桔梗の娘   作:猪飼部

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第二十三回 如暴風雪

 韓遂は馬寿成を討った後、混乱するその軍勢を蹴散らし、更には一部を吸収した。その上で軍を二つに分け、一部を隴西へと向かわせた。董丞相の居留守戦力への牽制目的であるが、その為に五万の兵を割いた。これには涼州に予備戦力を確保しておくという意図もあっての事だった。このお蔭で敗走後も影響力と脅威を完全に失うことなく、乱後の中央との交渉によって厳罰を免れ得た。

 敗走。

 そう、この涼州乱も矢張り驚くべき早さで治まった。荒れ狂う猛吹雪の如き錦馬超の攻勢に吹き散らされたのだ。だが、韓遂を襲った嵐は馬孟起だけでは勿論なかった。

 銀世界を赤く染め上げる一陣の暴風がその前に吹き荒れたのだった。俗に赤将軍と称される暴風が。

 

 

 ――――

 

 

 第二十三回 如暴風雪

 

 

 

 見渡す限りの白。生まれ故郷ではまずお目に掛かれない幻想的な、しかし漠とした寂寥に沈む風景。だが、今はその風景すらも観えはしない。眼前に積み上げられた白が視界を埋め尽くしている。屈み込んだ姿勢のまま、寒さに悴んで早半時(一時間)。手指だけはなるべく万全を保てるように焼き石を入れた厚手の巾着を常に握り、揉みしだいている。弓を肩にかけ、早く早くと敵を待ち侘びる。

 それは冀城(きじょう)へと続く街道(それも雪の下に埋もれ地元民でもなければどこまでが道なのか判別出来ないが)を臨む低丘に点在する不自然な盛り上がりの裏側の模様。良く目を凝らせばすぐに気付かれる程度の偽装の内の事。しかし、何かに気を取られている人間の視野は、人が思うよりも酷く狭いものだ。だから大丈夫ですと請け負った仲間の言葉を信じて、黄崇――紅玉――は募兵で集めた涼州民兵と共に、半ば雪に埋もれながらじっとその時を待っていた。敵を射ち貫くその時を。

 とは言え、この寒さは堪える。つい愚痴りたくなるのを周囲の気配を気にする事で抑える。紅玉の周囲、即ち、涼州民兵。土地の者は言え、よくもまぁこんな糞寒い策に文句ひとつ言わず粛々と従うもんだ。有り難いけど。と振り返る事も、身じろぎ一つする事もなく思う。

 三千近い人間の息遣いを感じ取りながら、紅玉はその中でも一際静かな呼吸の持ち主に意識を割く。馬一族が慕われているのだろう事は募兵をして判った。だが、これだけの人間が余所者の官軍に従順に従っているのは、西城(せいじょう)で出会った女丈夫のお蔭だろう。実際、今この場にいる兵の殆どはその人物が掻き集めていたものだ。紅玉が募った兵は子明が討伐軍と共に率いている。

 彼女が非常に協力的だからこそ、子明も遠慮なしに策を講じた。

 包が後で声掛けそうだなー。と口内で独り言ちる紅玉の予想は正しく的中し、この乱の後にその女丈夫王異(おうい)(*214)は恋人と共に厳慶祝の幕下に加わる事となった。

 

 

 ――――

 

 

 漢陽郡治冀県、その県城。馬軍閥の残りの主力が結集する筈のこの地にはしかし、その軍勢の影も見当たらない。血気逸った一派は韓遂に蹴散らされ、盟主不在故に動かない一派は集わず、残る一部は馬寿成の末娘が引き連れて長姉と合流する為に城を発ったからだ。

 そこまでの情報を得て韓遂は事が順調に推移している事に満足していた。しかし、そこに水を差すものが現れる。赤将軍こと厳慶祝である。

 

 馬孟起の派遣は読んでいた韓遂であったが、漢中平定中の厳慶祝が、それも韓遂の思惑を超える速さで涼州入りしてくるとは読めていなかった。

 僅かに苛立ちを憶えたが、その軍勢が八千程と聞いて嘲笑に変わった。己の麾下には十万からなる大軍が犇めいているのだ。それに対し、一万にすら届かない手勢で手向かってくるとは、正気すら疑う愚挙である。しかし韓遂は油断しない。慢心すれども緩めはしない。漢中から北上してきた官軍に対して、二万を差し向けた。

 そして自身は八万を率いて洛陽から来るであろう馬一族の至宝を呑み込む為の進路をとった。だが実際に呑み込まれたのは韓遂の方だった。八万の大軍は錦馬超と対峙したその時には、既に半数程を失っていたからだ。

 

 

 ――――

 

 

 韓遂の元に届いた情報では確かに蕣華麾下の兵は八千程であった。詳細な内訳は、屯騎兵七百、北軍五千、蕣華部曲二千、そして、王子均と板楯騎兵十騎。

 しかし、それが全戦力ではない。黄仲峻が掻き集め呂子明が率いる民兵三千。王士同(しどう)(*215)が呼び掛け黄仲峻が率いる義兵三千。呂子明が接触を果たし、一時蕣華の指揮下で合力する事となった馬岱(ばたい)(*216)麾下二千の馬軍閥騎兵。

 戦場で集結するまで蕣華と別行動を取り続けた涼州地縁の軍兵を、韓遂は見過ごした。馬寿成を慕い義憤によって立った民兵や、初撃で追い散らした僅かの敗残兵を特に問題視しなかった。軍とは数だけ揃えれば良いというものではない。万が一糾合できても、碌な統率など取れる筈がない。相手がけちな匪賊ならばどうとでも出来るだろうが、自身が誇る韓軍閥が俄か連合にどうにかされるなど有り得ないのだ。当然の自負はしかし崩れ去る事となった。

 中領将軍厳寿はそれをやってのけた。二つの民兵には最初から蕣華の幕臣が関わっていた。馬軍閥は柔軟な対応が出来る部将が率いていた。戦場では轡を並べるのではなく、相手に機動戦を強いて各所でそれぞれの軍勢が一撃を加えた。蕣華自身が釣り餌として二万の敵兵の意識を釘付けにし続けた。要因はいくつもあった。だが、それは簡単にご破算に転がりかねない危ういものであった。

 その綱渡りのような戦況を、蕣華はその豪腕でもって渡り切った。

 

 

 

「あれが閻行(えんこう)(*217)率いる韓遂の別動隊か」

「隊って規模じゃないっすけどね」

 

 長く続く坂の上から二万にも届く軍勢を眺めて蕣華が言葉を漏らせば、隣で轡を並べる王子均が応えた。

 白く塗りつぶされた世界の中を黒々とした大蛇が此方に向かって這い上がって来る光景は、余り気持ちの良いものではない。しかし二人には臆する気配など微塵もない。

 

「あれに七百ちょいで()っ込めとか抜かしてくる軍師も大概だけど、あっさり請け負う蕣姐も本当(ほんと)あれっすね」

「なんだ、怖いのか? 凌霄(リンシァオ)

「まっさか」

 

 子均の言に片眉を上げながら問えば、快活な笑顔で答えを返してきた。

 

「半分とは言え神兵の血が流れるアタシっすよ?」

「ああ、期待してるよ」 

 

 そんな軽口に興じてる間に蛇がややきつめの勾配を上り始めた。特に身を隠している訳でもないので、此方の姿に気付いてはいるだろうが、特段何か動きに変化はない。あちらの斥候は子均が連れてきた板楯兵に潰されており、一方的に視られているにもかかわらず、だ。

 

「成る程、韓遂より数段御しやすそうだ」

「完全に舐め腐りやがってますよね」

「そうだね、いい事だ。 ……あの派手なのが閻行か? 随分と前のめりに居るじゃないか」

 

 軍中にそれらしい人影を見付け、都合が良いなと算段を付けていると、隣から遠慮のない声が届いた。閻行軍を見据えたまま短く返す。

 

「聞いた話、常に最前に立つ蕣姐が言うこっちゃないっすよねー」

「いいんだよ、私は」

 

 そう答えながら、結局自分は人を率いるのが本来的に得手ではないのだと再認識していた。どんな戦であってもまず自分でやろうとしてしまう。そんな蕣華に屯騎兵を得たのは正に僥倖だったのだ。戦場を縦横に駆け巡る蕣華に追従できる騎兵隊。彼女の懐刀が天意と感じるのも当然と言えた。今も坂下からは見えない程度に後ろに下がった位置に屯する頼もしい騎兵達が、今か今かとその時を待つ。

 此度の大戦でもやはり蕣華は先頭を駆け、屯騎兵は主に続く事になる。立ちはだかる敵を薙ぎ倒しながら。いつもと違うのは、今回から新たに十一騎がそこに加わる事だ。

 数ある異民族の中でも精強で知られ神兵と称される板楯兵が十騎。彼等を率いるはその神兵の血を半分受け継ぐ少女、王子均。蕣華の親衛隊として期待される新戦力である。

 

 そうこうしている内に、敵軍が上り坂の中ほどに達した。先頭付近が少々騒めいている。此方が全く動かないのを訝しがっているのだろう。たった二騎。斥候かと思えば、何故か坂の頂上で自分達を睥睨して微動だにしない。

 疑念と、ほんの僅かの動揺。伏兵を気にして周囲を窺うが、たったの二騎で大軍を惹き付けるなど常識的に考えて有り得ない。実際にそのたった二騎に注意を持っていかれているにも関わらず、閻行軍の誰もがそう考えていた。

 やがて行軍の足が緩くなったのを見て、蕣華が誰何の声を上げた。

 

「閻行ってのはどれだ?」

 

 この人、挑発上手くなったなぁ。という子均の視線を受けつつ、閻行と目した人物を睨む。それは矢張り閻行であったらしく、激高しながら声を荒らげた。

 

「っ!? 生意気な小娘め! 貴様何者だ!!」

「私は厳慶祝。此度、中領将軍の位を受けて貴様らを殲滅する者だ」

「たったの二人でか?! 笑わせるっ! 中央には阿呆しかおらんようだなぁ!!」

「そうだな、この数を殲滅するのは面倒そうだ。お前の頚だけにしよう」

「……ガキィ!!?」

 

 怒りに任せて馬の腹を蹴る閻行に、周囲の敵兵も慌てて馬を奔らせようとしたその時には、蕣華は既に坂を駆け下りており、更にその後方には蕣華の呼吸を知り尽くした七百騎と、僅かに遅れた十一騎が追従していた。

 

 まさかの吶喊に、閻行軍前曲が度肝を抜かれる。真正面から不意を討たれるという珍事に前曲敵兵は浮足立った。お蔭で頭に血を上らせるままに最前に出ようとする大将がつんのめる羽目になり、更に動揺が広がる。その時にはもう、蕣華の刃は最初の数人を両断していた。

 

 

 ――――

 

 

「……来たか」

 

 眼前の雪饅頭を眺めながら紅玉が小さく呟いた。

 慣れ親しんだ気配が近づいて来ている。その後から想定よりも随分と怒気を孕んだ軍気が猛追しているのを感じ取ると、あいつなんか余計な事言ったな。と知らず半眼になって口中で呻いた。

 まぁいいか。敵が平静を失ったのなら嵌めやすくなるだけだ。その分、此方がとちれば反撃は手痛いものとなるが、上手くやれば問題ない。そう考えて、首だけ回して後方に声を掛けた。

 

「そろそろ来るよー。はい、固くならないー」

 

 端的に告げた言葉に、義兵が身を強張らせたのを敏感に察して、のんびりと続けた。

 

「だーいじょうぶ、私らの大将は韓遂の三下なんぞ問題にならないほど強いんだから」

「で、でも……」

「相手の数も気にしなくていいよー。この場にいる三千だけで戦う訳じゃないんだから」

「は、はい」

「はい、他に疑問のある人ー……。いないねー、んじゃ、もう聴こえてると思うけど、味方が駆け抜けた後に敵さんが通り過ぎるとこを狙うよ。私が合図と共に一射射るから、それに続いてー。狙う必要はない。矢を飛ばせれば万々歳だ。的は阿呆程あるからね」

 

 あくまでも緩く緊張感を伴なわずつらつらと話を続ける紅玉に、次第に義兵達の肩から余計な力が抜ける。

 

「私らは私らのやる事だけやればいい。後の事は他の連中に任せちゃおうな」

 

 最後にニヤリと笑いながらそう言って紅玉は正面に向き直り立ち上がった。

 

「立ち上がって弓構え!」

 

 寸前までの緩い声音とは全く違う凛とした響きに、涼州義兵は戸惑うより先に従っていた。流れる様に「放て!!」との号令と共に弓を射放てば、その鋭い放物線に続く数多の矢雨が閻行軍中陣に降り注いだ。

 

 

 ――――

 

 

「反転突撃!」

 

 低丘から放たれた矢の風切り音を捉えた刹那、厳将軍が号を発す。仲峻率いる涼州義兵の矢が敵に襲い掛かる頃には全隊反転を終え、突撃体勢を取っていた。そこから間を置かず二度目の突撃。やはり僅かに遅れる王子均――凌霄――達。厳慶祝の指揮に慣れていない以上に、雪に埋もれる足下の問題が大きかった。益州は降雪自体稀で、積雪など記憶にないほどだ。無論、そんな中を馬で走り回るなど初めての経験である為、どうしてもいつも通りとは利かない。しかしそれは、屯騎兵は兎も角として慶祝も同様の筈であった。にも関わらず、彼女はこの戦場に至るまでの道のりで、雪中馬術をものにしていた。

 雪を蹴立てて、何の気負いもなく大軍に向かって疾走する慶祝の煌き棚引く銀髪。導かれるように後に続く騎兵達にも怖れは見えない。人、馬、兵が一体となって対面の巨躯を貫く。

 背筋が凍るほどの興奮を覚える。野蛮な戦場でのみ姿を現す美がそこにあった。凌霄が見惚れる目の前で、慶祝が動揺する閻行軍に更なる猛撃を加えた。

 最初の突撃。挑発に乗せられた閻行の頬を裂くところまで届いた。二度目の今回は閻行の巨槍を砕いた。頭に血が上りきっていた閻行も、これには色を失った。

 冷静さを欠いたまま勝てる相手ではないと遅まきながらに気付いた。気付くのが遅過ぎた。何故なら、軍の最後方からも悲鳴が届いたからだ。

 

 閻行軍後曲。長く伸びた最後方には、仲峻の不意討ちを合図として馬岱、字を伯瞻(はくせん)(*218)が一隊を率いて喰らい付いていた。その勢いは凄まじく、韓遂に対する馬軍閥の忿怒がそのまま叩き付けられていた。後曲だけでも伯瞻率いる騎馬隊を軽く上回る兵力があった筈が、見る見るうちに崩壊していった。

 閻行軍は最早何処も彼処も混乱していた。大将の閻行が慶祝の猛攻に耐えるのが精一杯で、碌な指揮を取れずにいるのが最大の要因である。その為、各曲各部の指揮官がその場の判断で兵を纏め、何とか活路を見い出すべく抗戦していた。流石に涼州三大軍閥の一角を形成する軍だけあって、ここまで畳み掛けられても決定的な壊滅を免れていた。

 しかし、そんな閻行軍を更に追い詰める軍勢が、冀城方面から雪煙を盛大に立てて迫ってきた。慶祝と共に漢中から北上してきた中領軍本軍だ。派手に銅鑼を鳴らしながら存在を誇示しての登場。最後の一押し。遂に士気が崩壊した閻行軍は雪崩を打って遁走したのだった。

 

 嗚呼、桔梗様。この人の元に残る事、お許しいただきありがとうございます。

 

 今は遠い主君に感謝の念を送りながら、凌霄は悦びの狂笑を上げて慶祝の後に続き戦場を蹂躙した。

 

 

 ――――

 

 

 敗走する閻行軍を最後まで追撃していた馬伯瞻が涼州騎兵を率いて戻って来た。

 追撃、と言っても怒りに任せて深追いしていた訳ではない。相手の敗走経路を誘導していたのだ。闇雲な追撃ではないと直ぐに気付き、伯瞻の自己判断でそこまで働いてくれたことに感謝し、素直に任せていた。

 あの孟起に、彼女のように機転の利く副将があったならば、涼州時代の錦馬超が大陸中に雷鳴を轟かせる戦功を容易く積み上げたのも納得だ。

 心中の称賛を表情に出しながら出迎える蕣華に、伯瞻も快活な笑顔で応えた。

 

「初めまして! 厳将軍。噂はお姉様からいろいろ聞いてるよ」

「こちらこそ、伯瞻。私も翠から色々と聞いてる」

蒲公英(たんぽぽ)でいいよ。将軍には助られたしね!」

「なら私も蕣華で」

 

 蕣華と伯瞻はこれが初顔合わせである。伯瞻と最初に接触したのは子明だった。そして、今この場に集うまで子明以外の誰とも接触はなかった。敵に糾合を悟られない為である。

 先行して涼州入りした子明が精力的に収集した情報の網に、韓遂に撃破された軍閥騎兵を僅かながらも再結集し、反攻に転じる機を窺っていた伯瞻が引っ掛かったのだ。その存在を知った子明の動きは早く、直ぐに会見を持ち、対韓遂軍への戦力に組み込んだ。

 伯瞻としても渡りに船であった為、とんとん拍子に話は進み、反攻初戦のこの機、この場へ馳せ参じる算段を付けていた。果たして伯瞻は絶好の機に戦場に突入し、憎き韓遂の片腕を見事追い散らした。

 あとは子明の仕事である。

 そう、この戦はまだ終わってはいない。しかし蕣華には戦中特有の緊張はみられない。最早決した大勢を揺るがせる程の将器を閻行から感じなかった事と、子明がこの段階でし損なう事などないという信頼故であった。

 それを感じ取った伯瞻も肩の力を抜き、蕣華と束の間の交流を楽しんだ。

 

 

 ――――

 

 

 這う這うの体で雪原を進む閻行の足取りは重い。それは体中を覆う痛みの所為でもあり、負け戦の屈辱の所為でもあり、何より、逃げ帰った後で韓遂に申し開きしなければならないからだ。

 

「くそっ、御大将になんて言い訳すりゃいい……」

 

 誰にともなく愚痴が漏れる。後に続く配下と兵は何も言わない、言えない。しかしそれに応える声が響いた。

 

「そんな事に悩む必要はありませんよ」

 

 その声に顔を上げれば、前方に広がる高台の上から一人の少女が此方を鋭く睨み付けていた。

 憶えのある光景に、閻行の兵士が怯む。内心では閻行も同様であったが、兵士の手前、虚勢を張る意気地だけは未だあった。

 

「また待ち伏せか! どいつもこいつもこそこそしやがって!!」

 

 閻行の悪罵には応えず、亞莎はただ静かに手を上げた。その挙動だけで敗残兵は蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、閻行の配下は己が将を逃がす為に面前に立ち退却を促した。

 しかし無駄な事。事ここに至って亞莎が、兵卒は兎も角として敵将の逃亡を見逃す筈もなかった。

 

 かくして、韓遂軍閥部将閻行は中領将軍府司馬呂蒙に討ち取られた。

 

 

 ――――

 

 

 閻行敗死の報は直ぐに韓遂の知るところとなった。

 韓遂陣営の幹部は皆仰天し、それは韓遂も例外ではなかった。すぐさま事実確認が行われ、それが揺るぎない事実であると知ると、韓遂の侵攻は一時止まる。次の一手をどう打つか、閥内で意見が割れたのだ。

 また一隊を差し向けるか。しかし二万で敗れたのだから半端な兵力では意味が無い。半分を差し向ければ錦馬超との決戦が危うい。隴西の五万を呼び戻そうか。それも時間的に厳しいし、董卓閥に呼応されたら余計に拙い。ならば全軍で取って返すか。これなら後顧の憂いを間違いなく断てる。三輔を目の前に今更後進するのか――。

 まるで方針が決まらない。そうこうしている間にも赤将軍は確実に韓遂に迫る。それも兵站路を潰しながら。その急報を受けて韓遂は迅速な行軍に定評のある三将にそれぞれ一万を預け差し向けた。その上で、残り全兵も一旦後退。まずは慶祝を確実に仕留めると決めた。

 

 包は斥候の報告を受けてほくそ笑んだ。足止めは成った。

 腹が減っては戦は出来ませんものね~、と機嫌良く次の策を詰める。まず此方の狼藉を止める為に足の速い軍を差し向けてきた。総数では閻行軍を越えるが、内情は一万の軍が三つだ。この三軍で此方を釘付けにしておいて、本隊が合流してから確実に押し潰す、と。

 ならば、それより早く一万づつ削っていけば良い。対応の速さは中々だが、同格三人を放ったのが韓遂の失策だ。包の笑みは深くなるばかりであった。

 

 

 韓遂が中領軍と会敵した時にはその総兵力は五万のみとなっていた。先鋒の三万はものの見事に潰走していた。

 今回も矢張り釣りによって韓遂軍は崩壊していた。

 まず大将首の厳慶祝が釣り餌となる。そこに今回は馬伯瞻が同行した。これに一万がまず釣れる。土地を良く知る伯瞻が巧みに先導して逃げ回る事で、付かず離れずの逃走劇を繰り広げた。

 諫めに回った残り二将には見え見えの伏兵に気付かせた。そちらにまた一万が釣れた。策を見破ったと嬉々として罠の巣に飛び込んできた。最初に滅んだのはこの軍だった。慶祝と伯瞻麾下以外の全兵と罠の山で殲滅した。

 最後の一将は慎重だった。包としては二将同時に罠に嵌って欲しかったが仕方ない。それに特に悲観する事もなかった。この将は慎重過ぎた。日が暮れるまで鬼ごっこに夢中になった将とは無論合流できず、その場で陣を築き野営に入った。包はこれに対し、少数を残し敵陣の周囲に分散配置。銅鑼や太鼓で不定期に連絡を取らせた。内容に意味はない。ただ夜を徹して散発的に響く音に、敵兵は精神をすり減らす事になった。敵の手に乗らぬよう陣に篭もる敵将が、痺れを切らし一帯を探索させるも、少数故に引き払いも早く補足はされなかった。この時点で嫌がらせと気付いたが、だからと言って夜中に陣を引き払う事も出来ず、改めて討伐隊を編成して周囲に放つも戦果は得られなかった。

 翌日寝不足に陥り士気の著しく低下した軍を率いて攻勢に出る訳にもいかず、引き続き陣に篭もった。

 その間に包は慶祝達と合流し、易々と猪狩りを果たした。

 さらに翌日。引き籠もりの元に偽報が届けられた。韓遂と馬孟起の会敵である。これで援軍は期待できない、どころか自分達が急ぎ本隊と合流しなければならなくなった。焦りは隙を生み、正常な判断から人を遠ざける。

 急いで陣を引き払おうとしたところに急襲を受ける。焦りは更に大きくなる。碌な抗戦もせずに本隊目指して遁走した。碌に軍装を整える間もなかった者も多かった。多少の被害が出ても戦の体裁を整えられる態勢になるまで、敵の急襲を受け止める決死隊を矢面に出すべきだった。一部を切り捨ててでも全体として戦支度を整えてから統制を保った退却であれば、後の展開はもう少し違っていた。

 しかし、慎重に過ぎた判断からの現状があり、盟主の危機まで重なった。積もり積もった焦燥によって判断力は反転し、拙速だけを求めた。

 結局、急ぐその先で簡単に待ち伏せに遭い、先の二人の後を追った。

 

 

 第二十三回――了――

 

 

 ――――

 

 

 馬孟起が韓遂と対峙した時には既に大勢は決していた。

 策に嵌められ五万を失った韓遂は、怒りと屈辱に塗れながらも、中領軍の散発的な嫌がらせに効果的な反撃を果たせずにじりじりと戦力を削られていった。大きく動けば今度はどんな策に嵌められるか判ったものではない。しかしやられっ放しでもいられない。迎撃に徹してどんな挑発陽動にも応じなかった。

 戦力が削られているのは慶祝の側も同様であり、元々の兵数の違いから実際には此方の方が深刻であったが、それを悟らせないように馬孟起着陣まで韓遂をこの地に縫い付けていた。

 

 そして、美名高き錦馬超が戦場に現れると、たった一度の交戦で韓遂軍は崩れ去った。

 ここに涼州乱は一応の決着を見た。

 

 

「でも韓遂は逃がしちゃったけどいいの?」

「正直どちらでも。生きてるなら涼州の重石として、今暫し異民族に睨みを利かせる役割を負わせておけばいいと、中央も判断するんじゃないですかねー」

 

 戦後処理の場で蕣華がそう疑問を漏らせば、子敬がつらつらと答えた。それに孟起が反応する。

 

「追撃を止めたのはそれが理由か。あたしとしては奴の首を捩じ切ってやりたいくらいなんだけどな」

「まぁまぁ、お姉様。おば様も一命を取り止めてるんだし、いいじゃない」

「お前は蕣華に付いて散々暴れ回ったからすっきりしてるみたいだけどな、あたしは暴れ足りないんだ!」

 

 生死不明とされていた馬寿成は危ういところで命を繋いでいた。その事実は孟起の怒りを一段下げる役に立った。伯瞻よりその報せを戦場で受け取らなければ、誰の制止であっても振り切って、韓遂を地獄に叩き落とすまで止まらなかっただろう。

 

「でも喉元過ぎればまーたやらかしそうじゃない? あのおばさん」

「今暫しの間に王朝を盤石にしなければ、という事ではないでしょうか」

「亞莎ちゃん、正解です。新帝陛下の御世を安定させるのは正に急務。その為にも翠さんには中央に居て欲しいんですよねー」

「その為に韓遂も利用する、か」

 

 韓遂征伐に出る前にも漢中で子敬が予測していた今後の展望。その為には乱の早期鎮圧は勿論、その後の土地の鎮撫には叛乱首謀者すら利用しなければならない。そして蕣華達も一刻も早く洛陽へ凱旋しなければならない。曰く、凱旋までが反乱鎮圧ですよー、との事である。

 

「漢中に寄る間はないかな?」

「あー、御方(おんかた)と留守番のトラ吉かー」

「御方?」

「こっちの話ー。気にしないで」

「お、おう」 

 

 御方とは無論先帝の事である。下手な呼び方が出来ぬ為、回り回って曖昧な呼び方になっているのだが、そんな事情など知る筈もなく、ぼかしながらも蕣華達が明らかに敬った扱い方をしていると窺える人物にまるで見当がつかない孟起が素直な疑問の声を上げた。

 それに対し、直球で誤魔化す仲峻。いつにない強い調子に、つい怯む孟起。面倒な説明を一切省いて“触れてはならない”と示した。

 蕣華をはじめとする幕僚達もそんなやり取りはなかったと言わんばかりの態度を取るのを見て、馬一族はこの事に関する不干渉を決め込んだ。

 

「そうですね、亞莎ちゃん。お迎えをお願いできますか?」

「畏まりました」

「お迎えするんだ」

「今でも不安がつのってるんだ。長期に亘ってお傍を離れているのはどうにも……」

「いやでも、それってつまり洛陽に……」

「お前等せめてあたし等が居ない所で話せよ!!」

 

 最前に牽制しておいてそのまま余人に知られては不味い話を続ける蕣華達一同に声を荒らげて抗議する孟起。さもありなん。

 

「ごめんごめん」

「お前のあたしに対する謝罪はいっつも軽いんだよ蕣華!」

「なんか思ってたよりすっごい人だね、蕣華ちゃん」

「なんか翠にはつい甘えちゃうんだよね」

「甘えなのか? 甘えだったのか?!」

 

 わなわなと震えながら抗議を続ける孟起。そんな孟起と蕣華の様子を可笑しそうに眺める伯瞻。俄かに弛緩した空気が流れる。

 しかし、その空気を切り裂いて飛来するものがあった。それは、高空から一気に蕣華の額に突っ込んだ。

 

「いったぁ?!」

「蕣華様!?」

「な、なんだ?!」

「ひゃわわ! 何事です?!」

「……あれ、これ地和の鳶じゃん」

 

 突然の襲来物に色めき立つ一同。そんな中、仲峻がその正体に気付く。それは、かつて呂奉先の邸で張三姉妹の次女が使役し、蕣華に預けられ、漢中にまで連れて行った鳶で間違いなかった。

 漢中にて蕣華が疫鬼虚耗(シュハオ)を憑り付かせた後、彼の歌姫宛てに手紙を持たせて飛び立たせていたのが今舞い戻って来たのである。

 手紙の内容は勿論虚耗に関する相談であった。それに対する返答の一部が、この鳶の帰還の仕方に現れていた。

 

「うぅ…、地和からの返信か。って、ちょっとちょっと。…分かったから引っ張らないで!」

 

「凄い。たんぽぽ、鳶に引っ張られて連れてかれる人初めて見たよ」

「心配するな蒲公英。あたしも初めてだ」

 

 あまりの展開に見送るしかできない一同を代表するかのような馬伯瞻の呟きに、馬孟起だけが答えた。

 

 

 鳶に引っ張られて人気のない所までやって来た蕣華。流石に途中からは周囲の目を気にして肩に止まってもらって急ぎ足で移動したが。

 周囲を見回し誰も居ない事を改めて確認すると、肩の鳶に視線を向けた。すると、鳶はまるで大きく息を吸い込んでいるかのように身を反らした。実際、その胸が大きく膨らんでいる。あ、嫌な予感。と蕣華が思い至った瞬間その耳元で怒号が響いた。

 

「こんのバカ蕣華! あんた何考えてんのよ!!」

 

 蕣華の鼓膜を強かに打ったそれは、間違いなく珠玉の歌姫にして凄腕の妖術士の声だった。

 

 




*214王異:涼州漢陽郡出身の女傑。趙昂の妻。女性でありながら戦場に出るほどの勇猛さを誇り、九の献策を献じる才知を発揮し、息子が人質に取られていても判断を鈍らせることのない果断な人物。

*215士同:王異の字。本作独自のもの。

*216馬岱:司隸扶風郡茂陵県出身の武将。馬超の従弟。北伐中に諸葛亮が病に倒れた後、魏延と楊儀が今後の方針で対立すると楊儀側に立って、漢中に落ち延びようとする魏延を追撃して斬り殺した。

*217閻行:涼州金城郡出身の武将。若き日の馬超を半殺しにしたことで有名。若い頃から韓遂の配下として活躍するが、曹操への使者として派遣されると、韓遂に曹操の帰順を勧めるようになる。それは聞きいられず、どころか曹操との間に亀裂を入れる為に韓遂の娘と婚姻させられてしまう。そのため閻行の父の身が危うくなり、結局閻行は韓遂に叛逆する。そして曹操に降り列侯に取り立てられ、韓遂に対する防壁の役割を与えられた。

*218伯瞻:馬岱の字。清朝期に編纂された地方志(地域の総合辞典)『陝西省(せんせいしょう)扶風縣(ふふうけん)郷土志(きょうどし)』に記述がある。時代も浅く、それ以前の記述を辿れない事から史料としての精確さに欠けるが、本作ではこの字を採用する。

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