「た、猛――」
藤兵衛が、泣きそうな顔で、仮面ライダー第一号に歩み寄った。
ライダーの足元には、頸を掻き切られて死んだ黒井奈央と、その腕の中で背中を貫かれた黒井光弘が、血の池に沈んでいる。
冷たくなっていた。
死んでいるのだ。
本郷は、何も言わなかった。
「黒井には、俺から説明する」
そう言って、滝が、飛び出して行った。
「猛、お前、お前は――」
「おやっさん……」
仮面ライダーが、クラッシャーの奥から、声をひり出した。
「俺だ……」
「え――」
「この二人を殺したのは俺だ。俺は、守れなかった……」
「猛……」
「俺は、守れなかった……」
髑髏にも似た仮面は、鉄のように、どのような表情も浮かべてはいなかった。
しかし、赤い瞳が、昏いながらも、光を帯びていた。
黒井響一郎は、マンションから飛び出した後、滅茶苦茶に駆け回った。
何処をどう走っているのか、分からなかった。
腹の底から、自分の肉体を突き上げるものだけを、感じている。
奈央――
光弘――
その顔が、黒井の頭の中を、何度も駆け巡る。
笑顔。
泣き顔。
怒った顔。
嬉しそうな顔。
頬を染めた顔。
生まれた頃の顔。
色々だ。
奈央と出会ってから、彼女が黒井に向けてくれた全てが、蘇って来ていた。
黒井の瞼の裏側に現れては、しかし、シャボン玉のように消える。
光弘が生まれてからの事も、そうだ。
桜の花びらが、道端の溝に消えて行くように――。
黒井は、滾々と沸き上がる黒い感情を、吐き出すように、走っていた。
速く走れば、それが尽きるとでも言うかのように。
だが、それは消えなかった。
ぶっ倒れる。
走り続けて、遂には、道端に倒れる。
しかし、倒れて、消えそうになった黒井の全身を、再び黒い炎が包む。
奈央と光弘の死に様が、白昼に鴉が羽を広げるようにして、浮かび上がって来るのだ。
その黒い翼の向こうに、夕陽の逆行を浴びて佇む、異形の人影が現れる。
その手にナイフを握っていた。
その身体を赤く染め抜いていた。
殺したのだ――
あの怪物が、奈央を殺したのだ。
あの化け物が、光弘を殺したのだ。
それを思うと、又、黒井の中に溜まった疲労の果実が、一皮剥ける。
黒い果実の中から、黒い感情が迸るのだ。
走った。
走った。
走った。
走り続けた。
何処へ?
いつまで?
何故?
分からない。
分からなかった。
分からない黒井が、走っていた。
どれだけ速く走っても、どれだけ遠くまで走っても、それは消えなかった。
黒井が尽きる事はなかった。
黒井の身体の底から湧き上る感情が、やむ事はなかった。
走る事で、その感情を、完膚なきまでに叩き潰そうとしているかのようだった。
それが、勝利するという事だった。
だが、この時の黒井は、決して勝利を掴み取る事が出来なかった。
黒井は、やがて、無意識に辿り着いた場所で、倒れた。
東京から、かなり、離れてしまっていた。
遊園地だ。
やつれている。
夜だ。
あの夕方からの夜かもしれないし、それからもう何日か経っているかもしれなかった。
黒井には分からない。
走り続けたのだ。
走り続けて、ここまで来たのだ。
憶えがあった。
奈央と、光弘と、一緒に訪れた事のある遊園地だ。
近くに湖がある。
観覧車が、高くそびえていた。
コンクリートの中に、川が造られて、そこを屋根付きのボートが流れる。
ゴーカートに、一緒に乗った。
“僕も、パパみたいなレーサーになりたい”
胸の中で、光弘がそう言った。
奈央が、コースの外から、それを見ていたのだ。
メリーゴーランドにも乗った。
ティーカップでは、はめを外した。
ジェットコースターでは、奈央が、学生時代に戻ったかのように、抱き付いて来た。
開園時間は、とっくに終わっている。
闇の中だった。
闇の中で、全ての遊具が、時を止めていた。
黒井が、どうやって、その中に入っていたのか。
黒井には、どうでも良かった。
その場に、へたり込む。
動きを止めると、あの光景がフラッシュ・バックする。
光弘を抱いて死んだ奈央――
傍に佇む怪人――
血の色。
死の匂い。
怒りの味。
自身の哭き声。
身体にべっとりと纏わり付く、生命の終幕。
「うぐぅ」
黒井が、歯の奥から、声を軋らせた。
「うぐぅ」
「ぎぃぃ」
「ぐぅぁ」
頤を反らして、夜空に叫んだ。
「うがあああ~~~~~~~っ!」
「うるるらあああああ~~~~!」
「あぎゃああ~~~~~っっっっ」
獣のように吠えた。
猛獣のように吼えた。
悪獣の如き咆哮であった。
時が止まっていた。
時間の闇に、呑み込まれてしまいそうであった。
凍て付いた時の中で、叫んでいた。
狂おしい叫びであった。
怒りと怨みと憎しみと――
嘆きと哀しみに満ち満ちた、黒々とした哭泣であった。
鬼哭――
その黒井の背中を、抱き締める者があった。
マヤであった。
「黒井響一郎――」
優しく、マヤが囁いた。
「憎いのね……」
「――」
「怨んでいるのね」
「――」
「復讐――」
マヤが言った。
「あの男に、復讐をしたいと、思わない――?」
マヤが言った。
黒井が頷いた。
血の涙を流していた。
「手伝うわ……」
「――」
「私たちショッカーが、貴方の復讐を……」
「――」
「上げるわ」
マヤが、黒井の胸を背中から抱いた。
「貴方に勝利を上げる――」
「――」
「貴方に正義を上げるわ」
勝利。
正義。
二つの言葉が、黒井の中で結び付いた。
正義とは――
勝利する事だ。
「貴方にとって、勝利って何?」
マヤが訊いた。
「貴方にとって、正義って何?」
黒井が、拳を握り締めた。
立ち上がって、マヤに、覆い被さった。
マヤの背中が、地面に着いた。
「ねぇ、教えて――響一郎」
マヤが、黒井の顔を、下から撫で上げた。
「……ぅ」
黒井が、呻くように言った。
声が嗄れている。
血の味が、咽喉の中に、充満している筈だ。
「何?」
「――っぇぃ、て、きに……」
黒井が声を絞り出す。
「た……ぁ、つ、ぶ…ぅ」
咽喉に、石のようなものが、詰まっているようであった。
それを吐き出すようにして、黒井は、血を吐いた。
マヤの美麗な顔に、血が振り掛かった。
「徹底的に――」
黒井が、漸く、言葉を取り戻した。
「叩き、潰す、事だ……」
黒井が言った。
「そう、それが――」
「勝利と、いう、事だ。勝者と、いう、事だ……!」
「勝者には、何が、与えられるの?」
マヤの、他の女と比べると、長めの舌が、口の周りに落ちた黒井の喀血を、舐め上げた。
「正義――」
黒井が言った。
「勝てば、正義……」
「じゃあ、敗ければ……?」
「敗ければ、悪、だ……!」
「貴方は、どっち?」
「俺は、勝つ……俺が、正義だ」
黒井が言った。
その脳裏には、自らの勝利が、浮かんでいる。
復讐だ。
奈央と、光弘を殺した、あの怪人を倒す事。
勝利して、正義を手にする事だ。
「じゃあ、勝利する貴方は、誰?」
マヤが訊いた。
服を脱ぎ始めている。
黒井の衣服も、肌蹴させていた。
「黒井、響一郎――」
「違うわ」
マヤが、首を横に振った。
「貴方の名前は――仮面ライダーよ」
マヤは、黒井の身体を受け止めた。
第一章の後書きは、活動報告の方で。
次回から、第二章に入ります。