読者の皆さんは風邪などひかない様に、注意してください。
少しだけ水を出して、食器を洗う。
音は小さく、だけれども静かに綺麗に。
部屋を掃除する。ここでも静かに丁寧に。
怒りの琴線に触れない様に。
自分を言う存在を薄く、薄く伸ばして誰も気にしない様に――
私は小石。誰からも見向きもされない小さな小石。
ただそこに有るだけ、だけど少しだけ役に立ちたいから。
思い出だけを糧にして、今日も私は――
「夕日ー、ごはん作るわよ?手伝ってー?」
夕日の母親がにこやかに、声をかける。
どこかに出かける日も多いが余裕のある日は二人で夕食を作る。
「カレーを作るわ。あなた好きでしょ?」
母親が近所のスーパーの袋からカレールーを取り出す。
甘口のリンゴと蜂蜜の入ったお子様向けのやつだ。
「……うん」
本当はそれは好きじゃない。甘すぎてピリリとしない。
ハイネが言っていた『カレーは刺激物だ!!辛くねーカレーは良くわからんドロドロした液体だ!!』その意見についてはおおむね賛成できる。……ハイネは度が過ぎてる気がするけど。
だが、そんなことは言ってはいけない。
母親の怒りの琴線に触れてはいけないのだ。
「私はジャガイモをむくからあなたは、ニンジンをお願いね?」
そして渡されるピーラーとニンジン。
手早く皮をむいた夕日は母親に、ピーラーを返す。
「……はい……お母さん……ジャガイモの芽は……ピーラーを……」
しまった。そんな声が聞こえそうになった。
ダンッ!!
すさまじい音がして、包丁がまな板にたたきつけられた!!
母親の顔を見るのが恐ろしくなって、夕日は小さく身を縮こませる。
「なによ――あんた、いっちょ前に私に指図するつもり!?」
「ちが――」
何かを言う前に、夕日の胸倉が捕まれ母親の目前まで引きずられてくる。
圧迫される首に酸素がまわらず、小さく息が抜けた。
「全部あんたのせいよ!!こんな暮らしをしてるのも!!私が一人で大変なのも!!
全部全部あんたが生まれたせいよ!!
なによ!!母親の失敗を指摘して楽しいの!?お母さんバカにして楽しいの!?」
すさまじい力で夕日が何度もゆすられる!!
何度も言葉を発しようとするが、そのたびに前後に揺れる振動で言葉が紡げなくなる。
数舜の後、ハッとして母親が夕日を離す。
母親の怒りの時間が終わったのだ。
「夕日!!ごめんね?お母さんついカッとなったの!!許して!!あなたの事は愛してるわ!!ほんとうよ?だってたった二人の家族だものね?」
ごめんごめんと何度も謝り、夕日の頭を優しくなでる。
夕日とこの家に帰って来たから、このようなやり取りはもう何度も行われている。
ストレスか、余裕がないのか、小さなことで突如キレる母親。
しかしそれも一瞬。すぐに正気を取り戻し夕日に許しを請う。
怒り狂う母は嫌いだが、夕日はこの不安そうで必死に夕日に縋りつく姿をみると、突き放すことが出来なくなってしまうのだ。
(お母さんは病み上がりだから、今はきっと不安なだけだから、私がいないとつぶれちゃうから……)
何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も何度も……
夕日は自分にそう言い聞かせる。
実際に母親は穏やかな時には、優しく理想的な母親だ。
そのことを加味するとやはり夕日は母から離れることが出来なかった。
月ののぼる夜
ガチャ――ギィィィィィィィィ……バタン。
錆びた音がして、アパートのドアが開かれる。
母親が出かけて行ったのだ。
何処に行ってるのかは知らない、夕日が眠っている間にいつの間にか帰ってきており、酒臭い息を朝になると向けてくるのだ。
(きっと、お母さんにもイロイロある……)
暗い部屋の中、時計を見るともう深夜の一時近くになる。
引っ越しのドタバタと、幻原家との関係等があり次の学校の事などがまだ決まっていない。
ゆっくりと、ゆっくりと確実に天峰たちとの『日常』は『過去』へと色あせていく。
「……みんな……元気かな?」
思わず携帯電話を取り、電話帳を開く。
少し前までは持ってすらいなかった道具だ。
今はそこに、大切な人たちの名前が羅列されている。
「……まだ……つながって……いる……から……
私は……大丈夫……」
「大丈夫……大丈夫だから……きっと……きっと――」
何度も同じ言葉を繰り返す。その言葉がそういう魔法の呪文であるかのように。
ブゥゥン!!ブゥゥン!!
「――ッ!?なに!?」
突如震える携帯電話、一瞬遅れて夕日は電話が掛かってきたのだと理解した。
「……もしもし……」
『あわわ……まさか出るとは!!』
電話の相手は、どこか軽い口調で話してくる。
夕日はこの声に聞き覚えがあった。
「……玖杜……どうしたの?」
『おおっと、いきなしバレるとは……』
相手は夕日の友人、野原 玖杜だった。
さっきも言うように時間はもう深夜の一時近く、中学生の玖杜が電話してくるには少しばかり異常な時間だ。
『いやー、ごめん……ヒッキー時代の昼夜逆転生活が完全に抜けてなくて……
あ、ガッコはちゃんと行ってるよ?たま~に寝ちゃって、センセーに激怒されるけど……
ああ、そうだった。ま、たまにこの時間起きてるんだけどさ?なんかさみしくなって、携帯で夕日ちゃんの電話番号とか見てたのよ』
「あ……」
今まさに自分がしていた事。それに気が付いた夕日は目を丸くした。
そして玖杜の言葉が再び紡がれる。
『んまぁ、間違ってかけた的な。ワンギリするつもりだった的な……?
ちょっと話そうゼ?……いやならいいけど……』
「別に……かまわない……」
『サンキュ、どう?そっちの生活?もう慣れたん?』
「……えっと――」
夕日は言葉に困った。正直言ってこちらの暮らしはまだ慣れない。
いつ怒り出すかわからない母との生活はストレスも有るし、解決すべき問題も多くある。
しかし――
「大丈夫……もう……慣れた……」
一瞬考えて夕日は嘘を吐いた。
きっと相手を心配させてしまう、母親にも迷惑が掛かるの2点だった。
どうあがいても、母のためにも問題のない生活をしていると思わせなければならない!!
半場脅迫観念めいた感情と共に取り繕った。
『そっか……そうだよね……』
その後も取り留めない会話が続いた。
夕日は自分がこんなにもおしゃべりだとは思っていなかった。
それくらい次から次へと、言葉が出てきた。
『ふぅ、ありがと……そろそろ寝るわ。
明日もガッコだしね』
「……うん……お休み……」
『ねぇ、夕日ちゃん。なんか有ったら、助けてって言いなよ?私たちさ、友達なんだし……
ん、んじゃ、ジャーね!!』
最後の部分はまくし立てる様に話て、玖杜は電話を切った。
「お休み……玖杜……」
通話の切れた電話を折りたたむと再び大切に抱きかかえて眠った。
翌日
「ねぇ、夕日。今度のお休み何処かへ出かけない?」
昼食を食べながら、母親が夕日にそう尋ねる。
昨日の一件のせいか、それとも自分の心がそう言わせるのか。
「幻原のお家へ行きたい」
ほぼ無意識のその言葉が出た。
それと同時、母親の目が今まで見たことのない位鋭く吊り上がった!
「なんで?なんでそんな事言うの!?
夕日は私の事が嫌いなの?」
怒りに震える声を漏らしながら、母親が近づく。
「違う……お世話になったから……お礼を――」
「うるさいわ!!何が『お世話になった』よ!!
私なんてあなたが生まれて以来ずっと世話してるでしょ!?
それが何!?半年世話になったか成らないかの家にどうしてそこまでするのよ!!」
夕日をつかんでガクガクと揺らす!!
「時間は……関係ない!!天峰には……たくさん、助けてもらった!!
また、二人で話したいから!!」
夕日が反論して、母親が驚いて手を離す。
「夕日!!あなた!!何よその態度は!!
タカミネ!?一体どこのガキよ!?あの家族の男ね!!
ガキが色好きやがって!!ふざけんじゃないわよ!!」
母親が夕日を蹴り飛ばす!!
壁に当たった夕日になおも、母親の怒りはとどまりはしない!!
「大体ね、あんたが生まれたから私は不幸に成ったの!!」
その言葉を聞いた瞬間、夕日の中の時間がとまる。
『もう聞きたくない』必死になって願うが、その願いは届かない。
「あんたの役目は『あの人』を私につなぎ留めるための
もういやだ。聞きたくない。
「あの人を愛してた、あの人を私のものにする為にあなたを生んだのに!!これじゃ意味ないじゃない!!」
お願い、やめて。
「生むだけ無駄だったわ!!あなたは生まれるべきじゃなかった!!
コブ持ちのせいで再婚すらできない!!
私はまだ、恋愛を楽しみたいのに!!
あなたのせいよ!!あなたのせいで私は不幸に成ったのよ!!」
「今すぐ、口を閉じろ!!」
怒り狂い、スカートのカッターナイフに手を伸ばす夕日!!
実の母親だという事も忘れて、カッターの刃を滑られる!!
光り輝く刃を見て、母親が小さく息を飲んだ。
殺す!殺す!!殺す!!!殺す!!!!殺す!!!!!
殺意が加速度的に爆発して、自身の腕を振りあげる!!
憎き母親に自身の凶器/狂気を振り下ろす!!
~夕日ちゃん!こんな事されたら辛いだろ!!痛いだろ!!夕日ちゃんはその事を誰より知っているじゃないか!!~
何処かの、大切な人の声が聞こえた気がして、夕日はその手を止めた。
「ハァッ、ハァッ、ハァッ……」
必死になって、手を止める夕日。
そう、もう間違ってはいけない。怒りに怒りで返してはいけない。
母親の前でその手は止まっていた。
取り返しのつかないことは免れたのだ。
「よか――」
「この!!ゴミがぁ!!」
安堵した夕日の腹を母親が蹴り上げた!!
夕日の落としたカッターを手にして、こちらに向けてくる。
「あ、あああ、あんた!!母親に向かってなんてことをするのよ!!
出来損ない出来損ない!!あんたはやっぱり生きる価値もない出来損ないよ!!」
「お母さん……ごめんなさい……」
「お母さんなんて呼ぶな!!私からこんなモノが出てきたなんて考えるだけでもおぞましいわ!!こッんな!!!ゴミが!!私の娘な訳ない!!」
怒りに狂った母親は夕日の顔面めがけて奪ったカッターを投げつけた!!
「ッ!」
こンッ……
鈍い音がして、顔に当たったカッターが地面に落ちる。
カッターは運良く持ち手の部分が、夕日の右目の義眼に当たった。
顔の当たる位置がずれても、カッターの当たった位置がほんの少しずれても大惨事だった。
「あ……」
怒りが収まったのか、呆然とした顔で夕日を母親が見る。
「お、お母さんは出かけるから、お留守番してなさい!!」
まるで夕日から逃げるかのように、母親が出かけて行った。
その場に残ったのは、夕日一人。
さっきまでの事が、時間を置いてじくじくと心に沁みついてきた。
「…………」
何も言えない。何も考えない。何もしたくない。
呆然としながら、床に落ちたカッターを拾った。
「……天峰……」
小さくその人の名を呼ぶ。
「呼んだ?」
アパートの扉が開いて、大切な人が顔をのぞかせた。
「え?」
「やぁ、夕日ちゃん。遊びに来たよ」
天峰がいつもと同じ様に笑った。
ハイレベル親子喧嘩。
まぁ、一生に一度はこれくらいの修羅場ってありますよね。