桔梗の娘   作:猪飼部

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第二十回 天子崩御

 蕣華率いる偽天征伐軍は、儻駱道(とうろどう)を通り漢中郡治南鄭県(なんていけん)へ向けて進軍していた。この街道は峠が多く、相応に険道である。

 今、一際険しい峠を越えようと、蕣華の幕臣と屯騎兵は刺すような緊張感を纏って黙々と歩を進めていた。その、最早殺気とも感じ分けの付かぬ鬼気に、此度の征伐の為に徴兵された者達は訳も解らず憔悴の気配を漂わせている。この一部には蕣華の部曲も混じっており、彼等もピリピリとしている為、近くに配された者達は堪ったものではなかった。

 普段であれば、こういった空気をいち早く感じ取り和らげてくれる黄仲峻も、自身の不機嫌な雰囲気を外に漏らさぬように努めるのに精一杯で、そこまで気が回らずにいる。呂子明は一団の中で一番殺気立って張り詰めている。

 皆の苛立ちを肌に感じ、蕣華は深く溜息を吐いた。せめて道がもう少し平坦であればなぁ。そう思うが、そもそもこの街道を選択したのも、この空気を生み出している元凶の為であった。

 

 五丈原(ごじょうげん)褒中県(ほうちゅうけん)を結ぶ褒斜道(ほうしゃどう)は峠も少なく閣道(かくどう)(ここでは桟道の事)の整備も行き届いており、南鄭県に程近い地点へ出る為、この街道を通りたかったが、閣道の多さから断念せざるを得なかった。

 輿車(よしゃ)が通れないのである。峠を越える道の困難さは何とかなっても、物理的に輿車が通行できる道幅がないのは如何ともし難い。

 結局、次点の儻駱道を使う事としたのだった。

 

 輿車。およそ軍行にはそぐわぬこの荷物は、十常侍蹇碵の親類が乗り込んだ大層立派な代物であった。

 下軍校尉厳寿は、いよいよ政争が本格化しようとする洛陽から、外征に託けて親類を逃がす為の護衛を上軍校尉蹇碵から何卒と頼まれた。という事になっている。

 しかも。道中の世話にはトラを指名されており、身辺にはトラ(と蕣華)以外は近づく事も許されないのだ。今もトラは輿車の中で、やんごとなき貴き御方の慰み者となっているのだ。

 

 やれやれ、と蕣華はまた一つ溜息を吐いた。

 それを見咎めたのは、この空気の中で一人いつも通りの魯子敬であった。

 

「辛気臭いですよー、蕣華さん」

「ああ、私もトラに癒されたい」

「とられちゃってますからねー。まぁ、馬相(ばそう)(*196)を斬り捨てるまで我慢して下さい」

 

 肩を竦めて応える蕣華に平常の姿を見て安堵の笑みを溢し、ちらりと背後を気にしながら子敬は言葉を続けた。

 

「それにしても、まさかこんな難事を押し付けられるとは……。申し訳ありません」

「何謝ってんの。包が気にするような事じゃないよ」

「するような事ですよ」

 

 珍しく懊悩した表情を表に出して、苦しそうに吐き出す子敬。

 ここまで蕣華の為に精力的に働いて来たが、流石に無官のままでは限界が来ていた。屯騎校尉には(そして下軍校尉も同様に)司馬・主簿・功曹の属官が付き、その任用権は校尉自身にあった。だが、この三官にはそれぞれ呂子明、黄仲峻、黄宗文が就いていた。子敬は蕣華が将軍に昇り、開府したその時に軍師に任命して欲しいと願い出ていた。故に今も無官の身であり、その立ち位置は屯騎校尉の私設軍師といったところであった。

 それでも宮中である程度の働きを見せていた子敬の手腕に、蕣華が不満を持つなどあり得なかった。

 

「だとしても、私が選んだ事だよ」

 

 そんなものはあって無いような選択肢ではないか。そう言おうとした子敬を制して蕣華は首を横に振った。

 

「私が選んだ事なんだよ。包を迎え入れたのも、中央に残ると決めたのも、包に任せた全ての事も、あの御方を洛陽から脱出させる為の手駒となったのも、全部、私が選択して私が決めた事なんだ」

「蕣華さん……」

 

 決意を滲ませた蕣華の言に、子敬はそれ以上何も言えなくなった。

 子敬が珍しく固まったのを見て、先の深刻な決意を微塵も感じさせぬ軽い調子で蕣華は話を変えた。余りの落差に子敬が一瞬戸惑うも、直ぐに平時の調子を取り戻した。

 

「でだ、トラを撫でくり愛でる為にもさっさと馬相を斬りたいんだけど、軍師殿?」

「ひゃわっ!? …ふふっ、その点についてはお任せ下さい。巴鷹鏢局のお蔭で大陸西方、頓に益州の情報は質・量ともにかなりの確度で入手できますからねー」

 

 全く、こんな良い組織持ってたならもっと早く教えて下されば良かったのに、と子敬が軽く愚痴りながら対馬相戦の戦略を滔々と語り出すが、蕣華にとって巴鷹鏢局は厳氏部曲の働き口を造り出しただけであり、大陸広域に亘る情報網を布くために開局させた訳ではなかったのだ。

 それが、鏢局の存在を知った子敬によって瞬く間に情報局としての顔を持つに至った。特に洛陽にある分局は人員が倍に膨れ上がり、その増員全て、つまり現在の洛陽分局の半数が魯家部曲の偵知に長けた者で構成されており、各地の情報の集積が進んでいる。

 また、劉玄徳が刺史を務める豫州にも新たな支局が開局された。この事から、子敬が劉備陣営との関係を重視しているのを蕣華は感じ取っていた。玄徳に敬服している蕣華としては嬉しい限りだが、子敬が彼の陣営との繋がりを保とうとする深い理由は察せていなかった。因みに、現在の蕣華には玄徳勢と緊急で連絡が取れる手段があった。正確には、そこに身を寄せている者との連絡手段だが……。今もその連絡手段は、胸を張って蕣華の肩に止まっていた。

 急速に新たな機能が付与された巴鷹鏢局だが、仕事量の増加に対する多少の遅延は発生しても、混乱は起こらなかった。実のところ、素地が既にできていたのだ。

 鏢局を束ねる総鏢頭にして厳氏部曲の私兵長の趙弘、字を子鷹が、独自に厳氏当主厳顯義の為に大陸各地の情勢を探っていたのだ。その精度は荒いものであったが、素地としては充分であった。

 今も漢中分局の鏢師が先遣隊と連絡を取り合い、この本隊に随時情報を上げてきている。その情報を基に魯子敬が馬相の人格と軍勢を分析し、その上で偽報を流し馬相の動きを見て、そこから既に勝利への道程を見出していた。

 

 結果、馬相の乱は下軍校尉厳寿が漢中入りすると瞬く間に鎮圧されたのだった。

 そして、時を同じくして、皇帝崩御の報が大陸を駆け巡った。

 

 

 ――――

 

 

 第二十回 天子崩御

 

 

 

 秋立ちて、凛とした空気が心地良いある日の朝。南宮の玉堂(ぎょくどう)へ鋭い足取りで向かう二人の少女の姿があった。

 一人は益州巴郡江州県出身の武人。故郷より出でて二年と半年ほど、当時よりも背も随分と伸び、じきに七尺四寸(約170cm)に届こうかというところ。成長は上背だけでなく、胸も尻も随分と大きく実り、どちらも齢十四とは思えぬほどであり、実際、周囲からは実年齢よりも上に見られていた。張三姉妹の次女に胸を鷲掴みにされながら「なにこれ!? これでちぃより年下?! 舐めてんの?! ふざけてんの!!?」と激昂されたのも記憶に新しい。当人としても、近頃は身体的にはもうこれ以上成長しなくていいな、などと頻りに思っていた。

 彼女の名は厳寿。親しい者達からは真名の蕣華で呼ばれる若き女丈夫。この年の夏に鎮圧された黄巾の乱で名を上げ、屯騎校尉に上った新進の中央武官である。

 

 その蕣華の隣を付いて行くのは南蛮から来た少女、トラである。漢名を厳虎と名乗り、洛陽入りしてからは此方で呼ばれる事が多くなった。と言っても、直接姓名を呼ばれるよりは帰義侯殿だの様だのと呼ばれる方が更に多いが。

 南蛮の原生林を駆け回っていた頃からは想像も付かぬ現在の扱いに、まだまだ違和感とこそばゆさの抜けない天真爛漫な女の子は、今日もいつものように大好きな蕣華の隣に在った。

 

 南蛮で二人が出会って以来、二人は多くの時間を共にしてきた。それはこの洛陽で蕣華が正式に官吏に就いてからも変わらない。日常、屯騎校尉として殿中警備の指揮を執る時も、今日の様に侍中として召し出される時も、トラは蕣華の隣にいる事が出来た。宮中で供をしないのは朝議の時くらいである。

 宮中の多くの者が其処に首を傾げていたが、事実としてそうだった。トラは特に疑問も持たず、今まで通りである事を純粋に喜んでいたが、隣に立つ蕣華も現状に驚いている一人であった。特に、初めて侍中として天子に召し出された時の驚愕の様たるや、常にべったりのトラをしてなかなか見れぬ表情であった。

 流石に拝謁にまで同行するのは拙いと蕣華が諭せば、伝達官が「それが、帰義侯様も御一緒に参内されるようにとの仰せです」と横合いから応え、蕣華は思わず聞き返したほどだ。

 蕣華はその意図が全く見えず、かと言って帝の聖旨となれば従わぬわけにもいかぬ。

 自身が侍中に任命された意図同様の緊張を以って参内すれば、体調の優れぬ陛下がトラを愛玩する為に召し出されただけであった。ああ、私はおまけなのか。と脱力した蕣華に待っていたのは、諮問という体でトラとの出会いからこれまでの旅路の語り部という役割であった。有り体に言って皇上の慰み役といったところだ。

 朝臣となってまだ日も短い蕣華は、屯騎校尉としての日常勤務に加えて、割と頻繁に御前に召し出されており、随分と忙しい日々を送っていた。しかも、侍中としての働きが()()である。

 侍中とは一体……、と思わず自問してしまう現状、しかし魯子敬はこの話を聞いても気を緩める事はなかった。お蔭で、蕣華もぎりぎりのところで緊張感を保っていられる。

 

 今日この日も侍中としての召し出しであったが、今日はいつもよりも緊張していた。

 理由はその場所にあった。本日、呼び出された玉堂は、ここ数か月の間全く使用されていないらしい。突然に、ぱったりと。理由は不明。これまでの御役目から考えれば、態々そのような曰く付きの堂に召し出される理由はない。伝達官も、いつもは手の空いている吏卒であったところが、今日は宦官であった。蹇碵の従官であろう。

 

 蹇碵。現在の中常侍の中では主流派ではないものの、その権勢は依然強く、宮中で大きな影響力を発揮している。およそ閹人(えんじん)(*197)とは思えぬ偉丈夫で、蕣華よりも三寸(約7cm)ほど嵩があり、よく鍛えられた筋肉が朝服の上からでも良く判る。惜しいな、と思う。戦場で練り上げれば一角の武将となれるだろう。実際に蹇碵は上軍校尉を兼ねてはいるが、戦働きをすることはあるまい。これだけの資質を持ちながら、何を思って宦官の道を選んだのか、蕣華には全く理解できなかった。

 だが、現在の権勢を見るに、武の道よりも余程適性があったという事か。宦官としての栄達が。

 

 蹇碵のそれ程悪くない造作を、微妙なものにしている特徴的な静かなしかめっ面を思い起こしながら、蕣華は玉堂前殿入り口に続く階段に足を掛けた。

 蕣華とトラが召し出される際、蹇碵は必ず同席している。これは蕣華が侍中となった経緯を考えれば当然だろう。今以って、その意図は不明のままだ。子敬も色々と探りを入れているようだが、結果は芳しくない。蹇碵と皇后との対立が高まっており、おいそれと首を突っ込めないのだ。それでも奮起する子敬を、蕣華が自制するよう押し止めているのが現状である。

 なので、実際に蹇碵と顔を合わす蕣華が最もその思惑を読み解ける位置に立っているのだが、海千山千の陰謀屋の肚の内など判る筈もなかった。そもそも、特にこちらに声掛けする事もなく、天子が蕣華の話を興味深く聴いている脇で傲然と突っ立っているだけというのが常なのだ。実に不気味である。子敬にもその印象を伝える事しかできていない。不甲斐無くはあるが致し方ない。この手の権謀術数は蕣華の才覚の外も外の事であった。

 

 だが、問題は他にもある。蹇碵以外に二人いる同席者の内、宦官でない方の人物だ。黄門侍郎荀攸。蹇碵、趙忠(ちょうちゅう)(*198)と共に天子の側に侍る犬耳頭巾の才媛。

 此方は時折蕣華の話に質問を重ねてきたりもする。だからといって取っ付き易いかと言われれば、寧ろ蹇碵よりも蕣華は苦手としていた。蕣華に注がれる無遠慮な視線がその原因だ。全く隠そうともせずに此方を観察してくるのだ。だからといって咎める事も出来ずに、非常に居心地の悪い思いをしている。

 

 蕣華からすれば、黄巾征伐の際に大将軍の傍に居たのをちらと見た程度であったが、荀公達にとってはそうではなかった。あの時、対黄巾戦最後の戦場に於いて、荀公達はそこに集った全ての諸侯から漢臣、義勇軍に至るまでの主だった人材を観察していた。無論、蕣華もその内の一人であり、特に注視した一人でもあった。

 切っ掛けは厳寿軍の曹操軍への奇妙な助勢。

 公達はあれが助勢ではなく足止めだと気付いていた。双方の間に何かあるのか? はじめはその線で考えたが、蕣華が劉備と真名を交わすほどの仲であると知ってその線は直ぐに消した。

 浮上したのは無論、劉玄徳とその一党である。

 それぞれ豫州と幽州で旗揚げした二勢力が、黄巾戦で初顔合わせであったろうに随分と親交を深めていた。似たような立場であったから、以上のものを公達はそこに嗅ぎ取った。秘密の匂い、同じ秘密を共有する者同士の結束、共犯者の繋がり、そのようなものを。

 決戦前の軍議で蕣華の腹心が諸葛亮の為に立ち回っていた時には、既に形の見えない疑念があった。それだけならば、目立ち過ぎている蕣華への注目を逸らす当て馬という事も有り得た。しかし、両陣営の関係は遥かに親密であった。そこへきて蕣華の立ち回りと劉玄徳の立てた手柄である。その後も、腹心が黄琬に取り入り、劉備の論功に影響を与えた。

 そうして公達が行き着いたのは、黄巾後に劉備陣営に加わった営妓の三姉妹であった。

 劉玄徳と言う人物から考えると、刺史に成り上がったばかりの大事な時期に営妓を雇い入れる、というのは非常に()()()()()と感じる。兵の慰撫は確かに大切だが、他に優先すべきものが多過ぎる。調子に乗って個人的趣味嗜好を優先させるような愚物ではない。

 営妓三姉妹の存在は明らかに浮いている。

 はっきりとした答えに辿り着いたわけではないが、荀公達はかなり深い所までその智を届かせていた。

 

 故に公達は現状に“待った”を掛けていた。この日、蕣華が玉堂に呼ばれたのは、焦れた蹇碵と見極めたい荀公達の思惑が絡み合った結果であった。

 そんな事は露とも知らず、その玉堂前殿に、蕣華はトラと共に足を踏み入れた。

 

 

 ――――

 

 

 がらんとした堂内。二人以外に誰も居ない茫漠とした空間。そこに満ちる空虚な違和を特に気にする様子もなく、トラは不思議そうにきょろきょろと周囲を見回している。その隣りで油断なく、傍目には自然体で身構えながら立つ蕣華は、僅かな気配を感じて奥へ続く通路入り口へと油断なく目を向けた。直後、蕣華の視線の先で静かに扉が開かれ、蹇碵が姿を現した。

 

「こちらだ、厳侍中」 

 

 そう言って、此方の返事も待たずに扉の奥へ引っ込む中常侍。蕣華とトラは互いに目を合わせ、やれやれといった感で後に続いた。

 小走りで蹇碵に追い着くと、その後方を静かに付いていく。三者の間に会話はない。そもそも、蕣華は蹇碵の声を先程久し振りに聞いた気がした。極端に口数の少ない男だ。自分達の前でだけかもしれないが……。

 暫く蹇碵の後に従って歩けば、どうやら後殿へと辿り着いた。それならそれで、初めから玉堂後殿とまできちんと伝達すればよいものを、この一手間を掛ける事にどれ程の意味があるのか? 蕣華にはさっぱり解からなかった。

 ともあれ、蕣華は後殿の御坐に座す皇帝の御前に召し出された。トラと共にいつものように跪く。

 

「侍中厳寿、皇帝陛下に拝謁致します!」

「ん、立ちなさい」

「感謝します!」

「じゃ、行きましょうか」

「はっ! ……は?」

「へ、陛下!? それは…!」

「いいじゃん、私も観たいし」

 

 拝謁の挨拶を済ますと、皇帝は大儀そうに立ちあがった。そして放たれた言葉に蕣華は意味が判らず戸惑ったが、脇を固める三名ははっきりと狼狽した。流石の蹇碵も驚愕に顔を歪めて思い留まらせようと説得に回った。事態を飲み込めない蕣華の前で、すったもんだの挙句、「この間は我慢したんだから今日は絶対見物する!」という皇帝陛下の我が儘が押し通されたのだった。

 なにか、皇上が観覧するに相応しくない何事かがあり、自分はそれに対処しなければならないらしい。それも陛下の面前で、という事だけは辛うじて読み取れる。肝心の中身はさっぱりだが。

 

「厳寿」

「はっ!」

「陛下の玉体に何かあれば、その累はお前の身一つでは済まされないと心得なさい」

「万事心得ております」

 

 睨み付ける様な黄門侍郎の言葉に、何の事情も知らぬまま、それでもそう答えるしかない。内心腸が煮えくり返りそうになるが、表面的には億尾も出さずに従った。この短期間でこんな腹芸を身に付けた己に感心するやら呆れるやら……、それも面に出さず、先導する黄門侍郎に粛々と従った。

 

「にゃ~、陛下ー」

「ん? 厳寿は強いんでしょ? なら大丈夫でしょ」

 

 流石に不安に襲われたトラが皇帝にとてとてと走り寄ると、その頭を撫でながら事も無げに言ってのけた。その様子を盗み見ながら、蕣華は少しだけ気が楽になった。

 荒事なら専門だ。ただ、当たり前だが得物を持ち込んでいない。出来れば、使い慣れた愛用の武器で挑みたいのだが、まぁ、仕方ないか。と割り切って、思考を別の方向へ向けた。

 蕣華が気になったのは皇帝陛下の御容体である。初めて近侍で拝謁した時よりも、調子が上向いているように見える。いや、見えるのではなく、はっきりと快復してきている。なにせ今、トラの手を繋ぎながら自らの足でゆっくりとだが歩いているのだ。当初は寝台の様な輿の上で半身を起こすのがやっとで、謁見の時間もごく短いものだった。

 そうだ、と蕣華はやっと気づいた。今迄は徐々に時間が長引いて来ていただけで気付けなかった。それは慣れない御役目や、話に自分でも夢中になってしまう事があった為、思い至る事が出来なかったのだ。

 実際、顔色も良くなってきており、これまでは化粧で顔色を良く見せようといていると見せ掛けて、実際にはその逆で青白く見える様に施していたのだが、まさかその尊顔をじろじろと観察する筈もなく、蕣華は今日この時まで全く気付けていなかった。

 しかし今、こうしてトラの隣に居る様を見せられて、徐々に快復してきていた事に漸く気付いたのだった。

 そしてそこから更に思考を深める。何故こうもあからさまに気付かせたのだろうか? これから自分がする事に何か関係があるのだろうか? それとも、もっと先の事に……。

 

 蕣華の思索はそこで打ち切られた。何時の間にか中庭に出てきたのだ。蕣華の思考は完全に止まった。そして、その視線は庭の一点に釘付けにされた。

 そこには虹があった。青い虹が。蕣華の腰の高さほどの中空を、蛇のようにのたうっている。良く視れば、その虹には龍に似た頭があった。

 

虹蜺(ホンニー)(*199)よ」

「虹の龍……」

「こいつは正確には(ニー)ね。温徳殿(おんとくでん)に出た(ホン)は既に呂布によって討伐されたわ」

 

 荀黄門侍郎が剣を蕣華に差し出しながら声を掛けてきた。更に籠に入れられた黒い雌鶏を持ち出して話を続ける。

 

「鶏血は確かに効果があったわ」

「そうですか」

「ただ、流石に尋常の獣を斬り捨てる様にはいかないみたいね」

「ならば死にきるまで斬り刻むまでです」

「ふん、頼もしいじゃない」

 

 それは蕣華が張三姉妹の妖術士から聞いた話だった。幽体などの物理的な干渉を受けない怪異でも、刃に黒羽の雌鶏の血を塗れば一定の効果を見込める、と。

 この対処法は、蕣華が南蛮での怪鳥退治の話を披露していた時に、黄門侍郎の質問を受けて開陳したものだ。

 あの時は、世にも珍しい怪物退治譚に喰い付いたのかと思ったのだが、何の事はない。目の前の脅威を取り除くための情報を欲しがっていたのだ。

 そして、雄の虹龍は友人の飛将軍が見事退治したらしい。ならば、眼前のもう一尾も任せれば良いところを、態々蕣華に御鉢を回してきた。これは詰まる所、試されているという事でいいのだろうか? 或いは、これまでの召し出しで一定の信用を得たのか?

 確かにこんなものが徘徊していては玉堂は閉鎖せざるを得ないだろうし、下手な人物に漏らす事も出来ない。故に今この場に自分が立っているという事実は、一歩前進したとみていいのだろう。それと同時に、一歩深みに嵌まった訳でもあるが……。

 それにしてもこいつはなんだろうか? 何故宮中に出現したのか。妖異が出現するに相応しからぬ所在と蕣華には思えたが……。

 

「お聞きしても?」

「『后妃が陰ながら王者を脅かす時、天が蜺者(げいしゃ)を投げうつ』だそうよ」

 

 蕣華の質問に、実に忌々しそうに蜺を睨み付けながら答える荀公達。その答えに、蕣華も顔を歪めて蜺を睨んだ。その蕣華の様子を盗み見ながら、公達は蕣華への心証を一つ上げたが、蕣華が真に反応したのは“天が投げうつ”という部分であった。

 黄門侍郎から受け取った雌鶏を暫し瞑目してから斬り捨て、その血を剣身にたっぷりと滴らせ、険しい表情のまま虹龍へと向かった。

 蕣華の接近を気取った蜺はその鎌首をもたげて迎え撃った。

 

 

 ――――

 

 

「へぇ~、すごいすごい!」

「にゃ! 姉ーはとっても凄いんですにゃ!」

 

 まるで活劇の様な蕣華の大立ち回りに、無邪気に喝采を上げながら観覧する帝とトラ。

 その二人の脇に侍りながら、荀公達は特に感心する事もなく蕣華の戦いぶりを眺めていた。先の戦場での戦働きから、この程度は使えるだろうという予測から大きく外れてはいない。ただいつものように、自分の観察眼の確かさを確認する結果になっただけだ。

 公達の注目はその武にではなく、蕣華の表情に注がれていた。明らかに苛立っているのが判る。時折、何事か呟いてもいる。その心情が我慢しきれずに吐き出されているのだろう。その、意図せず零れ出た蕣華の心の内を、公達は正確に読唇しいていた。

 

 天が投げうっただと? ふざけるな 天意がこの王朝に駄目出しした? 勝手に決められてたまるか

 

 公達にとって有意な発語は以上のようなものだった。

 それ以外の、より個人的な吐露は流した。だったら私は何なんだ!など言う他人の自己探求には一切興味はない。

 

 

 蕣華は確かに憤っていた。

 天に決められる。というのがどうにも我慢できなかった。幼い頃からそうだった。何故なのかは、自分でも明確に言語化する事は出来なかったが、兎に角厭だったのだ。

 天命の外からやって来た少女にとって、それは見えない敵と言ってもいいのかも知れない。誰にも理解されない敵意、或いは叛意。

 

 そして、少女自身気付かない苛立ちの理由がもう一つあった。“天”という概念から連想するとある存在。天の御遣い。それは、見方を変えれば漢王朝の終焉を告げる使者と言えるかも知れないという事。新しい何かが始まるとき、それ以前の古きものが終わりを迎える。その為の先駈け。

 同時に、彼がそんな舞台装置ではないと信じたい想いが、心の奥深いところから軋みを上げながら先の苛立ちに衝突する。

 うねりながら拮抗するもやもやとした重い黒煙のような感情の大波が、心の奥から表層に飛沫を飛ばし、蕣華は「ああ、そうだ」と思い至る。

 彼は何時だって何処だって、自分が辿り着いた居場所で、ただ自分にできる精一杯の事をやって来たんじゃないか。

 

 虹であり、龍であり、天の意志である幻獣の頚を斬り飛ばしながら、蕣華は古きものの中で抗う道の上に自分が居る事を漸く真に理解した。それと共に、自分もこの場所で、ただ自分にできる精一杯の事をやるしかない事も。

 

 彼女の戦が、本当の意味で始まった。

 

 それは、蕣華が自身の意志で決めた戦であり、意図せず予期しない敵に対する宣戦布告にもなっていた。彼女が己の戦の裏に蠢く敵を知るのは、もう少し後の事となる。

 今この時、蕣華の頭にあったのは、これからの戦の困難でもなく、勿論知る事のない敵である筈もなく、今現在の状況の事ですらなかった。

 彼女はただ、こう想っていた。

 

 

 ――嗚呼、北郷君に逢いたいな

 

 

 その泡沫の想いは、矢張り意識せずに浮上し、思い至ると同時にふわりと弾けて消えた……。

 後には、ただ胸が締め付けられそうになる切ない余韻のみが残され、彼女は、今し方、自分が何を想ったのか、それに行き着く事が出来ずに小さく困惑した。

 

 

 第二十回――了――

 

 

 ――――

 

 

「陛下はこれよりお隠れになる」

 

 蹇碵がいつもの陰鬱な面構えでそう言った時、蕣華は反応を示す事が出来なかった。

 虹蜺を退治し、再び玉堂後殿に戻り、皇帝が御坐に腰を落ち着け、全員が謁見当初の位置に付いて、先ず放たれた第一声がこれである。

 不敬などという軽い言葉で済ませて良い言ではない。にも拘らず、言葉の意味が判っていないトラを除外するとして、自分以外は帝自身も咎めようともしない。それはつまり、全員が承知の上であり、自分はその謀劇に組み込まれたという事。

 蕣華は考える。必死に頭を振り絞って思考を高速で巡らせる。

 『()()()()お隠れになる』 つまり、予定として死ぬ。死の偽装。魯子敬が蹇碵と交わした時点での己の役割。今、この時点で求められている役どころ。

 

「外征先は何処になりましょう?」

「折良く…、などとは言ってはいけないのだけれど、漢中で変事が起こったわ。馬相とかいう下らない賊が、よりにもよって天子を自称して調子に乗っているの」

 

 まずは合格点、といった雰囲気を纏わせた声色で黄門侍郎が答えた。

 下軍校尉としての外征。子敬が蹇碵に取り付けた約定。子敬の予想では、最大の黄巾残党が集結しつつある青洲か、長年に亘って異民族と匪賊に悩まされる并州のどちらかが可能性が高いと言っていたが、どちらも今回の任務では除外されるのは当然だろう。首尾よく賊を討伐できたとしても、州内が荒れ過ぎている。そこへきて漢中の騒動だ。成る程、「折良く」か。

 それにしても、蹇碵と荀攸。この二人が組んでいたとは驚きだった。宦官と組む清官が居ようとは考えもしなかった蕣華である。荀黄門侍郎は十常侍蹇碵への牽制で同席しているものだとばかり思っていたのだ。

 荀公達はそこらに転がっている名ばかりの清流派とは違う。ただ濁官と蔑む宦官勢と反目しているだけで、清流と見做されている、或いは自称しているだけの連中とは違う、一握りの本物の清官である。それが、宦官の頂点の一人と共に皇上の脇に立っている。

 自分の単純な頭では、宮中の複雑怪奇な勢力図を把握するのは無理そうだ。少なくとも、一朝一夕とは絶対にいかないだろうと、蕣華は心中独り言ちて改めて二人の怪物に意識を移した。

 そこを狙ったわけでもなかろうが、丁度その瞬間に蹇碵が言葉を掛けてきた。

 

「漢中には五斗米道なる巫医の集団があるそうだな」

「はい。私の知己にも一人、凄腕の巫医がおります」

張脩(ちょうしゅう)、といったか」

 

 何処まで調べ上げてるんだよ……。何とか表情を保ったままげんなりしていると、代わって荀公達が話を続けた。

 

「連絡は取れる?」

「手紙、……速達を出す事は出来ます。常に巴蜀と漢中を行き来して医療活動に従事しておりますが、彼はこの地域から出る事はまずないので、足取りを追う事も難しくはないかと……」

「巴鷹鏢局ね。随分と羽振りがいいのも広げた網の目の細かさ故かしら」

「……お蔭様で」

 

 自身の智嚢がその有用性をすぐさま見い出して活用を始めたのだ。眼前の智の怪物がその存在を知れば、当然同様の結論に至るだろう。

 問題は、当然のように存在と繋がりを知られている事だ。

 蕣華は益州を出てよりこれまで、殆ど巴鷹鏢局と接触を持たなかった。いつでも頼れる故郷との繋がりにべったりでは、母の元を発った意味が無いからだ。南蛮で一時鏢師が同行した際にそれを強く意識した為、その鏢師を帰す時に強く言い含めておいたのだ。以後、鏢局側、それを纏める趙子鷹も心得たもので、蕣華に干渉する事はなかった。

 それが崩れたのは子敬に何かの拍子で話した時だった。実家の生業の話をしている時だったか、子敬が家業を放って様々な事に手を出していたのを聞いていた時に、ぽろりと口を吐いて出たのだった。

 鏢局の存在を知った子敬の動きは早かったが、大っぴらに動いたわけではない。それでも、蕣華を注視している者からすれば、特に荀公達のような者が視れば、気付くなと言う方が無理のある変化が鏢局に顕われていた。

 

「重畳、と言ったところか」

「そうね、毒を遠ざけるところまでは出来ても、その先の治癒には手が届かなかったし」

 

 あまりに不穏な単語の出現に、自身に対する両者の手の長さへの戦慄など一気に吹き飛んだ。

 そうだ。陛下は体調を崩されていた。どころではなく、確実に死へと向かっており、だからこそ後継者争いが水面下で荒れ狂っているのだ。そして、その原因は病などではなかった。ああ、そういう事だったのか。

 毒を断つ事で多少の改善はみられたようだが、根本的な回復などは見込めまい。なんとしても(ちょう)伯腊(はくろう)に連絡を付けなければ。

 それにしても誰がその暴挙に出たのか。いや、それは明らかだ。協皇女派の蹇碵勢が皇上の脇に侍っているのだ。一人しかいない。

 

「いやぁ、結婚なんて適当にするもんじゃないわね」

 

 それまで御坐に浅く腰掛け、話を聞いているのかいないのか曖昧な様子であった皇帝が、自虐的な笑みと共に述懐した。

 

「その当時に私がお傍に居りましたら、何としても御止めしていました」

 

 まさかその発言に乗る訳にもいかず、どうにも反応に困っていると、公達がにべもなく告げるのをみて絶句した。凄いなこの人。ただ純粋に蕣華はそう思ったが、見倣おうとは思わなかった。

 

「でも今はあの子の傍にあんたが、あんた達が居るからね。……妹を頼むわ」

「一身命に代えましても」

 

 恭しく頭を下げる公達と蹇碵を見て、そう言えばもともと協皇女派であった事を思い出した。つまり、この二人は皇女殿下の思惑でこの場に居るのだ。皇妹が皇上を密かに逃がそうとしているのだ。そう考えると、真にこの現皇帝に仕える者は居ないのかと、物寂しさが不敬に胸に湧いたが、それまで殆ど存在を忘れていた一人がそっと今上帝の隣に跪いて、肘掛に乗せられていた帝の手に己の手を重ねた。

 

「私は永遠に陛下に身も心も捧げております」

「全く、あんたみたいな変態しか居ないんだから」

「はぁん! 勿体無きお言葉。愚図で鈍間な私を罵って頂けるだけで幸せで御座います」

 

 台無しだよ。

 ずっこけそうになるのを無理やり抑えた自分を褒める蕣華だったが、つい眉間に手をやり揉み解すのは止められなかった。誰にも見咎められる事もなかったが。

 四人の前で一頻り奇妙ないちゃつきを見せ付けた皇帝だったが、満足したのか、しっしっと手で趙忠を追い払ってから(趙忠はとても嬉しそうに元居た位置に下がった)真剣な表情を形作って蕣華を見据えた。

 

「じゃあ、頼むわね」

「仰せのままに!」

 

 

 この密談の後、皇帝は遂に起き上がる事も出来ずに寝込み続け、厳下軍校尉が漢中を平定した頃に、最後までその傍に付き従っていた唯一の忠臣趙忠に看取られて、静かに世を去ったと伝えられた。

 

 

 




*196馬相:出身地不明の賊徒。黄巾の乱後に、その残党として益州で叛乱を起こした。まず旗揚げした広漢郡緜竹県(めんちくけん)県令李升(りしょう)を殺害。続いて益州刺史郤倹を殺害し、広漢郡、蜀郡、犍為郡を中心に略奪を繰り返し、巴郡太守も殺害。遂に天子を僭称するに至った。しかし最後には州従事の賈龍(かりょう)に討ち取られた。

*197閹人:宦官の別称の一つ。閹は去勢を意味し、去勢した者=宦官という訳である。恋姫では女性宦官も居るが、本作では女性宦官に対しても閹人の別称は通るものとする。

*198趙忠:冀州安平郡(あんぺいぐん)出身の宦官。第十一代皇帝劉志(りゅうし)の代に、梁冀誅殺の功(中心的な働きをした訳ではない)で都郷侯に列せられ、中常侍に任命された。劉宏が皇帝となるとその権勢は絶頂期を迎える。皇帝に「我が母」とまで称され寵愛された。張讓と共に十常侍の中心人物であった。劉宏が崩御すると、蹇碵に何進謀殺の相談を受けるが、何進側に寝返り蹇碵を敗死に追い込んだ。その後、結局何進とも対立し、首尾よく謀殺するが、激発した袁紹達によって殺害された。
恋姫では恋姫英雄譚(真に非ず)でデザインされ、ドMな凄腕料理人の宦官として登場する。宦官だが当然のように女性。去勢の代わりに鉄の貞操帯を装着している。十常侍の序列二位だが、政はさっぱりで、他の宦官から馬鹿にされているらしい。革命に登場するかも知れない。

*199虹蜺:いわゆる虹の事だが、古代中華において、しばしば龍と同一視、或いは、その亜種とされた。雌雄一対の存在として雄を虹、雌を蜺とする場合もある。これは虹蜺に限らず、中国の瑞獣・幻獣の類いに多く見られる特徴である。その身は七色に輝き、空に出現することで虹が出来るとされた。『後漢書』には虹蜺が宮中に出現した記述がみられる。人家に侵入し水を盗み飲んだところ、珍事に喜んだ家人が酒を振舞うと、礼として黄金を与えたという逸話もある。

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