「はぁ……はぁ……」
気づけば私は息を荒くしてお祓い棒を構えていた。呼吸が苦しい。酸素が足りなくて目の前がチカチカする。体の節々が軋み、ズキズキと頭が痛む。
そして、『夢想天生』で世界から浮いているはずなのに呼吸をしていることを理解し、すぐに首を傾げた。ラストワードを発動している間、私は世界から切り離される。つまり、呼吸すら必要としない。
でも、今の私は呼吸はおろか、私の巫女服を揺らす風や額から流れる汗、なにより世界に溢れる力の流れを感じ取れている。つまり、『夢想天生』が解除されていることに他ならない。
「はぁ……はぁ……」
そこでやっと意識がはっきりし始め、視覚情報を整理することができるようになった。響が発動した『鉄壁』は5枚の五芒星結界を組み合わせたこともあって『夢想天生』であってもすぐに破壊できるものではなかった。
だが、私の前に巨大な星型の結界はなく、お札と結界の激突によって生じた煙が漂っている。そのせいで未だに響の姿は見えない。
もし、彼がまだ余力を残しているのなら私の負けだ。正直、今にも気絶してしまいそうなほど霊力を消費してしまった。おそらく数分も飛んでいられないだろう。いや、ゆっくりだが、すでに落ち始めている。もう、限界だ。
「……ぁ」
握力もなくなっていたようで構えていたお祓い棒を落としてしまう。持っていても込める霊力がないのだからただの棒にすぎないので放置する。
本当に、私は愚かだ。卑怯だからと『夢想天生』を使うことを躊躇い、使えば確実に勝てると過信していた。
しかし、響は『夢想天生』の性能を知っていながら己の手札を組み合わせ、死力を尽くして全力で抵抗し、私に全ての霊力を消費させた。
「……」
その時、風によって煙が流れ、彼の姿が露わになる。響は――顔を俯かせながらも飛んでいた。私の全てを込めた『夢想天生』はギリギリのところで『鉄壁』を破壊したようで彼の服は私以上にボロボロになり、僅かに血を流している。
ああ、そうか。私の、負けだ。もう、飛んでいることすらできない私に彼を止める手段はない。スペルカードはもちろん、お札の一枚も投げられない。きっと、
「……さすが、だな」
「……え?」
俯いていた彼は掠れた声でそう呟くとゆっくりとその体を傾け、次第に頭が下になり――落ちていった。あまりの光景に助ける、という考えは浮かばず、そのまま墜落していく彼を見続け、私もその後を追うように降下していく。
幸い、私たちは戦いながら高度を落としていたようで自由落下のまま、地面と激突しても大したことはなく、よろめきながら着地した後、遠目から彼の様子を窺ったがちゃんと生きていた。
(勝った、の?)
彼は確かに落ちた。霊力を使い果たし、今にも気絶してしまいそうになっている私より先に満身創痍になった。私の、勝ちだ。私が、勝った。
――本当に?
だって、今もなお彼は倒れたままで起き上がる様子はない。複数の魂を宿し、多くの仲間を味方に付け、無数と言っても過言ではないほど手札を持つ彼が、私の目の前で地に伏している。誰がどう見ても私の勝ちだ。
そのはずなのに、このもやもやはなんだろうか。まるで、『まだ終わっていない』と誰かが耳元で囁いているように。
その不安が的中したように、響の指先に翠色の炎が灯る。その炎は少しずつ彼の体を浸食し、やがて全身を燃やし始めた。
「翠、炎……」
その囁きこそ、私の直感であると気づいたのはその炎の正体が『翠炎』だと思い出した時だった。
矛盾を燃やし尽くす炎。私の傷を治したあの翠色の炎だ。
そして、今となってはその性能をはっきりと思い出すことができる。それは、
ああ、そうか。響は最初から『夢想天生』を突破する方法がないことを知っていたのだ。しかし、彼は『翠炎』がある。『夢想天生』で倒されても蘇生できることもわかっていた。
だが、『夢想天生』で倒され、蘇生した後、まだ『夢想天生』が発動していたら再びやられてしまう。だから、使用した後、魂に囚われてしまう『魂同調』すらも使って『鉄壁』を発動させ、私の霊力を削り切った。全てはこの瞬間の――翠炎により蘇生を成功させるために。
「……」
その証拠に翠炎に包まれながらも彼はよろよろと立ち上がり、私の方へ視線を向けた。しかし、どういうわけか彼の顔色は私から見ても相当悪そうに見える。確か、翠炎による蘇生なら戦う前に状態に戻ったはずだが。
「弾幕ごっこで、それは……卑怯だろ」
「それも、そうね」
私の思考を読んだのか、苦笑を浮かべた響の言葉に私も同じような表情をしてしまう。どうやら、翠炎の性能も制限されていたようで満身創痍寸前で蘇生したようだ。
お互いに卑怯な手を使い、そうしてまで勝ちたい。あまり勝ちに拘らない性格だと自負しているが、こうやって死に物狂いで戦うのも不思議と悪い気はしなかった。
「さて、どうする? お互いに今にも倒れそうだが……引き分けにしておくか?」
「なにこの期に及んで冗談、言ってんのよ。あなた、そんなつもりさらさらないじゃない」
「まぁ、そうなんだが」
彼は懐からケイタイ(前、香霖堂で見かけたことがある二つ折りの機械)を取り出し、ポチポチと操作し始める。私もその間に落ちていたお祓い棒を拾って付着していた土を払い落とした。
「そうは言ってもそっち、霊力はもうないだろ」
「それもお互い様。殴り合ってでも勝つわよ、私。こう見えても……人生で一番、怒ってるんだから」
「……思い、出したんだな」
「ええ、全部、思い出したわ……そう、全部」
『夢想天生』によって世界から浮いた影響か。それとも彼の施した馬鹿みたいな仕掛けがやっと壊れたのか。私は『音無 響』に関する全ての記憶を取り戻していた。
彼と共に過ごした日常も、彼が巻き込まれた異変も、彼に対する私の、この気持ちの名前も。
「本当に、やってくれたわね……一発どころじゃないわ。泣いて謝るまで殴るの止めないから」
「それは、勘弁してほしいな」
ケイタイを操作していた彼の手にいつの間にか私と同じようなお祓い棒が握られていた。でも、どういうわけか私のそれよりもかなり年季が入っている。まるで、ずっと使われていた物を誰かから譲り受けたような印象を受けた。なにより、私はそのお祓い棒を小さい頃に見たことがある。あれは、確か――。
「まさか……それ」
「さて、どうだろうな。いずれ話すよ」
『今は、こっちが大事だ』と彼はお祓い棒を私の方へ突き出すように構えた。持っているだけでもやっとなのか、先端が僅かに震えている。
「……ええ、そうね」
私も彼を真似るようにお祓い棒を彼へと向けた。さぁ、これが正真正銘の最後の勝負。これで最後まで立っていた方が勝者。
「ねぇ、提案があるんだけどいいかしら」
「なんだ?」
「この弾幕ごっこで勝った方が負けた方へ一つ、お願いできるってのはどう?」
「そこは命令じゃないんだな」
「ええ、だから、負けた方がそのお願いが嫌なら断ってもいい。あくまで、お願いよ」
お互いにお祓い棒に込める霊力はない。立っているのもやっと。スペルカードの一つも唱えられず、お札すら投げられず、満身創痍寸前のボロボロの私たち。
「ああ、それでいい」
「なら、この場で言った方がいいわよね。あなたが気絶しちゃう前に言質取っておこうと思って」
「丁度よかった。俺もお願いがあるんだ、お前が気絶する前に言質を取っておこう」
残っているのは僅かな霊力。こんな状態で私たちにできることは少ない。
だが、その少ない手札こそ、私に、彼にとっての――最大の切り札でもある。
「なら、同時に言いましょうか」
「そうだな。あとでお願いを変更するのはなしな」
「もちろん」
震えるお祓い棒をそのままに私たちは笑い合う。これから殴り合いの喧嘩をするとは思えないほど朗らかに、勝ち誇った笑みを浮かべ――お願いした。
「私が勝ったら婿に来なさい」
「俺が勝ったら嫁に来い」
その瞬間、私たちの体から凄まじい量の霊力が放たれる。もはや、爆発と言ってもいいかもしれない。少ない霊力だけで発動できる、『博麗奥義書』に記された誰でも習得できる数少ない奥義。そして、私たちの、彼女から受け継いだ奥義だ。
「『夢想転身』」
「『夢想転身』」
紅いオーラを纏った私たちは同時に一歩を踏み出す。極限にまで強化された脚で踏みだされたその一歩で私たちの距離は零になる。そして、私たちは全力でお祓い棒を振るった。
後に『死の大地』にて行われた幻想郷全ての巻き込んだはた迷惑な痴話喧嘩は――『婚姻異変』と呼ばれ、『博麗の歴史』にしっかりと刻まれることになる。
次回、後日談最終回。