「次はこの式を当て嵌めろ」
一色が此方に滞在してから二日目の放課後、俺と鏡は二人で夕焼けが射し込む教室に残っていた。いつも仲良しである九重と宇佐はいない。二人っきりの、特別補習。ただ、短絡的に指示する俺の声と、鏡がノートにひたすら筆記する音が流れるだけ。
初めはブツクサ文句を言いながらだった鏡も今では既に、口を閉ざし真剣な面持ちで問題を解き続けていく。不正解など一つも残さない程に。
やはり、ここまで劇的な変化が出たことに少なからず驚き、また正解を導き出せていることに嬉しいのだろう。作業に衰えがない。
「出来た」
「見せてみろ」
ふぅ、と溜め息を見せながら差し出される回答。そこに間違えは見当たらない。これは思っていた以上である。
俺が鏡に教えた勉強法、いや…テストで良い点を取る方法は実に簡単だ。計算問題の意味や理解などを一切無視して、ただ公式の使い方を教えただけだ。特に文章問題に関しては何処の数字を何処の公式にどのように当て嵌めるか、ただそれだけ。
これならば例え理解力が弱い子でも、とりあえずは良い点を取れる。基礎基本に対しては強い力を持つ。だが、同時に悪い点も間違いなくあった。
応用には極端に弱くなるのである。理解力に全く力が付かないため、馬鹿正直に基本しか出来ない。しかもそれが小学生だと特に謙虚だ。小学生全ての学業はこれからにおいての基本でしかない。中学、高校と進学すれば応用が出来ない分だけ通用しなくなる。一番まずい展開だ。
そのため俺のやり方は結果的に鏡のためには全然ならない。寧ろ問題を先伸ばしにした悪手である。凡そ教師として不誠実な勉強法。
「全問正解だ」
「おお! すっげぇ、アタシってばやるじゃん!」
此方としては、その眩しい笑顔がキツい。修正のためにこれからもこの子には注意をしていく必要がある。…下手をすれば、進級&クラス替えの時は、着いていくことになるだろう。それが、このやり方を取ってしまった俺の責任であり、唯一“まとも”な方法なのだから。
「良くやった。ジュースでも飲むか?」
「おごってくれんの?」
ぼっち慣れしていない奴に一人寂しく勉強させたからな。御褒美はあってもバチは当たらん。
「百円ちょっと出すくらいの懐はある」
校外の近場にある自販機。道路の片隅に若干錆びれたそれに手を伸ばす。マッ缶はない、クソ。鏡はミルクティーを選択。それも色々あるよな、花伝、午後ティー、リプトンとか。
マッ缶と同じ特長を持つ長い缶コーヒーをチビチビ口に含む。とりあえず、鏡に関してはクリアしたと言っても良いだろう。あと残るは九重と一色か。九重はまぁ…ちゃんとテストを受けてくれると約束してくれたし、問題はない。流石にあんなお願いは聞けんが。
残る杞憂は、一色。俺の“やり方”は却下となったが、もう一つの案、まともな方法もある意味では抵抗がある。果たしてアイツが受けてくれるかどうか。
「ねぇ、ゾンビ」
「なんだよ」
つか、いい加減ゾンビ止めろ。呼び慣れてしまって、思わず返事しちまったじゃねぇか。
「りんちゃんと何かあった? 最近元気無かったから…」
うつ向きながらポツリ。クラスでも一番体格が小さい鏡。その呟きはなおのこと、この子の小ささを感じさせる。小学一年生程に。どこまでもませていて、暴力的でもやはり幼い子供なのだ。人の感情へ敏感に反応しようと。
「別に何もねぇよ。またいつも通りになる」
「ならいい」
淡泊な返事にこれまた鏡も淡泊に返す。目に見えない壁を感じさせるが、逆に俺としては此方が有難い。
まぁ最も、保証は無いがな。だが、一喜一憂する人の感情について考えても仕方ないこと。大事なことは考えるんじゃない、感じるんじゃない、流されろ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「待たせたか?」
「いえ、今来たとこです。…あっ! 今の後輩的にポイント高くないですか!」
翌日の夕方。仕事終わりに近場のファミレスで待ち合わせした、俺と一色。早速小町の癖が移っているようで、出会い頭から不快感が。許せん、それは小町の専売特許だぞ。
「ないな。甘く見ても精々一ポイントだ」
「低っ!」
因みに一億ポイントが満点だが、一色にあと必要なのは9957884ポイント。俺の知人で唯一達成しているのは小町と戸塚である。寧ろカンストしているレベルで。
「何か飲みます? 奢りますよ」
「……」
「他意なんてありませんから!」
そいつは良かった。じゃあコーヒーでも頂くとしよう。
「今日帰るのか?」
ウエイトレスが運んできた湯気立つコーヒーにミルクとガムシロ、グラニュー糖をぶっこんでいく。一色が青ざめた顔で此方を見るが、構うものか。これから苦いことしか言わないのだから。
「え、えぇ。まぁ…」
「お前からの依頼だがな、提案として二つある。好きな方を選べ」
「二つですか?」
まずは一つ目、真っ先に思い付いた俺の案。一色は893から穏便に場所を確保したいとお願いしたが、別に何も馬鹿正直に確保する必要は無いのだ。一色としては場所なんて何処でもいいわけで、平和的にことが済むのならばそもそも確保する理由すらない。
だが、上司の存在によりそうもいかない。上司の理由が一色の理由だから。ならばどうすべきか。またしても斜めから考えてみよう。
「一色、お前なら上司にどうやって心変わりさせる」
「そうですねぇ、とりあえずテキトーに持ち上げてテキトーに相手して、お願いしますとかー。…でもやりたくないんですよねぇ、その人スケベだし」
オゥケィ、良くわかった。実に一色らしい。
「よし、今度は質問を変えよう。両者、食品関係の販売業だが、そのために最も大切なことはなんだ?」
「先輩ってナゾナゾ好きなんですか…」
うるせぇ、これは格好つけてるだけだよ。
「えっと、やっぱり味じゃないですか? あとは値段とか雰囲気とか」
「残念、違うな。正解は衛生管理だ」
味、素材、値段、雰囲気、好み、愛情を圧倒的に越える。重要課題。料理人、いや…人間として最低限クリアしなければならない、飽くなき徹底事情。
「それは、そうですけど…。それとどういう関係が」
「さて、一色。お前ならゴミや汚物にまみれている場所で売られている食べ物に手を出すか?」
「───先輩、マジで言ってるんですか」
一色は本気で戦慄していた。
「それなら確かに誰もそんなとこで商売なんてしたくないですよ。でも、バレたら大変なことに…」
社会的だけじゃない。最悪警察沙汰で893さんが知れば最早命の危険すらある。しかし、やりようによっては一色がその危険性を受けないで済むこともあった。
「先輩まさか、“そういうつもり”じゃないですよね」
「……」
一色の冷たく、そして嫌に低い声が、小さくとも間違いなく届いた。沈黙は肯定と受け取ってもらって構わない。一色は、テーブルの上に載せられた俺の拳に手を掛ける。
「なんで───」
微かに震えていた。
「なんでそんなやり方、思い付いちゃうんですか。おかしいじゃないですか、普通に頼み込めば済むかもしれない話しなのに…」
「“普通”に頼み込んで済むなら、お前は此所にいないだろ。上司の話しからして、とてもまともな奴とは思えんしな」
彼女はとても人を手玉に取るのが上手い。だが、それが必ずしもとは限らない。実際に見ていない俺では憶測でしかないが、上司という立場を理由して関係を迫る人間がいてもおかしくはない。サラリーマン事情で上司は支配欲が高まり部下を意のまましようとする傾向があると聞いた。
自分の手柄に部下を犠牲にする奴になんのモラルがあろうか。
…それより一色さん? 貴女さっきから手に力込めすぎよ? 拳がギリギリいって痛いわ。
「私、そんなの嫌です。先輩にそんなことさせるくらいなら、あの人の…っ!」
「待て待て、何もこれしか方法がないわけじゃない」
ふぇ、っと。変な言葉を上げて此方を見る。なんで涙目なんだよ、可愛いなオイ。あっぶなー、危うく惚れちゃいそうだった。
「最初に言っただろ、二つ提案があるって」
合点したのだろう。ぽかーんとした表情から一気に顔を真っ赤にして、思い切り俺の手の甲をつねった。痛い痛い止めて。
「だったら紛らわしいこと言わないでくださいよ!」
「いや、だからお前が勝手に…」
「は?」
怖ッ。いろはす怖ッ。さっきまでの可愛い女性は何処へボソンジャンプしちゃったんだよ。
「…で? そのもう一つの方法ってなんですか。さっさと教えてください。あ、マシなやり方じゃなかったら平塚先生にチクリますから」
ふふん、平塚先生にはとっくに知られているのだよ、ワトソンくん。どちらにしても、まともなやり方なので問題は無い。…ただ、俺としては此方の方がやりづらいがな。
「雪ノ下に頼む」
「え、雪ノ下先輩に…ですか?」
「正確にはアイツの父親だな」
出店を出すうえで必要となるのが道路使用許可だ。個人ではなく公共の土地だから数時間使うにも、必ず管理している警察署に申請しなければならない。当然、そう易々と取れる物ではない。一般人ならまだしも“基本的”に敵対関係である893さん相手に下りる許可じゃないからだ。
では何故か。答えは出店関係の元締めが一般人の商人であるということ。その人物が代わりに許可を取っている。そしてそのために重要なのがコネクション。俺が平塚先生と繋がりを持っていたように、他人を動かすには大きな力となる。
「まだ県議会議員だったはずだ。町の催し、ましてやたった一店舗の店なんて一声で動かせるだろ」
「で、でも相手にバレたらヤバくないですか? 雪ノ下先輩に迷惑かけちゃうし…」
どうだか。あの妹にして狡猾な姉だからな。同じDNAを持つ親がヘマをするとは思えん、そこらへんの内部事情は痕跡残さずやりそうな気がする。
「バレるとしても精々警察署に議員が絡んだくらいだろう。ましてやお前のとこまでとか有り得ん。対象となる人間があまりにも多いからな」
まず見つけるまでに諦める。それに店舗は動かすだけで別に商売をさせなくさせるわけではない。深い執念はけしてないはずだ。最も、一色の上司はすぐに特定されそうだが。発案者はソイツなわけだし、あとはソイツがどうなろうと俺の知ったことではない。此方は悪人であっても欺瞞な善人を気取るつもりもないわけだから。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「悪いな、あんま役に立てなくてよ」
結局、俺の案は却下されたわけだ。始めから一色は俺の所ではなく雪ノ下のもとへ行くべきだった。経費の無駄使いさせちまったな。
「何言ってるんですか、先輩には雪ノ下先輩のお父さんにお願いしてもらわなければならないんですよ」
「なんで俺なんだ…」
「私より先輩の方が繋がりあるからに決まってるじゃないですかー。知ってるんですよ、お父さんから困ったことがあれば頼りなさいって言われてることぐらい!」
誰だ、余計なこと教えた奴。平塚先生は…ないな。妹の小町…うん、アイツに違いない。
「…わかったよ」
いきなり父親の方はハードル高いから雪ノ下に連絡入れよう。…あれ、急に胃が痛くなってきた。受話器から殺されたりしないだろうか。
「それじゃ、私そろそろ行きますね。予定時刻が近いですし」
会計を済ませ、店から出る。小さめのスーツケースを引きずりながらセミロングの髪を揺らすその後ろ姿を、ボゥと見ながら気づけば外は暗くなり始めていた。見慣れたはずの一色に違和感を感じる。少女から、大人の美女に変化しかけてる成長という名の違和感。
普段、毎朝鏡を見つめる自分にはその様子が見られないのに、彼女にはそれがある。俺は、やはり変わることがないのだと実感した。変わらないことを望んだのは他でもない俺自身だというのに。
「ねぇ、先輩?」
「なんだ」
「本当に、それだけだと思いますか」
あの、なんで主語述語をちゃんと使ってくれないの? 口下手な俺が思うのもあれだが、せめて会話のキャッチボールはしようね。
「…One more」
ちょっとむくれた顔で此方に振り替える。夕陽により、その頬が僅かに赤みを帯びているように見えた。
「わざわざ依頼のためだけに此所に来たと思いますか」
「……」
口元に柔らかな孤を描いて短絡ながらも、先程より明確に答える。目が笑っていなかった。
「お金はたいて、わざわざ遠くに、泊まり込みで、食事も作って、本当に依頼のためだけに来ると思いますか」
一色の問いに答えない。答えられないというより、答えられなかった方が正しいか。偶然にも一色の背景に見慣れたお下げ髪が目に入ったからだ。アイツ、なんでここにいるんだよ。
道端の隅に蹲るように座り込む、九重りん。
「一色、スマン」
「え、ちょっ…先輩!? 何処へ行くんですか!」
あとちょっと続きます。