桔梗の娘   作:猪飼部

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第十七回 論功行賞

 巨大な外城門をくぐり洛陽の城市へと入城すると、黄仲峻が一人喝采を上げた。

 

「やぁやぁ、帰って来たぜ洛陽~!!」

「益州生まれの巴郡育ちが何言ってんの」

 

 呆れ半分に笑いながら応じるも、気分の高揚を抑えられない仲峻には何処吹く風だ。

 そんな親友に、やれやれと肩をすくめる蕣華も常より浮き立っていた。凡そ半年に及ぶ黄巾の乱が終結したのだ。長くは続かないだろうが、それでも束の間の平穏に、気分が上向くのは当然であった。

 

 約一年振りになる洛陽の大路を、蕣華は魯子敬を除く仲間達と共に凱旋していた。

 後には屯騎兵が続くが、義勇兵達は城外で陣幕を張って待機している。義勇兵に限らず、殆どの軍兵が入城できずに城外で陣を張っている。この場合、元々宿衛兵である屯騎兵が特別と言えた。

 なので、殆どの諸侯が最低限の供回りのみを率き連れているのに比べて、屯騎兵を統率する蕣華は非常に目立っていた。

 

「にゃー、皆 姉ーをみてるにゃ」

 

 蕣華の隣、最近は一人で馬に乗れるようになってきた(それでも戦場を駆けるにはまだ不足だが)トラがきょろきょろと周囲の群集を眺めながら、嬉しそうに声を上げた。

 

「蕣華もすっかり有名人だからねー」

「洛陽民にまで広まってるなんて考えてなかったな」

「包が宣伝して回ってたりして」

「やめて」

 

 一足先に洛陽入りした腹心の、腹に一物抱えた笑顔が鮮明に脳裏に瞬いた。目の前の友に言っても意味ないのだが、つい反射的に静止してしまった。尤も、事前工作やら根回しの為に別行動をとっている訳だから、その一環としてあり得なくもないのかも知れない。確認する気にはとてもなれなかったが。

 

「でもまぁ、注目を集めているのは私ばかりでもないし……」

 

 言いながら、最も民の感心を惹きつけているであろう二者のいる前方に目を向けた。

 直接その後ろ姿は見えないが、先頭付近、大将軍何進のすぐ傍には、黄巾首魁張角の首級を挙げた劉玄徳と、司隷まで迫った三万の黄巾兵を比喩なしに単騎で全滅させた呂奉先が居る。戦功第一と第二はこの二人だろう。

 

「我等が赤将軍様はどこまで()くかねー?」

「それやめて」

 

 人の論功に付いて考えを巡らせていると、それを察したのか、仲峻が水を向けてきた。確かに他人の事よりまず自分の行賞が何処まで届くのかを考えるべきである。それはそれとして、あまり気に入ってない異名で呼ばれるのをまず嫌がった。

 

「大体にして、私は将軍じゃないし」

「異名に野暮な突っ込みはなしだよー。それに、その内なるでしょ?」

「その内、ね。武官の昇進の機会が多いのはあまり歓迎できないね」

「そりゃ、しょーがないんじゃん? 私らの大分前の代からの負債がいい加減貯まりに貯まってるからねー」

 

 全くその通りで溜め息しか出なかった。現状ではそこを思い煩っても詮無いので、話題を自身の事に戻す。漢の負債云々も、先ず自身の立ち位置が決まらなければ如何とも言えない。

 

「取り敢えず、屯騎校尉に正式任官されるのは確実みたいだけど……」

「中領軍(*181)くらい一気にいかないかなー?」

「いや、それはないでしょ。一応言っておくけど、官歴ないからね私」

「うん、知ってる」

 

 思わず、本当だろうな? といわんばかりの表情(かお)で仲峻を見ると、にまっと笑いながら幾分真面目に話を修正してきた。

 

「下軍校尉くらい加官されないかね」

「どう、かなぁ。前任者と同じ官を加えなきゃならない訳じゃないし、西園軍は皇帝陛下直属だよ?」

 

 言ってから、そもそも“くらい”などと軽く言える官位ではない事に気付いて、微妙な面持ちになった。今迄気楽な立場に甘んじ続けてきたため、どうにもこの辺りの感覚が掴めない。武官とは言え、中央官界で生きていかなければならないのだから、何時までもこれじゃ駄目だな、と気を入れ直した。

 

「つっても、古くからの忠臣ばかり据えてるでもないじゃん。包も結構意欲的な人事が為されてるって言ってたし、芽はあると思うなー」

「ふむ……」

 

「うにゃっ!?」

 

 仲峻の話を聞いてるうちに、子敬も動いている事だし或いは、と蕣華も思い始めていた。と、そこへトラの素っ頓狂な声が響いた。

 何事かと其方へ顔を向けると、はしゃいだ様子で後方へ視線を送るトラと、そのやや後ろでかたかたと小刻みに震える呂子明の姿があった。全く違う様子の二人に、仲峻と顔を見合わせて互いに首を傾げた。それから自分の後ろに控える様に馬を進める黄奎(こうけい)(*182)、字を宗文(そうぶん)へ振り向く。と、此方も困ったように首を傾げて来た。どうやらトラと子明の二人だけに何かあったようだ。

 

「どうしたの? トラ」

「姉ー! すっごい筋肉にゃ!!」

「は?」

「いけません蕣華様!!」

 

 端的過ぎるトラの言葉に、なんのこっちゃと疑問符を掲げると、子明が勢い込んで言葉を被せてきた。なんというか、随分と狼狽している様子だ。

 

「あ、あ、あんな悍ましい……」

「えー、そんなことないにゃあ。むっきむきなんにゃよ?」

 

 そこまでトラの話を聞いて、蕣華の脳裏に閃くものがあった。はっとした顔で振り向くが、そこに目的の人物を見つけ出す事は出来なかった。

 その様に子明が悲鳴のような声を上げたが、蕣華には気に掛ける余裕がなかった。軽く混乱していた。

 何故、自分はこれほどはっきりとした反応を示したのだろうか。きっと自分が知る人物であろう。だが、ある特定の知識上で知る人物は他にも多くいる。動悸が収まらない。私は彼女(?)を見付けて、それでどうしようというのだ? 解からない。だが何故だろう、胸がざわつくのだ。私は何を忘れている。

 

 いや、待て。……忘れている?

 

 

 ――――

 

 

 第十七回 論功行賞

 

 

 

 南宮に着く頃には落ち着きも取り戻し、論功式典も恙なく終了した。

 血の気を失い、化粧でも誤魔化し切れないほどに白い顔をしていた皇帝の容態は気に掛かったが、式典を最後まで終えるだけの体力は未だあると、前向きに捉える事にした。しかし、垂れ込めた暗雲が帝室に滂沱の雨を降らせるのは、矢張りそう遠くはないだろう。

 ともあれ、蕣華は正式に屯騎校尉に任官され、更に侍中(じちゅう)(*183)・下軍校尉・帰義侯丞(きぎこうじょう)(*184)を加官された。謹んで拝命し遂に正式な官吏となったが、想うところが様々ある。

 屯騎校尉は良い。既定路線だ。

 下軍校尉も想定内ではある。実際に任命されると、その官の特殊性から緊張を余儀なくされるが。

 帰義侯丞はトラが帰義侯(きぎこう)(*185)の称号を受けた事による。此方は寧ろトラが皇帝陛下にそれほど気に入られていた事が驚きだった。帰義侯とは、本来は異民族の大人(たいじん)に贈られる称号である。贈られる異民族の規模によって称号は変わるが、共通するのは、基本的に王に与えられると言う点である。実際、トラの王である孟獲は先の朝貢の際、南蛮国大王の金印を漢王朝から賜与されている。

 今回、トラに賜与された帰義侯はかなり特殊な例で、トラ個人に漢内において列侯に準じる身分を与えたのである。これは完全に帝個人の我が儘によるもので、誰も何も言えなかったようである。実質的に誰にとっても障害にはならない為、通されたとも言える。別の面から見れば、蛮族の一個人を優遇する皇帝の風聞を誰も云々しなかったという事実もある。

 ここまではいい。問題は最後の加官。

 侍中である。

 宮殿宿衛の屯騎校尉と皇帝直属の下軍校尉が、皇帝近侍の侍中を兼ねる事自体は有用な面が多い。問題は蕣華自身にある。巷に流れる人物評だけで、皇上の傍に侍るのは無理がある。この無理を、一体誰が通したのか。その疑問に応えたのは、蕣華が頼りとする智嚢・魯子敬であった。

 

蹇碵(けんせき)でしょうね」

「またえらい大物が出てきたね。十常侍に見初められる理由がわかんないんだけど」

 

 意外な答えに、驚きながらも軽口を叩いた。子敬は気にした素振りも見せずに、一見関係無さそうな方向から話を続けてきた。

 

「蕣華さん、屯騎校尉は何処に属しているか知ってますか?」

「え……、うん? …ごめん、何処だろう。北軍中侯、かな」

「ですね。北軍ではありますが執金吾(しつきんご)から分化された八校尉が元ですから、そこから上はないんです。通常の軍機能から切り離された、宮殿を護る為だけの独立した番犬なわけですねー」

 

 ふむ、と頷く。間違っていなくて幸いだ。官の変遷は結構ややこしく、官名が変更したり、官名そのままに職掌が変化したり、所属が別府に移ったり独立したりと色々とある。正直な話、蕣華は現在の官府の全貌を把握していない。

 

「ところがこの番犬の鎖を横合いから引っ張れる非常置の高職が二官あります。即ち、衛将軍と大将軍」

「大将軍……」

「黄巾の乱は収まりましたが、何遂高は引き続き大将軍の地位にあります。未だ非常時であるというのは官民の上下を問わず、諸所の別を問わず共通の認識ですね」

「つまり、有事の際は私は何大将軍の命で動くわけか」

「だから私は蹇碵と交渉して、蕣華さんを下軍校尉に推しました」

 

 さらっと告げられたその内容に絶句した。そんなところまで喰い込んでいったのか。そして言いたい事が解かった。と同時に、何を考えているのか解からなかった。

 蹇碵は上軍校尉だ。皇帝直属の西園校尉筆頭として、陛下に代わって実質的に統括している。

 

「対立している二人が共に私の上官とか……、どうしようっての?」

「このままでは、蕣華さんは大将軍の手駒として政争に巻き込まれます」

 

 そうなるだろうな。容易く想像できる極近い将来を想像し、小さく頷く。

 

「しかしですね、私は蕣華さんにそんな事に関わって欲しくはないのですよ。蕣華さんもそうではありませんか?」

「そりゃあね」

 

 王朝の現状や将来には思うところ大であるが、中央武官となったばかりのひよっ子のまま、己の立ち位置も碌に判らないままに、周囲に流されるのはご免である。のんびり構えるつもりもないし、早々に見極めなければならないとは思うが、いくらなんでも現状のまま政争の渦中に放り込まれるのは危険過ぎる。

 頷き返せば、そうでしょうとも、と得意気に頷く子敬。主の意を汲んで先回りできた事が嬉しいらしい。その割に泥沼に嵌りに行っているような現状はどういう事か? 疑問がそのまま顔に出てたのだろう。此方の視線に気付いて、表情そのままに話を続けた。

 

「蹇碵としては大将軍の手駒を減らしたいのですよ。蕣華さんを下軍校尉に就けたのは、手駒として使う為ではありません。端からそんな事は期待していません。でも、直接大将軍とかち合わない軍令であれば、下軍校尉を動かせると考えたんですねー」

「考えたというか、包がそう売り込んだんでしょ?」

 

 ここまでくれば蕣華にも解かった。蹇碵と何進が事を構えるその時、蕣華が何進側に立って蹇碵の頚を狩りに来るのを防ぐ為に、下軍校尉として遠征にでも出して中央から締め出すのだろう。

 

「そういう事です」

「でも、侍中にまでするのはやり過ぎだよね?」

 

 そう指摘すると、子敬は途端に表情を曇らせた。宮廷の怪物を甘く見ていた悔恨が透けて見えた。

 

「済みません、少々侮っていました。蹇碵がどこまで考えているのか、今はまだ何とも……」

「ま、仕方ないね。でもそっちの方は引き続き包に任せるよ」

「勿論です」

 

 新任官吏を侍中に就けるような無理筋を打ってきたのだ。予想しろという方が無茶だし、予測を立てろというのも難しい。だからこそ恐ろしい。そして、だからといって震えているわけにもいかない。何を仕掛けてくるかは判らないが、心構えだけは整えておこう。実際のところ、蕣華にできる事と言えばそれくらいであった。出来ない事は出来る者に任せよう。そう考え、至極あっさりと魯子敬に丸投げしてみせた。

 

 

 ――――

 

 

 こうして蕣華は、内城内の北宮近郊にある宿衛兵兵営すぐ傍にある屯騎校尉の公邸に、仲間と共に居住する事となった。なったのだが……。

 

「なにこれ、賊の襲撃にでもあったのー?」

「いえ、鮑鴻の後始末です。私財没収の為に踏み込まれたんですねー」

「いや、それはいいけど、荒らしたまま放置ってどうなの……」

 

 荒れ放題の邸の前で脱力する蕣華達。前任者が横領や賄賂によって得た不正蓄財を没収されたその邸は、不正財どころか一切合切を持ち去られて、まるで伽藍堂のような有り様だった。

 

「修繕の手配はしておいたんですけどねー。まさか着手すらしてないとは……」

「杜撰だなぁ」

「全くです。内に向けてさえこれですから、政府機能の鈍化は全く以って深刻ですね、これは」

 

 まさかこんな所で早々に中央の無能っぷりを見せ付けられる事になるとは、蕣華達の誰も予想だにしていなかった。

 とは言え、何時までも呆然とはしていられない。子敬が再手配に向かい、蕣華達は比較的無事な部屋に手荷物を纏めて置き、厨房で茶の用意をして、庭園に建てられた凉亭で一息吐くこととした。

 

「やれやれ、先行きが思いやられるな」

 

 緑茶を啜りながらぼやく蕣華。皆も同様に思っていたのか、追従するように乾いた笑いを漏らした。

 

「やっぱ地方に身を躱した方が良かったんじゃないのー?」

 

 仲峻が今更な事を言ってきたので、今更だよ、と返した。別に仲峻も本気で言っている訳でもない、ちょっとした軽口だ。だから軽く返した。

 

 

 黄巾本隊を征伐したその晩、子敬が今後の方針を訊ねてきた時、蕣華は特に深い考えがある訳でもなく、そのまま中央武官の道で良いんじゃないか。と言った。その時も仲峻は地方長官を望むべきだと、中央からは距離を置いた方が良いと主張した。

 仲峻の言う事は尤もだとも思ったが、蕣華としては郡太守を務める自分の姿に激しい違和感を感じてしまっていた。無論、それで進路を決めてしまうのもどうかと思い、子敬に助言を求めたが、子敬の答えは意外なものだった。

 

「それはもう、蕣華さんの思うままに」

「ぅおーい、包ー! 丸投げかよー」

「蕣華さんが郡太守を望むであれば、私の能力の限りを尽くして地方への栄転が成るように働きかけましょう。武官として昇るというのであれば、その為の道を最大限に拓きましょう」

「なぁ~、包……」

 

 朗々と告げる子敬に、仲峻は尚も言い募ろうとした。中央ではこの先、ごたごたが起こるのは目に見えている。ぽっと出の親友が下手に目立てばどうなるか。軍師として忠言すべきなのは子敬が一番良く解かっている。その筈だ。だが、子敬は仲峻に最後まで言わせなかった。

 

「紅玉さん、私は蕣華さんの軍師となると誓った時、決めた事があるんです」

「決めた事?」

「はい」

 

 仲峻の疑問符に明朗に返事を返し、蕣華に向き直って言葉を続けた。にっかりと、強い意志の篭もった笑顔で。

 

「私は貴女の往く先を見届けます。道中にある障害は我が知略を以って排除しましょう。その為に力を尽くしましょう。しかし、往く道を決めるのは蕣華さん、貴女です。私はそこに関しては口を差し挟みません」

 

 なんとまぁ、何時の間にやら随分と惚れ込まれていたらしい。尤も、これは蕣華が気付くのが遅過ぎるくらいである。

 魯子敬は元々、孫堅陣営への参画を望まれていた。師の後に付いて行けば、もっと将来の展望が望める陣営に加われたところを、出会ったばかりの小娘を選んだのだから相当なものである。

 漸く気付いた蕣華は、少々呆気に取られた表情を晒したまま、気を落ち着けようとして何故か軽口を叩いていた。

 

「私を知らぬ間に行屯騎校尉にした奴とは思えない言葉だな」

「ふふっ、それは言いっこなしですよ。ただの義勇軍じゃ、後の選択肢を得るところまで来れませんでしたからね」

 

 軽くいなされ肩を竦める。特に意義のある遣り取りでもなく、なんとなく尻擽(しりこそばゆ)さを誤魔化したかっただけだ。自分の何が彼女をここまで惹き付けているのだろうか。その視線は、自分の中の何を視ているのだろう。自分でも知らない一面を見付けられているような、そんな擽ったさがあった。

 

 その擽ったさを追い払うように息を吐いて、思考を今後の進路に戻した。

 

 望めば郡太守の官位を得られるという。仲峻からすれば、中央を捨て地方で力を蓄えるのが常識的な判断だと言う。確かにそうなのだろう。故郷で母の姿を見続けてきた蕣華からすると、少々尻込みしてしまう部分もあるのだが、今はそれ以上に思う事があった。太守となった後、何を目指すのだろう? 

 その考えには、直前に告げられた子敬の言葉に少なからず影響を受けていた。

 受領(ずりょう)した任地の郡民の為のみに働くのか。いや、この時勢を鑑みれば、来る群雄割拠に向けて力を溜めるのか。それはつまり、自分が群雄として立つという事か。雪崩れ来る英傑達と覇を競う? この私が?

 

 何か違うな。

 

 翻って、中央に留まり武官として栄達を目指すのはどうだろうか。民政を考えなくていい分、単純に此方の方が自分には向いていると思える。それに、漢朝中枢の情勢が気になるのも確かだ。これには、董幼宰の存在が影響を与えていた。嘗て、蕣華が幼宰の進路に影響を与えたように、今度はその幼宰が蕣華の進路に影響を及ぼそうとしていた。

 

 地方に身を躱すという事は、中央の権力争いから距離を置くという事だが、もっと端的に漢王朝に見切りをつけるという事でもある。故郷に居た頃はそうだった。外側から眺めるだけで見切りをつけていた。しかし、今にして思う。そんなに簡単に見捨てて良いものなのだろうか?

 一旦すべてを破壊して、更地に新たな家を建てる。多くの傑物がその判断を下している。だが、古くなった家はもう修復は不可能なのだろうか? 解からない。だって私はその判断が下せるほど漢王朝を知ってはいない。今、中央官界で奮闘している親友も、だからこそ中央に踏み止まっているのだろう。

 外から見ていた通りだったとして、その判断を改めて下した時、もう何もかも手遅れだろうか? そうは思わない。元々、自分が国主となるなんて考えもしていないのだ。その時、天下を求める英雄の元に馳せ参じればいい。天下を託すに足る、本当の英雄に。

 

「中央に留まろう」

「分かりました。ではそのように」

 

 何時の間にか、そう口にしていた。そして、その言葉を受けて、蕣華をじっと見詰めていた軍師はすぐに動き出したのだった。

 

 

 仲峻の軽口を切っ掛けに、正式に武官として身を立てることを決めた夜の事を思い出していた蕣華だったが、子明がお茶の御代わりを注ぐ音で意識を現在に戻した。それと共に視線も子明に向いていたのを気付かれて、「蕣華様もどうですか?」と伺いを立てられたので、遠慮なく茶盞(ちゃさん)を差し出した。

 

「にしても、どうしようか?」

「今日中に片付く気がしないよなー」

 

 子明が注いでくれた茶で喉を潤す。ふぅ、と一息。改めて邸の方を眺めながらぼやくと、子明は軽く首を傾げたが、続く仲峻の言葉で、嗚呼、と納得の声を上げた。

 

「恋のところに厄介になろうか」

「鋼んとこじゃ、手狭になるしねー」

 

 寝室だけでも使用できる程度に整える事は出来るかも知れないが、楽観して駄目でした、では目も当てられない。となると、どうにか寝床を確保しなければならない。そこで、洛陽に居る友の中でも、空き部屋が多くある広い邸宅に住む飛将軍に白羽の矢を立てた。

 子敬が蕣華の部曲(魯家部曲と、ここまで付いて来た義勇兵達で構成されている)の為に用意した外殻城の邸宅という選択肢もあるのだが、そちらも改築する必要があると子敬が言っていたのを思い出し、候補から外した。後になって蕣華が確認した時、殆ど一(区画)を占拠する勢いで邸宅群が買い上げられており、唖然としたのは別の話である。

 

「それじゃあ、私が行って頼んでくるから、その間は皆 好きにしててよ」

「私が先方に出向きましょうか。わざわざ蕣華様自ら出向かずとも……」

「いや、恋は従僕のたぐいを殆ど雇い入れてないし、面識のない人間が使いに行くには向かないから」

 

 黄宗文が名乗り出るが、呂奉先邸の事情を考えると、矢張り自分が出向いた方が良かろうと説明する。

 

「そういう事でしたら。……それでは、私は留守を守っております。全員出払う訳にも参りませんし」

「んじゃ、わたしは書肆(しょし)(*186)に行ってこよっかなー」

「え?」

「おい、何その反応ー」

「いや、なんでも。……何買いに行くの?」

阿蘇(あそ)阿蘇(あそ)の最新号」

「うん、まぁ、そんなところだろうと思ったよ」

「いいじゃん」

「いいけどね」

 

 もしかして洛陽入りして機嫌が良かったのは、これが理由か?と軽く話を振ってみれば、「普通に最新号が手に入るなんて流石京師だよねー」と上機嫌で返してきた。やっぱりか。

 故郷の巴郡では少なくとも一か月は遅れて入荷されるし、更に遅れる事もあった。子供の頃から愛読している仲峻からすれば、最新号が発売日に書肆に並ぶというだけで、洛陽に滞在する価値があるのかも知れない。

 

「あの、阿蘇阿蘇って何ですか?」

「えぇっ?! 亞莎知らないの? 年頃の女の子としてそれは駄目だよー」

「いや、駄目って事はないだろう」

 

 仲峻の大仰に過ぎる反応に、蕣華が突っ込みを入れる。子明は小さな邑の農民出身だ。おまけに蕣華に仕えるまでは書館にも碌に通った事が無かったらしい。女性情報誌など知らないのも無理はない。

 しかし仲峻の驚きは大きく、子明に阿蘇阿蘇の重要性と素晴らしさを得々と語り始めた。何気にトラも興味深げに子明の隣に立って拝聴している。その姿を見て、反射的にトラに似合うお洒落を脳の片隅で検索し始める蕣華。と同時にこの場に居るもう一人、宗文に視線を向けると、あまり興味なさそうな面持ちだ。知ってはいそう、かな。と心中独り言ちる蕣華も、それほど熱心な読者ではなく、仲峻の蔵書を時折借りて読むくらいであった。

 此方の視線に気付いた宗文が、一度自分の衣装に視線を落としてから此方に伺うような視線を寄越してきた。思ったより興味を惹かれていたらしい。落ち着いた白緑(びゃくろく)襦裙(じゅくん)が良く似合っている。もしかしたら、流行とは遠い露出の少ない服装を気にしているのかも知れない。可愛いし、良く似合ってるよ。と小声で告げれば、ほっとした様子で頷き掛けてくれた。

 豫州で黄州牧より預かって以来、殆ど自己主張することなく役割を淡々と熟してきた宗文のそんな姿に、自然と蕣華の頬がほころんだ。

 

 蕣華が黄宗文と小さな交流を果たしていると、何時の間にやら子明が仲峻と一緒に書肆へ出掛ける事になっていた。仲峻の高揚振りに比べて、子明はまだ少し戸惑っていた。

 

「最新号どころか既刊まで買い漁りそうな勢いだな」

「ふっふっふ、それに関しては抜かりはないんだよねー」

 

 子明に語るうちにどんどんと盛り上がったのだろう仲峻の様子に、ふと言葉を漏らすと、したりと返事が返って来た。

 

「過去号は鋼に預けてあるんよー」

「ん?」

 

 端的な言い回しに、疑問の声を上げる。ただ、何となく分かった気がした。

 

「わたしが蕣華を追って豫州行ったあとに刊行された阿蘇阿蘇を確保しておいてって頼んどいた」

「紅玉……」

 

 まるで遠慮と言う言葉を知らない友の行動に、しかしやっぱりなぁという諦観にも似た呟きが漏れた。

 そこでとある事実に気付いた。

 

「ちょっと待って。て事は、鋼が阿蘇阿蘇を毎月欠かさず購入してるの?」

「そうなるねー」

 

 ……暫しの沈黙。

 子明と宗文が、はて?と見守っていると、二人同時にぷっ、と吹き出した。あまつさえ、「似合わねー!」と声を揃えてからからと笑い出し、子明達は未だ見ぬ二人の友に同情した。

 

「しかし、よく承知したね」

「いつも行く仲任(ちゅうにん)書肆にも置いてあるから構わないぞ。ってさ」

「仲任? ……どっかで聞いたな」

「彼の王充(おうじゅう)が在りし日に立ち読みを重ねて遂に諸子百家を極めた、という伝統ある書肆なんだとー」

「ああ、『論衡(ろんこう)』の王仲任か。って、王充の名前を利用しておきながら阿蘇阿蘇を取り扱ってるのか、その書肆」

「蕣華、これも時代の流れだよ」

「無常だなぁ……」

「むしろ歓迎すべき文化の発展でしょー」

 

 確かにそうかもしれない。娯楽が充実するというのは、それだけ余裕があるという事だ。阿蘇阿蘇の刊行が制限されたり、滞るほど逼迫する事こそが憂慮すべき事態なのだ。だが、時代はどうにもそちらの方へと舵を切ろうとしている。婦女子が大通りの茶房で流行誌の話題に花を咲かせる。そんな光景を遠くに追い遣ろうとする時代の流れ。

 その潮流に、例え僅かでも抗う為に、蕣華は洛陽での闘いを開始したのだ。

 

 取り急ぎ、今日の宿を確保する為に知己の元へ向かいながら、締まらない第一歩だな、と独り言ちるのだった。

 

 

 

 第十七回――了――

 

 

 ――――

 

 

 良く晴れた夏空の下、北郷一刀は鎧曹掾(がいそうえん)(*187)の工房へ足を向けていた。鎧曹掾は武器を管理する部局であり、兵庫(へいこ)がその管轄となるが、補修の為の工房も併設されている。だが、一刀が今向かっている工房は、製造所どころか開発室まで備えており、補修用の工房とは思えないほどに本格的なものであった。ここまでくると最早考工令(こうこうれい)だな、などと愉し気に太守が評する程の兵器工房。それは、この軍に仕官した一人の武官の為に拡張されたものであった。

 

 一刀はその件の武官(普段は将軍府で鎧曹掾を務め、戦場では軍候として一曲を束ねる)を探してやって来ていた。開け放された工房の入り口に立ち、なかを軽く見回し、手近にいた工兵の男に声を掛けた。

 

真桜(まおう)、居るかな?」

「ああ、これは御遣い殿。()鎧曹でしたら、街へ昼食を摂りに出掛けましたよ。もうそろそろ戻ると思いますけどね」

「そっか。じゃあ、待たせてもらおうかな」

 

 未だ慣れない肩書に少しだけ気後れしながら、目的の人物が戻るのを待つ。待ちながら考える。ふとした空白につい考えてしまう己の現状。天の御遣いという着慣れない肩書。

 極星としての働きを喪った君は、ただの生きる民間伝承のようなものだよ。とはこの地に来て知り合った女の子の言だ。瑞獣ならぬ瑞人というわけだ。実際、お年寄りにありがたやありがたやと拝まれてしまった事もある。縁起物になる為にこんな処に来てしまったのかと思うと、なんとも言えない微妙な気持ちになる。お蔭で衣食住には困らないのだから文句も言えないが。だが……。

 もしも、彼女の言うところの“極星としての働き”を得ていたら、今頃自分はどうなっていたのだろう? ここは、自分がそれなりによく知る歴史の転換点に似ている。小説で、或いは解説本で、漫画で、ゲームで、映画でそれなりの知識を持つある国のある時代によく似ている。それでいてかなりズレている。そんな処である種の役割を与えられるのが本来の運命だったら、何らかの働きを得ていたのなら……。

 少なくとも、こんなに呑気にしてはいられなかったろうな。そう、溜め息を吐きながら独り言ちた。

 

「お、なんや一刀はん。ウチに会いに来たん?」

 

 物思いに耽っていると、いつの間にか戻って来ていた女の子に声を掛けられて、意識を現実に振り戻した。そうだ、彼女を呼びに来たんだった。

 

「ああ、桔梗さんが呼んで来いってさ」

「桔梗様が? なんやろ、豪天砲(ごうてんほう)の改良ならもうちょい待って欲しいんやけど。一刀はんの言うてた『らいふりんぐ』の再現が難しゅうてな~」

「それとは別件だと思うけど」

 

 遥々兗州(えんしゅう)から発明の才を見込まれ招聘された才媛が、ぼやきながら連れ立って歩き出す。その明るい笑顔を横目に、誰にも理解されないであろう違和感を心の奥に圧し込めて、一刀は努めて明るく振る舞った。

 

 巴郡太守の部曲が運営する巴鷹鏢局は、主の為に大陸各地から様々な情報を収集していた。直々に命じられたわけではないが、常の恩義に報いる為、己等の出来る事は全てやろうと決めていた。その中で、腕の良い武器職人を長年求めている事を知っていた総鏢頭(そうひょうとう)趙弘が、発明の評判を聞きつけるやいなや、支局もない兗州にまで乗り込んで頭を地に擦りつけて口説き落とした才媛。

 本来ならばそのまま兗州に居続け、その内に曹操に仕える事になる筈の、この世界では快活な十代後半の少女のその存在が、北郷一刀という、天命から外れ、外史の特定因子と擦れ違った少年の、戸惑いを一層大きなものにしていた。

 

 ここは益州巴郡。北郷一刀の知る歴史では、まだまだ表舞台に出てくる事のない大陸の辺境。他州と比べれば平和でありながら、混乱の火種だけは同等に燻る遠隔地。主演を張るには聊か以上に外れた片田舎。大陸に覇を唱えんとする誰も注目していないその土地で、外史の中心点である少年が先の見えない道を歩き始めていた。

 

 それは、日本とは暦のズレた夏が終わろうかという、そんなある日の情景。

 

 




*181中領軍:北軍五営を監督する北軍中侯を引き継いだ魏の武官。
本作では北軍中侯に指揮権を付与した非常置の偏将軍級の高級武官として扱う。

*182黄奎:三国志演義に登場する黄琬の架空の息子。はじめは董卓暗殺の謀議に参加した一人として登場する。曹操が実権を握ると、今度は馬騰と示し合わせて曹操を排除しようとするが、義弟にして妾の間男でもある苗沢が曹操に密告した為に計画が露呈。馬騰と共に一族ごと滅ぼされた。

*183侍中:侍中府に属する皇帝近侍官。皇帝の秘書の様な役割で、乗輿・服飾も扱った。漢代ではほぼ加官であり、単独官として任じられる事はあまりなかった。

*184帰義侯丞:帰義侯の担当官。通常、丞とは副官を意味するが、帰義侯は官職ではなく異民族長に贈られる称号である。その丞となると、漢から派遣された対応官であり、異民族長から見れば漢朝との窓口となる。

*185帰義侯:漢朝に帰属した異民族に贈られた称号の一つ。冊封を受けた異民族王に与えられる名目的な爵号であって、列侯のように封土が与えられる訳ではない。敢えて言うなら異民族王の支配域が封土として認められるという体をとる。他にも異民族の規模によって国王、率衆王、邑君などの称号が授けられた。
本作では、トラに対して名誉号として与えられたとする。

*186書肆:いわゆる本屋。後漢初期には存在が確認できる。後漢後期には製紙技術の発展から紙の書物を扱う書肆も増えた。
紙の発明は少なくも前漢に遡るが、本格的な紙の登場は後漢前期となる。前漢武帝期の遺跡から発見された覇橋紙(はきょうし)は、銅鏡の包装紙として用いられており、書写材料としては前漢文帝期の遺跡から発見された放馬灘紙(ほうばたんし)が世界最古とされる。
後漢和帝期に宦官の蔡倫(さいりん)が樹皮、麻屑、敝布(へいふ)(布切れ)、魚網を原料に低廉且つ良好な紙の製造に成功した。これにより書写材料として絹帛や木簡、竹簡に成り代わっていった。紙は市場の新商品となって製紙業は大いに発展した。学生の増加、文化の発展するに伴い、書籍の需要と供給も盛んになり、製紙業の隆盛と合わさり郷里にも書肆ができるほどになっていった。

*187鎧曹掾:諸将軍府の属吏。兵器専門官で武器の管理を掌る。将軍府を開府した各将軍が自ら選任する。官秩比三百石。定員一名。副官に鎧曹属(官秩二百石。定員一名)が付く。

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