静謐な空気の中で、玄海は、座禅を組んでいる。
頭を綺麗に剃り上げているが、灰色の髭を蓄えていた。
玄又山にいた頃よりも、随分と細くなってしまっている。
しかし、弱くなったという風には、微塵も感じられなかった。
年齢を重ねた事で、元からあった穏やかなものが、より自然と一体化して、見る者に訴え掛けて来る。
秩父、赤心寺――
玄海が、義経と弁慶の母に勧められた廃寺に構えた寺だ。
玄又山の麓の村から、玄海を慕って、何人かの村人たちが一緒に移り住んだ。
今では、門弟の数は一〇〇人を超える。
早朝、玄海は本尊の前に座している。
眼を閉ざす事なく閉じ、呼吸をするでなく息を吸って吐き、静かな禅定の境地に入っている。
暫くそうしていると、本堂の扉が開き、弁慶が顔を出した。
赤心少林拳玄海流師範代――
見事な体躯の男であった。
頸が太く、胸が分厚く、肩幅が広い。
腕や脚には、粘土を盛り付けたような筋肉が膨らんでいる。
「老師、
小食とは、朝食の事である。
「うむ」
と、玄海は立ち上がった。
結跏趺坐――それぞれ、逆の方の太腿に足を載せる座り方だ。
それを解いて、すぐに立ち上がる事が出来た。
弁慶に連れられて、玄海は、食堂に向かう。
托鉢で食料を貰って来る班、調理をする班が決められており、食事は皆で一堂に会して行なわれる。
その途中、弁慶が、このように話し始めた。
「今朝の事なのですが、実は……」
「何かな」
「ええ、明け方、用を足しに立ったのですが、その時、西の空に黄金の光を見ました」
「ほぅ……」
「あれは、若しや、見仏というものでしょうか」
見仏――言葉の通り、仏を見るという事である。
長時間の禅定に入ったり、密教の手法を行なったり、念仏を唱えたりする事で、様々な仏を観たという例は、有名な高僧の伝記にはほぼ記されている。
「あれは、阿弥陀如来でありましょうか」
阿弥陀如来とは、西方極楽浄土に存在する仏である。
自身の名を唱える者を、苦しみの世界である穢土(現世)から救済する事を使命としていた。
「さてなぁ」
玄海は言った。
「何せ、儂は、まだ仏にまみえた事がない」
「え? 老師がですか?」
「ああ」
「まさか……」
弁慶は、心の底から、驚いているようであった。
玄海は拳法家としてだけではなく、仏教者としても優れた人物だ。
世が世であれば、一宗派を興せるだけの宗教体験をしている筈だ。
その筈の玄海が、自分にも見る事が出来た仏の世界を、感得した事がない……
「うむむ、では、あれは、幻だったのでしょうか」
弁慶は太い首をひねった。
玄海は、愛弟子のその様子に微笑みながら、しかし、ふと気になったようであった。
「西か……」
九郎ヶ岳に封じられているという、イスラエルの秘宝の事が、一瞬、玄海の頭を過った。
そして、まさか、という思いが去来した。
嫌な予感が働いた時には、しかし、既に遅かったのである。
時は遡り、同じく秩父の赤心寺であるが、ドグマが活動を始める前の事だ。
空は蒼く澄み、雲は白くたなびいていた。
山奥の寺は、夏でも涼しい。
堂宇を囲む木々が、清らかな風に揺られ、心休まる音楽を奏でていた。
それとは別に設けられた道場では、一〇〇名近くまで数を増した門弟たちが、日々、赤心少林拳の修行に打ち込んでいる。
夏の山奥に生じる静寂と、拳法家たちの喧騒が和合し、一つの曼陀羅を創っていた。
玄海は、本堂の前の庭に立っている。
立禅――
しかし、その姿も、修行という風ではない。
唯、立っている。
何かを目指すでもなく、立っているだけだ。
その立っているだけというのが、やけに絵になる。
不思議な美しさを放っていた。
和敬清寂――
その玄海であったが、ふと、顔を境内への入り口に向けた。
本堂まで石造りの参道が続き、山門から石段になっている。
その石段を上がって、山門を潜って来る人物が、いたのである。
見ていると、顔を出したのは、黒沼鉄鬼であった。
傍には、高弟の火見子も付いて来ている。
「鉄鬼……」
久し振りの友との再会に、玄海の頬が緩んだ。
若い頃から魅力的な笑みであったが、歳を重ねる事で、更に柔らかさを増していた。
「久しいな、玄海」
鉄鬼は、相変わらず蓬髪で、玄海とは違い、髭も黒々としていた。
失った右眼の代わりに、左眼の炯々とした光は、より強く輝いている。
身体も、若い頃の逞しさを保っていた。
「ご無沙汰しております、玄海老師」
火見子が頭を下げた。
美貌の中に、何処となく鋭利な色が見えている。
この頃、既に黒沼流の継承者に義経が選ばれており、火見子の中にはフラストレーションが溜まっていた。
玄海は、鉄鬼と火見子を客間に通した。
若い修行僧が、三人に茶を出そうとするが、鉄鬼が、
「玄海、偶には、酒でも飲まぬか」
と、持参した焼酎を取り出した。
「……山門に、あれを書くのを忘れておったわ」
玄海が、困ったように呟いた。
「あれ?」
「“葷酒山門に入るを禁ず”という、あれよ」
葷酒とは、匂いのある食べ物と、酒の事だ。
五辛と言って、
ニラ
ネギ
ニンニク
ショウガ
ラッキョウ
などは、肉や魚と共に、食べる事を禁じられている。
肉と魚に関しては、殺戒――生命を殺してはならないという戒律に反する為だ。
これら五辛は、生命力を削ぎ落す事にその目的がある仏道修行に於いて、精を付けてしまう食べ物であるから、禁じられている。
「気にするな。般若湯だ」
鉄鬼は、そう言って笑った。
般若湯――般若波羅密とは、サンスクリット語で智慧を意味する“パニャーパーラミター”の音写である。
その湯であるという事は、智慧の水という事だ。
古代インドでは、バラモンたちは祭祀の際にソーマと呼ばれる飲料を口にし、トランス状態になる事で、神々の言葉を受け取る。
このような話を基に、本来ならば戒で禁じられている飲酒に正統性を持たせる言い方が、般若湯である。
「それにな、これは、山の麓の町で、弟子が貰ったものでよ。弟子が手伝いに行っている、新潟の米農家で、今年は豊作だと言うので、出来た焼酎を分けて貰ったのさ。修行中の弟子たちに飲ませるのも良くないが、貰ったものを捨てちまうのは、忍びないでな。そこで、お前さんと、一杯やりたいと思ってよ」
そこまで言われては、玄海も、断るに断れない。
それに、托鉢で頂いたものは、無駄にしてはならないという決まりもある。
基本的に、肉や魚介、先に挙げた五辛を食べる事は禁じられているが、托鉢をしに山を下りて、町の人から貰ったものならば、食べても良い。
「私は、飲み慣れていないから、余り楽しくはならんぞ」
玄海はそう言って、一升瓶を持った鉄鬼と、向かい合って座った。
二人が、客間で会っている間、
「火見子、お前、玄海の弟子たちを少し揉んでやれ」
と、鉄鬼に言われた火見子は、弁慶が指導している道場の方へと足を向けた。
義経は、もう黒沼流道場のある八甲田山の赤心寺に住していた。
赤心少林拳の二派それぞれの師範が、酒を飲んでいる。
玄海は、座布団の上に正座をしていた。
鉄鬼は、胡坐を掻いている。
鉄鬼がお猪口とは言えぐぃぐぃと飲んでいくのに対し、玄海は茶を嗜むように少しずつ口に含んでいる。
「……最近、良からぬ事に手を出しているそうだな」
玄海が、静かに話を切り出した。
「ゴミ掃除さ」
「ゴミ掃除?」
「世の中には、莫迦たれが多過ぎる。自分の利益だけを求めて、人を騙し、裏切り、傷付けるようなゴミがな。……俺はそういう連中を、この世からなくそうとしているだけさ」
「……赤心少林拳は、暗殺拳ではないぞ」
「それは、お前さんの赤心少林拳だ。俺は――黒沼流は、違う」
「――鉄鬼……」
「この世にはな、玄海――強くて美しいものだけが残れば良いと、俺は思っているよ」
「何?」
「お前のような、な」
「私の?」
「そうだ」
玄海は、鉄鬼からの言葉に驚いた。
「まさか。私は、そんな器ではないよ、鉄鬼」
まだまだ、修行中の身だ――と、玄海は言った。
如何に無念無想に至っても、どれだけ歳を重ねても、肉の重みから逃れられていない。
美味いものを食べたい時はあるし、こうして酒に誘われて、初めての体験にどきどきしている自分がいる――
「未だに女性を抱いた事がないというそれを、恥ずかしいとも思っているよ」
玄海が言うと、鉄鬼はくすくすと笑った。
「そういう事じゃないさ……」
「――」
「今でも憶えているよ、お前の、套路……」
三五年前、玄叉山の中腹で、記憶を失った鉄鬼が初めて見た、花房治郎の套路の事だ。
黄金の燐光を纏って、その四肢が躍動する光景が、鉄鬼の頭からは離れなかった。
「お前のような、あの、金の心を誰もが持っていれば……」
鉄鬼は、深く溜め息を吐いた。
「誰も、あんな、まやかしの黄金郷には騙されぬものの……」
「――黄金郷?」
玄海が、ふと、眉を動かした。
そう言えば、この黒沼鉄鬼――黒沼大三郎という名前を除いた記憶を喪失していた彼を発見したのは、玄叉山の下の黄金窟であった。
「なぁ、鉄鬼……」
ふと、玄海は、訊いた。
「若しかして、記憶が戻っているんじゃないのか?」
「――」
鉄鬼は、無言で、お猪口を傾けた。
玄海は、嫌な想像が脳の中で膨らんでゆくのを感じた。
眼の前で酒を飲んでいる盟友が、全く別のものに変形してしまったような気がした。
「鉄鬼……」
そう呼び掛けた所で、
がーっ!
がーっ!
と、建物の外から、不快な声が聞こえて来た。
玄海が、びくりと反応する。
「鴉か……」
鉄鬼が呟いた。
「――」
鴉の鳴き声に、タイミングを外された玄海であったが、再び鉄鬼に呼び掛けると、
「君は、樹海老師の命を奪った賊の事を……」
そう言う途中で、玄海は、爪先を立て始めている。
形は正座のままであるが、踵で尻を持ち上げ、指の付け根で支える形に変わっていた。
すぐに、立ち上がれる。
「玄海よ……」
鉄鬼が、低く言った。
「お前は、死して眠るならば、何処に眠りたい?」
「鉄鬼……⁉」
「俺はな――」
鉄鬼が、お猪口を口元から下げる。
くゆらされた黒い髭の中で、唇が、つぃと吊り上がった。
次の瞬間、鉄鬼の右手が走り、玄海に向かって、お猪口に残った焼酎を振り掛けていた。
玄海はその場で回転しながら、鉄鬼が同時に繰り出して来た突きを受ける為に、右の回転蹴りを繰り出していた。
ばぢぃ!
咄嗟に繰り出された二つの気がスパークし、玄海と鉄鬼、両者の身体はふわりと浮き上がって、壁に背中から叩き付けられた。
「ぬ!」
「むぅ」
二人は、決して広くはない客間の中で体勢を立て直し、互いに構えながら向かい合う。
立てた腕の肘を、もう片方の手の甲で支えている。
「玄海よ……」
鉄鬼が言う。
「お前の想像通りさ」
「何……」
「俺は、記憶を取り戻した」
「――」
「そして、樹海を殺したのも、俺さ」
「何故だ⁉」
「――」
「お前に、あの場所を、黄金の洞窟の事を、黙っていたからか?」
そう言うと、鉄鬼は、小さく鼻を鳴らした。
「そんな事を言うな、玄海」
「え?」
「……表に出よう。ここでは、俺たちがやり合うには狭過ぎる」
鉄鬼は、寝床から起き出すような自然さで立ち上がると、玄海に背中を向けて、来た道を引き返して建物の外に出た。
その後を、玄海が付いてゆく。
本堂の横手の庫裡の玄関から上がり、廊下を通って、客間までやって来た。
その全く逆の道筋を、鉄鬼が先導して、歩いてゆく。
玄関で、草鞋を履いた。
さっきまで、殺意を漲らせていた二人が、横に並んで、草鞋の紐を結んでいる。
そうして立ち上がって、境内に出た。
本堂を、玄海は右手に、鉄鬼は左手に見る形で、対峙する。
離れた場所に設けられた道場の修行僧たちは、二人がこうして向かい合っている事に、気付かない。
「どういう意味だ?」
玄海が問うた。
「何が?」
「“そんな事を言うな”とは、どういう事なのだ?」
「言葉通りの意味さ」
「言葉通り?」
「お前は、そこまで下って来なくて良いという事だよ」
「下る?」
「俺や、樹海のような、世俗の価値観に下りて来なくて良い」
「何を言っている?」
「玄海――若し、お前が俺の立場だったら、お前はあんな風に思うのか?」
鉄鬼が樹海を暗殺した理由が、黄金の洞窟の事を知りながら、敢えて隠していたというものであった場合、玄海は鉄鬼と同じ行動に出るのか、と、訊いている。
「分からぬが、そうするやもしれぬ」
「あり得ないね」
玄海の言葉を、鉄鬼はすぐに否定した。
「若しもお前が俺ならば、そんな事はしない。考えないさ」
「――」
「お前は、良い男だ。俺が今まで出会った人間の中で、一番、悟りに近い男だよ」
「何を……何を、言う」
玄海は苦い顔で吐き捨てた。
「私は、まだ、修行中の身だ。悟りなど、程遠い。どれだけ瞑想を重ねても、何度禅定に入ろうと、私は、私がどのように生きてゆけば良いのか、その道が見えんのだぞ」
「欲深い男よ……」
言ってから、鉄鬼は、首を横に振った。
「いや、或る意味、誰よりも欲がないのか……」
「鉄鬼?」
「玄海よ、お前……本当に悟りなどというものがあると、信じているのか?」
「え……」
「修行を積めば、お前は、真理というものに至れると、本気で思っているのか?」
「む……」
玄海は、痛い所を突かれた、という顔をする。
無念無想を得ても、玄海は、自分の内の迷いを捨て切る事が出来ない。
この世界の本質が、空であると知っても、それを割り切る事が出来ないでいた。
又、空である事を理解し、それならば自分の生にはどのような意味があるのか、若しくは、意味など全くないのか――そういう考えを、巧く自分に納得させる事が出来ない。
理論的には、玄海は、既にこの世界の事を理解し尽している。
樹海が鉄玄から継いだ無念無想という技術は、玄海に受け継がれてこの世界の真実へと昇華されている。
だが、玄海は未だに肉の重みを捨て切れない。
自ら目指したものに、何の意味があるのか――
その迷妄が、玄海の心を常に包んでいた。
玄海の眼が伏せられ、鉄鬼から意識が逸れた。
鉄鬼は、そのタイミングで、玄海に対して踏み込んでいた。
飛び込みながら、右の縦拳を繰り出して来る。
玄海は咄嗟に左腕の内回し受けで、鉄鬼の右腕を払い、右の直突きで鉄鬼のボディを狙った。
鉄鬼は、この玄海の右の突きに、カウンターを合わせて来た。
鉄鬼の気が瞬時に高まり、左手の指先に集中する。
ゼロ距離から叩き付けられる殺意と闘気に、さしもの玄海も怖気を感じた。
――桜花!
鉄鬼の左の貫手が、玄海の右腕の下を通って、脇腹に突き刺さろうとする。
玄海は、突きを繰り出した右腕を外回りに振るって、鉄鬼の左手首を右脇に挟み込んだ。
「ちぃぃっ」
鉄鬼が歯を軋らせる。
もう少しで、玄海の脇腹を貫ける所であった。
「鉄鬼ッ!」
玄海は叫ぶと、左の掌底で鉄鬼の顔を叩いた。
鉄鬼の鼻が拉げ、血が鼻孔からこぼれ落ちる。
しかし、鉄鬼は唇を捲り上げると、玄海の左手首を、右手で捉えた。
握り潰さんばかりに、力を籠める。
互いに、互いの左の手首を捉えられていた。
鉄鬼が、玄海の左腕を、思い切り手前に引っ張る。
玄海の身体が崩れ、傾いたその頭に、鉄鬼は玄海の左手首を掴んだまま、右肘を喰らわそうとした。
玄海は引かれるままに身体を沈めると、鉄鬼の懐で身体を半回転させ、右腕を担いで、鉄鬼の身体を腰に載せた。
鉄鬼の巨体が宙を舞い、地面に投げ落とされる。
この際、玄海は鉄鬼の胸の辺りに右肘を当てていた。地面と肘とで挟まれた鉄鬼の肋骨が、みしみしと悲鳴を上げる。
「良い面になったな……」
押し潰された肺の空気を吐き出しながら、鉄鬼が囁いた。
上下反転して向かい合う玄海の額の皮膚が捲れ、血が流れ出していた。
投げ飛ばされる瞬間、その勢いを利用して、解放された左の拳で、鉄鬼はその部位を擦り付けていたのである。
倒れながらも、玄海の額から出血させる事に、鉄鬼は成功していた。
「鉄鬼ッ!」
玄海が、ひしり上げる哀切さで、友と思っていた男の名を呼んだ。
玄海が下になった鉄鬼の顔に左拳を打ち込もうとするのと、鉄鬼が上になっている玄海の身体を寝技に引き込もうとするのは、同時であった。
黒い鴉の赤い瞳が、本堂の屋根から、その光景を喰い入るように見つめていた。