よく見なければわからないほど白に近い灰色に染まってしまった黒目を私に向けるマスターは悲しげな笑みを浮かべています。いえ、悲しげというよりも力なく微笑んでいると言うべきでしょうか。少なくとも彼の精神状態は不安定であることには違いありません。あんなことがあったのにリョウさんの死を悲しむことも、東にいいようにやられて悔しがることも、幻想郷の危機に焦ることもなくただ私を見つめているだけなのですから。
「マスター……その、目は」
震える声で彼に問いかけますがきっと私はこの時点で気付いていたのでしょう。いえ、私だけではありません。私の後ろにいる皆さんもマスターの様子を見てある程度、察していたのだと思います。
「……ああ、これか」
遠目から見れば真っ白に見える右目を右手で覆うマスター。そして、今にも消えてしまいそうな声で言葉を紡ぎました。
「何も、見えないんだ」
「……え?」
「光すら感じられない。本当に真っ暗なんだ」
「ッ……」
マスターの言葉に私たちは息を飲みました。目が、見えない。それはつまり、マスターは失明した、ということでしょうか。
いえ、確かにマスターが失明してしまったこともショックでしたが、それ以上に目が見えなくなったのに彼は慌てる様子もなく、いつものように佇んでいることが気がかりです。私のこの胸を燻る嫌な予感は別のことを示しているような気がしてならないのです。
「くそっ……あの時、東がやってたのはこれだったのか!」
「ああ、悟か。
「お礼なんか言ってる場合じゃないでしょ!? 目が見えなくなっちゃったんだよ!?」
悔しげに奥歯を噛み締める悟さんに笑顔を浮かべてお礼を言うマスター。それを聞いた望さんが涙を流しながら声を荒げます。やはり、マスターの様子はおかしい。
「響、魔眼は!? あれなら見えるんじゃない!?」
「いや、駄目だった。どうも俺が失ったのは視力じゃないみたいなんだよ」
雅さんの指摘にマスターは首を振ります。ああ、そうです。やっと違和感の正体がわかりました。今のマスターは失明したのにまるで他人事のように落ち着いているのです。目が見えなくなったことなどどうでもよさげに、ただの事実としか捉えていないようでした。
「静、どういうことだ?」
「うーん……さっき触診した時、目にライトを当てたら瞳孔が動いたから眼球が死んだわけじゃないし、光もきちんとわかる、はず。それなのに何も見えないのは少し変かな」
ドグさんと静さんもリョウさんが死に、マスターが失明したにも拘らず冷静に状況を分析しています。人形の身である私が言うのも変ですが、マスターも、ドグさんも、静さんも……簡単なプログラムしか内蔵していない、自分の仕事を淡々とこなす機械のように見えました。
「静さんにはまだ説明していませんでしたが東の能力は『神経を鈍らせる程度の能力』。おそらく、響の視神経を光すらほとんど感知できないほど極限にまで鈍らせて失明させたんだと思います。でも、鈍らせるだけだから完全になくなったわけじゃないから瞳孔は反射で動いた」
「でも、響は干渉系の能力は効かない。どうやって視神経に干渉したの?」
唯一あの場にいなかった静さんに悟さんが解説するとすぐに霊奈さんが問いかけます。その答えは悟さんだけでなく、私も知っていました。
「おそらく『黒石』が原因でしょう。マスターの干渉系の能力を無効化する力は何かを経由すれば簡単に突破できてしまいます」
問題は何を経由したか。その答えを知っているのはマスターしかいません。ですが、答える気はないのか彼はただひたすら虚空を見つめています。
「おにーちゃん……だいじょうぶ?」
その時、ずっと呆けたようにマスターを見続けていた奏楽さんが不意にマスターに声をかけました。その声は僅かに震えており、今にも泣き出してしまいそうでした。
「ああ、目が見えない以外、特に問題は――」
「――でも、おにーちゃんの心はこなごなだよ?」
首を傾げながら言う奏楽さんに部屋にいた全員が言葉を失いました。『心が粉々』――つまり、マスターの心はすでに折れていることになります。それも失明したことすらどうでもよくなるほど。
「……はは、そっか。ばれてたか」
数秒ほど沈黙したマスターでしたがすぐに乾いた笑い声を漏らし、ボフッと背中から布団に倒れ込みました。その姿があまりに儚く、今にも消えてしまいそうで思わず彼の右手に両手を重ねます。
「何が、あったんだ」
「……地獄を見た」
悟さんの問いにマスターは擦れた声で答えました。それからしばらく言葉を発しなかった彼ですが徐に口を動かし、絞り出すように言葉を紡ぎます。
「ずっと不思議だった。どうして俺たちの情報が筒抜けだったのか。その情報源が何なのか。でも、やっとわかったんだ。何故、東が俺以上に俺のことを知っていたのか」
そこで言葉を区切った彼はもう何も映すことのない真っ白な瞳で天井を見上げます。そんな彼を皆さん、息を殺して見守り続けました。
「あいつは……『東 幸助』は
東が死に戻っている。そう言われても理解が追い付かず、私たちは何も言えませんでした。つまり、東は何度も死に、意識だけが過去に戻ってやり直している、ということになるのでしょうか。確かにそれならば私たちの情報を持っていても不思議ではありません。
「東は……何回死に戻ってるの?」
「……途中で数えるのを止めたけど1万回くらい、かな」
ずっと口を閉ざしていた弥生さんが質問するとこともなさげに答えるマスターでしたが私たちは目を見開いてしまいます。
1万回。口にするのは簡単ですが言い換えれば東は1万回、死んでいることになります。たとえ惨たらしい死に方をしても死んでしまえば過去に戻り体は元通りになるでしょう。しかし、意識だけは違います。私たちの情報を持つためには過去に戻っても記憶を保持している必要があります。そう、死んだという経験だけは死に戻る度に東に積み重ねられるのです。
そうなればいずれ精神が崩壊することぐらい容易に想像できます。ですが、東は1万回もの死を経験しても正気を保ち、今もなお幻想郷を崩壊させようとしている。
「そもそもどうして響はそれを知ってるの? どうやって知ったの?」
「……」
続けざまに雅さんが問うと今まで微かに笑みを浮かべていたマスターが初めて顔を歪ませました。まるで、思い出したくもないことを思い出してしまったかのように。
「俺が失明したのは東が持っていた『黒石』……
「黒楼石……」
「黒楼石は絶望という意味がある。つまり、あいつは俺がリョウの死を見て絶望したところを突いて『神経を鈍らせる程度の能力』を干渉させた」
それがマスターに能力が通用した理由。しかし、肝心の東の死に戻りについてまだ触れていません。その答えをマスターはすぐに言葉にしてくれました。
「黒楼石を経由した能力の干渉……つまり、俺の絶望と東の絶望をリンクさせた結果、東が今まで経験してきた全てを俺も経験させられた。1万回以上の死と死に戻る度に目の前で妖怪に殺される恋人を見せつけられた」
そう語ったマスターはそっと息を吐き出します。そんな小さな音すら耳に届くほど部屋は静まり返っていたのです。
ですが、まだ私たちは知らなかったのです。東の死に戻りを経験させられ、その結果知ってしまった事実こそ、マスターの心を折ってしまった原因について。