少女が理解者を得た時、歯車はゆっくりと回り出す。
そしてバケモノたちは、英雄に挑戦状を叩きつける。
『黄昏の姫巫女』誘拐。この大ニュースは各国に衝撃を走らせ、今迄手をこまねいていた帝国側は再び侵攻に向けて軍備を整え始め、逆に連合側は抑止力の一つを失って大騒ぎ。
アスナ姫と同様『
「ほう、アリカ姫が『赤き翼』と接触したか」
「……面白く、なる……?」
「ああ、だろうな。今まで頭脳担当であったアルビレオの奴では少々不足気味だったが、アリカほどのやつであればその穴を埋められる。それに、事実上国家一つを味方につけたことに等しいからな」
クククと喉を鳴らして笑うエヴァンジェリン。今彼女らがいるのは帝国の帝都、ヘラス。その一角にある小さなオープンカフェで優雅にコーヒーを啜っているのが彼女だ。鈴音は彼女の前で黙々とサンドイッチを平らげ続けている。どこにそんな入るのか、エヴァンジェリンとしては謎であったが、瑣末なことだと思考から消す。そして彼女の右隣に鎮座している今話題の少女に、エヴァンジェリンは話しかける。
「一応聞くが、アリカ姫に対して何かコメントでもあるかな?」
「今更興味無いです、あんな無愛想な女」
「ケケケ、オ前モ未ダニ無愛想ダロウガ。ココ数ヶ月デ分カッタガ、オ前結構毒ハクヨナ。結構喋ルヨウニナッタノハイイガ、教育間違ッタンジャネ、ゴ主人」
「ただでさえ鈴音があまり喋らんのだ、少しは会話もしたくなる。それにアスナはこっちのほうがよほど、らしく見えるじゃないか」
「有難う御座います、マスター」
嬉しそうに、しかし簡潔に礼を述べるアスナ。横では鈴音が食事を終えたところであった。
「……ご馳走様……」
「鈴音ハ鈴音デマイペースダナ。テカ、何皿食ッタンダヨ」
「……? ……分から、ない……?」
「アー、ウン。オ前ハソノママデイテクレ」
何となく小動物的な庇護欲を掻き立てる鈴音の仕草に、チャチャゼロは自然と頭を撫でる。くすぐったそうにする鈴音と、それを羨ましそうに見るアスナ。
「チャチャゼロ、私も」
「アン? 急ニドウシタ?」
「私も」
「アー、ハイハイ」
鈴音を撫でるのをやめ、アスナの方に手を伸ばす。そのまま彼女の頭に手をおいて、優しく彼女を撫で始めた。どうやら、アスナは鈴音がに撫でられているのを見て羨ましくなり、チャチャゼロに甘えたかったようだ。可愛いやつだなと思いながら、チャチャゼロはケケケと笑いつつ、アスナを撫でくりまわした。途中から興が乗ったのか、ワシャワシャと撫でてアスナを驚かせていたが、嫌がっていないのを見てひとしきり強く撫でた後、彼女の乱れた髪を櫛で解かしはじめた。
「ふふっ」
嬉しそうな顔のアスナ。鈴音は撫でられて気持ちよかったのかウトウトとしている。
「私、今とても幸福。夢だったら覚めてほしくない」
表情はあまり変化はないが、それは彼女が長年そうであったからまだ変われないだけ。彼女と深く関わった彼女らには、その顔がとても悲壮を帯びているのが見て取れた。
「アスナ、お前は下を見てるなぁ」
「下? どういうことですかマスター?」
「ケケケ、目ノ前ヲ直視デキナクテ下バッカ見テルッテコトサ」
エヴァンジェリンの何の気なしに言った言葉に疑問符を浮かべるアスナと、それを補足するチャチャゼロ。
「まあ、別にお前のことはお前自身で決めることだ。下を見て俯くのも、前を向いて生きるのもお前の自由だよ。主従契約をしているとはいえ、お前はもう誰にも縛られないんだからな」
そんなふうに言う、エヴァンジェリン。そして更に、だがな、と続ける。
「お前が欲しかったのは、そんなつまらない人生を得るためだったのか?」
「っ! ご、ごめんなさいマスター!」
エヴァンジェリンの機嫌を損ねたと思ったアスナは、慌てて謝罪の言葉を口にする。彼女にとって今こそが人生至上の時間。そんな大切なモノを、くだらないことで失うなどしたくない。彼女の顔には、捨てられるかもしれないという悲壮感漂う表情が浮かんでいた。それを見て、エヴァンジェリンは面白そうにカラカラと笑い出した。
「ハハハ! どうした、不安になったのか?」
快活な笑い声に、アスナは一瞬きょとんとするが、エヴァンジェリンが機嫌を損ねたわけではないと分かり安堵の表情を浮かべる。
「す、捨てられちゃうかと思いました……」
「そーかそーか、存外寂しがり屋だなお前は!」
「うー、マスターのいじわる……」
「ククク、すまんすまん。どうにもお前は鈴音と違っていじり甲斐があるからな、ついつい苛めたくなってしまうんだ。許せ」
エヴァンジェリンの今の状況を、彼女を知る者がいれば信じられないものを見たような目で見るだろう。なにせ、かの『狂刃鬼』を従え、ウェスペルタティアの王宮にたった二人で乗り込んでアスナを攫った大悪党。既に連合側から要注意人物として指名手配されている彼女が、こんな見た目相応の笑い声を上げる姿を誰が想像できよう。ひとしきり笑ってようやく落ち着いたのか、目尻に浮かんだ笑い涙を指ですくいつつ、話を戻す。
「いいんだよ」
「え?」
「いいんだ、それでいい。私たちは人間という圧倒的多数から迫害される
「…………」
いつの間にか、うたた寝をしていた鈴音も目を覚まし、彼女の言葉を真剣に聞き入っていた。
エヴァンジェリンは、少し遠い目をしながら話を続ける。
「私も長く生きてきたが、人生とは探しものばかりだったよ。生きる意味を探し、死に場所を探し、そして、誰かを探した」
「……孤独を、癒してくれる、誰か……」
鈴音の言葉に、エヴァンジェリンは微笑みながら頷く。
「いつだって足りないものばかりだったさ。その場その場で手札を切り、何とかしていかねばならなかった。手札が足りなくて、魔女狩りで焼かれたこともある。経験と知識という手札がな。だが、今はどうだ? 『闇の福音』と恐れられ、最強クラスの魔法使い様さ」
何度も、何度も。生きるために必死になって手札を切った。そのために、誰かを裏切ることもあった。先に裏切ったのは人間側ではあったが、それでも心が痛かった。
だが、一旦それに慣れてしまえば、心はその痛みを鈍化させていく。そうして、少しずつ少しずつ、心をすり減らし、終いには寂しいということさえも忘れてしまった。鈴音との出会いがなければ、彼女は今も意味を持たない生を続けて彷徨っていただろう。
「それでも、心が満たされなかった。当然だな、安全を得る対価に、私は人と交わらぬ道を歩んでしまっていたのだから。……人形遣いが、とんだ人形だったわけさ」
皮肉げに、彼女は自身を自嘲する。生きる意味を持たない生など、所詮おもちゃの人形と変わりない。そこにあるだけであって、おもちゃ箱の中で忘れられていく。普通、そういったことを人間は恐れるが、人との関わりを失い、孤独に隅々まで蝕まれた彼女は、そういった考えすら浮かばなかった。
「しかし、今は違う。鈴音がいて、忘れてはいたがチャチャゼロがいて」
「……ポッ……」
「モウツッコム気スラ起キネーヨ……ッテヤッパ忘レテタノカゴ主人!?」
「お前は私が
話が逸れたな、と会話を一旦仕切りなおすエヴァンジェリン。横ではなんか納得いかないと微妙な表情をしているチャチャゼロと、慰めるようによしよしと頭を撫でる鈴音。なんとも愉快な光景である。
「そして、新たにお前もいる」
そう言って、アスナに人差し指を向ける。アスナは向けられた指先ではなく、エヴァンジェリンの暖かな眼差しを見つめていた。その目を見ていると、堪らなく幸福な気分になれる。ああ、やはり自分は彼女とともに来てよかったと。これが、生きるという事であり、必要とされることなのだと。
「お前は、私達がいる。それでいいじゃないか、たとえこれが刹那の時間でも、お前は確かに生きていたのだと、胸を張って生きればいいさ」
「……はいっ!」
いつの間にか、曇りがかったアスナの表情は晴れやかに、日を浴びて輝く花のように明るかった。
戦争もまた、流れる濁流の小石に他ならず。その流れゆく先は誰にも分からない。
血風渦巻く戦火は人々の負の感情や、死を糧として広がっていく。聞こえるのは武器と武器のぶつかり合う金属音や、魔法による爆発。あるいは風切り音に雷鳴か。戦争は常に多数の人によって成り立つものであり、当然、彼らの怒号や雄叫びもまた、戦場に響き渡る。
「押し込め! 勝利は目前ぞ!」
「「「帝国に栄光を!!!」」」
叱咤激励、意気揚々。闘志十分、
「ここが粘りどころだ! 生きて帰れたら一杯奢ってやるぞてめぇら!」
「「「連合万歳! ロフト隊長万歳!」」」
オスティアから北に数千km離れた場所にある、帝国に属する小規模国家ノアキスに、連合が侵攻を開始したことから勃発した此度の戦場は、通常では考えられない激戦の様相を呈していた。
と、いうのも、メセンブリーナ連合が侵攻を行った理由、『黄昏の姫巫女』を攫った輩が潜伏している可能性があるとして、調査を行おうとしたところノアキス側がこれを一蹴。連合は強硬手段に出てそのまま戦場へと発展していったというわけだ。
「しっかしまぁ、くだらねぇ理由で引き金を引く連合の奴らもどうかと思うぜ」
「抑止力たる『
「だからって急ぎすぎだろ!」
「ナギ、元老院の奴らに何を言ったって無駄だ。俺らで変えるしか無いんだよ」
そんなガトウの言葉に、ナギはそうだなと短く、苦い顔で頷きつつ目前の帝国兵たちを蹴散らし続けている。ガトウもまた、居合い拳の拳圧を用いて重装兵を吹き飛ばしている。
連合側は戦争を有利に進めるため、帝国の脇腹たるノアキスを奪取する腹づもりでいた。そこで、いまや連合の最高戦力とも言える『
現在、彼らは帝国を押し込むという、今回の作戦の生命線とも言える役割を担っている。帝国側の鬼神兵の大量投入により、前線を崩されれば一気に瓦解するといった状況で、その鬼神兵をたった数人で押さえ込めなどという無茶なことを任されるなど、本来であれば正気の沙汰ではないであろう。それを実行してみせるのが彼らの恐ろしいところだが。
「これ以上戦線を押し込みきれんか」
「帝国側も後方で待機していた戦力を投入してきたようですね」
「こっちの後方支援部隊が狙撃されてやがるぜ、こりゃ助けは期待できそうにねぇな」
帝国の後詰を担う艦隊数隻も到着し、さすがに維持が厳しくなってきた。魔法による遠距離支援を行なっていた部隊が艦隊の砲撃で蹴散らされ、或いは甲板の狙撃部隊に狙撃されてしまっている。いくら一騎当千の『赤き翼』でも、5人で大部隊全てを相手にできるわけではない。ラカンは戦艦を何十隻と落としてきてはいるが、それができるのは帝国の邪魔が入らないよう他の手助けがあってこそ成り立つ。戦略の要たる艦隊を、単騎で落とせる戦力であれど一人で実行できるなどと自惚れた考えをしてはならないのだ。
事実、そういった過信をして戦艦を落とそうと支援なしに無謀にも実行しようとした大馬鹿者は皆帰っては来なかった。
そう、
ズッドオオオオオオオオオオオオオオオオオオン!
周囲に響き渡る、圧倒的な爆発音。それが聞こえたのは、遙か上空に浮かぶ戦艦からであった。
「お、おい! 巡洋艦から火が吹いているぞ!?」
帝国兵からの、驚きの声。見上げてみれば、小型の戦艦は真っ赤に燃え上がり、その外殻を散らしながらゆっくりと高度を下げてきていた。いや、落下しているのは戦艦のパーツばかりではない。
「……ひでぇ光景だ」
ラカンがそう毒づく。人、人、人。中空に投げ出され、悲鳴を上げるそれは人であった。
戦艦から落下する人々を杖や箒を用いて、あるいは竜騎隊などがそれらを回収してはいたが、こぼれた人々らは抵抗むなしく地面に叩きつけられ、真っ赤な花を咲かせた。自力で飛行し、何とか凌いだ者もいたが、飛行魔法は媒体なしでは高度な術だ。自力で逃げた者達は、爆発で魔法媒体を飛ばされずにすんだもので、落下した者達はその幸運を得られなかった人々だ。
「ありゃあわざとだ……わざと動力部が大爆発起こすように破壊して落下死させてやがる……!」
戦艦落としとして有名なラカンから見ても、この戦艦の落とし方には胸糞悪い吐き気を覚えた。
ラカンは脱出の猶予をわざと与えるため、戦艦の外部装甲を落とすなどして、動力部を狙わずに飛行能力を奪うスタイルだ。戦争とはいえ、好戦的な性格とはいえ。人死には寝覚めの悪いものであり、なるべく殺生はしない。甘いといえば甘いが、この行動は強者であるが故のものであり、決して驕りではない。自分自身の矜持を捨てることは、ラカンは一介の戦士として断固として拒否する。
だが、この爆破を起こした人物は違う。動力部を破壊して戦艦を即座に停止、そして大爆発を誘発させることで乗組員の安全を脅かし、あるいは魔法媒体を吹き飛ばして逃げ場をなくし、落下する人々を生み出している。まさに外道のやり方だった。
「み、見ろ! 他の戦艦も!」
見渡してみれば、敵味方問わず。上空に浮かぶ戦艦は尽く黒煙を上げ、落下を始めていた。異常だ。いくら戦争の真っ最中とはいえ、敵味方がこんな甚大な被害を被るなど、滅多に起こることではない。そういった事例は、敗北が確定した側が、最後っ屁に総力戦を仕掛け、勝者側にも痛手を負わせるなど、限られた状況でしか起こり得ない。
「何だ……この嫌な感じは……!」
近くで敵兵と切り結んでいた詠春は、胸騒ぎを抑え切れないでいた。魔を討滅する神鳴流、その宗家である青山の家に生まれた彼はそういった魔性の存在を敏感に感じ取れる。彼が今感じているものは、そういった類のものであった。
だが、この深淵の縁を覗きこんだような、得も言われぬ怖気は一体何だ。この戦場に、これほど自分を不安にさせる何かが、地獄の蓋を開けて湧き出してきたのではないかと思わせるほどだった。
上空では戦艦の機関部から発生した、荒れ狂う炎によって陽炎が波立っていた。その陽炎の向こう側に佇む、この場に似つかわしくない、しかしある種この状況こそがその人物らを引き立てる役割を担っているかのような、そんな人物たち。
彼女らは皆が皆、少女であり、そして皆美しかった。
「フフ、いよいよお前のデビュー戦だな」
「はい、マスター。鈴音、チャチャゼロ、私のこと応援してね」
「……頑張れ……」
「ケケケケケ! マア冷ヤカシ位ハシテヤルヨ」
マスターと呼ばれた少女は、熱風に靡く金の髪に、それを引き立てる白い肌。愛らしい顔は人形のようで、ほぼ黒一色であるゴスロリは彼女の魅力をよりいっそう印象付ける。少女の姿でありながら、艶めかしさや色っぽさを感じさせる、熟れた果実のような、そんな雰囲気を漂わせている。
黒い髪の少女は、艶やかな紫の着物が幼さを残した顔に一見不釣り合いであるが、赤々と燃える炎を反射させて妖しさを演出する墨染の如き髪や、それを結っている赤い漆塗りの、朱色の珊瑚と
ツインテールをしている少女は、金髪の少女と同じく黒いゴスロリ服。ただ、こちらは白色が2割、黒が8割といった風で、金髪の少女を美しいと表現するなら、彼女は可愛らしいというべきか。髪を縛る紙紐は、彼女の赤い髪と自然に融和する金色。装飾である宝石も、同じく金色であるタイガーズアイ。幼さを全面に押し出した、少女相応の姿である。
そんな彼女であったが、表情は少し固く、緊張した面持ちであるとともに、何か不安を隠しているかのようにも見て取れた。
「……大丈夫……」
「えっ?」
「……貴女の、仲間は……私達……。……だから、私は貴女の選択を……信じる……」
「鈴音……」
ツインテールの少女、アスナは、再び『赤き翼』と面と向かった時、平静でいられるか、不安でいっぱいであった。彼らという光に呑まれ、人間としての自分を諦め切れずに、自らが心酔する美しきバケモノたちを裏切ってしまうのではと。
そんな彼女を見て、黒髪の少女、鈴音は信じるといってくれた。普段は口数少なく、然れど金髪の少女、エヴァンジェリンが絶大な信頼を寄せ、アスナ自身も大切に思っている人物。
そんな彼女が、心が裏切りを否定出来ない、こんな弱い自分を信頼してくれている。その事実が、彼女の表情を和らげた。
「うん……!」
「悔いの残らないよう、しっかりケジメでもつけてこい」
「マスター、違いますよ」
「うん?」
満面の笑みを浮かべながら、エヴァンジェリンの言葉を否定するアスナ。
「私達バケモノの、あいつらへの宣戦布告。でしょ?」
その力強い言葉に、最早迷いはなかった。
「ふ、そうだな。さあ我が愛しき従者アスナよ」
両腕を広げ、鋭い笑みを浮かべるエヴァンジェリン。これから起こることが楽しみでしょうがないと、そして同時にアスナの成長を喜んでいるようにも見えた。
「行って、そして確かめてこい。『英雄』を、な」
「はい」
短く返事をし、アスナは眼下に見える彼らに向けて、飛んでいった。それを眺めながら、長きに渡るであろう戦いの引き金が引かれることを確信し。彼女は呟く。
「戦争を、始めるとしようか。『赤き翼』」
上空から落下してくる残骸が止んだ後。戦場は混乱の局地に達していた。無理もない、突如戦艦が、それも連合と帝国の双方で爆発したと同時に撃沈したのだから。
「一体何が起こってるってんだよ……!」
ナギは、この状況をつくり出した人物に心当たりがあった。数ヶ月前、自分が手も足も出なかった少女。アリカによれば、彼女はかの『闇の福音』とともにウェスペルタティアの首都オスティアの宮殿に現れ、アスナを攫っていったのだという。
話を聞いたときは、自分があの時あの少女を止められていればそんなことが起こらなかったという後悔があり。アスナを取り戻してみせるという決意を決めたのであった。そんな彼女が、ここに来ているかもしれないと、ナギはそんな予感があった。
だが。
(何なんだよ……この嫌な気分は!?)
彼の野性的な勘が、この状況を更に最悪のものにする何かがやってくると告げているのだ。
自分の心を脅かす、そんな恐怖を覚えるような何かが。
彼が戦々恐々としていたそんな時。
「な、何かが降ってきてるぞ!」
「馬鹿な! 戦艦は一つ残らず撃墜されちまってんだぞ!? 他に何が降ってくるってんだ!」
「そ、それが……人間です! 人間が落下してきてます!」
見上げてみれば、そこには人型のシルエット。一般的な成人男性の半分ほどの体格しか無いそれは、子供であろうことは想像できた。
「生存者か!?」
「あれ子供じゃないか!? だ、誰か! あのままだと地面に叩きつけられちまう!」
そんな慌てるような声が聞こえてくるが、ナギには聞こえてはいなかった。しかし、頭でそれを理解せず、心で理解した。もしかしたら。あれは彼女なのではないかと。だとすれば、ガトウの言っていたことがここで再現されるのではないかと。
気づけば、既にナギはその人影に向かって全速力で虚空瞬動を使っていた。
(これ以上、犠牲者を増やしてたまるか!)
止めてみせる。あの時とは違い、今の自分は疲労も少なく全力を出せる。今度こそ彼女を捕らえて、アスナを助けだしてみせる。彼女を裏から操っているであろう『闇の福音』をぶっ飛ばして、人殺しなんて止めさせてやる。
そんな決意を心の内に秘め、距離をどんどんと縮める。次第に、落下してきている人物の姿がぼんやりとだが見えてきた。
それを見たナギは。
(……? あの嬢ちゃんじゃない? ……いや、そんなまさか……!?)
その姿はあの少女のものではなく、されどとてもよく知っている、同じく少女のものであり。
その少女はナギが目前に迫る少し前に、速度を落としてゆっくりと中空に着地した。
見たところ、魔法媒体も持たないような少女がそんなことができる事自体驚きだが、彼にとっては今はそんなことは瑣末なことであった。なにせ、目の前の少女は。
「……アスナ……無事だったの、か……?」
『闇の福音』に攫われ、彼が助けだそうと決意した、連合が血眼になって探している『黄昏の姫巫女』。
アスナ・ウェスペリーナ・テオタナシア・エンテオフュシアであったからだ。
「久しぶり」
短い挨拶。
しかし、それはナギにとっては驚くべき光景であった。あれほど感情に乏しかった少女が、挨拶などという普通な、しかし彼女を知っている身としては異質な状況。
「あ、ああそうだな。お前、確か『闇の福音』に攫われたんじゃ……」
「ああ、そのこと」
ナギの言葉を聞いて、まるで悪戯を画策しているかのような小悪魔的な笑顔。
分からない。一体彼女に何が起こったというのだろうかと、ナギは疑問が尽きない。
しかし、そんな疑問は彼女の次の言葉で吹き飛んだ。
「別に、何かあったわけでもないよ?
何の気なしに言い放たれた言葉は、ナギを混乱させるのに十分であった。
「……どういうことだ。なんでお前を攫った相手を"マスター"なんて呼ぶんだ!?」
「どうでもいいじゃない」
ナギのそんな言葉に、至極どうでもいいといった風に答える。アスナは無邪気に笑っている。
だが、その無邪気さが今はとても不気味で、恐ろしかった。
「私ね、本当に自分を必要としてくれる人、ううん、バケモノに出会えたの。だって、ナギは私を必要としてくれなかったじゃない」
「何を言って……」
「私を助けてくれたことは感謝してるけど、それとこれとは話が別。私はナギ達とは違う」
「っ! そんなわけないだろ! なあ、アスナはきっと『闇の福音』に騙されてる!」
「証拠もないのにあの人を悪く言わないでよ」
アスナから立ち上る、圧倒的な怒気。感情を殺していた彼女がこれほどまで凶悪な、濃密な殺気を出せることにナギは酷く驚く。そして、それは彼女が『闇の福音』を悪く言われたと思って出したもの。
彼女は、最早ナギの知る少女ではなくなっていた。
「……話を続けるね。今日は、マスターの伝言を伝えるために来たの」
「伝言、だと?」
「そう、伝言」
そう言って彼女は、懐から何かの羊皮紙を取り出す。それを真上に放り投げると、丸められていた羊皮紙が紐が自動的に解かれ、その内側に記されていた文面を顕にする。
内容はたった1行。
【我々バケモノは、英雄たる『赤き翼』に宣戦布告する】
「なっ!?」
「これが、
アスナは、まっすぐとナギを見据える。そのオッドアイの瞳には、闘志が見え隠れしていた。
「今の私がどれだけ戦えるか、試させてもらう!」
開戦の火蓋は、切って落とされた。