桔梗の娘   作:猪飼部

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次回、九月中の更新は難しいかも知れません。ごゆるりとお待ちくださいませ。


第十八回 為明天酒

太平要術(たいへいようじゅつ)の書ねぇ」

「はい」

 

 呂奉先の私邸に用意された客間にて、蕣華達は劉玄徳一党と保護された張三姉妹と面談していた。

 劉玄徳は此度の黄巾征伐における勲功で豫州刺史に任じられており、任地へと赴く前に蕣華の元に訪れていた。その目的は、黄巾の乱の中心人物・張角とその二人の妹について話し合う為であった。

 そして今、蕣華の目の前には一巻の妖術書がご丁寧に書盆に乗せられて卓上に鎮座している。

 対面に座る玄徳と孔明はやや緊張した面持ちで妖術書と蕣華を交互に見遣っている。玄徳の斜め後方に控える関雲長ははっきりと厳しい表情だ。その隣り、孔明の後方に位置する鳳士元は不安気に孔明の後頭部を見詰めている。その孔明の脇に座る張角はのほほんとしている。図太いというよりは、現状をあまり良く解かっていないのだろう。その代わり、という訳でもあるまいが、張角の後方に座る彼女の末妹は固い表情を保っている。その隣の二女は憮然とした表情で俯いている。

 

「内容を検めても?」

「え…っと」

「それが道理とは思いますが、正直、あまりお勧めできません」

 

 蕣華の言葉に、玄徳が言葉を濁し、孔明が顔色をやや白くして答えた。そこで蕣華は初めて孔明が薄く化粧を施しているのに気が付いた。注視してみれば、憔悴を誤魔化す為のものと知れた。

 

「それね、とても怖いものなの」

「怖い?」

「うん。私も少しだけ読もうとしたんだけど、なんていうか、吸い込まれそうになって……」

「桃香様の言う通り、それは危険です」

「ふむ……」

 

 どうやら対面の二人は、この妖術書に僅かにだが目を通したらしい。しかし、二人の状態には差がある。それは意志の差か、或いは知的好奇心の差か……。蕣華はもう一度、張三姉妹に視線を向けた。

 

「私達がそれを入手した時は、正直かなり興奮したのを憶えているわ。私達が求めるものを手にする為の示唆が、……いえ、もっとはっきりと明示されていたのだから」

 

 蕣華の視線の意図を汲み取って、張梁(ちょうりょう)(*188)が口を開いた。

 

「具体的には?」

「簡単に言えば有名になるための方法が段階的に示されてたわ。あと、後半は方術・妖術の指南書でもあったわね。その中にも、私達の舞台演出に使えるものが幾つもあった」

 

 張梁を説明を聞きながら書を手に取り、もう一度「ふむ」と呟いて、徐に書を紐解いた。その躊躇のない動作に、対面の二人は身を固くしたが蕣華は平然としたものだった。

 確かに今説明を受けた通りの内容のようだと、斜め読みで手早く繰り終える。しかし、危惧したような精神的な干渉は受けなかった。はて、これはどういう事だろう? 玄徳達がこうして目の前に居るからには、読み込んだだけで魂を獲られるような事もあるまいと思っての行動だったが、なんの影響も感じられないとは思わなかった。実は自分はそういった類が効かない特異体質なのか? などと突拍子もない事まで考えてしまう。

 くるくると竹簡を巻き戻しながら所感を述べると、張梁が唇に指を当て思案しながら同意を示してきた。そして、そのやり取りに玄徳達二人が不可解と謂わんばかりの反応を示していた。

 

「有名になる為の方法か。しかし、何と言うか都合よく限定的だな」

「そう、ね。確かに言われてみれば……」

「えっ?」

 

 実際に声を上げた孔明を見ると、中途半端に手が伸ばされており、それに気付いた少女が慌てて自身の手を引っ込めるのを見送りながら、蕣華は脳内で疑問符を上げた。

 その疑問に応えたのは隣に座する魯子敬だった。

 

「どうやら御二人には違うものが見えていたようで」

「……はい、その通りです」

 

 躊躇しがちに答えた孔明の言葉を、太平要術を紐止めしながら反芻してその身に理解を漸く行き渡らせた蕣華は、目を見開き感心しながら隣の軍師を振り返った。

 

「よくいきなりそんな発想が出てくるね」

「発想だけで済めばよかったのですがねー。事実であると認識しなければならないとなるとなんともはや……。読み解く者の望みを書き記す書、ですか。正しく妖書ですねー」

「望みねぇ……」

 

 先程は張三姉妹の望みを覗き見た格好だったという事だろうか。じゃあ、私の望みはなんだろう? 武官としての立身、ではないな。大陸の情勢を少しでも良くしたいと思ってはいるが、何と言うか具体性に欠ける。元々、大望を抱いて故郷を出た訳ではなく、御遣いとなる彼が何処に光臨するのかを確かめたかったのだが、それも未だに見付からない。目星を付けていた三陣営には居ないし……。未究の奴が私が求めてるなんて言うから……。もやもやと考えを巡らせるが、思考が上手く纏まらない。纏まらないことを自覚して、明後日の方向へ飛ぼうとしていた思考を太平要術の書に戻す。某かの大望を抱く人物にしか力を示さないのかも知れないな、と思いながら何気に視線をまだ手にしていた竹簡に落とすと、確りと結んだはずの紐が解けていた。

 

 おかしいな?

 

 確かに紐止めをした筈だ。ながら作業であったが、間違いない。こんな簡単に解ける筈がない。その筈が……。カタリ、と幽かな音を立てて簡が一札、一札だけ捲れ上がった。視線がその不自然な挙動を成した一札に吸い寄せられる。そこに記された一文は、確かに先程目にしたものとは違っていた。そこに記されていたのは……、

 

 バンッ! と一際大きな音を立てて太平要術の書が書盆に置かれた。いや、叩き付けられた、と言うべきか。客間に居た全ての人間の視線が一瞬でそこに集中した。皆、驚いていた。中でも、叩き付けた勢いとは逆にそっと竹簡から手を放した蕣華が最も驚いていた。全員の視線が書から蕣華に移される。その視線を受けて、長くゆっくりと息を吐き出し、蕣華は静かに独り言ちた。

 

「確かにこれは怖いね」

 

 背中に冷たい汗を感じながら、南蛮での事を思い出していた。妖書の矢鱈と達筆な字を目にした時、あの不吉な視線が記憶の奥で瞬いた。あの怪鳥の視線、あれは矢張り人の精神に負担を与える超常が込められていたのだろう。その経験が蕣華を妖書から寸でのところで引き剥がした。

 

「よく平然と利用できたね、これ」

「ふんっ! ちぃには余裕よ、こんなの使いこなすくらい!」

地和(チーホウ)

「うっ……」

 

 張梁に向けての言葉だったが、答えたのは次姉の張宝(ちょうほう)(*189)だった。なかなかに不遜な態度だったが、割と見掛ける範囲の不遜度だった為、蕣華に特に思うところはなく、ただ妖書を扱っていたのが三女だと思っていた為に軽く驚いたくらいだった。しかし、その態度に思うところのある者は他ならぬ劉備陣営におり、雲長にすぐさま窘められていた。窘めるというには少々語調が強かったが。

 

「名を売る為の実践法は私が主に担当したけど、ちぃ姉さんは妖術を習得したのよ。姉さんはああ言ってるけど、やっぱり違和感のようなものは感じてたみたい。私も、正直魅入られてた部分もあると思う」

 

 張梁がそう補足し、蕣華は頷いた。淡々と語っているが、その裏で心が小刻みに小さく震えているのが感じられた。書を手に入れた時の興奮、支持者が如実に増えていく実感、昇っていく高揚感、その時には感じなかったもの。膨れ上がり過ぎ、意図しない方向へと流れ始めた時の困惑を通り過ぎ、今ここにこうして姉妹揃って居られる安堵の裏側にある感情。畏れの感情が確かに張梁の心根に巣食っていた。一見、強気な態度を取る張宝にも同様のそれを感じた。それがどれ程根深く強く浸食しているかまでは蕣華には窺い知れない。

 しかし、と蕣華は三姉妹の長姉に目を向けた。そこには終始にこにこと笑顔を絶やさずにいる張角の姿が在った。彼女にだけは一切の翳りを感じない。全く以って大物だ。心中、感嘆し切りである。そして同時に、彼女が居ればこの姉妹は大丈夫だろうと安心出来た。ともあれ、彼女達の処遇は劉玄徳に委ねられている。自分が張三姉妹の心配をするのも見当が違うのだが、それでも気に掛かってしまうのは仕方ない事ではあった。

 此方の視線に気付いたのか、張角が小首を傾げながら笑い掛けてきた。その天真爛漫な輝きを見て、黄巾賊がああまで膨れ上がったのは何も妖書の所為ばかりでもないな、と一人得心した。

 

「もう、妖書の力なんて必要ないね」

 

 そしてそう笑顔で返した。蕣華のその突然ともとれる言葉に、張三姉妹が纏う空気が一段、柔らかいものとなった。

 その流れのまま、蕣華は改めて太平要術の書に目を移して、あっさりと宣言した。

 

「じゃあ、これは燃やしちゃおうか」

「うん、そうだね」

 

 そして、玄徳も至極あっさりと同意して、この仕儀は決着を見る事となった。その時の、孔明の強張りながらもほっとした様子が、蕣華の印象に残った。

 

 

 ――――

 

 

 第十八回 為明天酒

 

 

 

 蘖酒(げっしゅ)というものがある。(ひこばえ)穀芽(こくが))を荒く挽き麹黴を生やした散麹(ばらこうじ)を用いて酒造された古くから伝わる酒である。別名を(れい)と言い、酒精が非常に低く味も極薄い為、今では酒としてはほぼ流通していない。酒と醴は明確に別物として扱われている。調味料としての需要が主たるものだが、いわゆる甘酒として、酒精に弱い者が酒席で失礼にならぬ程度に嗜む事もある。そして、その甘酒で十分な少女が今、普段酒席で口にする蘖酒ではなく、上品な芳香を放つ酒を手にしていた。

 昼を幾許か過ぎた頃、主君に宿を借りに来た厳慶祝が礼として酒宴を披いた際に出した酒である。

 告老した訳でもないのに行賞にて賜与された上尊酒だ。当初、慶祝自身も首を傾げていたようだが、どうやら黄仲峻がこっそりと魯子敬に手を回させて行賞に捻じ込ませたらしい。呆れたものだがお蔭で今宵の酒宴は随分と豪勢なものとなり、出席者達は皆大喜びであった。普段はあまり酒を呑まぬ音々音も、物は試しと一杯だけこうして注いで貰ったのである。

 ついっと丁寧に御猪口を口に運び、ゆっくりと傾け、滑らかに酒を喉に通す。強いのは香ばかりでなく、酒精も相当なものだ。たった一口で肌が上気してしまった。矢張り御猪口に一杯だけで十分だな、と俄かに熱を帯びた吐息を吐いて、周囲の喧騒を見回した。

 招かれているのは、殆どが主君と慶祝共通の友人だが、初めて見る顔もあった。劉玄徳とその配下達である。

 慶祝が音々音に宴の提案をしていた時、黄宗文が慶祝の元に案内して来た新豫州刺史。更には中山(ちゅうざん)靖王(せいおう)の後裔であると正式に漢室に認められ、宜城(ぎじょう)亭侯(ていこう)にも封じられた。慶祝と同じ様に義勇軍から身を立てて、黄巾首魁の首級をあげ、皇族として認められ、州刺史にまで一気に上った時代の寵児。

 在野に眠っていた傑物が次々と花開くこの流れは、歴史の転換を否応にでも感じさせるものだ。

 音々音の尊崇する主・呂奉先も此度の功績で前将軍(ぜんしょうぐん)に累進、都亭侯に封じられた。天下無双の評価と共に、飛将軍の異名で天下に名を轟かせた。

 順調だ。何処の誰が名を上げようとも、呂奉先の龍道を阻める者など居はしない。ふわふわと心地良い気分で確信に満ちながら、音々音は杯を重ねた。何時の間にか誰かに注がれていた上尊酒を重ねたのだった。

 

 

 ――――

 

 

 張文遠が潰してしまった陳公台を介抱する鶸は、何食わぬ顔で今度は関雲長にちょっかいを掛けている文遠を視界に収めて溜め息を吐いた。酒宴が始まる前には、新顔である玄徳一党を見定めてやるなどと息巻いていた小さな軍師は、あっさりと酒に飲まれて深い眠りについてしまった。元々、酒に強い性質ではないのだから、始まって早々に強い酒に手を出すべきではなかったのだが、つい普段お目に掛かれない等級の酒に好奇心を刺激されてこの様である。

 陽が沈む前から早々に始められた宴の最序盤で沈んだ奉先の懐刀の寝顔を眺めて思う。常は自分などよりも余程頭が回り遠くまで見通せる才知がありながら、時折こうしてやらかしてしまう小さな友人に、年相応の微笑ましさを感じて知らず笑顔を浮かべていた。

 

「おやおや、これは仲承さんじゃないですかー。」

「え、あ、……子敬さん」

 

 と、そこへふらりと現れたのは、公台と違いしっかりとこの宴に集った者達の情報収集に勤しんでいる魯子敬であった。嘗て、慶祝が初めて洛陽に滞在した折、彼女を探っていた曲者。だったのに、今ではその慶祝の智嚢として傍に控えているのである。久し振りに会った慶祝に紹介された時、董幼宰と共に驚いたものだ。珍しく、幼宰の表情がはっきりと驚愕を象っていたので、その衝撃はかなりのものだっただろう。無論、自身も同様だ。

 そんな訳で、鶸は正直言って彼女が苦手だ。それは、最初の印象に基づくものであるが、彼女を平然と受け入れている慶祝に驚きを禁じ得なかった。

 

「いやですねー、そんなに嫌わないで下さいよー」

「い、いえ、そういう訳では……」

 

 此方の戸惑いも全く気に留めた様子もなく、酒気で紅潮した面をずいっと寄せて絡んでくる。その様子に、この人もかなり酔ってるなぁ、と内心毒づいたが、実際には子敬の表面的な酔い加減などは擬態であった。

 

「公台さんはおねむですかー、残念です。色々とお話を伺いたかったのですが」

「ねねちゃんと、ですか」

「同じ知に生きる者同士、言葉を交わすだけでも良い刺激になるんですよー」

「成る程、そういうものですか」

 

 納得し頷く。その素直な鶸の様子に、子敬は笑みを深くした。一目見ただけで警戒している事もありありと判り、かと言って話を振られたら邪険には扱えない。そんな鶸の真っ直ぐな性情は子敬にとって好ましく、また与し易かった。

 ほんの四半時も話せば、酒の力も手伝って子敬の話術の前に、鶸の舌は実に滑らかに回った。

 鶸は慶祝と初めて出会った時、奉車都尉丞であったが、現在は奉車都尉に累進していた。これには謹厳実直な勤務態度が評価されたのは勿論あるが、それよりも時勢が大きな要因となっていた。奉車都尉は元々儀仗職であるが、有事の際には叛乱討伐に討って出る事もある。前任者は完全な文官肌で、警護の配置や警備計画・指令はできるが外征などは無理であった。そのように本来の職掌のみを堅実に熟していたが、大陸の情勢を鑑みればいざという時に武を揮える者が望まれた。鶸は正に適任であったのだ。

 儀仗兵としてだけでなく、実際的な武官として期待されている鶸ではあるが、先の黄巾征伐では外征することなく、天子の側に侍って警護を固めていた。その為、子敬の求める情報の幾許かを掴んでいた。

 

 宮殿の内では既に次期皇帝へ焦点が移っていた。

 ()皇后(こうごう)河間(かかん)王家の血筋より養子に迎えた弁皇子と、皇妹である協皇女。誰がどちらを擁立しようとしているのか。と言うよりも、誰が協皇女に肩入れするのか。を問うた方が早いだろう。

 何皇后の権力志向は誰もが知るところである。十常侍との関係も良く、姉の何大将軍に対して主導権を握り、何より弁皇子を完全に傀儡としていると専らの噂だ。特に弁皇子に対しては、口の端に乗せるのも憚れる様な手段を用いて己の操り人形にしているなどと囁かれてもいる。

 世の良識ある人々は十常侍を口を極めて糾弾するが、現在の漢王朝に於いて最も排斥すべきは何皇后ではないかと言う者までいる。どちらがより害悪かは置くとして、王朝に暗澹たる影響力を発揮しているのは間違いのないところである。

 ここまで揃えば、次期皇帝の座など決まりきっているように思えるが、そう簡単に話は終わらない。なにせ協皇女に皇位を継ぐ意思があるというのだ。現皇帝の姉に幾度も諫言しているのを宮中の多くの者が知っているし、皇族としての誇りと責任を強く持っていると評判である。

 しかし宮中の影響力では何皇后が圧倒している。この状況で協皇女を支援する者が果たしているだろうかと思う者は多いが、世の中それほど単純な決着が付く方が珍しいものだ。

 

「……やっぱり、一波乱あるんですね」

「そりゃそうですよー」

「個人的には皇女殿下に継いでいただきたいと思ってますけど、本当に支援者なんて居るんですか?」

 

 この場合は無論、皇位継承に影響を齎せるだけの力を持った支援者と言う意味である。

 

「いますよ、絶対」

 

 断言して見せた子敬に、鶸は驚きを隠せなかった。そんな鶸の様子に構わず話を進める子敬の発言に、またさらに驚き、それ以上に焦りを憶えた。

 

「皇女殿下を積極的に支持するだけでなく、何皇后を引き摺り下ろしたいという思惑も、皇女殿下に与する理由になりますしね」

「見目は良いけど腹黒い肉屋の娘に繰られるだけのお飾り皇帝なんて冗談じゃない、と思っている人なんかも多いですしね。仲承さんもその口でしょう」

「うぇ?!……ぅ~、えぇ……まぁ、はい」

 

 あまりはっきり指摘して欲しくない事柄をずばり言い当てられてしまった。いくら友人しかいない酒席とは言え、こうも明け透けに口に出されては聞いてるだけで心労が溜まってしまう。自分が溜め込む意味など全くないのだが、生来の性分という奴でどうしようもない。

 

 

 ――――

 

 

 一方の包は調子良く語りながらも、その頭脳を高速で回転させていた。

 宮中は既に皇位継承争いが始まっている。それもまだ表面化してはいないが、深く関わっている者達は着々と準備を進めている。いや、今迄も密かに準備や根回しは行われていただろう。だが、今やさらに一段進みより具体性を帯びた行動段階に入ったと見るべきか。それも水面下の、深く潜った先での暗闘。

 流石に気付けはしなかった。目の前の馬家の次女や、主の親友と密に連絡が取れていればまた違ったろうが、それはこれからの課題だ。一先ず、今宵この宴席で少しでも距離を縮めておかなければならない。

 脳内で思索を深めながらも、その舌は実に滑らかに馬仲承の警戒を解いていく。そして同時に主に侍中が加官された意図を思索する。

 先程、協皇女の支援者がいると断言した時、仲承は随分と驚いていたが、何の事はない。包は知っていたのだ、実際にその支援者を。

 それこそが宦官蹇碵である。

 皇位継承に向けて動き始めた蹇碵が現皇帝の近侍に一手を打ち込んだ意味。それが何であるのか。蹇碵と皇帝の関係は良好だ。協皇女と皇帝も悪くはない筈だ。度々、苦言を呈して煙たがられているとの噂もあるが、少なくとも皇女側からは姉思い故の行動であるのが遠くから聞き及ぶだけでも透けて見える。協皇女は良くも悪くも真っ直ぐな御方だ。行動の裏の思惑が違っているなどという真似は出来ないだろう。

 その協皇女を支援する蹇碵が、皇帝に直接間接を問わず何らかの害を成すとは考え辛い。皇女の評価を愚鈍方面に下方修正すれば、間接的な行動を起こすかもしれないが、それにしたって自分の主がそのような事に手を貸す訳がない。となれば、意図せずそう動くように誘導するという手を打つのが常道だが、……結局は蹇碵が皇帝に対して何をしようとしているのかが読み解けねば警戒以上の事は出来ない。

 ……或いは全くの逆なのかもしれない。ああ、駄目だ。思考が良く解からない方向へ飛び始めた。現段階の情報での思索はそこで打ち切り、包は仲承との会話に集中する事とした。

 

 

 ――――

 

 

 庭園の片隅、酒宴の喧騒のすぐ脇で、蕣華と張宝(字を公平(こうへい)(*190))が額を突き合わせて密談に興じていた。

 張三姉妹は劉備陣営の営妓(*191)として紹介されていた。豫州が安定すれば、州内での芸能活動も許可されるとの事だ。無論、お目付け役付ではあるが。過去暦はともかく、現状は実態に則していた。そんな姉妹の一人、張公平に話を聞く蕣華の目的は芸人としてではなかった。

 

「昔読んだ仙人譚で、仙人が自在に鳥獣を呼び寄せる場面が結構あったんだけど……」

嘯術(しょうじゅつ)(*192)ね。口笛で鳥獣の類いを呼び寄せるのよ。まっ、ちぃほどの達人となれば、無音で呼び寄せる事も、自在に使役する事も余裕だけどね!」

「ほぉぉ……」

 

 こと動物の事となると、割りの見境のない蕣華である。そんな蕣華の素直に感心した様子に、非常い気分の良い公平であったが、ちらりと蕣華の足元に目を向けながらぼやいた。

 

「まぁでも、あんたに必要かどうかは疑わしいわね」

「あはは」

 

 蕣華の足元には、この屋敷の主の家族がわらわらと寄って来ていた。犬が多いが、猫や兎も居る。結構な数だが、これで全てではないというのだから驚きである。以前、洛陽に滞在していた時、暇があればここにやって来て主と仕合ったり、動物達を愛でていた。そのお蔭で、久し振りに顔を見せた蕣華の事をしっかりと憶えていた彼等がこうして身を寄せてきたのだ。蕣華、ご満悦である。

 そんな蕣華の様子を眺めていた公平だが、ふと何かを思いついたように指を鳴らした。

 

「あんたの好かれっぷりもなかなか大したものだけど、人馴れした動物達じゃ、ちぃの凄さは伝わらないわね」

 

 そう言って遥か上空を見上げる三姉妹随一の妖術士。釣られて蕣華も空を仰げば、夕刻の高空を旋回する鳶の姿が在った。まさかあれを? そう思い、公平に視線を戻せば、真剣な眼で鳶を捉える公平の横顔。それは舞台の上で歌舞を披露する歌手とは全く別の顔であった。

 すぅっと小さく一息吸い、唇を少し窄めて口笛を吹いた。が、その口からは静かに吐息が抜けていくのみ。だが、上からそれに応える声が響いた。ピーヒョロロロという特徴的な鳴声。公平がその鳴声に応じる様に右手を掲げると、鋭い風切り音と共に鳶が舞い降りてきた。そして、驚くほど優しく、まるで気遣うように静かに公平の右手にとまった。

 

「凄い……」

「ふふん。まっ、これくらいよゆーよ!」

 

 驚嘆する蕣華の反応に、実に気を良くした公平はにんまりと勝気な笑みを浮かべた。

 得意気な公平だが、蕣華はあまり其方には反応していなかった。その眼は判り易く目の前の鳶に奪われていた。野生の猛禽類をこれほど間近で見られるなど、常ならば考えられない事だ。

 

「触れても大丈夫かな?」

「ん、いいわよ。今この鳶はちぃの使役下にあるから」

 

 そう言うと、軽く右手をこちらに振る公平。その上に鎮座していた鳶が重さを感じさせない動きで蕣華の肩に飛び乗った。深まる感動の中、手を伸ばしその羽毛を撫でる。艶やかな力強さを堪能し、深く感嘆の息を吐いた。

 

「なんなら憶えてみる? 呼び寄せるだけならそこまで難易度高いわけじゃないし、結構動物に好かれる性質みたいだから、その後使役できなくても酷い事にはならないでしょ」

 

 時間を忘れて鳶を愛でる蕣華と違い、早くも飽きのきた公平は、溜息を吐きつつ提案してみた。すると、逡巡しながらも喰い付いて来た。方術の類いに軽々に手を出すのは憚れるという常識的判断を何かが、とても判り易い何かが上回ったようだ。が……

 

「私にもできるの?」

「取り敢えず、口笛で鳩の興味を惹けるようになる事が第一段階ね」

「いけません、蕣華様」

「?! あ、亞莎!?」

 

 何時の間にか近付いてきていた呂子明に制止された。子明からすれば、酒宴の主催がいつまでも庭隅に捌けているのもどうかと思い呼びに来たのだが、まさかこんな怪しげな事をしていたとは、といったところである。

 

「いや、亞莎、これはね……」

「蕣華様」

「はい」

「ご自分の御立場を考えて下さい」

「はい。済みません」

 

 いつもは無邪気に慕ってくれる子明に叱責されるのは思いの外堪えた蕣華。判り易過ぎるほどに縮こまってしまった。

 珍しいものを見た気分(実際に珍しい光景である)で、にやにや眺めていた公平だが、当然のようにそちらにも飛び火した。

 

「あなたもです。蕣華様に妙なものを吹き込もうとしないで下さい」

「はぁ?! なんでちぃが怒られなきゃなんないのよ! そいつが言ってきたのよ!!」

「そいつとはなんですか!」

「お、落ち着いて二人共!!」

 

「何を騒いでいるんだ?」

「鋼! 助けて!!」

 

 救世主がやってきた! 蕣華の軽く混乱した頭で成した認識であるが、当然そんな訳はなく事の次第を話せばただ呆れられるばかりであった。

 

「蕣華、お前な……。鳥獣が好きなのは結構だが、少々暴走気味ではないか?」

「う……、だって、戦ばかりだと碌に動物達と触れ合えないし、愛馬とは常に一緒に居れたけど、本当はあまり戦に連れ回したくないし」

「どんだけなのよ、あんた」

 

 ついに今日会ったばかりの者にまで呆れられてしまう蕣華に、これから先、大丈夫だろうな? と俄かに心配になる親友であった。

 だがこれ以降、蕣華には気を抜ける(いとま)など訪れる事はなかった。

 

 

 第十八回――了――

 

 

 ――――

 

 

 北宮の崇徳殿(すうとくでん)。一人の宦官が殿中をしずしずと歩いている。上背高く、よく鍛えられた肉体がゆったりとした装束の上からでも窺える。なかなかの美丈夫であり、萎えた気配も陰湿な空気もなく、戦場に立っていても違和感のない気力が身中に満ちている。その手には高々と食膳が掲げられており、その上には皇帝陛下の好む茶菓子が乗せられていた。

 殿内の中廷に設えられた凉亭にて茶会の準備が進められており、宦官の男はそこへ足を踏み入れた。すると、先に準備に入っていた宦官達が一斉に頭を下げた。その中を悠々と進み、一つの菓子器の前に立った。手にした食膳を脇に置き、菓子器の蓋を開け中身を確認すると、そのまままた蓋をして、自らが持ってきた菓子器と取り換えた。そして、食膳に元々用意されていた菓子器を乗せて早々と立ち去った。

 そうして、その宦官の気配が遠ざかり、完全にその姿が中廷から消えると、準備に追われていた宦官達は再び忙しそうに動き出すのだった。

 

 

 




*188張梁:冀州鉅鹿郡出身の渠帥。黄巾賊首領張角の下の弟。張角の死後、その軍勢を引き継いで乱を続けていたが、皇甫嵩に討ち取られた。
恋姫では冷静な性格の歌姫として登場する。姉妹の中で最も頭が切れる。経理や活動計画の立案など、裏方でも能力を発揮する。

*189張宝:冀州鉅鹿郡出身の渠帥。黄巾賊首領張角の上の弟。兄と弟を失っても籠城戦で粘っていたが、張梁と同じく皇甫嵩に敗れ討死した。
恋姫では勝気な歌姫の少女として登場する。姉妹の中でも妖術に長けており、その力で広い会場中に声を届け大会の司会を務めたりもする。

*190公平:張宝の字。本作独自のもの。

*191営妓:軍に所属する芸妓のこと。軍営の将兵を歌舞や技芸で慰撫した。

*192嘯術:特殊な口笛による呼び寄せの術。唐代に著された灌畦暇語によれば、髑髏山に住む海春仙人がこの術の達人であったという。

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