ごつごつとした岩肌に、白い波がぶつかって来る。
すっきりと晴れた空の下、駆け抜ける爽やかな風に、女は、髪を揺らしていた。
紺色の道衣と、黒い袴を身に着けた、若い女であった。
腰には、刀を帯びている。
二尺三寸の日本刀である。
女は、水平線に向かい、眼を閉じて、その場に佇んでいる。
海から吹き付けて来る風が、彼女の纏った空気に当てられ、真っ二つに裂けてゆくようであった。
そうしている内に、女の後方から、軽やかな足取りで近付いて来る者があった。
こちらも女である。
剣道衣よりも薄手の上衣と、ズボン状の下衣。
上衣は袷て、ささくれだった黒い帯を結んでいる。
足元は、剣道衣の女が草鞋であるのに対し、履き潰されたスニーカーだ。
「遅いぞ、前田……」
剣道衣の女が、振り向きながら、言った。
前田と呼ばれた女――前田さくらは、ぽりぽりとこめかみの辺りを指で掻きながら、
「いや、どうもね、緊張しちゃってさ」
と、全く緊張を感じさせない口調で、言った。
向かい風が、海から吹き付けて来る。
その風が、自然と、さくらの身体を通り抜けてゆく。
さくらの髪も、道衣も、帯も、彼女の皮膚も、風を確かに感じている筈なのだが、風の方は、そこには何もないかのように通り過ぎてゆくのだった。
「今日日、海岸で決闘なんて、想定してなかったもので……」
「ふふん」
剣道衣の女が、鼻を鳴らす。
「実戦空手がどうのと言う割には、所詮、女という訳だ」
「貴女だって、女のくせにぃ」
ぷく、と、さくらが頬を膨らませる。
それに対して、剣道衣の女は、ぴりぴりとした空気を途切れさせない。
「で、その腰の物騒なもの、使う訳? 私に……」
言いながら、さくらと、剣道衣の女との距離が、近付いて来ている。
五メートル程だ。
そこから少し先に進み、さくらは立ち止まった。
「無論だ。お前も、その心算で来たのだろうに」
「そりゃ、天下の女剣士、
「ならば、それが答えだ……」
剣道衣の女――山口真美が、左手を腰の刀に掛けた。
親指が、鯉口を切り掛けている。
既に、真美の中では、さくらとの戦闘が始まっている。
間合いを計算し、自分の剣技の程を確認し、さくらの動作を予測し、心の中で、前田さくらを斬殺する――そのプランを立てている。
ここから、さくらがどのような空手の技術を行使しようが、彼女の頸、或いは胴体、又は四肢を切断し、脳か心臓を刺突するという、それだけを、考えている。
一方、肝心のさくらはと言うと、
「厄介な事になっちゃったなぁ……」
と、溜め息を漏らしていた。
「その心算で、魔蛇団に喧嘩を売ったのだろう」
真美が言う。
右手も、刀の柄に掛かっている。
「なぁんで実家に戻って来ていきなり、やくざとズベ公共と一悶着しなくちゃいけないのやら……」
「私立探偵などと言う職業を選んだ事を、後悔するが良いさ」
「だわな」
けらけらと、さくら。
片足を持ち上げて、爪先でとんとんと地面を叩いている。
「……所で、私が勝ったら、魔蛇団と鬼花組が売り払おうとしている、あの女の子たちを、解放してくれる訳ね」
「そういう約束だ」
「それを聞いて安心したよ。それじゃ、あんまり長引かせる事でもなし、さっさと――」
そう言ってさくらは、顔を上げ、それと同時に、地面を叩いていた方の脚を、素早く、鋭く持ち上げた。
踵から滑り落ち、爪先に引っ掛かっているだけとなっていたさくらのスニーカーが、びゅんと、音を立てて真美の顔に向かって飛来する。
「ぬ⁉」
咄嗟に剣を抜き、柔らかくなったスニーカーを切断した真美であったが、その顔面に、さくらの左足によるハイキックがめり込んでいた。
「終わらせますか」
さくらが、途中であった言葉を言い終えた。
「最近、ここらで大きな雷があったんだって」
「あー、知ってる。お天気だったのに、いきなり、って奴でしょ?」
そのような事を話しながら、二人の女性が、オートバイを手押ししている。
これも、海の傍の事であった。
神奈川県三浦半島――
海の傍をツーリングしていたが、片方のバイクに故障があり、そちらに付き合って、もう一人の方もバイクから降りている。
途中で、外見こそやんちゃではあったが、根は悪くないであろうバイク乗りと出会い、彼らから近くにモーター・ショップがあると聞いて、そこへ向かっている所であった。
「ってか、夏で、ここら辺で、雷っていうと、どうしても思い出しちゃうね」
「そうね。決して良い思い出じゃないけど、今の私にとって、大切な事……」
落ち込んだ顔で、バイクを押しているのが、相澤だ。
その隣で、仕方がないという顔をしているのが、吉塚であった。
元城南大学空手部に所属していた二人であり、数年前の夏、デッドライオンと暗黒大将軍の計画に巻き込まれた所を、五人の仮面ライダーたちによって救出されている。
「大切な事?」
相澤が訊いた。
「生き方って奴よ。何て言うか、あの日から、悪い事をする意欲が失せたわ」
「悪い事って……よっちゃん、悪い事する心算で生きて来たの?」
「そういう訳じゃないけど、よりそう思うようになった、って事……」
「より?」
「ほら、あんたがさ……その、神さんを」
そこまで言って、吉塚が言葉を切った。
デッドライオンと暗黒大将軍配下の、改造魔虫たちは、三崎美術館を訪れていた、相澤と吉塚を含む多くの人々を人質に、その場にいた神敬介と城茂を追い詰めている。
その時、改造魔虫アリジゴクが作った蟻地獄に、身動きの取れない神敬介・仮面ライダーXを、人間たちの手で突き落とさせるという、いやらしい作戦を行なった。
その、魔虫たちに脅され、Xライダーを突き落とした中に、相澤がいたのである。
「私だって、城さんを……」
と、吉塚が言うのは、彼女も亦、魔虫たちによるライダーへの私刑に、加えられたからだ。
鎖で縛られた城茂を、岸壁に追い込み、鉄パイプや、角材などで叩かせた。
そうしなければ殺すと脅迫されていたとは言え、最後に茂を叩いて生き延びようと決断したのは、自分である。
特に、身動きの取れない茂を叩かず、魔虫たちのリーダーであったハチ女に、身を捨てるようにして殴り掛かった前田さくらがいるからこそ、より、自分の判断を悔やんでしまう。
「大学生にもなって、あれだったけど、ああいう集団心理って奴かな。あれが、怖くなった」
「――」
「他の人がやっているから正しいんだって、そうやって、間違っている事が分かっている筈なのに、流されてしまうっていうのがね」
「成程ね……」
「うん?」
「だから、よっちゃん、会社でいつも独りぼっちなんだ」
「はぁ⁉」
「だって、そーでしょう?」
「ぐむ……」
吉塚が唸った。
悪意なく痛い所を突いて来る相澤であったが、しかし、
「でも、独りぼっちって、独り法師……修行するお坊さんっていうのが語源になってるって聞いたよ。つまり、よっちゃんは沙門なんだね。格好良いや」
「嬉しくない……」
どよん、と、今度はこちらが落ち込んでしまう吉塚。
「修行と言えば」
と、相澤が話を再開した。
「さくらさん、どうしてるかな」
「前田先輩? えーと、確か、ご実家に戻られて、探偵やってるとか」
「実家って、青森だっけ。そこで、探偵?」
「うん。私立探偵……今、鬼花組とかいうやくざと、魔蛇団とかいうズベ公グループがやってる人身売買とばちばちやってるとか……」
「遠い所に行っちゃったなぁ」
「女だてらに探偵なんて、危ない事も色々とあるだろうけど……ま、何てたって前田先輩だもの。大丈夫でしょ」
そうこう話している内に、二人は、目的の店の前までやって来ていた。
街道沿いに、ぽつんと立っている小さな店である。
立花レーシング――
お世辞にも、立派とか、綺麗とかは言い難い店であった。
店の前に、幾らかバイクが並んでおり、その内の一台に、店主らしき男性が張り付いている。
「済みません、ちょっと良いですか」
と、相澤が声を掛けた。
灰色の作業着を着た店主が、すすだらけの顔で、二人を振り向いた。
肌は浅く焼け、髪には白いものが混じっている。
背が高いという訳ではないが、体格は良く、何よりも柔和な雰囲気の中に、ぎらりと光る牙と、妙な哀しさを湛えていた。
「いらっしゃい。バイク、どうかしたのかい」
店主――立花藤兵衛が、言った。
藤兵衛にバイクを任せ、相澤と吉塚は、店の中でコーヒーを飲んでいる。
コッフェルで湯を沸かし、ミルで豆を挽いて淹れ、アルミのカップに氷を入れて、アイス・コーヒーにして飲んだ。
相澤は、砂糖を二杯。
吉塚はブラックのままで飲んでいる。
藤兵衛が相澤のバイクを相手取っている間、二人は、店の中を見回していた。
男一人でやっているだけに掃除の粗などは目立つが、少なくともバイク関連の整備は抜かりがない。
棚に眼をやると、トロフィーや、入賞した時の写真などが飾られている。
しかし、そのトロフィーを貰ったのは、藤兵衛ではない事が殆どであった。
藤兵衛自身がレーサーというのではなく、レーサーを育てるトレーナーというのが、藤兵衛の在り方であるらしかった。
それらの写真の中で、一際眼を引くものがあった。
一〇年位は前の写真であろうか。
バイクに跨った青年と、藤兵衛の、ツー・ショット写真だ。
今よりも少し若い藤兵衛と、髪に癖のある青年が、爽やかな笑顔をこちらに向けている。
「良い写真ですね……」
ぽつりと、吉塚が漏らした。
一旦、工具を取りに立った藤兵衛が、その吉塚の呟きを捉え、
「そうだろう。そいつは、儂の、一番の弟子だ」
と、誇らしげに胸を張った。
しかし、その後で、何となく寂しそうな顔を、藤兵衛は浮かべた。
単に、過去を懐かしんでいるというのではない。
その思い出す過去に、何らかの遺憾でもあるかのような、どうとも言い難い表情であった。
愛しさがある。
けれども同じだけの哀しみがある。
「お弟子さんですか。今は、何処に?」
相澤が訊いた。
「うん? ああ、今は、少し、な」
藤兵衛は言葉を濁した。
こら、と、吉塚が相澤の脇腹を小突く。
藤兵衛が、目当ての工具を持って、バイクの方へと戻って行った。
藤兵衛の背中を眺める吉塚であったが、その視界に、黒い自動車が滑り込んで来た。
店の外の道に、高級そうな外車が一台、停まったのである。
見ていると、白いスーツを着た男たちが、店にやって来た。
「立花藤兵衛さんは、貴方ですか?」
男の一人が、言った。
五人。
国籍は、様々であった。
最初に言ったのは、白人の男だ。
「そうですが、何か……」
藤兵衛が言い終える前に、その白人の男が、藤兵衛の作業着の襟を掴み、店から引っ張り出した。
「マスター!」
相澤が駆け出してゆく。
その後を追った吉塚諸共、アジア人の男と、黒人の男が、店から出るのを妨げた。
「何をする⁉」
藤兵衛が吼えた。
白人の男が顎をしゃくった。
二人の日本人が、藤兵衛に掴み掛ってゆく。
「こいつ!」
藤兵衛は、袖を掴んで来た眼鏡の男を、えいとばかりに投げ飛ばすと、もう一人の短髪の男の襟を掴み、更に地面に叩き付けた。
「貴様!」
白人の男が、懐に手を突っ込んだ。
藤兵衛は、まだ、背中を向けている。
「危ないっ」
相澤が叫んだ。
藤兵衛が白人の男を振り向いた時には、既に、男は銃を取り出していた。
一見すると、玩具のような、小さな拳銃だった。
しかし、脅しであんなものを見せる訳がない。
吉塚が、眼の前のアジア人の男の顔目掛けて右手を繰り出した。
人差し指と中指を突き出している。
その指の先端が、男の両眼に潜り込んでいた。
げぇ、と、顔を両手で覆って仰け反る男。
そのアジア人の男の身体を、黒人の男の身体にぶつけて隙を作り、相澤と共に駆け出した。
だが、その前に、黒人の男が長い腕を伸ばして、二人の後ろ襟を掴んで来た。
スリップして、空中で足をばたばたとさせる。
襟を掴まれたまま、持ち上げられてしまった。
藤兵衛と対峙した男が、拳銃を突き付けている。
「無駄な抵抗はやめて頂きたい」
「お、お前さん、何が目的だ?」
藤兵衛が訊いた。
「我々と来て貰おうか」
「我々だと? 貴様ら、さてはショッカーか!」
「言う事を聞かないのなら、その手足に風穴を開けてやるぞ」
「やってみろぃ! そんな事で屈する立花藤兵衛じゃない!」
「上等だ!」
白人の男が、引き金に掛けた指に、力を込めた。
刹那、その手の甲に、何処からか飛来した太い針が突き刺さった。
照準を付けられなかった拳銃は、弾丸を放ったものの、狙いは大きく逸れてしまった。
「だ、誰だ⁉」
男が、手から拳銃を取りこぼしながら、針の飛んで来た方向を睨んだ。
藤兵衛も、そちらを振り向いた。
黒人の男に吊り上げられていた相澤と吉塚も、その姿を見て、
「あッ」
と、声を上げる。
「神さん!」
神敬介が、手にした吹き矢の筒を弄びながら、こちらへと歩み寄って来る所であった。
山口真美はすがやみつる先生の『ストロンガー』から。
“魔蛇”の名前は本来の出典とは特に関係もなく……←