叶う事なく、戦争は終わった。
ナチスの施設から、完全に追い出された。
実験の一つも、許されなかった。
凍て付いた遺体も、回収されてしまっていた。
生きる希望が潰えた――
そう思った時、イワンの肉体は、一気に衰えてしまう。
髪は抜け、肉は削げ落ち、唯の不健康なのっぽになってしまった。
そんなイワンに、連絡があったのだ。
“君の妹の遺体は、我々が、占領軍から押さえている”
“君の技術が欲しい”
“君の妹を生き返らせるのに、協力しよう”
だから、日本へ来いと、言ったのである。
イワンは、藁にも縋る思いで、日本へ飛んだ。
そうしての、東京である。
具体的な場所は、指示されなかった。
東京で、使いの者を出すとの事であった。
それから、三日である。
野宿をした。
宿など、望むべくもなかったのである。
使いの者は、まだ、接触して来なかった。
動き回って、自分がいるという事を、アピールしなくてはいけない。
だが、そうして町中を歩いていると、必ずと言って良い程、奇異の視線に晒される。
日本人には、進駐軍だと勘違いされる。子供などは、食べ物をねだったりするだけだが、大人になると、いやらしい程のへつらいか、敵意のようなものを向けられる。
日本人だと分かると、特に大人は、更に嫌悪感を明らかにする。背の高いイワンを嫉妬して、妙な嫌がらせをしたりするのである。
アメリカ兵にも、似たような対応をされた。連合軍側であると思われれば、優しく声を掛けてくれたが、日本人と分かった途端、掌を返して、見下して来る。更に、ナチスであった事が分かると、暴力を振るわれる場合があった。
早く見付けて貰わなければ、過労死するかもしれなかった。
イワンは、人々の視線を避けるようにして、町を抜けた。
川の傍にやって来た。
夕暮れ時――
川原に、大きめの石があった。
そこに、腰掛けた。
座り込んだ途端、ここ暫くの疲れが、一斉に襲って来た。
川を眺める。
濁った川だ。
ねっとりとした水が、流れている。
つい最近まで、焼死体がごろごろとしていた川だ。
空襲があった。
爆撃から逃れようと家を飛び出し、そのまま火炎に包まれてしまった。
その脂が、まだ、残っている。
時には、まだ回収されなかった、焦げた身体の一部が覗く事もあった。
それでも、川は流れている。
水の流れは、止まらない。
元に戻ろうとしている。
人の肉体にも、怪我した部分を治そうという働きがある。それと同じように、川が、溜まった脂を洗い流そうとしているのだ。
その自浄作用が、かなり、遅れているようであった。
イワンの眼には、そのように見える。
と――
そのイワンに、声を掛ける者があった。
見れば、アメリカ兵である。
ガムを噛みながら、三人、やって来た。
黒人が一人。
白人が二人であった。
「日本人か?」
と、英語で聞いて来た。
「そうだ」
と、英語で答えた。
「英語が分かるのかい」
「ああ」
「へぇ」
感心したように、白人の兵士が言った。
ガムを、くちゃくちゃと鳴らしている。
「丁度良かった」
「丁度良い?」
「通訳を探していたんだ」
「――」
「日本人は、教養がなくて困る。滅多に、我々の言葉が分かる者がいない」
不便でしょうがないので、英語と日本語の両方が分かる人物が、必要であったらしい。
報酬は払うとの事であった。
食糧などの事である。
殆ど、腹に入れていなかった。
若し、単に日本を懐かしんで東京に戻って来たのなら、受けても良い仕事であった。
だが、今の自分は、人を探している。
他人の事を考えている精神的余裕は、イワンにはなかった。
すると、米兵たちは、舌を鳴らし始めた。
かなりの好条件を提示したのに、断られたのが、気に喰わないようであった。
「もう一度、考え直してみたらどうだ」
と、白人兵士が言った。
「済まない」
と、言ってから、
「今は、そういう事をやっている、余裕がないんだ」
と、イワンははっきりと断った。
最初に、自分なりに誠心誠意、謝罪をした心算であった。
「イエロー・モンキー」
ぽつりと、白人兵士の一人が呟いた。
それだけならば、まだ、我慢も出来た。
「阿婆擦れた親を持った小僧が」
それには――
「何だと?」
我慢が出来なかった。
「何だと⁉ 貴様――」
混血児――ハーフであるという事が、分かってしまったようであった。
それを、阿婆擦れと思われた。
生まれた国の違う両親の事を、愚弄された。
それは、イワンだけではない。
ナターシャ――
最愛の妹さえ、侮蔑する言葉であった。
「訂正しろ」
イワンが言った。
ドイツ語が出ていた。
「訂正するんだ」
「――ジャーマン?」
と、黒人兵士が訊いた。
「ナチスか」
白人の一人が言った。
ガムを吐き出すと、胸倉を掴んで来た。
パンチが飛んで来た。
イワンの頬骨が軋んだ。
川原に倒れ込んだ。
イワンを殴った男が、倒れ込んだイワンに馬乗りになり、又、襟を掴んで、パンチを落として来た。
イワンは、抵抗しようとした。しかし、細い腕では、屈強な現役兵士の身体には、通じなかった。
パンチが落ちて来た。
拳が落ちて来た。
鼻が曲がった。
歯が折れた。
唇が裂けた。
瞼が切れた。
顔が腫れた。
「くああぁっ!」
イワンが叫んだ。
叫んだその口に、拳がめり込んで来た。
「かあああっ!」
「あきゃああっ!」
「けわっわわわっ!」
イワンは、男の脚の下で暴れた。
意味がなかった。
パンチ。
拳。
右。
左。
落ちて来る暴力に、抵抗した。
抵抗が、尽く、潰されていた。
泣いていた。
血が混じっていた。
糞――
と、思っている。
何故だ。
何故、俺が、こんな目に遭わねばならない⁉
最愛の妹は、どうして、あんなにも身体が弱く生まれたのだ。
そんな事まで、思い始めていた。
何で、戦争なんかが起こったのだ。
どうして、両親の生まれた国が違うと言うだけで、差別されるのだ。
髪の色?
眼の色?
身長?
言葉?
ふん。
それが、どうして、差別の対象になるのだ。
糞だ。
糞だった。
こんな奴らは、糞なのだ。
では、その糞に、殴られている俺は、何なのだ。
やはり、同じ、糞なのか。
それ以下なのか――
「おええええああぁぁぁっっ!」
イワンが吠えた。
その時であった。
「そこまでにしときな――」
日本語であった。
別に私に差別主義はありません。