翌日の放課後、比企谷は雪ノ下と由比ヶ浜に連れられて、いや、連行されて生徒会室に来ていた。
扉が開くと生徒会室にはすでに役員がそろっており、由比ヶ浜に背中を押され中に入ると少し空気に違和感を覚えた。それぞれがいつも通りにふるまっているように見えて、どこか警戒心が表情に見え隠れしていた。
「……ねぇ、ゆきのん」
「……大丈夫よ」
どうやら雪ノ下と由比ヶ浜の二人も気がついたようで、由比ヶ浜は表情を曇らせ雪ノ下の腕を両手で握っていた。生徒会長はそんな三人の様子を見て、ため息をつき『まだまだね』と、自分に向かって言葉をはき出した。
「ごめんなさいね、ちょっとこっちで問題があって」
三人に向かって申し訳なさそうに目を伏せ微笑みかけた。その笑みに雪ノ下と由比ヶ浜は少しホッとしたようで、体から余計な力が抜けたようだった。しかし、比企谷だけは厳しい目をしたまま生徒会長を見据え、視線をコンソールに向かって作業している市原会計に向けた。市原会計はその視線に気が付き、少し振り返って小さく頷いた。
それは、その空気の原因が『エガリテ』でありその先にいる『ブランシュ』が関わっている事を肯定するものだった。その後、二人の方へ視線を向けて約束は必ず守ると無言で言っていた。
比企谷もそれを見て体から余計な力を抜き、役員の様子を盗み見る。生徒会長、市原会計、司波深雪は不安を表情に出してはいなかったが中条書記は明らかにビクビクしていた。…………あ、比企谷がいるせいか。
「そう言えば副会長がいね―けど、どうした?」
「え、あ、ほんとだ。ゆきのん知ってる?」
「いいえ。でも、私達が手伝い始めた時から見なかったはずよ」
三人が首を傾げる中、生徒会長の方も今頃気がついたみたいだった。
「そう言えば最近こないけど、リンちゃん知ってる?」
「ええ、最近生徒会室は女子ばかりになっていますので、居ずらいとのことです」
「……俺も帰っていいか?」
踵を返そうと体を動かそうとすると、
「ダメに決まっているでしょ」
「ダメだよ!」
と、両側から肩に手を置かれた。
「へいへい」
逃げる事を諦め、手を上にあげてその場を移動して手近な椅子に座った。
「んで、なにすればいいんだ?」
「ちょうどよかった! 空き教室の片付けを頼んでいいかな?」
雪ノ下に向けた言葉を生徒会長が拾い、嬉しそうに手を合わせて席から立ち上がり笑顔を向けた。
「あ~分かりました」
「うん、良かった。それじゃあ、リンちゃん“よろしくね”」
「……分かりました」
コンソールでの作業に区切りをつけ、市原会計は立ち上がった。
「では、ついてきてください」
特に比企谷に声をかけることなく、扉を開けてついてくるのを待っていた。ため息を付きながら立ち上がった比企谷は、
「んじゃ、行ってくるわ」
「いってらっしゃ~い」
「せいぜい、こき使われてきなさい」
市原会計の後に続いて生徒会室を出て行った。
いつかのように市原会計の後ろについて歩き、生徒会室から少し離れた場所にある空き教室の鍵を開け二人は中に入った。空き教室には数台の机と椅子が置いてあるだけで、片付けに男手がいるような様子はなかった。
「先に聞いておきます、あなたはどこまで知っているのですか?」
後ろ手に扉を閉めた後、比企谷を見据えながら有無を言わせぬ口調で投げかける。
「主語をちゃんと言ってもらわないと分かりませんよ」
「…………」
などと比企谷は嘯くが、そんな比企谷に厳しい視線を送り続けていた。そんな市原会計に折れたのか、比企谷が先に口を開いた。
「はぁ、一応言っておきますけど、『エガリテ』だったり『ブランシュ』の事は多少は知っていますよ」
それは比企谷に協力を仰いだ時、リストバンドの事をわざとらしく口にした事から、うすうす感づいていた。
「あとは、そうですね。非魔法競技系クラブのほとんどと、二科生の幾人かがエガリテのメンバーだと言う事。くらいですかね」
特に知っている事はないと言わんばかりに、わざとらしく肩をすくめて見せた。しかし、それでも市原会計は比企谷から射抜くような視線を外そうとはしなかった。
「本当に、それだけですか?」
「……ええ、俺が今知っている事はこれくらいですよ」
明らかにそれ以上の事を知っている雰囲気をにおわしているが、その表情から決して話さないことはよく分かった。
「そうですか、分かりました。しかし、何かあればいつでも言ってください」
話は終わったと、踵を返して空き教室から出ようとしている市原会計の背中にむかって、
「司甲。以前連絡した剣道部主将司甲から、目を離さない方がいいですよ」
「それは、なぜ」
「さぁ、俺の言葉を信じるかどうかは先輩次第ですよ」
教室の暗さと相まって、妖しく不敵に笑う姿は市原会計でさえ恐怖を感じた。
「ああ、そうだ。もし、何かあると分かる時は俺にCADの所持を許可してもらえませんか?」
「……それは、私の一存では」
「有事の際、戦力は多い方がいいと思いますけどね」
「……いいでしょう、私がなんとかします」
それは、これから何かが起こる事を、戦力が必要な事を確信してた。
新入部員勧誘(争奪?)週間の終了で、入学関係のイベントは一段落。
比企谷たちのクラスでも、いよいよ魔法実習が本格化した。
本格的な魔法の専門教育は高校課程からだが、入閣試験に魔法実技が含まれていることからも分かる通り、生徒達は入学時点である程度の基礎的な魔法スキルを身につけている。
授業もそれを踏まえて行われるから、いくらか基礎から体系的に教え直すといっても、実技が苦手な生徒は入学早々ついて行けなくなってしまうということも起こる。
一科、二科の区分けは、ある側面から見れば、この格差を考慮して双方に悪影響が出ないようにする合理的なものだった。―――それが、一方の切り捨てであったとしても。
「960ms(ミリ秒)クリアだな」
今日の実技は、基礎単一系魔法の魔法式を制限時間内にコンパイルして発動する、という課題を、二人一組になってクリアするのがその内容だ。
起動式を読み込み、それを元にして、魔法師の無意識領域内に在る魔法演算領域で魔法式を構築して、発動する。
これが現代魔法のシステム。
起動式を魔法式に変換するプロセスを、情報工学の用語を流用して「コンパイル」と呼んでいる。コンパイルの確率で正確性・安全性・多様性を実現可能にしたのだが、その代償として念じただけで事象を改変する、「超能力」の持っていた速度を犠牲にした。
魔法式の構築という余分な工程を介在させる以上、これはもう、どうしようもない事だ。
しかし、魔法式の構築時間をゼロにすることはできないが、限りなくゼロに近づけることはできる。
現代魔法が魔法式構築の速度を重視するのは、このような背景による。
今回の実技は、ペアの一方がクリアできないともう一方も自動的に居残りとなる。
「吉田、開いたぞ」
「……ああ、分かった」
比企谷とペアになっているのは吉田幹比古、古式魔法の名門である吉田家の直系である。少し前までは神童と呼ばれるほどの腕前だったが、事故により魔法力を失った、らしい。
「875ms、クリアだよ」
二人とも一発クリアだったので、今日の課題は終わったことになった。
「えっと、比企谷だっけ。僕を呼ぶ時は、幹比古と呼んでくれないか。名字で呼ばれるのは好きじゃない」
「断る。下の名前で呼ぶのは友達みたいだろうが」
いつものように、いつもと同じく断った。
「どうしても?」
「どうしてもだ」
吉田はそれ以上、なにも言うことはなかった。
「九四〇ms。達也さん、クリアです!」
「やれやれ……三回目でようやくクリアか」
少し離れた場所から、そんな声が聞こえてきた。
盗み見るように目を向けると、司波達也と柴田のペアもようやくクリアしたのか柴田が喜んでいた。
見ていた限り司波達也はクリアまで三回ほどかかり、その事からやはり実技は苦手だと再認識した。
「実践を想定するなら、達也さん、本当はもっと速く発動できるんでしょう?」
「……何故そう思う?」
「一旦構築しかけていた魔法式を破棄してましたよね? 最初の私技の時、起動式の読み込みと魔法式の構築が並行していて。だから、達也さんって、この程度の魔法なら起動式なしで直接魔法式を構築できるんじゃないかって」
聞き流そうとしていた柴田の言葉で、比企谷はその場で目を見開き硬直してしまった。起動式を使わずに、つまりCADを使わずに魔法を行使する。知っている限り、その技術は秘匿するべき技術である。それを見抜く柴田の目の脅威、柴田の持っている霊子放射光過敏症の力。本当に注意すべきは柴田なのかもしれない、と心に刻んだ。
だが、司波達也はフラッシュ・キャストが使える事は分かった。それは大きな情報であり、対策を立てる事ができる。
司波達也が一通りごまかした後、ふと気がついたように柴田に質問していた。
「……一つ聞きたいんだが、比企谷はどう見えた?」
「比企谷くん、ですか? そうですね、見えませんでした」
「見えなかった? それはどういう意味だ?」
「えっと、確かに魔法は発動してたんですが、霊子が見えなかったんです。例えるなら、無色透明なんでしょうか?」
本人もよくわかっていないようで要領を得ない答えを返す。司波達也はその言葉の意味を考え、いくつかの可能性を思い出したのかこっちもこっちで目を見開いていた。本当に厄介だと、比企谷は舌打ちを打った。
そして昼休み。
司波達也は千葉と西条に懇願されて、居残りをしていた。
比企谷は昼食を取るため実習室を後にする時、横目でその光景を見ていた。昼食がかかっているのだ、かなり必死で二人は懇願していた。
いつも通り二人と待ち合わせしている食堂に向かうと、司波深雪を中心に光井と北山、その三人と一緒に雪ノ下と由比ヶ浜がちょうど食堂に入ってきた。
「ああ、居たわ。比企谷君、こっちよ」
雪ノ下の方も比企谷に気が付き、声をかけた。比企谷の方は最初から気がついていたが、どうしてもその集団に入りたくはなかった。気がつかないふりをして、その場から逃走したい気持ちでいっぱいなのだが、それをすればさすがに後が怖い。
「雪ノ下、一人で食って来ていいか」
「ダメよ」
「ダメだよ」
その後、MAXコーヒー以外の味が分からないほど注目され比企谷は昼食を取る事となった。
少し早めに昼食を食べおわり、引きずられながら購買に寄っていくつかサンドイッチを購入し、どうも実習室に移動しているようだった。おそらく、司波達也に言われ西条や千葉の昼食用に買っているのだろう。
「お兄様、お邪魔してもよろしいですか……?」
司波達也は声で自分の妹だと、振り返らずとも分かっていた。そんななか、千葉は足音が司波深雪一人分だけじゃない事に気がついて振り返っていた。
「深雪、……と、光井さんに北山さん。あと、雪ノ下さんに結衣、どうしたの?」
「エリカ、気を逸らすな。
すまん、深雪。次で終わりだから、少し待ってくれ」
「つっ、次!?」
西条と千葉は司波達也の言葉に顔をひきつらせ、慌ててCADのパネルに向かった。
「もう失敗できないぜ!!」
「ようやく終わった~」
千葉の歓声が、課題終了を告げる鐘の音となった。
司波深雪を先頭に、入口のあたりに立っていた全員が司波達也達に近づいていった。
「二人とも、お疲れ様。
お兄様、ご注文はこれでよろしいですか?」
「深雪、ご苦労様」
司波深雪は購入してきたサンドイッチが入っている袋を渡し、その袋を西条達にかかげて見せた。
「ほらみんな、ここで昼食にしよう。食堂で食べていたら午後の授業に間に合わなくなるかもしれないからな」
「ありがと~。もうお腹がペコペコだったのよ!」
「達也、お前って最高だぜ!」
現金な友人達に苦笑を浮かべながら、司波達也は近くの椅子に腰を下ろし、柴田にも遠慮しないよう声をかけた。
和気藹々と、テーブル……は無いから適当に椅子を寄せて、遅い昼食を摂り始める司波達也たち居残り組一同。
司波深雪たち差し入れ組も、飲み物だけ持って、その輪に加わった。ちなみに、比企谷の飲み物は……言うまでもないか。
「深雪さんたちは、もう済まされたんですか?」
「ええ。お兄様に、先に食べているように言われたから」
気を遣ったのであろう柴田の問い掛けに司波深雪がそう答えを返すと、
「へぇ、ちょっと意外。深雪なら『お兄様より先に箸をつけることなどできません』とか言うと思ったのに」
ニコニコ、と言うより、ニヤニヤと笑いながら千葉が茶々を入れた。
「あら、よく分かるわね、エリカ。
いつもならもちろん、そのとおりなのだけど、今日はお兄様のご命令だったから。
わたしの勝手な遠慮で、お兄様のお言葉に背くことはできないわ」
「……いつもなら、そうなんだ……」
「ええ」
「……もちろん、なのね……」
「ええ、そうよ?」
笑顔が引き攣り気味になっている千葉に、司波深雪は真顔で小首を傾げる。
妙な重量感を増して行く空気を振り払うように、柴田が不自然にトーンの高い声を発した。
「深雪さんたちのクラスでも実習が始まっているんですよね? どんなことをやっているんですか?」
「多分、美月たちと変わらないと思うわ。ノロマな機械をあてがわれて、テスト以外では役に立ちそうもないつまらない練習をさせられているところ。あれくらいの事を、手取り足取り教えられても……」
司波達也と比企谷を除いた全員が、ギョッとした表情を浮かべた。
淑女を絵に描いたような外見にそぐわない、遠慮のない毒舌に。
「ご機嫌斜めだな」
「不機嫌にもなります。あれなら一人で練習している方が為になりますもの」
笑いながら、からかい気味に掛けられた兄の言葉に、拗ねた顔と声で、それも少し甘えていることが第三者にも分かる態度で司波深雪は答えた。
「でも、見込みのある生徒に手を割くのは当然よね。ウチの剣術道場でも見込みのない奴は放っておくから」
「千葉さんは…当然と思っているの?」
そこへ、おずおずと口を挿んだのは、北山だった。
「私のことはエリカでいいよ。えっとそれで、一科生には指導教官がついて、二科生にはつかないこと? そうよ」
一旦間をおいて自分に集中する全員を見渡す。
「例えばウチの道場ではでは入門して最低でも半年は技を教えないの。最初は足運びと素振りを教えるだけ、刀を振るって動作に身体が慣れないとどんな技を教わっても身につくはずないからね、後のやり方は見て覚えるの。教えてくれるのを待っているようじゃ論外なのよ」
「……ごもっともだけど、俺もお前もついさっきまで達也に教えてもらってたんだぜ?」
「あ痛っ!!
それを言われると辛いなぁ」
ふと、千葉は何かを思いついたように司波深雪に顔を向けた。
「……そう言えば深雪たちA組にあたしたちと同じCAD使ってるんでしょ?」
「ええ」
「ねぇ、参考までにどのくらいのタイムかやってみてくれない?」
「えっ、わたしが?」
自分を指差し、目を丸くする司波深雪に、千葉はわざとらしく、大きく、頷いた。
「いいんじゃないか」
苦笑いを浮かべながら頷く兄を見て、
「お兄様がそう仰るのでしたら……」
躊躇いながらも、司波深雪は承諾の応えを返した。
機械の一番近くに居た柴田が、計測器をセットする。
司波深雪はピアノを弾くときの様に、パネルに指を置いた。
計測、開始。
余剰想子光が閃き、
「……235ms……」
「えっ……?」
「すげ……」
「さすがね」
それぞれがそれぞれの反応を示していた。
「何回見てもすごい数値……」
ため息を漏らすのは、A組の生徒も同じだった。
ただ、その兄と比企谷だけは驚いていない。
そして本人は、不満そうに眉を顰めている。
「旧式の教育用ではこんなものだ ろう。仕方がないよ、深雪」
「やはり、お兄様に調整していただいたCADでないと深雪の実力は出せません」
「そう言うな。もう少しまともなソフトに入れ替えてもらえるように、その内、会長か委員長から学校側に掛けあってもらうから」
その光景をみても、いつものように、当てられることは無かった。
目の前で見せられた実力と、兄妹の間で交わされた会話。
この格差を前にすれば、嫉妬と言う感情自体が、バカバカしいものだった。