桔梗の娘   作:猪飼部

3 / 26
第三回 巴郡人士

「どうしました? 慶祝殿」

曹郡丞(そうぐんじょう)殿」

 

 曹謙(そうけん)(*42)。字を和光(わこう)(*43)。正史では板楯蛮の叛乱を治めた巴郡太守であるが、この外史では郡丞として厳顔の補佐を――民政面において絶大なる――務めている。

 彼、曹和光は蕣華が(そして母も御同様だ)頭の上がらない人物筆頭の一人であり、公私両面において様々な相談を受けてくれる、蕣華にとってある意味最も得難い人物だ。

 柔らかな枯葉色の髪を後ろへ撫で付け、高い額に筋の通った鼻、内面の穏やかさを窺わせる弓形の眉、おっとりした眼差しの黒い瞳、丁寧に切り揃えられた口髭、笑みを絶やさぬ薄い唇、一目で誰にでも好印象を与える清潔感を纏った壮年に手が掛かろうかという年代の男性。背丈は魏文長とほぼ変わらない、七尺三寸(約168㎝)程か。しかし線は細く、並んで立てばいかにも頼りなく映るだろうが、最低限の筋肉はしっかりと付いている。

 清廉且つ謹直な名士で、この巴郡で最も柔和な人物と噂されている。正式な官職を得ている訳でもない小娘にも親身に接してくれる見た目通りの好人物であった。

 その曹和光が廊下の向こうから、両手に竹簡の束を捧げ持ちながらやって来た。

 

「厳太守様に不意討ちでも喰らいましたかな?」

「……職務中に親の顔をするのは狡いです」

「このような時に攻めてくる筈がない。その時こそが不意を討つ好機ですからな」

 

 完全に内政の人であるが、こういう時の読みは深い。此方の様子を見ただけでこんな事を言ってくるくらいには。執務室でどんなやり取りがあったか、全て知られてしまっている様な気がするほどだ。無論、そんなことはあり得ないが、その筈だが。まさか義姉の尻を思いっ切り蹴っぱぐったなんて事まで読み解ける筈はない。

 

「ところで文長殿は御一緒ではないのですな」

「ふぇ?!」

「御一緒に報告に上がられたのでしょう?」

「え、ああ、はい」

 

 話しながら曹郡丞がちらりと蕣華の背後、今し方飛び出してきた太守執務室の方へ視線を飛ばすのを見て、

 

「ええっと、あの、それではこれで。負傷者の様子を見に行かなければなりませんので」

 

 思わず即時離脱を選択してしまった。

 

 

 ――――

 

 

 第三回 巴郡人士

 

 

 

「じゃあ、日常生活には支障はないんですか?」

「ああ、短い距離なら走る事もできるようになるだろう。無論、無理は禁物だけどね。あと、重い物を持たせるのは厳禁だ」

「そうですか」

 

 曹郡丞の前からそそくさと辞したその足で軍舎の施療所に顔を出した蕣華は、一通りの治療を終えた張脩と面談していた。死者は出なかったとはいえ、少なくない怪我人を出していた。中でも重傷を負った新兵の経過は、彼の今後の進路を考える上でも重要だった。

 件の新兵は腕と腰、特に腰を強かに打ち据えられ、立つ事はおろか蹲ったまま動く事もままならなかった。診断によれば腰椎を骨折していた。この時代では致命的な負傷だが、張巫医はなんと骨を縫合して治療したというのだ。「鍼灸だけが鍼ではない。傷の縫合出来ずしてゴットヴェイドーは極まらない!」とは張巫医の言だが、心霊医療よりも余程不可思議だと感じるのも致し方ないことだろう。

 だがお蔭で制限があるとはいえ、日常生活には復帰できるのだから有り難いことこの上ない。少なくとも自活できる程度に回復するのであれば、予後の進路も選択肢が広がる。ほっと安堵の溜息が知らずに漏れた。

 そんな蕣華の様子を微笑ましげに見詰める視線に気付く。

 

「なんです? 火鳥兄さん」

「いや、何でもない。それより、俺相手にそんな畏まる事ないよ」

「いえ、まだ職務中ですから」

「蕣華ちゃんはしっかりしてるなぁ」

 

 うんうん、と腕を組んで感心しきりと頷く。ちょっとした事でも感激し、感心し、喜びを露わにする。それが張伯腊(はくろう)(*44)と言う好青年であった。

 

「普通です。普通ですからね、こんな事でいちいち褒めてこないで下さいよ、もぅ」

「ははは、ごめんごめん」

 

 恥ずかし気にほんのり頬を赤くする少女に笑顔で応じる青年。蕣華はいつもこの青年の前では必要以上に自分が子供になったような気になる。その為、意識して態度を堅く保とうとしていたのだが、伯腊の発散する空気の前では無駄な努力だった。それでも、小さな咳払いでもう一度意識を取り直す。

 

「それで、面会は可能ですか?」

「今はまだ鍼麻酔の効果が抜けきっていないから、ちょっと難しいかな。これには個人差があるから何時ならとははっきり言えないけど、それでも明日には抜けきっていると思うよ」

「そうですか、では後日の方がいいですね」

 

 後にこの新兵は将軍府で事務仕事を担当する吏卒(*45)として再出発する事となった。

 

 

 ――――

 

 

 軽傷者への見舞いと、細々とした雑務を済ませ軍舎を出た蕣華は、そのまま裏手にある練兵場へと足を運んだ。軍舎の窓から見知った顔が調練に精を出しているのが見えたのだ。

 果たしてそこには二頭の立派な德國(とくこく)狼狗(ろうく)(*46)剣司(けんし)秤司(しょうし)を従えた若き部督郵(ぶとくゆう)(*47)が居た。

 

 董幼宰(とうようさい)は巴郡官吏の若手の中でも逸群の士として名を馳せている。荊州南郡(なんぐん)枝江県(しこうけん)の人であるが、近年の政情不安、治安の悪化から益州へと逃れてきた一人だ。

 劉益州牧の移住政策に乗って南郡董氏は一族揃って避難してきたが、蜀郡へとは渡らずにここ巴郡に落ち着いた。理由の一つとして、先祖が巴郡江州県の人であったかららしい。

 しかし、幼くして名が知られていた幼宰が仕官を求めて劉君郎の元へ行かなかったのは、一族の者に合わせて一時滞在していたこの巴郡を見定めての事だった。

 厳太守の治定(じてい)に感銘を受けて仕官した少女は、見る見るうちに頭角を現した。異例の速さで督郵にまで上り、そこでも確かな能力を示した。誰に対しても公正で、法を汚せば豪族であろうと容赦せず、善良な郡民であれば賤民であろうと侮らず。また、異民族ともよく協調し、属県巡行への随行兵も板楯兵をと願い出た。そんな彼女の道中は非常に穏やかなものとなった。

 今では忙しく管轄の郡東部を巡視する日々を送っている。と言っても、年がら年中郡内を駆け回っている訳ではなく、普段は郡治で過ごしている。そして、時折こうして体を鍛えるため軍にも顔を出していた。

  

 きつめの三つ編みで一つにまとめられた肩甲骨の辺りまで伸びた鮮やかな橙色の髪、髪よりも色濃い瞳を持つ切れ長の鋭い眼、色素の薄い肌、年少の蕣華より低く六尺七寸(約154㎝)しかなく、なにより全体的に細く薄い肢体はおよそ武に生きる者の肉体ではない。それでも日々の弛まぬ鍛錬によって、そこらのならず者などは一刀の元に切り伏せるだけの力量は得ていた。

 今も鍛錬に訪れ、一心に剣を振るっている。その剣は彼女の実直さを示すように素直な、それでいて鋭い軌跡を描く。丹念に磨き上げた武には人柄がよく顕われるという。成る程、彼女の振るう剣には董幼宰が良く顕われている。

 いや、剣だけではない。彼女の厳格さは常の立ち居振る舞いから職務に臨む態度まで、全てに顕われている。それを若さからくる逸り、稚気に煽られた熱気と軽んじる者もいる。そいつらは解っていない、と蕣華は述懐した。董幼宰の事を全く解っていない。大した信念も持っていない癖に他人の信条を考えもなしに軽く見下げる様な愚者共などが実際に彼女と対峙すれば、その錬鉄の意志を前にすれば、赤熱する鋼を眼前に突き出された人のように後退るだろう。

 

 真名はその人の本質を表す最も神聖な名だという。

 巴郡督郵董和(とうわ)(*48)。字を幼宰(ようさい)。真名を、(はがね)

 彼女ほど己の真名を体現している人物を蕣華は知らない。

 

「精が出るね、鋼」

「蕣華か、急に声を掛けるな。驚くだろう」

「それならそれっぽい反応して」

「む……」

 

 趙伯腊とは違って気軽い感じで声を掛けた。群府幹部最年少の幼宰とは年も近く、すぐに気安い仲となっていた。背後からこっそり、という訳でもなかったのだが、よほど集中していたのだろう。軽く文句を言われてしまったが、同じく軽く受け流す。

 鉄面皮、という程ではないのだが、こういう時、董幼宰は反射的に内面の動揺を外に出さないよう硬い反応を示す癖がついていた。それを知る蕣華の軽口であった。

 

「剣司、秤司、元気か?」

 

 蕣華のそんな軽口に小さく唸る幼宰を放って置いて、その飼い犬に優しく声を掛ける。中腰になり両手を広げ、受け入れ態勢を万全に整える。微動だにしない犬二頭。飼い主に目配せを送る少女。真剣に、必死に、真摯に、目で訴える。

 呆れるほど真剣な視線を送られた督郵殿は、そんな蕣華を若干冷たく眇めつつ、ふぅ、と嘆息一つ、「よし」と愛犬に許可を出す。と、主から許しを得た二頭は弾かれたように蕣華に突進した。

 

「好し好し好し好し、愛い奴等め。ははは」

 

 相好を崩し、埋もれるように二頭に挟まれる形で抱きしめ、存分にそのふかふかの毛皮を堪能する。通常、剛毛気味な狼狗(シェパード)だが、今は冬毛だ。ふかふかである。もっふもふである。濃密な毛皮を誇る犬種だけに、蕣華の幸福指数も鰻上りだ。

 主人に非常に忠実で警戒心の高い彼等に、ここまで心を許してもらうまでには長く険しい道程があった。己の初陣を回顧するよりもよほど長大な物語となるであろう交流の歴史は割愛するとして、この時代に漢犬以外の、それこそ世界中の様々な犬種と触れ合える機会のある外史の幸運を想った。跋扈将軍(*49)唯一の功績を想った。

 

 今の世にあっても些かも減じる事無く悪名を轟かす梁冀(りょうき)(*50)の趣味の一つに競犬というものがあった。要するに犬に競争させる娯楽(当然の様に賭博を伴う)なのだが、これに嵌っていたかの跋扈将軍が、その権勢に飽かせて文字通り世界中から犬を掻き集めたのだ。それによって絲綢之路(しちゅうのみち)(*51)を辿って実に多くの犬が移入される事となった。一部の文化・文明面の時代の進みが早いのは何も中華大陸に限った事ではなかったらしく、時代にそぐわぬ新しい犬種も普通に渡来した。

 お蔭で今こうして剣司と秤司を愛でられるのだ。控え目に言って最悪の屑であった梁冀をほんの少しだけ許してやろうと寛大な心持ちになれた。何様であろうか、そんな益体もない事を思いながら二頭を愛でる蕣華を、やや呆れた表情で眺める友人に気付き、咳払いをして表情を引き締めた。二頭を撫で摩るのは止めなかった。

 

「いや、いい加減離れないか」

「暖かいんだもん」

「……もん? いや、いい。 人の犬で暖を取るくらいならもっと厚着しろ。常々思っていたのだが、見ている此方が寒い」

「別に寒い訳じゃないんだけど。冷えてきたらちゃんと着込むよ、偶に雪が降る時は外套羽織るし」

「……前に降雪があった時は南蛮辛子(*52)を齧れば平気だ。と言って実際それで済ませていたな」

 

 益州、特に広大な盆地に位置する巴蜀の地は温暖な土地柄だ。季夏(六月)から孟秋(七月)にかけては南蛮かと思う程気温の高まる日もあり、雨量も一年で最も多い時期故に湿気も高く過ごしにくい。また、巴蜀を囲む山脈群が寒気を遮る為に冬になってもそれほど気温も下がらず、朝方にも桶の水が凍り付かない日もそれほど珍しくない。

 とは言え、蕣華の服装はこの地にあってもかなりの薄着ではあった。鍛錬で汗をかく為にいつもより薄着でいる幼宰よりもなお薄着であった。

 

「ほ、北方に行ったら流石に厚着するから」

 

 その言葉に、幼宰が片眉を上げて驚いて見せた。その理由が判らず、はて、なんだろう? と思っていると幼宰の口から最近になって――実際、初陣以来この話は度々話題に上ったが最近は頓に、だ――蕣華の周囲を賑わす話題がついて出た。

 

「ようやく仕官を決めたのか?」

「ああ、いやそうじゃないよ。ものの例えで……」

「なんだ」

 

 幼宰はこの年下の傑物の去就を普段から気にかけていた。

 今や中央は豺狼当道(さいろうとうどう)(*53)の有り様。いや、もう随分と前からか、それこそ自分達が生まれるずっと前からそうだ。もはや限界なのだ。今以って後漢が存続しているのがいっそ不思議なくらいだ。このような憂いを持つ者は多い。自分も勿論そうだし、巴郡に来て得た目の前の友人もそうだと確信していた。

 だからこそ、蕣華がいつまでも進路を決めない事に気を揉んでいた。

 

「でも、本当に北方、に限らないけど此処を出ていくかも」

「うん? 遊侠(*54)にでもなるのか?」

「放浪すれば必ずしも遊侠って訳でもないと思うけど、まぁ、世間的に見ればそうなるのかな?」

「目的は仕官先探しか? やはり蕣華も中央に依らず、か」

「というよりは、本格的に乱世が到来する前に大陸を見て回りたいっていうのが大きいかな」

 

 乱世、と言う言葉に幼宰は大きく反応した。見た目では判らなかったが。

 

「確定的に言うのだな」

「ん」

閬中県(ろうちゅうけん)に居るという図讖術(としんじゅつ)(*55)を得意とする友人か?」

「秋に会いに行った時にね」

 

 かつて、母が軍に復帰したばかりの頃、一時期だけ閬中県に預けられた事があった。蕣華はその時、二人の友を得た。それまで、同年代に友と呼べるほどの関係を結んだ相手の居なかった蕣華にとって、とても大切な二人だ。家族以外で初めて真名を預けた二人。その内の一人は幼い頃から図讖の天才と評されていた。

 

 そういえば、あの時以来だな。と心の中で独り言ちる。あの秋の夜から再び、再び真・恋姫無双に関する記憶とも知識ともつかぬ靄が思考に浮上するようになった。二度目の契機だ。一度目は迂遠な所から記憶を攻めてきた。二度目は、友の口から語られた二度目は、より直截な部分を投げつけられた。真・恋姫無双の核。

 もはや確かめずには居れない。

 

「そうか、乱世か。いよいよもって益州も騒がしくなるだろうな」

「そうなる前には帰ってくるよ」

「いつ出るんだ?」

「春になったら、かな。孟春(一月)だとまだ寒いから仲春(二月)になったら」

「年中、同じ格好している奴が言ってもな」

「そこに話し戻さないでよ!?」

 

 一瞬の間を空けて、二人で向かい合って笑った。年相応の二人分の子供の声が軍舎裏に響く。幼宰は特にだが、蕣華もこのような姿をあまり他者に見せなかった。だが、二人が揃えばなんとなしに笑いが漏れる。大して愉快な事でなくとも二人は良く笑い合った。蕣華が益州を出るなら、こうして笑い合う時間も貴重なものとなるだろう。暫しの別れだ。だが、今生の別れになるかも知れない。こんな世だ。おまけにこれから更に酷くなる世だ。一寸先に何があるかなど誰にも解からない。決まりきった筋道などないのだ。だから二人は笑った。いつものように笑い、いつもよりも笑い合った。

 

「さて、そろそろお暇しようか」

 

 一頻り笑い合った後、幼宰が愛犬達を見ながら切り出した。見れば二頭とも軍舎のある一点に顔を向けていた。

 

「焔耶殿が先程軍舎に戻って来たのだ。降伏した賊徒共の調教があるだろうし、私達が居ては邪魔になろう」

「ああ、うん。そうだね」

 

 具体的には剣司と秤司が、であろう。義姉の犬嫌い(というか苦手なのだが)は一部ではよく知られた事実だった。思えば、この年の近い郡幹部と友誼を結んだ切っ掛けも、それが原因で相談を受けたからだった。

 

「私は文長殿に嫌われているのだろうか?」真顔でそう聞いて来た新任督郵に、

「いえ、犬の所為です」と即答したのを昨日の事の様に思い出して、もう一度小さく笑った。

 

「なんだ? どうした」

「いや、焔耶姐に嫌われているのか不安でおどおどしてた鋼を思い出して」

「……おどおどはしていない」

「でも、結構落ち込んでたよね。あの時は気付かなかったけど」

「訳も分からず嫌われでもすれば私でも傷付く」

「繊細な乙女心がね」

「そうとも」

 

 再び練兵場に暫しの笑い声が響いた。

 

 

 ――――

 

 

 幼宰の着替えを待って軍舎を後にした二人は、歓談しながら城市を軽く見回っていた。二人は良くこうして亭卒(*56)の様な事をしていた。実際にはただ散策しているだけなのだが、この二人は顔も名前も人柄も江州の民に知れ渡っていた。それ故に何かと声を掛けられ、時には厄介事に出くわす事もあり、本職の亭卒にまで頼られる事態まであった。それが重なりいつしか自主的な見回りと認識されるに至った。そして、二人揃ってそれに異議を唱える事もなかった。

 だが今日声を掛けてきたのはそんな厄介事ではなく、よく見知った者の声だった。

 

小令愛(おじょうさま)! 董督郵様!」

 

 蕣華をお嬢様などと呼ぶのは厳家の者だ。そしてこのただ呼び掛けているだけなのに、恫喝めいた響きを滲ませてしまっている声の持ち主と言えば、ただ一人だけだ。

 振り返ればそこに、久方振りに見る趙子鷹の姿があった。

 

「黒水、帰って来てたのか」

「へい、今し方戻って参りやした。御二人とも御元気そうで」

「子鷹殿も壮健そうでなにより」

「頑丈なのが取柄でして」

 

 凡そ五ヵ月振りに江州に姿を現わした部曲長は、現在の肩書を総鏢頭(そうひょうとう)(*57)と言った。

 厳家部曲は現在、鏢局(ひょうきょく)(*58)を営んでいた。

 この時代、運輸業はその規模が非常に大きく隆盛していた。内情の安定している巴郡は必然、商業規模も大きくなっており、各種事業で新規参入を目論む商賈もまた多かった。厳太守が職人を保護し、その流れを活かす為に商業を奨励した事もそれに拍車をかけていた。

 そんな情勢の中、蕣華の発案で厳家部曲は運輸業の新規参入を果たした。実は大規模化していたのは厳家部曲もそうだった。私有地の耕作などもさせていたが、それにも限界がある。とするとあとは調練くらいしかやる事がなかった。

 将軍府の官軍が西方異民族に対していた頃は、郡内の盗賊退治などを代行させたりなどもしたが、劉益州牧の軍が第一陣として戦場に立つようになると、対異民族戦は減り、官軍が盗賊の征伐を行うようになった。そうなると部曲の出番はない。あってはならない。(蕣華の初陣は例外として)

 無駄に遊ばせておくという選択はなかったが、さりとて厳顯義には良い案が無かった。そこで娘に相談してみたところ、鏢局の設立と相成った。

 

 鏢局は商品を商わない商売だ。人や物を目的地まで運ぶ事で金銭を得る。

 道中の安全は保障されていない。十里(約4.14km)(*59)に置かれた亭はあるが、賊への対応は基本事後だ。普段は睨みを利かせているだけ。亭長の威名によって効果がまちまちなのだ。最悪、盗賊と繋がっている事すら有り得る。とても安心できる材料にはならない。

 そこで荒事には一日の長がある部曲が護衛を兼ねて人品を運ぶところに商機があった。既存の商人も子飼いの護衛部隊を持っていたり、信用のおける傭兵団を雇っていたりしていたが、後ろ盾に猛将厳顔が鎮座する新興の鏢局『巴鷹(はよう)鏢局(ひょうきょく)』は瞬く間に益州運輸業界の一席を占めた。

 

「お前が出てたって事は新地か? 今回は何処まで行ってたんだ」

「へぇ、暫くは長安(ちょうあん)支局に居たんですがね、そっから并州太原(たいげん)郡まで行ってきやした」

 

 鏢局を束ねる子鷹が外回りに出る時は、賊征伐か未開拓商路を回る時である。益州内では巴鷹鏢局が厳家所縁である事は誰もが知っていたが、他州ではそうではなかった。蕣華が母の名を使わぬようにと言い含めた(州内では名を使うまでもなく知れ渡ったが)からである。故にその真価が発揮されたのは、州外へ勢力を伸ばしてからだった。

 普段の業務はそこらの運輸業者と特段の違いがある訳ではなかった。業域を拡張したばかりの頃などは、大口の顧客がそれ程ついていない事もあって小規模な鏢隊(ひょうたい)が主だった。

 匪賊に対して名も売れておらず、見ヶ〆(みかじめ)も払わない新興業者はいい的だった。厳家で鍛えられているとはいえ、傑出した武勇を誇る者がそういる訳でもなく、土地勘もない小規模鏢隊では盗賊にしてやられる事もあった。そうなれば顧客に対して損害賠償を支払い、信用も失う。それを防ぐには普段から鏢師(ひょうし)を増やすか、賊と繋がった土地の顔役と渡りをつけるか。普通はそうだ、そうする。だがその後はそこらの運輸業者と違った。

 彼等は報復した。徹底的に報復した。少なければ十人に満たぬ少数で運送している鏢隊が、賊狩りに出張ると途端に千人規模にまで膨れ上がったのだ。鏢隊を襲った賊は全て狩られ、道端に巴鷹鏢局の旗印と共に首を晒された。仇の賊が見付からずとも、周辺の盗賊山賊は見つかり次第に狩られた。無関係だろうが賊なのだろうと、ならば見逃す道理無し。賊徒を殲滅する以外の全てを度外視して巴鷹鏢局は報復を完遂した。

 このような事を幾度か繰り返す内に、「巴鷹鏢局には手を出すな」という話が賊社会に広がった。こうして信用を取り戻した上で上乗せして巴鷹鏢局は躍進を続けている。

 それでも商路の新規開拓時には人員を増し、総鏢頭の子鷹も出張る。出先で商機を見出せば、支局開設の為の人員も改めて派遣される。その時には長である子鷹がその場に居た方が二度手間を省ける事もあった。とは言え并州はかなりの遠方だ。総鏢頭の不在が長期に亘るのも具合が悪い。洛陽以東以北にまで手を伸ばすとは蕣華は考えていなかった。

 

「并州は遠過ぎないか? それにあそこは異民族勢力が強いだろう」 

「仰る通りで、何とかってぇ鮮卑の単于(*60)が死んで勢力が弱まったと聞いてたんですがね。支局開設は見合わせやした。荷がありゃ運んでも良いが、地盤を築くとなると鬼の口がちとでかい」

「弱体化したとはいえ、やはりまだ鮮卑の勢力が強いのですか?」

「鮮卑そのものもですが、あそこは他に匈奴(きょうど)も住んでますし、なにより単純に荒れてんでさ。山賊共のまぁ多い事多い事。牛だの燕だの呼ばれてる渠帥(きょすい)(*61)が名を売ってるみてぇです」

 

 并州の現状に気を惹かれた幼宰の問いに返ってきた答えは惨憺たるものだった。二人の少女の顔付きが深刻なものに移り変わるのを見て、この空気はまずいと読んだ子鷹が努めて明るい声で話題を転換した。并州土産にと買い込んでいた酒瓶を掲げながら。

 

「まぁ、詳しい話は後にしやしょう。天下の往来でする話でもありやせんや」

「そうだな。って、なんだその、酒?」

「こいつは茲氏(じし)県の薬酒で竹叶青(ちくようせい)(*62)と言いやして、土産にと買って参りやした」

「竹叶青? 酒なのか?」

 

 軽く驚きながら隣を見れば、幼宰も驚いていた。益州で竹叶青(*63)と言えば茶である。茶発祥の地とされる益州に於いて緑茶の代名詞として親しまれている品種と同名の酒とは、何とも世の中広いものである。

 

「驚いたでしょう? あっしも名前を見て思わず買っちまいました」

「土産では?」すかさず幼宰が突っ込んだ。

「いえね、薬酒ってんで、あんま期待してなかったんですがね、呑んでみたらこれがなかなか!なかなかのもんでして、改めて土産として買い込んで来たんでさ」

「今買い込むって言った?」蕣華も突っ込んだ。

「へい、樽で」

「樽!?」

「三樽ほど」

「買い過ぎでは?」

「大丈夫です。瓶でも十本ほど・・・・・・」

「だから買い過ぎだろう。わざとか?」

「いやぁ、次の機会が何時になるかも分かりやせんし」

「それはそうかも知れないけど」

 

 完全に入れ替わった空気に子鷹はほっと胸を撫で下ろした。そんな子鷹を気にする事もなく話は進む。先程顔を出そうとした深刻さはどこへやら。興味は酒、となれば酒宴だ。

 

「鋼、今夜暇?」

「ああ」

「じゃあ、決まりね。行こうか」

「いや、流石にこのままではな。身を清めてから改めて伺うよ」

 

 汗は拭き、着替えもしたとは言え、蕣華の邸に招かれるという事は太守の邸に招かれるという事である。僅かな礼も失するわけにはいかない。そこまで気にすることはないのにと、蕣華は個人的にはそう思うのだが、矢張り周囲の目もある。気にしないわけにはいかない。

 子鷹が話についていけない内に二人の間で話が纏まり、一旦別れる事となった。阿吽の呼吸である。

 

「じゃあ、黒水。家の者に言っておいて」

「へ、へい。小令愛はどうなさるんで?」

「母上に話を通しておくよ」

 

 言いながら早くも足を郡府に向け直していた。

 

 

 ――――

 

 

 再び郡堂へとやって来た蕣華を呼び止める声に足を止めた。幼い頃より聞き慣れた声に振り向けば、そこに居たのはやはり厳めしい顔付きの巌の様な初老の男性。郡府の上級幹部である功曹掾(こうそうえん)(*64)であった。そして、

 

党舅父(おじうえ)(*65)

 

 蕣華の親戚でもあった。

 厳霸(げんは)(*66)、字を奉霆(ほうてい)。真名を(ひのき)

 紫がかった銀髪は結上げられ進賢冠の中に納まり、同色の顎鬚は一房の筆の様、意志の強さを示すかのような太い眉に、常に睨んでいるような眼つき、皺が刻まれる度に威厳を増す顔立ち、ずんぐりとした肉厚の体型は七尺一寸(約163cm)程と然程上背こそない(蕣華よりもわずかに高い程度。あと数年もすれば追い抜くだろうが、蕣華にはこの党舅父(いとこおじ)を見下ろすところがまるで想像できなかった)ものの、見る者を圧する雰囲気を醸し出していた。但し、本当に醸し出しているだけだが。

 巴郡厳氏の名士で、厳顔母娘と違い武はからっきしだが、高い事務処理能力から若い頃より群府で活躍してきた。一時、中央にも出仕したが失望と共に直に帰郷する事となった。

 人を見る目が確かで、嘘を吐くのが下手な性分だった為、厳顯義が太守に就任すると直ぐに功曹掾に取り立てられた。

 

「どうした。今時分まで居るとは思わなんだぞ」

「いえ、一度辞したのですが、黒水が土産を持って帰って来たので、今夜、屋敷に人を招こうかと。それで母に報告と許可をと」

「あやつ、長安から戻ったか」

 

 私用で郡堂の、それも太守を訪ねるなと叱られるかと思ったが、黒水の件に食い付いてきてくれたので、内心で胸を撫で下ろしながら話を続けた。

 

「いえ、并州まで足を伸ばしてきたそうです」

「手ではなく、か?」

「考えていた以上に荒廃していたようで、思い留まったみたいですね」

「賢明だな。そもそも司隷(しれい)の支局も地固めが済んではおるまいに」

 

 自然と並んで進みだした。どうやら党舅父も太守執務室に用件があるらしい。

 

「順調に事が運び過ぎて足元が見えておらんようでは先は短いぞ。どうなのだ、その辺りは」

「確かに調子には乗っていると見えますが、今回の事も最後の見極めは出来たようですし、私は黒水を信任していますよ」

 

 驚くべき速さで拡大を続けている巴鷹鏢局だが、今だ新興の域を出ていない。確かにこれからは勢いだけではやっていけないだろう。釘を刺しておくか。それにしても、

 

「長安ならば今は安定しておる故、下手な色気など出さずにそこで地歩を固めよと言うておけ」

「党舅父、意外と黒水を気に掛けていらしたんですね」

「喧伝している訳ではないとはいえ、あれで厳氏所縁の者だからな。可笑しな評判が立っても困る」

 

 ふん、と面白くもなさそうに応えているが、どうやらそれなりに趙子鷹の事を買っているらしいな。と蕣華は見て取った。

 

「長安は安定しているのですか?」

「今、京兆尹(けいちょういん)(*67)を務めておられる司馬(しば)建公(けんこう)(*68)殿は恐ろしく厳正な方だそうだ。あやつには肌に合わんかも知れぬがな、三輔(さんぽ)の中でも最も民が安んじて過ごして居られるのは、質実剛健な京兆尹殿の施政あってこそであろう」

「お詳しいのですね」微かな驚愕と共に聞くと、

「一時期、三輔と南陽からの移民がいやに多かったのでな。それで気になっただけの事よ」

「そうでしたか」

 

 劉益州牧が地縁勢力に依らぬ軍事力を得る為に施行した大規模移住政策。三輔地方と南陽郡から、数万戸に及ぶ人民が流入した。その影響は巴郡にも及び、当時、太守に任官したばかりの厳顯義の目を激しく回らせた。半年振りに実家に戻ったというのに、碌に母と話も出来なかった当時を思い出し、知らず苦い顔になった。

 軽く頭を振って思考を戻す。遣り手の長官がいながら棄民を大量に出すとは考え辛い。

 

「司馬京兆尹殿は領民の大流出後に就任されたのでしょうか?」

「うむ。あの頃は周辺でばたばたと行政長官級が入れ替わったな」

 

 右扶風(ゆうふふう)左馮翊(さひょうよく)もだろうか。と思考を巡らすと

 

「南陽太守もな。全く驚いたものだ」

 

 別の地方を持ち出された。南陽。

 党舅父がこちらをじっと見詰めていた。なんだろう? 視線に込めた意図は読めないが、何かあるらしい。南陽太守に。南陽太守。

 

「四世三公と言えば?」

「名族汝南(じょなん)(えん)氏ですね」

「次代の本流がな、南陽太守に就いたのだ。それも当時にな」

 

 もう、か。いや、既に、だ。

 

(えん)公路(こうろ)殿は当時齢僅かに八つだったそうだ」

「それは、……大丈夫なんですか?」

「少なくとも悪評は聞かぬな」

「えっ?!」

「当人が幼子と言っても名家の威信にかけて周囲は固めよう」

「あ、ああ、そうです、よね」

 

 思ったよりも反応の大きい族子を不思議に思いながら先を続ける。

 

「そう言いたいところだが、属吏にこれと言った人材は多くないな。呉郡(ごぐん)四姓(りく)氏の娘が一人、仕官しておるようだが」

「それでも治まっている、と?」

「そのようだ。傑出した能吏は少なくとも、及第以上が揃えば並の舵取りでも船は動くからな」

「ただ凪であれば、ですよね」

「そうだ。郡民が多数抜け荒廃した郡を立て直すとなれば、俊髦(しゅんぼう)一本程度ではとても足りぬ」

「と言う事は」

「袁南陽太守殿自身も、少なくとも俊器であろうな」

「はぁ~」

 

 予想外の話につい気の抜けた溜め息が漏れた。色々と想像を超えていた。まず八歳から太守を務め上げるというのが理解を超えている。党舅父の言う通り、周囲を人材で固めれば可能かも知れないが、それでは祭り上げられた幼帝と変わらない。しかし、それしかない気がする。真面に運営するなら。問題なのは、幼子を祭り上げるような連中が真面に仕事をするかだが。

 だが、党舅父の話し振りから察するにどうもそうではないらしい。

 実際にどれだけの人材が揃っているかは分からないが、少なくとも袁公路自身が太守としての手腕を発揮しているという。操り人形などではなく、主従は逆転していない。本当にか?

 南陽郡はただの郡ではない。漢土最大の郡だ。州とほぼ変わらない。その南陽に施政を行き渡らせる年下の少女には戦慄しか感じない。

 一族の最も有望な新芽のそんな様子を見ながら、厳奉霆は言葉を続けようとした。

 

「五世三公も確実かも知れんな、もっとも……」

「……なんです?」

「何でもない。それよりも、先にお前の用件を済ませて来い」

 

 気付けば太守執務室の前まで来ていた。傾いでなどいない戸口の前に。

 

「宜しいのですか?」

 此方は私用だ。後回しで全く構わないのだが

「こちらを待てば長くなるぞ。良いからさっさと済ませよ」

「分かりました」

「それとな、蕣華」

「はい」

「私用で郡太守の時間を削るのは感心せんぞ。次からは気を付けよ」

「すみません」

 

 結局叱られた。

 

 

(もっとも、それまで後漢が存続しておればの話だが)

 執務室の前で暫し待つ間、とても口には出せなかった考えを反芻した。或いは件の南陽太守が新たな皇帝となって大郡どころか大陸全土を差配するなどという未来もあるのかも知れない。その時、――後漢が崩れ落ちようとする今の先のその時の中で、厳氏の次代を担う若き俊傑はどう生きるのだろう。どのように時代に挑むのであろうか。

 

(見てみたいものだ)

 

 その為にも、早く進路を決めて欲しい。

 巴郡厳氏の巌のような男は嘆息交じりに独り言ちた。

 

 

 

 第三回――了――

 

 

 ――――

 

 

 報告を終え執務室を辞す直前、ふと首だけを振り向かせてすでに執務机に向かって仕事を再開している一族の出世頭を見遣った。一瞬だけ。立ち止まる事もなくそのまま今度こそ執務室を辞した。

 廊下を進みながら、それにしても、と厳霸――檜――は先程見た執務室に陣取る党妹(いとこ)の姿にむず痒い様な不思議な感慨に包まれていた。

 執務机に齧り付いて政務をこなす姿は如何にも似合わない。こういっては何だが……。

 彼女はやはり戦場が似合う。でなければ酒宴の席か。若き頃の厳顯義であれば酒飲みたさに仕事を押っ放り出すくらいは平気でしていた。それでもなんのかんの赦されてしまう得な人柄であったが。

 しかし、今の彼女を見てその話を信じる者はどれ程いるだろうか。郡太守に任じられたと聞いた時は、人柄を重視し過ぎる風潮の弊害が出たかなどと思ったものだが、他ならぬ顯義に功曹掾に任命され、その下に付いた時は正直言ってかなり驚いたのを憶えている。

 酒好き、戦好きは変わってはいなかったが、慣れない政務に愚痴の一つも零さず奮闘しているその姿に、人間、変われば変わるものだなどと感心したものだ。

 その事について檜は酒の席で顯義に訪ねた事があったのを思い出した。

 

「なに、ただあの子にとって誇れる母でありたいだけのことよ」

 

 そう、はにかみながら答えた顯義の顔は、かつての自由闊達な荒武者ではなかった。

 子が親を育てるという事か。

 

 檜自身、憶えのある事であった。今は家を出て出仕している息子や娘達の事を不意に想った。思えばもう随分と会っていないな。そして、顯義が慶祝を未だ何処にも仕官させていない理由を知った気がした。

 昨今、仕官の低年齢化に拍車が掛かっている。長きに亘る政情不安に止めを刺すかの様な党錮の禁から、中央のみならず何処も慢性的な人手不足に陥っており、有能の才子は年齢性別に拘わらず引く手数多だ。今や四十以上でなければ孝廉に推挙されない時代があったなど誰も信じないだろう。

 

 郡官吏など、かつては太守や郡丞などの勅任官を除いて郡民で構成されるのが当たり前であったが、中央が腐敗するにつれその慣習は廃れていった。宦官に敗れた清流派閥の二の舞を嫌って有望な人材が地方政府に流れ、当然のようにこれに目を付けた太守達は挙って彼等を登用した。そして地元の豪族勢は当然これに反発した。そこで起こった壮絶な足の引っ張り合いで、地方でまで人材が不足しだすという大陸の誰も得をしない事態に陥った。陥ってしまった。

 

 こんな状況だ。慶祝の歳で世に出る事は決してない話ではない。現に、この巴郡においても督郵を務める董幼宰は若手の中でも齢十四と、慶祝と大して変わらないのだ。南陽太守袁公路に至っては年下である。

 徳目申し分なく、一騎当千に届く武があるとなれば、成人前であることなど些末事も些末事だ。少なくとも、それほどの人材を遊ばせておく余裕はないと、この大陸の行く末を憂う誰もがそう考えている。それが漢土の現状だ。

 

 だが慶祝は今も母の膝元にいる。時折、軍に戦時臨時職として徴用されるが、正式な任官は受けていない。

 あの娘自身も今は仕官を考えていない事もあるが、何より顯義が今暫くの間、娘を手元に置いておきたいのだろう。ああ見えて親ばかであるし、心配性でもあるのだ。

 郡太守となれば毎年孝廉を挙げなければならないのだが、次も厳慶祝の推挙は見送られるだろう。

 

 一騎当千の猛将であり、巴郡に繁栄と安寧を齎す太守であり、しかし何よりも愛する娘の為に奮闘する一人の母である。

 それが現在の厳顔、桔梗という女性であった。

 

 檜は近頃足の遠のいてしまっていた亡き友の墓に近いうち必ず参ろうと決めた。

 

 

 

 

 この厳奉霆の考えは、半分当たって半分外れた。

 確かに厳寿――字を慶祝――は次の孝廉にも挙げられなかった。しかし彼女もいつまでも雛鳥のままではいられなかった。

 

 




*42曹謙:史実では光和五年に任命された巴郡太守。連年続く板楯の叛乱に対し、大軍を以って治めようとした皇帝劉宏に対し、漢中郡上計掾の程包が「清廉且つ有能な官吏を太守に任ずるだけで良い」と提言した。皇帝はこれに従い曹謙を太守に任じ、赦免の詔勅を下す事で遂に乱は治まった。
 本作では厳顔が乱を治め太守に任じられた。それに合わせて郡丞に任じられたとする。

*43和光:曹謙の字。本作独自のもの。

*44伯腊:張脩の字。本作独自のもの。

*45吏卒:下級官吏の事。

*46德國狼狗:ジャーマン・シェパード・ドッグ。その名は『ドイツの牧羊犬』を意味する。非常に賢く人に忠実な為、軍用犬や警察犬など様々な職業犬として活躍する。

*47部督郵:群に属する監察官(州に属する監察官は郡督郵)で群府の要職。属県の監察を担当する。本来は郡内の人物を任用する。但し、本籍県には派遣しない(後漢末にはこの規定が守られない事が増えたようだ)。その為、郡規模にもよるが最低でも定数二員以上。部下に督郵掾(督郵助手)、督郵書掾(督郵書吏)を持つ。

*48董和:荊州南郡枝江県出身の政治家。はじめ劉璋に仕え、のち劉備に仕えた重臣の一人。清廉厳格な人柄で、赴任先でもその人柄が非常に色濃く反映された統治を行ったので、領民には慕われ有力者には嫌われた。劉備入蜀後は掌軍中郎将に任じられた。諸葛亮に非常に高く評価され、董和の謹厳さを部下に訓示した。
【挿絵表示】


*49跋扈将軍:幼帝劉纘(りゅうさん)が梁冀を罵って言った仇名。この事が梁冀の耳に届いた為に暗殺されてしまった。

*50梁冀:字は伯卓(はくたく)王莽(おうもう)を除いて最悪の外戚と名高い大将軍。邪魔者は皇帝すらも排除し、数々の特権を手中にし、富と権力を欲しい侭にしてきたが、(とう)猛女(もうじょ)を梁姓と偽って後宮入りさせるという愚挙を犯して遂に失脚。官兵に邸を取り囲まれると観念して自害して果てた。

*51絲綢之路:いわゆるシルクロード。

*52南蛮辛子:いわゆる唐辛子。新大陸原産の香辛料だが、本作では南蛮に自生しているとする。イメージ戦略から他州では唐辛子の名称で流通しているが、益州では今でも南蛮辛子と呼ぶ者が多い。

*53豺狼当道:中国の四字熟語。醜悪奸邪の悪人が権力(特に国家権力)を掌握する事。

*54遊侠:一般的には放蕩の任侠者。後漢末では朝廷を憂い、宦官に敵対する者達を指しても遊侠の士と言った。侠客、武侠のはしりであろう。

*55図讖術:予知法。天文や天候などを読んで未来を探る。緯書(いしょ)と呼ばれる儒教を神秘学的見地から読み解いた予言書とあわせて讖緯(しんい)と呼ばれる事もあり、緯書を基にした経典解釈が後漢で流行した。

*56亭卒:警察官に相当する下級官吏。亭長の下に置かれた。亭とは街道の治安・管理をさせる為に十里ごとに置かれた宿駅。また、郡県の城門は門亭と称され、城内にも亭を置き都亭(或いは市亭)と称した。これら全てに亭長が置かれた。

*57総鏢頭:鏢局の長。

*58鏢局:運送護衛業者。運送品に対する保険業務も負う。護衛輸送に従事する士兵は鏢師と呼ばれた。明代正德年間には存在が確認できる。

*59里:後漢時代の一里は約414.72m。

*60単于:北方異民族の君主号。王に相当する。「広大さ」を意味する。

*61渠帥:賊徒の頭。黄巾賊では将軍に相当した。

*62竹叶青酒:汾酒(ふぇんちゅう)(蒸留酒)に竹の葉や十数種の薬材を加えて作った鮮やかな黄緑色の薬酒。唐代にはその存在を確認できる。

*63竹叶青茶:竹葉青とも。益州の霊峰峨眉山産の緑茶。竹の葉のような細長く青々とした茶葉が特徴の品種。少なくとも前漢からあるらしい。茶の起源自体は巴蜀の地に漢族が居住する以前よりあったらしい。

*64功曹掾:郡吏の任免賞罰を掌る。人事部長に相当するが当時、人事権を握るというのは職掌以上に大変な権力であった。

*65党舅父:厳寿は口語で「おじうえ」と呼ぶが、正確には「いとこおじ」。詳細な続柄は母の父の兄弟の息子である。厳顔から見ると党哥(いとこ)(父の兄弟の子の中で年上の男子)。

*66厳霸:本作独自の人物。正史は勿論、演義にも存在しない。巴郡厳氏の一族で、厳顔より年長の中で最も才幹と人望のある人物。見た目は厳ついが、内務一辺倒で武には全く縁がない。

*67京兆尹:長安近郊(京兆尹)を治める行政長官。職掌は太守に準じるが格式は太守より上。

*68司馬防:字は建公。司隷河内郡(かだいぐん)温県(おんけん)出身の政治家。かの司馬八達の父親。本作では母親。非常に厳格な人物で、その厳格さは家族にも及んだ。
 

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。