ゆっくりと意識が浮上していく感覚とともに寝起き特有のだるさが私を襲う。カーテンの僅かな隙間から朝日が漏れ、私の顔を照らしている。昨日、“あれだけ望んだ”朝日だというのに寝惚けた状態の私はそれを煩わしく思い、朝日から逃れようと体を右に捻った。
「うっ……」
その時、擦った右膝に小さな痛みが走り、思わず呻き声を漏らしてしまう。普段はあまり運動しないので怪我をすることが少ない私にとって久しぶりの痛みだったため、過剰に反応してしまったがすぐに治まったので擦り傷程度の軽い傷なのだろう。しかし、問題は運動をしない私が膝を擦りむいてしまった原因だ。確か――。
「ッ――」
昨夜の出来事を思い出して勢いよく体を起こした。そうだ。あの後、私はどうなった? 土砂降りの中、必死になってあの人の家に向かったのはもちろん、足がもつれて転んでしまった時の痛みも鮮明に思い出せる。でも、“レポート”に記載されていた住所を頼りに彼の家に着いてインターホンを押したところから記憶があやふやになっていた。
「あ……」
不意にか細い女の声が聞こえ、反射的にそちらへ視線を向ける。そこには濡れたタオルを両手で持ちながら宙に浮く人形がいた。その人形は私と目が合うと顔を引き攣らせる。そして、そのままピシリと体を硬直させ、床に落ちた。ベッドの上から下を覗き込むと先ほどまで宙に浮いて顔を引き攣らせていたとは思えないほどピクリとも動かない可愛らしい人形が床に転がっている。
「……」
しかし、だからといって先ほど見た光景はなかったことにはならない。昨日、読んでしまったレポートといい、この人形といい――一日にも満たない時間で私の常識は完全に崩壊してしまった。だからだろうか、急に力が入らなくなり、再びベッドに横になってしまう。
(何で……こんなことに……)
一体、私が何をしたと言うのだろう。いや、私は何も知らずに“関わってしまった”。きっとこれは無知だった私に対する罰なのだろう。だが、私は知ってしまった。もう後戻りはできない。早くあのことを音無君に伝えないと。
「ッ! そうだ、音無君!」
「呼んだか?」
「……へ?」
もう一度ベッドから体を起こして叫んだ私の声に応えたのはいつの間にか床に落ちていたはずの人形を抱え、ジッとこちらを覗き込むように見ていた音無君だった。高校卒業後、別々の大学に進学したため、久しぶりに彼の姿を見たが高校生の時よりずっと大人っぽくなっており、見覚えのない綺麗な紅いリボンで髪を一本にまとめている。
「お、音無君?」
「そうだけど……具合はどうだ? 昨日、ずぶ濡れになっていたけど風邪とか引いてないか?」
そう言えば音無君の家に辿り着いた後、誰かに『体を暖めて』と言われてシャワーを浴びたような気がする。それにもしかしてここは音無君の部屋で、私がずっと寝ていたのは彼のベッド――ッ!?
「きゃ、きゃああああああああああああああ!」
昨日、あのレポートを読んだ時も、宙に浮く人形を見た時も決して発しなかった悲鳴を上げてしまい、軽い騒動になった。
「はぁ、とうとうお兄ちゃんが欲望に負けていたいけな女の子を襲ったのかと思っちゃったよ……改めまして、妹の望です。よろしくお願いしますね、西さん」
荒れに荒れた騒動も何とか静まり、居間に移動した後、居心地悪そうにソファに座っている西さんに挨拶する望。それから西さんと初対面である雅たちも自己紹介を始めた。因みに難しい話をするので退屈しそうな奏楽と擬人モードになっても俺が魔法を使えない今、耳と尻尾を隠すことのできない霙、見た目幼女なリョウと見た目ヤンキーなドグは別室にいてもらっている。
「お、音無君……妹さんだけしか家にいなかったんじゃ?」
テーブルの上に置いた人形の振りをしている桔梗をちらちらと見ながら顔を引き攣らせた西さん。確かにここには俺を含めて望、雅、リーマ、弥生、母さんの6人がいる。別室に他の人がいることを知らされている彼女からしてみればクラスメイトがたった数年で大家族になっていれば驚くのも無理はない。
「色々あってな。まぁ、話せば長くなるから今は気にしないでほしい……それで昨日、何があったんだ?」
「あのね、音無君。多分、信じてもらえないと思うけど……音無君、命を狙われてるんです!」
「……」
まるで己の罪を告白するように叫んだ西さんだったがあまりに今更な情報に俺たちは思わず顔を見合わせてしまう。しかし、そんな俺たちの反応を見た彼女は自分の話を信じてもらえなかったと判断したのか再び口を開いた。
「ほ、本当なんです! 私も最初にあのレポートを見た時は信じられませんでしたけど……」
「レポート?」
「あっ……えっと、音無君について書かれたレポートが私の両親が働いてる研究所にありました。私、その研究所にちょくちょく手伝いに行ってたんですけど書類整理してる時に誤って書類が入った段ボールを引っくり返しちゃって、その中にたくさん……」
「ッ! 響、その研究所って!」
西さんの言葉を聞いて俺と同じ考えに至ったのか雅が声を荒げた。他の皆も緊張した様子で俺に視線を向けてくる。いきなり皆に緊張が走ったのを感じ取ったのか西さんは不安そうにしていた。とにかくもう少し彼女の話を聞こう。
「……西さん、そのレポートにはどんなことが書かれていたか覚えてるか?」
「そ、その……音無君のスリーサイズとか」
「いや、何故顔を赤らめる……他には?」
「……」
そこで西さんは言い辛そうに口を噤んだ。何度も俺や皆の様子を窺い、深く息を吸った後、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「音無君の……能力とか、戦い方とか色々書いてありました。最初はゲーム……例えば、TRPGのキャラクターシート――えっと、自分が操作するキャラのプロフィールみたいなものなのかなって。研究所って分析を待つ時間とか結構あるのでその待ち時間の間に皆で遊んでるのかなって思いながら流し読みしてました」
TRPG――トークロールプレイングゲームのことで昔、俺、望、雅、奏楽、悟の5人でやったことがある。西さんがTRPGを知っているのは意外だったが確かにオカルトを知らない人からしてみれば能力や戦い方が書いてあるレポートを見ればキャラクターシートと思ってしまうのも仕方ないかもしれない。
「でも、それと同時に私が関わったところもいくつかあって……『ここ、私が数値計算したところだ』とか『私の仮説が使われてる』とか思い出しながら読んでて、そこで気付いたんです。これはキャラクターシートなんかじゃなくてレポートに書かれていることが本当のことなんだって」
そこで言葉を区切った西さんは徐に立ち上がってテーブルの上で静かに座っていた桔梗を手に取ってジッと観察する。ずっと見つめられているせいか桔梗は冷や汗を掻いていた。
「……気付いた私ですがやはり最初は信じられませんでした。でも、読み進めれば進めるほど本当のことにしか見えなくなって……桔梗、でしたか。この子が空を飛んでいたのを見て確信しました」
「……おい、桔梗」
「す、すみません! タオルを変えようとしたら目を覚ましてしまって!」
部屋に入った際、床に桔梗が転がっていたのを見た時から嫌な予感はしていたのだ。おそらく西さんが読んだレポートに桔梗のことも書かれていたのだろう。西さんの腕の中でバタバタと腕を振り回しながら弁解する桔梗を見て苦笑する。それを見て最初から怒っていないとわかったらしく、桔梗はすぐに落ち着きを取り戻し、改めて西さんの方に顔を向けた。
「自己紹介が遅れました。マスターの従者であります、桔梗です」
「西、です。よろしくね、桔梗」
「……さてと、どこまで話したか。確かレポートに書かれてることが本当のことだって確信したところだったか」
「は、はい。それで……音無君と戦う時の対策法が山ほど書いてありました。特に何度も“殺しても復活する可能性があるのできちんと死んだことを確かめること”と記載されていて……」
それで俺の命が狙われているとわかったのだろう。しかし、彼女の話にはいくつか疑問がある。他の皆も訝しげな表情を浮かべていた。
「まず、そのレポートを作成する時、西さんも関わってたんだよな? どうして、俺のことだって気付かなかった? 手伝いだったとしても俺の名前ぐらい出てきたはずだ」
もし仮に俺の名前に呼称を付けて呼んでいたのならレポートにも俺の名前ではなく、呼称を使われていたはずだ。
俺の問いに西さんは顔を歪ませ、俯きながら答えた。
「……はい。音無君の名前は何度も出てきたし、私も普通に言ってました。でも、全然“気にならなかったんです”」