一文字隼人と、チーター男は、素手で殴り合っていた。
一文字が、刻み突きを繰り出して、距離を測っている。
ボクシングで言えば、ジャブに当たる技術だ。
眼にも止まらない、複数のパンチが、人間の姿のままのチーター男の顔面を襲う。
しかし、そこは改造人間。
チーター男の動体視力が、一文字のパンチを全て捉え、弾き落とし、躱してしまう。
すぅ、
と、チーター男が、一文字の懐に入って来た。
タックルだ。
「む――⁉」
ぞくりとしたものが、一文字の背筋を駆け上がった。
その描く軌道が、その込められた意思が、一文字の知っている、レスリングのタックルとは、異なっているような気がした。
咄嗟に膝を繰り出す一文字。
しかし、その前に、チーター男の肩が、一文字の腹に押し当てられていた。
一文字の軸足に両足を絡め、チーター男は一文字を地面に押し倒す。
馬乗りになった。
拳を振り上げるチーター男。
だが、一文字が腰を捻ると、体勢を崩した。
一文字は、左脚にチーター男の両脚を絡められていたが、瞬時の判断で右脚を左脚とクラッチし、完全な馬乗り状態を防いだのだ。
現在で言うハーフ・ガードのテクニックであった。
ブラジリアン柔術の原型となっているのは、柔道である。六段の腕前を持つ一文字が、タックルから続く寝技の予感を、見逃す筈がなかった。
一文字は、下から、チーター男の横っ面を殴った。
揺らぐチーター男であったが、上から、拳を落として来る。
体勢を崩したとは言え、チーター男の方が有利であった。
一方、一文字は、腰の乗らないパンチである。狙いも粗く、効果は薄い。
チーター男が、右の拳を繰り出す。
そのカウンターを狙った。
フック気味に襲い掛かって来る腕の内側を、一文字の左腕が駆け上がる。
拳――
否、一文字の拳が、ぐん、と、手前に折れ、背中を跳ね上げる勢いで、一文字の左肘がチーター男の頬を叩いていた。
チーター男の身体が、一文字から見て右側に崩れた。
一文字は、チーター男の頸を左腕で抱え、両脚のクラッチを解き、チーター男の身体の下から、抜け出した。一文字の左の腹が、チーター男の右の腹に、密着する事になる。
「ぐわわわっ」
背中を取られまいと、逃げ出そうとするチーター男。
そのこめかみに、一文字の額がぶつかって来た。
ぐらつく。
一文字は左腕で頸を絞め上げながら、右の肘をチーター男の鼻先に叩き込んだ。
一発。
二発。
三発は、入れさせてくれなかった。
チーター男の右肘が、一文字の肋骨部分を叩いた。
身体の中で、金属が歪むのを感じた。
「ぐぎぃ」
舌を吐きながら呻く一文字。
一文字の皮膚には、改造手術痕が浮かび上がっている。
感情の昂ぶりが、そのような現象を呼び起こすのだ。
一文字から離れるチーター男。
鼻から、血を吹いていた。
しかし、まだ、変身をしようとする動きはなかった。
「ほぅ……」
立ち上がりながら、一文字が感心した。
「ショッカーの改造人間にも、誇りというものがあるらしいな」
一度言った事を、曲げようとしないプライドであった。
劣勢ではなかったにせよ、優勢という事もない。
そんな状況で、息を吐くように虚言を使うショッカー配下の改造人間が、最初の宣言通り、変身をしないと言う事に、一文字は少なからず驚きを覚えていた。
「ふ……」
チーター男は、曲げられた鼻の角度を、指で抓んで戻しながら、不敵に笑った。
そうしていると、バイクの走行音がした。
見れば、滝であった。
覚醒した一文字との通信機能が回復した本郷に、眠らされていた一文字の場所を伝えられたのだ。
「一文字!」
と、声を奔らせる。
「滝、黒井さんを連れて逃げるんだ!」
一文字が言った。
「任せろ!」
滝は、黒井に駆け寄ると、その手を取った。
「嫁さんと子供が待ってるぜ」
「奈央と光弘が⁉」
黒井が、滝の跨るバイクの後ろに乗った。
去って行く滝と黒井。
それを見送ったチーター男が、高らかに笑った。
「茶番はここまでだ――」
「何⁉」
「出て来い――」
そうやってチーター男が指示を出すと、倉庫の屋根の上に、無数の黒い覆面たちが現れた。
ショッカーの戦闘員たちだ。
気配を潜めて、隠れていたのである。
黒い戦闘員たちは、奇声を上げて、地面に下り立った。
ナイフや、棒を構え、一文字を包囲する。
彼らを率いて、チーター男も、怪人の姿に変身した。
「ふんッ、感心したと思ったら、すぐこれだ」
一文字が、吐き捨てるように言った。
「最早、芝居を打つ必要はないからな」
「芝居?」
「知る必要はない、やってしまえ!」
チーター男が命じた。
戦闘員たちが、ナイフを振り上げて、一文字を襲う。
腕を取って投げ飛ばし、ナイフを擦り抜けてパンチを繰り出し、やり過ごそうとする一文字。
そこに、爆音上げて、やって来る者があった。
サイクロン号に跨った、仮面ライダー第一号であった。
仮面ライダー第一号のサイクロン号が、チーター男を弾き飛ばし、一文字を包囲していた戦闘員たちを蹴散らした。
「待ってたぜ、本郷――」
サイクロン号から降りる仮面ライダー第一号。
彼に向かって跳躍し、空中で一回転した一文字は、着地する頃には、ライダー・スーツを身に纏っていた。
サイクロン号のシートから、マスクが吐き出される。
このサイクロン号は、一文字のものであった。
マヤたちに気絶させられた一文字が、その場に放置していたものを、本郷が回収していたのである。
そして、一文字のものを預かる形で、使用していた。
「い、いかんッ」
チーター男が、ライダー・スーツを纏った一文字に向かって言った。
「奴をライダーに変身させるな!」
戦闘員たちが躍り掛かる。
その前に立ちはだかった仮面ライダー第一号が、戦闘員たちを殴り倒す。
「そうだろうさ」
一文字が、自分の仮面を被っていた。
その露出した口元が、改造手術の傷痕を歪めながら、笑みを浮かべていた。
「仮面のない俺は只の一文字隼人――しかし、こいつを付けるとなると……」
鎖をも噛み千切る牙・クラッシャーをセットした。
その場から、高くジャンプする。
ベルトの両脇に設けられたバーニアが火を噴いた。
コンバーター・ラングが開く。
風が、一文字を変身させる。
タイフーンが、凄まじい速度で回転した。
空中で身体を捻り、仮面ライダー第一号の脇に並び立つ、仮面ライダー第二号。
「驚くな――仮面ライダーは、一人ではない!」
仮面ライダー第二号が、大きく叫んだ。
ダブルライダーが、ショッカー軍団に向かって、構えを採った。
戦闘員が、武器を以て迫る。
しかし、強化型の改造人間である仮面ライダーの前では、雑兵たちは余りにも無力であった。
ナイフが手刀で叩き折られ、パンチで頸を捩じられる。
棒を振り下ろせば蹴り折られ、投げ飛ばされて頭蓋を粉砕された。
チーター男が唯一人になるのは、あっと言う間であった。
「くぬむ」
チーター男が唸った。
両手の指から、長く太い爪を剥き出した。
それで、切り掛かって行く。
仮面ライダー第二号が、腕でそれを受けた。
ライダー・スーツが引き裂かれる。
「ぬ⁉」
「俺の爪は、電磁爪だ!」
防護服も、人工筋肉も、ずたずたに引き裂けるのだ――と、誇らしげに笑った。
叫びを上げながら、電磁爪を振り乱すチーター男。
切り裂かれる事を警戒して、間合いを取っての攻撃では、ダメージを与え切れない。
一文字が後退した。
その代わりに、本郷が接近して行く。
爪!
それをぎりぎりで見切って、腕を取った。
関節技に持ち込んで行こうとする。
チーター男が、頸を伸ばして来た。
肩口に喰い付く。
チーター男の牙が、本郷の肩の内側まで達していた。
血が溢れた。
チーター男を蹴り飛ばす仮面ライダー。
「牙も亦同じく、でね――」
チーター男が、その牙を剥いて笑った。
「本郷――」
一文字が、Oシグナルを点滅させた。
通信を交わしている。
「分かった」
仮面ライダー第一号が、前に出た。
チーター男が、万策尽きたかのようなダブルライダーに対し、勝ち誇った笑みを見せる。
第一号に、襲い掛かって行く。
爪か?
牙か⁉
カウンターを狙おうにも、チーター男の身体に、打撃は通用しなかった。
チーター男の爪が、仮面ライダー第一号に叩き付けられる。
刹那――
「ぬぅんっ」
ライダー第一号の左脚が唸り、脛が、チーター男の軸足を刈り取っていた。
足払いと言うには、余りにも威力のある一発であった。
柔軟な筋肉が、寧ろ仇となり、衝撃逃げる方向に、チーター男の身体も浮かび上がってしまう。
本郷ライダーは、素早く、右腕をチーター男の股の間に潜らせ、左手を頸に添えて、自身、そして、チーター男の全身にひねりを加えた。
足――
足首――
膝――
股関節――
背骨――
肩――
肘――
手首――
全ての関節が唸りを上げて、螺旋のエネルギーをチーター男の身体に叩き込んだ。
本郷の身体に端を発する回転が、チーター男の肉体にも伝播して行った。
ライダーの周囲の砂埃が、竜巻のように天空を目指した。
「う――うおっ⁉」
チーター男の身体が、錐揉み回転しながら、上昇する。
チーター男は、空中に投げ飛ばされたのだ。
それを追って、仮面ライダー第二号が、大きくジャンプしていた。
チーター男の頭上に位置している。
キックの体勢に入ろうとしていた。
飛蝗を模した能力を持つ仮面ライダーの特徴は、その脅威のジャンプ力にある。
それを活かした、高所からの落下攻撃――特に、スプリングを内蔵したジャンプ・シューズでのキック攻撃は、最大の必殺技であった。
だが――
「莫迦め、ライダーキックは俺には通じん⁉」
超柔軟筋肉。
蛇腹の骨格。
それらが、チーター男の肉体に、打撃を通じさせないのだ。
と――
その下方で、仮面ライダー第一号が、両腕を右側に振り出したポーズを採っていた。
その腕を、左側に力いっぱい振り回した。
チーター男を放り投げた、錐揉み回転のパワーが、逆方向に回転する。
上昇する回転の蛇は――
下降する螺旋の嘴となった。
その回転が、上空の仮面ライダー第二号の身体をも、巻き込んで行く。
落下エネルギー。
回転エネルギー。
そして更に、舞い上がる風のエネルギーが、一文字に吸収された。
バーニアが上を向く。
取り込んだ大量の風力エネルギーを、渦巻きの流れに乗って、放出させた。
それは、下方に位置している本郷ライダーの身体にも力を与える事になる。
ライダー一号と二号のCアイが、深紅の光を宿した。
――風よ叫べ!
風よ唸れ!
俺たちの身体の中で渦を巻け!
嵐となれ!
大自然のエネルギーが、この俺たちの力だ!
仮面ライダー第一号が、跳び上がる。
仮面ライダー第二号が、急降下する。
電光のような上昇のキックと、卍を描いた降下のキックとが、同時にチーター男の肉体に叩き込まれた。
チーター男の肉体は、一号ライダーの電光キックで貫かれ、二号ライダーの卍キックで細切れにされたのであった。
宙を舞った本郷猛と、地面を砕いた一文字隼人の間で、チーター男は体内に仕込まれた爆薬を燃やし、中空で紅蓮の華となったのである――
「大丈夫か、一文字」
チーター男を撃破した後、一文字は、その場に倒れ込んでしまった。
マヤに注入された毒が、まだ抜け切っていなかったらしい。
それなのに、あのような大立ち回りを見せたものであるから、体力が尽きたのだ。
「俺は平気さ」
と、一文字は言った。
マスクを外した顔には、まだ、手術痕が浮かんでいる。
「お前さんはどうだい」
と、自分の肩を叩いてみせた。
本郷――仮面ライダー第一号の右肩には、牙の痕が残っている。
かなり、血が出たようであった。
電磁牙の影響で、傷の治りが遅いのだ。
右腕が、真っ赤に染まってしまっている。
「これ位なら、問題ない」
と、本郷は答えた。
どちらも、意地っ張りな男たちであった。
「それより、本郷。黒井響一郎は、どうなったかな」
「滝が付いているんだ、無事さ」
「ああ」
「じゃあ、俺は、ちょっと様子を見て来よう」
「頼むぜ。俺はまだ、暫くここで休んでるよ」
そう言う一文字を置いて、自分のサイクロン号を呼び、走って行く本郷ライダー。
サイクロン号の起こす地面の震動を、背中で感じていた一文字であったが、その顔の上に、別の顔が突如として現れた。
「ハロー、仮面ライダー」
ぞっとするような美貌――
マヤであった。
「くっ⁉」
一文字は、身体を跳ね起きさせた。
マヤから距離を取る。
「あらあら、そんなに警戒しなくても良いのに」
「――」
「用は済んだの。もう、少しの間、日本から消えるわ」
「――貴様は、何者なんだ? 何が目的だ」
一文字が問う。
「首領の意に沿う事よ」
「首領?」
「貴方たちが、ショッカーと呼んでいる軍団の総帥――」
「――」
「神よ」
「神だと⁉」
唐突な言葉に、一文字が驚いた。
「ええ――」
マヤは、妖艶に微笑んで、頷いた。
「そして、私が何者か、訊いたわね。教えて上げるわ……」
「――」
「私は、神の創り給うた、神の似姿――」
「――」
「或いは、全ての生命の母……」
「母だと⁉」
「または、全ての罪の源――」
「――」
「或いはガイア、或いは蛇、或いはイヴ――“始まりの女”」
「始まりの、女?」
「――」
マヤは、赤い唇を持ち上げた。
そうして、踵を返す。
形良く膨らんだ尻が、一文字の方に向けられた。
「何れ、また、会いましょう。仮面ライダー二号……」
そう言い残して、マヤの姿は、その場から消失した。
大地に溶けるようにして、消えたのであった。
一文字は、妙な胸騒ぎを感じながら、それを見送った。
マンション――
黒井の部屋に、奈央と光弘はいた。
買い物から家に戻った時、家の中が荒らされていた。
黒井響一郎もいなくなっていた。
強盗か何かに遭ったのかと、警察に通報しようとした。
実際、ダイヤルを回したものの、警察が来る様子はなかった。
不安を抱いたまま、仕方なく、奈央は部屋を片付ける事にした。
パニックに陥っていたのだと思う。
と、そこに、二人の男がやって来た。
立花藤兵衛と、滝和也と名乗る男であった。
彼らは、
“ショッカー”
という単語を出して、奈央に説明したが、良く分からなかった。
出て行って――と、二人を追い出し、光弘と一緒に、日常に戻ろうとした。
部屋が荒れているのは、夫が、派手に転んだか何かしたのであろう――
無理矢理であったが、そうやって納得する事にしたのである。
夕方になった。
まだ、黒井は帰って来ない。
窓の外から、マンションの駐車場を見てみた。
すると、立花藤兵衛の姿が見えた。
奈央にとっては、寧ろ、この立花藤兵衛の方が、怪しい男であった。
昨日の、カメラが暴発した件もある。
夫の不在よりも、藤兵衛を通報した方が良いのではないか、などとも考えた。
“パパは?”
と、訊く光弘を、不安がらせない為に、いつもの通りの事をした。
黒井の為に、料理を作っていた。
すると、チャイムが鳴ったのである。
鍵は閉めていた。
――響一郎さん?
そう思って、ドアを開けた。
陽が落ちている。
寒くなっていた。
藤兵衛は、マンションの駐車場で、黒井の部屋が見える位置に立っていた。
「ばっくしょん!」
と、くしゃみをかます。
鼻水を啜り上げながら、部屋を見上げた。
当然と言えば当然かもしれないが、黒井奈央は、ショッカーに関する話を、聞こうともしなかった。
藤兵衛と、一緒に訪ねた滝が、変人扱いされてしまった。
しかし、黒井がショッカーに攫われたと言うのは、本郷から聞いた事実である。
何かあってはいけないと、マンションを見張っていた。
と、窓から覗いた奈央と眼があってしまい、軽く会釈をするも、カーテンを閉められてしまう。
――こりゃあ、相当だな。
と、藤兵衛は思った。
ショッカーの事を、誰も、信じてくれない。
規模の大きな組織でありながら、その活動は、全て闇の中に包まれている。
孤独だった。
FBIの中でも、極一部しかその存在は知らされていないと、滝も言っていた。
滝も、きっと、専門の捜査官以外の間では、変わり種扱いされているのだろう。
折角、米国に渡る事が出来たと言うのに、日本という島国に戻されてしまった――
左遷のように思われているのかもしれない。
しかも、真実を語る事は出来ない。
何処にショッカーの眼があるかも分からないのだ。
藤兵衛たちには、FBIの捜査官であるという事も、黙っていた。
ショッカーを知らない者には分かって貰えない苦しみが、あった。
――いやいや、何を言っとる。
藤兵衛は、一人、頭を振った。
分かって貰えない苦しみ?
孤独?
ふん。
そんなもの、身体を好き勝手に改造されてしまった、本郷や一文字に比べれば――
本郷も、一文字も、苦しみは表に出さない性格であった。
本郷は、持ち前の、成熟した精神で。
一文字は、社交的な、その明るさで。
孤独と苦しみを、誰にも明かそうとしないのである。
と――
藤兵衛がそう思った時、
「キャーッ!」
と、甲高い悲鳴が上がった。
黒井の部屋であった。
「何だ⁉」
藤兵衛が駆け出そうとした時、サイクロン号が滑り込んで来た。
本郷であった。
「本郷?」
その額のOシグナルが、点滅している。
改造人間がいると、知らせていた。
藤兵衛にも、その事は分かっていた。
本郷ライダーは、サイクロン号から降りると、黒井の部屋に向かって駆け出した。
開けっ放しだったドアを潜り、部屋の中に入る。
そこには、革のジャケットを羽織った男がいた。
ジャケットの背中には、大きく、ショッカーのマークが染め抜かれている。
足元に、人の顔の皮膚が落ちている。
黒井に変装する為に使われたものらしい。
ショッカーの男は、右手にナイフを持っていた。
その刃が、ぬらぬらとした血に染まっていた。
ソファの傍に、奈央が倒れている。
頸から、血を雪崩れさせていた。
腕を胸元で組んでいたが、その間には、光弘を抱いていた。
光弘の頭に、奈央の血が降り注いでいた。
ショッカーの男は、ライダーの方を眺めて、にぃ、と、唇を歪めた。
「や――」
“やめろ”と、本郷が発する前に、光弘の背中にナイフを突き立てた。
一度、小さな身体が跳ねて、それ切りであった。
「貴様――ッ!」
本郷が激昂し、ショッカーの男に殴り掛かった。
しかし、男は、ライダーに向かってナイフを振るい、血のはねを飛ばした。
動きを止めた仮面ライダーの顔面に、拳を叩き込んだ。
マスクをもろに殴り付けた男の拳は、ぐちゃぐちゃに壊れた。
肘から、白っぽいものが突き出している。
戦闘員クラスの相手のパンチなどでは、揺らがない仮面ライダーの筈だが、眼の前で女と子供を殺された事が、本郷の精神を蝕んだ。
ショッカーの男は、ライダーにナイフを投げ付ける。
それを仮面ライダーが受け止めると共に、開け放って置いたサッシ窓から、身を躍らせた。
窓際まで掛けて行く本郷であったが、男は、下に用意して置いたバイクで、走り去って行った。
悔しがる本郷――
その背中から、全身に火を点けられたかのような悲鳴が届いた。
振り返ると、黒井が、奈央と光弘の遺体に抱き付いている。
滝と藤兵衛が、廊下から部屋の中の惨状を眺めていた。
滝と黒井は、一旦、立花レーシングに戻り、怪我がないかを確認してから、マンションに戻って来たのだ。
その為に、本郷の方が、先にマンションに着いたのであった。
すると、恐らくは黒井に変装していたであろうショッカーの男が、奈央を殺してしまっていた。
本郷の前で、更に、光弘にとどめを刺した。
そして、黒井が帰って来るタイミングを見計らって、仮面ライダーにナイフを投げ渡し、逃げ出したのである。
唯でさえ、チーター男からの攻撃で、右腕を真っ赤に染めているライダーが、その腕にナイフを握っているとなれば、ショッカーの事も、仮面ライダーの事も知らない黒井には――
「怪物め……!」
黒井が、憎々しげに叫んだ。
仮面ライダーの飛蝗のマスクを、血涙を流さんばかりに眼を剥いて、睨んでいる。
「よくも、奈央を、光弘を!」
「ち、違うんだ、黒井さん――!」
滝が弁解に走る。
しかし、黒井は、滝の腕を振り払い、部屋から駆け出して行ってしまった。
叫んでいた。
黒井は、両手を、妻と息子を抱いた時の血に染めながら、泣き喚いていた。
泣き喚き、哭き叫びながら、走っていた。
黒い慟哭であった――