桔梗の娘   作:猪飼部

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第十四回 歳在甲子

 下軍校尉鮑鴻(ほうこう)(*164)は実戦経験豊富な中央武官の一人であり、その戦歴から西園軍指揮官の一人として抜擢された。特に屯騎校尉として涼州での異民族征伐に出征した折の功績が高く評価されての事であったが、これは実際には共に戦場に出た董卓(とうたく)軍の果たした戦果が大であった。特に董仲穎の腹心たる若き軍師の強気にして果断な戦術は、強健な先零羌(せんれいきょう)を大いに痛めつけた。しかし、この時の董卓軍の働きは殆ど中央に届く事はなく、その戦功は鮑鴻が己が物とした。

 元々尊大で、士大夫には諂うが出自の低い者は極端に軽視するような輩であったが、先零羌の乱以降は増長が弥増し、次第に名士層に対しても傲岸な態度を取るようになっていった。

 そして、皇帝直属の西園八校尉に任じられた事によって、膨れ上がった自我は最高潮に達した。何時しか奪い取った功績はこの歪な土甕のような女にとって真実になり、その才覚を鼻に掛けるようにもなり、天子の威光を己の威勢と思い込むようになった。

 

 そんな鮑鴻に潁川郡の葛陂賊討伐の勅が下った。また一つ、自分の栄光の歴史に燦然と輝く功績が増えると、無根拠に妄信して出陣したが、鮑鴻にはその機会すらなかった。

 意気揚々と潁川に到着した下軍校尉が目にしたのは、地を埋め尽くす黄巾の旗印ではなく、威風堂々と翻る紺碧の厳旗であった。

 

 

 ――――

 

 

 第十四回 歳在甲子

 

 

 

 潁川義勇軍を立ち上げた蕣華達がまず向かったのは、潁川郡治である陽翟県(ようたくけん)、その県城であった。

 果たしてそこには潁川太守李旻(りびん)(*165)と共に、この度の乱に合わせて党錮の禁が解除されてすぐに豫州牧に任命された黄琬(こうえん)(*166)が蕣華を待っていた。無論、子敬の手回しである。

 

 黄琬。字を子琰(しえん)は、幼い事から評判の才媛であり、若くして中央で出世を重ねる名士であった。しかし、血筋だけの無能を酷く嫌い、優秀でさえあれば貧農出身者でも取り立てた事から、名族を中心とした上層部から不興を買った。硬骨の士であった彼女はそれを一切気に掛ける事無く、己の信念を全うした。結果、二十年に亘って中央政界から遠ざけられる破目となった。

 そして今回、大陸各地で引き起こされた大規模な農民叛乱に慌てふためいた権力者達によって、再び官界に呼び戻され、要地にして混乱の地である豫州に牧伯として立つ事となったのであった。 

 子敬はこの情報を得ると、即座に接触を図った。黄子琰側でも豫州の現状を把握する為に手を尽くしており、蕣華の事は既に耳に届いていた。その手の者が会見を求めてきたのは正に渡りに船であった。豫州には軍事に明るい者が少ない。戦術、軍略を語れるだけの者ならば未だ居ないでもないが、実践できるものが自身を除けば殆ど居なかった。出自や来歴に拘らない黄子琰は、この現状を打破できる将を求めていた。強く、正しくある者を。

 両者の思惑は一致し、こうして蕣華は義勇兵に加えて州兵もその指揮下に取り込む事となった。尚、蕣華がそれを知ったのは陽翟城に到着してからであった。その際、主従の間で一悶着会ったのだが、それに対し黄子琰は生暖かく見守るのみであったという。

 

「もうー、せっかく吃驚させてあげようとしただけだったのに」

「なんで包はそう私を驚かせたがるの」

「え?」

「なんでそこで不思議そうな顔するの」

「それはもう……」

「いやいい。良い予感は全然しないから聞きたくない」

「いけずですねー、蕣華さんは」

 

 にまにまと笑みを浮かべながらそんな事を言ってくる子敬に、溜め息を吐きたくなる蕣華であったがぐっと堪えた。この口の悪く、そのくせ高い交渉能力を持ち、豪胆過ぎる行動力で此方をぐいぐいと引っ張ってくる軍師相手に、この程度で溜め息を吐いていたら先が持たないとの確信に至っていた。

 

 州兵を指揮下に入れ、一万を超す軍勢を率いる事となった蕣華。義勇兵を呂子明に任せ、その補佐に黄仲峻を付けた。本来であれば、仲峻には蕣華の副将として傍らに控えて欲しいと考えていた子敬であったが、現状では経験が圧倒的に不足している子明にこそ彼女は必要であった。そして、輜重隊を新たに加わった黄州牧の娘に預けた。とは言え、状況によってこれらの構成は随時変動すると子敬に念を押された。

 また、明らかに足りていないと思われた部曲将(中級指揮官)級には魯家部曲の中から選抜した者を当てた。此方の懸念などは既に解決済みだったという訳だ。それだけではない。中級指揮官選抜の際に気付いたのだが、魯家部曲は何時の間にか随分とその頭数を減らしていた。道中の小規模な小競り合いで減った訳ではあるまい。一応確認してみれば、矢張りと言うか各地に放って主に情報収集の任についているらしかった。

 

 そして、その部曲からもたらされた情報によれば、何儀(*167)率いる葛陂黄巾賊が再びこの潁川へと舞い戻って来たという。その数、実に五万。真っ直ぐに陽翟を目指しているという。対して此方は黄州牧、李太守の軍勢と合わせても二万と五千に僅かに届かない。援軍は期待できない。討伐軍は既に長社県(ちょうしゃけん)にて別の黄巾と激突している。寧ろ、彼方が援軍として此方を期待しているだろう。州牧などは元々その積りでいた。そこへ新たな敵の来襲である。皆焦っていたが、一人、魯子敬だけは落ち着いたものだった。

 向かってきているのは黄巾を巻いているとは言え、その内情は葛陂賊だ。ならば連中の狙いは己が主の頚である事は明白。賊の分際で生意気にも敵討ちを望んでいるのだ。ならば思い知らせてやらねばなるまい。蕣華を得た子敬にとって、頭に血の上った狗を駆逐する事など大した難事でもなかった。

 そしてそう思っていたのは子敬一人であり、長社県への救援を急ぎたい州牧にとっては一大事であった。事を急いた黄子琰は駄目元で洛陽へ援軍要請を出していた。その判断が蕣華の成り上がりの切っ掛けとなったのだが、この時点では魯子敬にすら見通せぬことであった。

 

 

 ――――

 

 

 葛陂黄巾五万の末路は呆気ないものであった。葛陂黄巾は何儀の他に劉辟(りゅうへき)(*168)何曼(かまん)(*169)という二人の渠帥がそれぞれ五万の内、一万づつを率いていた。

 この三人に率いられた黄巾賊に対し、子敬の提示してきた策は野戦であった。それも、先ずは蕣華揮下の一万二千程の兵のみを出陣させた。

 狙いは『刹天(せつてん)夜叉(やしゃ)』などと臆面もなく自称する何曼の頚。何曼率いる右翼一万に対し、蕣華自ら率いる三千を以って高台からの奇襲突撃で先制を仕掛け、すぐさま離脱。すると驚くほど簡単に何曼が釣れた。これに蕣華は肩透かしを食らったような気分にもなった。無論、此方の狙い通りに敵が動いているのだから肩透かしどころか喜ぶべきところなのだが、その為に子敬が幾重にも策を重ねて確実性を高めていたものが全く必要なくなったことに起因していた。敵の不甲斐無さや己が物足りなさを感じている事に呆れながらも、出陣前に子敬の言っていた事を思い出していた。

 

「最初の狙いは何曼か。それにしても刹天夜叉とか、よくもまぁ、恥かしげもなく名乗れるものだな」

「それだけ自惚れが強いという事ですよ。どうやら官軍の将を討った事で調子に乗ったようですね。最も、正直聞いた事もない将ですが」

 

 子敬の人物考査は実に正確だった。何曼は傲慢な自惚れ屋で、だからこそ簡単に釣り上げる事が出来た。楽と言えば楽であったが、矢張り蕣華としては拍子抜けも甚だしかった。ともあれ、予定通り何曼が此方に向かって迫って来ているのだ。ならばやるべき事をやるだけ。蕣華は自ら殿を務めながら、何曼を引き離し過ぎないように見せかけの撤退を続けた。

 

 黄巾賊には三つの色がある。最初は首魁と目される人物達の信奉者だけだった。そこへ大賊と勘違いした賊徒が集った。そして最後に食い詰めた貧民棄民の類いが合流した。

 葛陂黄巾は賊徒である。だが、肥大化する黄巾全体に合わせて、葛陂黄巾もその数を膨れ上がらせた。しかし、その増加した人員の多くは食い詰め農民であり、両者には明確な差があった。それはあらゆる面で浮き出るものだが、今この時においては、その運動能力による格差が両者を二つの群れに分けていた。

 蕣華を追撃する何曼隊は、その率いる渠帥と同様に猪突気質の者が多く(染まったともいうが)、目の前にぶら下げられた餌に喰い付かんと、脇目も振らず殿に見える蕣華目指して猛進していた。しかしその数は明らかに減っていた。にも関わらず、誰もそれを気に留めていなかった。だからこいつ等はここで簡単に滅ぶことになったのだ。

 後方を確認しながら敵を引き寄せていた蕣華は、追撃者達の巻き上げる砂塵が減少しきり落ち着いたところで、頃合いとみて反転した。

 

「全隊停止! 即時反転し槍構え!!」

 

 蕣華の指示に能く反応したのが二千五百、僅かに反応の遅れたのが五百。この五百は吸収したばかりの州兵であった。今回の作戦を実行するにあたり、幾度か戦場を共にした義勇兵が望ましいが、州兵にも早い内に蕣華の戦に慣れてもらう必要があると、子敬が州兵から五百ばかり胆力に自信があるという者を選抜した。蕣華には選抜基準が良く解からなかったが、義勇兵達は成る程と密かに納得していた。

 

「私が何曼を討ったら奴等を囲め」

 

 そう指示を残して一人 賊軍の群れに吶喊した蕣華に、新たに加わった州兵達は僅かに騒めいたが、義勇兵達が当然のような顔で従っていた為、一先ずそういうものと納得して待機した。

 

 追い立てられていた獲物が突如こちらに咬みついて来た。何曼は愚かにもそう思った。にたりと汚い笑みを浮かべて、向かってくる蕣華に自慢の六角(ろっかく)鉄棒(かなぼう)を振り被った。そして振り下ろす事も出来ずに縦に両断され絶命した。

 

 

 ――――

 

 

 一方その頃、残りの全兵を率いた呂子明と、その補佐に就いた黄崇――紅玉――は、勝手に分断した何曼隊の後曲を包囲していた。農兵中心の後曲も僅かに手向かってきたが、散々に走り回されて疲弊していたうえ、それほど意気のない事もあって殆ど抵抗らしい抵抗もせずに大人しく囲まれるに任せていた。

 この現状に、紅玉もまた拍子抜けしていた。数と勢いだけだとは子敬に聞いていたが、その勢いもどうやら一部だけみたいだなー、と分析する。正直、もっと手古摺るかと考えていたが、余裕綽々だった子敬が正しかったか。流石だなー、と心の中で称賛しながら隣に目を向ければ、そこには緊張に身を包んで賊軍を睨み付ける子明の姿があった。

 

「亞莎さー、そんな肩肘張ってなくても大丈夫だよー?」

「……はい。でも、何があるか分かりませんから」

 

 真面目だなー、とぼやきながら能々観察してみれば、子明の意識は背後の味方に向いていた。成る程、味方、それも編入されたばかりの州兵に無様は晒せないってか。本来なら任されたのは義勇兵だった筈が、いきなり変更を言い渡されたのだ。ただでさえ経験不足の呂子明に、緊張するなと言う方が無茶というものか。

 一人納得しうんうん頷いていると視線を感じたので子明に視線を返すと、感心したようにぽつりと言葉を漏らしてきたので、多少は緊張を解せるかと会話を試みた。

 

「紅玉さんは慣れてるんですね」

「ま、わたしも言うほど従軍経験はないけどねー。結局のところ、巴郡は平和だったし。偶に外から流れてくるならず者を征伐してたくらいでさ。蕣華の奴も初陣では異民族相手の大戦(おおいくさ)だったけど、あとは賊征伐ばっかだったって話だし」

「初陣で……」

「あいつ、そん時に単身敵に斬り込んで百人斬りかましたらしいよ」

「やっぱり凄いですね、蕣華さま」

「そりゃ、一面的な見方だよ亞莎」

 

 親友に対する様付けに、全く慣れる気がしないなー、と心中ぼやきながら告げると、随分と意外な事を言われたような様子できょとんとされた。美少女がこういう表情(かお)するのはずるいよなー、と思いながら言葉を続けた。

 

「武人としちゃ申し分ないけどねー、将としては自分が任された部から単身飛び出してってのは拙いでしょ」

「それは……確かに、そう、かも知れません」

「ぶっちゃけ、将としての資質は亞莎の方が高いよねー」

「ええ!? そ、そんな恐れ多いですっ!」

「いやいや、そこで縮こまっちゃ駄目だってー。蕣華も包も贔屓目で亞莎に期待掛けてる訳じゃないんよー? 二人共すっごい嬉しそうに亞莎の成長ぶりを語って来るんだから」

「御二人が、そこまで……」

 

 そこまで言って、これじゃ余計に固くさせちゃうかな? と、失敗したかと思ったが、子明は己の胸に手を当てて感慨に浸り、目に強い意志の光を灯していた。その様を見て、良い方向に向いた、かな? と紅玉は内心胸を撫で下ろした。

 

 

 そこへ、慶祝率いる一隊が戻って来たので紅玉が出迎えた。

 

「お疲れー。……首尾はどうだった?」

「ああ、殲滅した」

「やっぱりねー」

 

 いつもの如く身を朱に染めて戻って来た親友に、いつもの調子で声を掛ける紅玉。降兵の姿がまるで見えないので一応確認してみたが、予想通りの答えが返って来たので、州兵に目を向けながら納得の声を漏らす。紅玉の視線の先の州兵達は若干顔色悪く、引いているようにも見えた。これはあとで補足が要るなぁ、と一人小さくぼやいた。

 

「んじゃ、こっちはどうするー?」

 

 紅玉に言われ、取り囲まれた賊軍に目を向ける慶祝。ざっと見回し、その眼を覗き込む。そこには怯えと疲れ、諦念が見て取れた。濁りは見えなかった。先程の連中は目が濁り切っていた、だから降伏は認めずに殲滅した。此処が益州巴郡で、魏文長が軍中に居たのならば、そんな連中の降伏でも受け入れていただろう。義姉はああいった連中の調練が得意だ。賊徒共の腐った性根を鈍才骨で叩き直すところを幾度も見てきた。だがここは故郷ではなく、頼りになる義姉も居ない。余裕があれば義姉の真似事をしても良いが、そのような猶予はない。故に何曼の周囲に居た賊徒共は殲滅した。

 対して今目の前に居る連中には、匪賊特有の濁りは見えない。これならば問題はないだろう。若干、怯えが濃いのが気になるが、と自らの血姿が原因とは気付かずに、大きくはないが良く通る声で告げた。

 

「大人しく降伏するのならば受け入れよう」

 

 慶祝のその言に、残された黄巾賊から安堵の呻きと弛緩した空気が漏れた。その空気を敏感に察した紅玉は、気楽なもんだよ、と小さく鼻を鳴らした。ここに屯している連中は、そりゃあ自ら望んで賊徒に身を落としたわけではないのかも知れない。それでも結局は自分で選んだのだろう。王朝に絶望するのは解かる。逃げ出す事も別に悪い事だとは思わない。だが、そこから先の選択肢は、決して賊徒一つっきりではなかった筈だ。

 故郷で何年もの間、多くの流民と接してきた。中には今回のように賊に成り下がった連中も居て、もちろん容赦なく征伐した。だが、もっと別の選択をした者達が多くいたものだ。開拓民として戸籍の再編入を果たし、漢民としてやり直した者達が居た。国に嫌気が差して清流豪族と評判の一族の私有民となった者等も居た。何処にも属さず、塢壁(うへき)を築いた者達と折衝を重ねた事もあった。あれは慣れない仕事だったなぁ、と一頻り回顧してから目の前の降兵を改めて見遣る。

 実際のところ、こいつ等は賊にすら成り切れていない。匪賊に寄生していただけだ。見ていてもやもやする、いや、もっとはっきり言って苛々するのは、その中途半端さが自分の眼には明らかだからだった。

 こいつ等が私の預かりになったら最悪だなー。州牧辺りに押し付けるよう、軍師殿に進言しておこうと固く心に誓う紅玉であった。

 

 紅玉の誓いを余所に、慶祝は自分が戻ればいの一番に駆け寄ってくると思っていた少女が、未だ自身の隣に居ない事に疑問の声を上げた。

 

「ところでトラは?」

「あー、トラ吉なら斥候に出たよ。そいや、もうそろそろ戻ってもいい筈だなー?」

「そうか」

「あれ、意外ー。心配じゃないのー?」

「してないわけじゃないけど、連中程度にトラが見付かるとも思えないんでね」

「それ以上に信頼してるってかー」

「まぁね」

 

 そう言って何故だか誇らしげに笑む親友が、なんだか無性に可笑しかった。

 

 

 ――――

 

 

 何儀率いる葛陂黄巾本隊は、進退を決めかねていた。

 何曼がいとも簡単に敵の策に乗せられたのは流石に判った。急いでその後を追い、合流を目指したがそれは叶わなかった。足並みの揃わぬ数万の軍勢で、縦に伸びながら追えば当然のように横槍を入れられた。正確には後背を突かれたのだが……。

 陽翟城から出陣した黄豫州率いる官軍が、遅れていた最後尾に突撃。強かに打ち据えられた貧民出の黄巾兵はあっという間に士気を崩壊させていった。貧民兵がどうなろうと何儀の知った事ではないが、数の優位が崩れるのだけは不味いと分かっていた。後方に喰い付かれた事に気付いた何儀は、劉辟を差し向けた。だが、劉辟が最後尾に辿り着いた時には州軍は既に低い丘(と言っていいのか迷う程度の起伏)の上まで引いており、そこから弓矢の一斉射で劉辟隊を貫いた。

 これは堪らぬと退こうとした劉辟であったが、よく目を凝らせば敵は弓ではなく弩を用いていた。それも全隊で一斉に次矢の装填を行っている。ならば今の内に全速を以って距離を詰めれば、猪口才な官軍に目にもの見せてやれると全隊に突撃を命じた。或いは丘上に到達するまでにもう一射喰らうかも知れないが、その程度で怯む葛陂賊ではない。先程まで相手取っていた貧民兵と一緒に考えているのならば、勝機は此方に在りと高慢な笑みを浮かべた。

 

 だが、賊徒のそんな浅はかな考えが通用するほど魯粛――包――は甘くなかった。

 そう、州牧の傍にはこの一時だけ包が脇に控えていた。弩の運用に隙があるのも当然、賊軍が自分の想定よりも更に浅薄であると、早々に見切った包の釣り餌であった。

 低丘に陣取る州軍は三段で構成されていた。第一陣は第一弩兵隊。第二陣に槍兵隊が控えており、敵兵の接近に合わせて第一陣が左右に割れつつ後方へ下がると同時に前線に躍り出た。これに劉辟隊は動揺し、俄かに出足が鈍った。そこへ第参陣の第二弩兵隊が丘の麓から反対側の中腹、即ち敵黄巾兵へ向けて一斉射が放たれた。丘向こうから雨のように降り注ぐ矢によって動揺は混乱へ変わり、槍兵隊の吶喊によって遂には恐慌へと成った。

 

 こうして劉辟は敗走し、その劉辟を差し向けた後で何曼と同様に釣り上げられたのではとの考えに遅まきながら達し、追うか戻るか決めかねていた何儀の元へ這う這うの体で舞い戻ったのだった。

 この段階で、何儀は漸く斥候を放った。遅きに失しているが、やらないよりは確かにましであった。何曼隊は敵に取り囲まれ恐らく降ったものと知れたし、州軍は陽翟城まで引き返した事を確認できたのだから。

 

 

 ――――

 

 

 そしてトラは「うにゃ~?」と首を捻っていた。

 

 

 今回、トラは珍しく慶祝の傍ではなく、子明や仲峻と共に第二陣に居た。トラの感覚ではお留守番といったところであった。子明達と共に簡単に敵を取り囲み、あっさりとやる事が無くなってしまい正直退屈していた。それを紛らわせるために包囲陣の外縁をぐるぐると散歩していた時、敵の斥候に気付いた。それはトラの眼から見れば、隠れる気があるのか分からないほど至極簡単に発見できた。

 その場ではそのまま散歩を続け、子明達が待機しているところまで近づくと陣中に分け入り、真っ直ぐ子明の元へ走って行って報告を上げた。

 こういった場合の対処は予め子敬から授かっており、敵に味方の現状を知らしめてやれば良いと言われていたので、そのまま手を出さずに置く事とした。子明がそれをトラに伝えると、

 

「じゃー、トラも斥候に出るにゃ!」

 

 と、元気良く宣言したのだった。

 

「じゃーの意味がまるで分かんないけど良いんじゃない?」

「そうですね。 では、お願いできますか?」

「まっかせるにゃー!」

 

 

 こうして、なんとも軽い乗りで斥候へと出る事となった。張り切って敵斥候の跡をつけ、悠々と敵本隊を発見。そして、トラは首を捻った。

 

「なんか聞いてたのと違うにゃ?」

 

 と、一人呟き、きょろきょろと周辺の情景を確認する。やはり、予め子敬から聞かされていた予測地点とずれている。これはもしかして良くない事ではないだろうかと考え、どうすればよいのかを更に考える。結論は解かりそうな人に聞く、であった。元より考えるのは子敬のお仕事だ。ここからならば、戻るよりも県城の方が近い。さっと行って、さっと聞いて、さっと帰ろう。

 そう決めた後のトラは速かった。その矮躯からは想像もつかない程の速さで県城まで駆け抜け、門楼上の物見兵に「にゃーいにゃーい!」と手を振ると、特徴的な異民族の少女など一人しかいない為、何の疑問も持たれる事無く直ぐに城門は開かれた。そして案内されるまでもなく、鼻をひくつかせながら子敬の元へと辿り着いたのだった。

 

「ひゃわわ、どうしたんですか? トラちゃん」

「にゃー、かっぴのれんちゅー、包の言ってたとこと違う所に集まってたんにゃ」

「ほほう、それで気になって来たと」

 

 言いながら地図を広げ、出来る限り詳細な場所をトラから聞き出し、正直に言って驚いた。トラの普段からは考えられぬほど、実に詳細な報告だ。此方が放った斥候が戻るのを待って情報を照らし合わせる必要もなさそうだ。そして、この情報がもたらしたものに、くくっと我慢できないという風に噴き出した。

 

「にゃ? なんか面白いんにゃ?」

「ええ、何とも中途半端な連中ですよ」

 

 進退決めかねているのがありありと判る。陽翟城からも厳寿軍からも距離を取っている。しかし退路には向いていない。ここまで来て退くなど矜持に関わるとでも考えているのか。だが、それにしてはどちらにも攻め気の見えない位置だ。

 伸るか反るか、最終的な正解など所詮誰にも解かりはしない。だからこそ、決断は迅速に決め切ってしまわなければならないのだ。退くにせよ、攻めるにせよ、迷いながらではどちらにせよ上手くいく訳がない。

 数的優位は未だ黄巾側にある。降兵を抱える慶祝を叩きたい。一方で陽翟城の動きが気になって仕方ない。挟撃は無論避けたいだろう。ならば軍を二つに分けてもいい。先程取り逃がした劉辟に、三分の一でも預け、陽翟城からの州軍を受け止めるよう布陣させておき、残り全兵で厳寿軍に進撃。それでも倍以上の兵力で挑める。大した決断でもない。まぁ、私なら既に長社城に向かっている。子敬は頭の中で嘲笑しながら、葛陂黄巾を滅ぼす最後の一手を組み上げていた。

 だが何儀はその程度の事でも決めかねている。ここまで良い様にやられている為、何が正解か判らないのだろう。そんなものは私にだって解からない。声に出さずに呟きながら、竹符に慶祝宛ての指示を手早く書き込む。

 

「さて、トラちゃん。これを蕣華さんに渡して下さい」

「任せるにゃ」

「ここから陣営までどのくらい掛かります?」

「にゃ、半時も掛からないくらいにゃ」

「では、それに合わせて此方も仕掛けます。これで連中も終わりですよ。ちゃっちゃとやっつけちゃいましょう」

「にゃ!」

 

 溌剌とした返事を返し、一目散に慶祝の元へと飛び出したトラを見送って、子敬も州牧の元へと向かった。

 

 

 ――――

 

 

 葛陂黄巾賊は最も避けるべきであった挟撃によって滅びた。

 ぐずぐずしていた匪賊とは違い、トラから子敬の竹符を受け取った慶祝の行動は速かった。降伏者達は輜重隊に任せ、飯を食わせるようにと命じておいた。少なくとも、その間は下手な事をする者は出ないだろう。

 そして自分達は即座に出陣。一気に黄巾賊へと迫った。前曲を任されたのは、呂子明と紅玉だ。

 子明は紅玉の助言通りに兵を進め、敵の最も脆い部分から突っ込んだ。尤も、紅玉に言わせれば、黄巾の前線は何処も彼処も弱所であったが。全く馬鹿な連中だと、紅玉は不快気に呻りながら、敵中深く子明と共に切り込んでいった。教科書通りの鋒矢の陣形ではあったが、それにしても余りにも呆気なく切り込めた。当然だ。こいつ等 弱兵を、食い詰め農民だけを外縁に配してやがる。使い潰し前提の攻め手なら兎も角、防御においてわざわざ脆い前線を用意するなど愚かにも程がある。戦える連中は大将の周囲を固めるだけ。まるで大鋸屑(おがくず)の鎧を着て短剣を振り回して飛来する矢を防ごうとしてるようだ。

 元々低かった前線の士気は最早見る影もない。それに引き摺られて、敵陣中央の軍気も見る見る萎んでいくのが紅玉には手に取るように判った。そりゃ当然そうなる。盾にしようと、生贄のように差し出した連中が、その役目を全く果たすことなくただ無残に散っていく様を見続ければ、そりゃあ当然そうなるに決まってるんだ。自分達自らの手で勝ち目を薄くしてく賊軍に飽きれるとともに、こんな連中に言い様に荒らし回られている後漢の現状がほとほと情けなかった。

 嗚呼、こりゃあ全く、別の天を戴きたくなるのも仕方ないよなー。そんな事を考えながら、紅玉は敵陣中央を目指して猛進を続けた。と、その視線の先で、敵中核が揺らいでいるのを感じた。逃げる気だ。不味いな、まだ州軍が届いていない。思った以上に敵に意気地がなさ過ぎた。散々、汝南と潁川を荒らし回って良い気になっていた癖に、劣勢に立たされた途端にこれか。つくづく見下げ果てた連中だ。

 

「伝令っ! 後曲の蕣華へ! “李太守の元へ”!!」

 

 唾棄しながらも手早く対応策を打つ。奴等が逃げようとしている方角は、子敬の読み通りだ。そこには潁川太守李旻が伏兵と共に待ち構えている筈である。しかし、敵の動き出しが想定より早いので、兵数だけはまだ多い。太守の軍勢だけでは受け止められないかも知れない。

 

 紅玉の左斜め前方を往く子明には、紅玉の伝令の意図が解らなかった。だから前方を強く見据えた。敵方の動きをこれでもかと注視した。すると、敵軍中央の動きが慌ただしくなり、これは逃げる気だと気付いた。

 

「凄いですね。どうして判ったんですか?」

「奴等の揺らぎが良く視えたからねー。動揺と焦燥、そんでもって連中の意識が東に向いた。となればこれは逃げるなーってね」

「それが軍気を読むという事ですか」

「まーねー。こいつが読み解けるようになれば、今みたいに機先を制して先手を打てる。意志を固めてから、実際に動き出すまでにはどうしたって時間差が生じるからねー。そいつは集団が大きくなればなるほど、顕著になる。このずれを出来得る限り小さくするのが強軍の条件の一つだぁーね」

「勉強になります」

「ふっふっふ、この真面目っ娘めー」   

 

 最後に茶化すように話しながらも、敵陣深くさらに突き進む。すると遂に、というか漸くと言えばよいのか、敵本陣が退却を開始した。しかしそれは本陣のみだ。周囲の賊軍は何も知らされていなかったのだろう、一気に動揺が広がった。自分達も逃げようと、自らを見捨てて逃げようとした何儀率いる本隊に纏わりつくように逃亡を始めた。まるで飴が伸びるように重く粘ついた退却である。さながら何儀は飴に突っ込まれた菜箸か。

 呆れながら敵の痴態を見ていると、敵の更に向こう、軍勢が此方に迫っているのを感じた。人波の向こう、僅かに砂塵が舞い上がっているのが視覚でも捉えられた。

 

「来たね」

「はい」

 

 問い掛けた訳でもなく一人呟くと、即座に返事が返って来た。子明も味方の接近を捉えていたのか。参ったね、これが傑物ってやつの怖いとこだよ。心中で苦笑しながら言葉を続けた。

 

「良い機に来てくれたよ」

「はい、この場で制圧出来そうですか?」

「いやぁ、何儀の必死さも相当なもんだ。奴と手勢の一部はこの場からは逃げ延びるかもね。ただ、蕣華を向かわせるほどでもなかったかなー」

「成る程」

 

 ふむふむと頷きながら、子明は先程からずっと此方を一瞥もしていない。戦場に神経を集中し、あらゆる情報を吸収しようとしている。こりゃ成長が早いはずだよと、深く納得しながら、州軍と連携を取れる最適な位置取りへと自軍を動かした。この自分の用兵も、次の戦場では子明が自ら行えるようになっているだろう。全く頼もしい限りである。

 紅玉は戦場に似つかわしくない楽し気な笑顔で、勝利への詰めを一手一手確実に打ち込んでいった。

 

 

 ――――

 

 

 何儀が逃亡した後の黄巾残兵は呆気ないの一語であった。殆どが逃げ散る事も出来ずに降伏を申し出た。黄州牧はこれを受け入れ、此度の征伐はほぼ終わった。そして、この場から逃げ遂せた何儀に関しても、子敬をはじめとした厳寿軍の誰も心配していなかった為、降伏者の処遇を含めた戦後処理をそのまま進めた。

 それから程無くして、何儀と劉辟の首級をぶら下げた蕣華が潁川太守と共に戻って来た。

 

 こうして葛陂黄巾賊は滅んだ。

 

 

 ――――

 

 

 下軍校尉が潁川郡に到着した時には葛陂黄巾は影も形も無かった。どころか、長社を攻めていた潁川黄巾賊本隊も散り散りになっており、残党狩りの様相であった。

 鮑鴻にとっては面白くもない事態ではあった。この現状の功労者が田舎豪族の娘というのもその一因だ。だがまぁ、いい。適当に残党でも狩りながら、足代を頂戴してさっさと帰ろう。無駄足を踏まされたのだから、多めに徴収せねばな。などと手前勝手な論理で官有物を横領した。そしてそれは、すぐに田舎娘の知るところとなった。それを知った娘――蕣華――は激高した。俗な言い方をすればブチ切れた。

 

「おおぉい?! ちょっと待って蕣華!!」

 

 怒りに任せて陣幕を出て往く蕣華。行き先は当然、鮑鴻の元であろう。そこで何をするのか、手にした秋草が雄弁に語っていた。

 やばいよー、こんな蕣華見たことねぇ!と焦る彼女の親友は、慌てつつも事態の打開を求めて行動を起こした。

 

「あ、あの、私……」

「亞莎は包を呼びに行って! 私はその間 蕣華を止めるから!!」

「は、はい!」

 

 蕣華にこの事を知らせた子明が事の推移に戸惑っていたが、仲峻の指示で知恵袋の元へ走った。よもやこんな事になるとは思ってもみなかった。何らかの対策を打ってくれるだろうと期待しての進言だったのに、先ず相談する相手を間違えた子明であった。

 そうして皆が出払った陣幕で一人、トラはうにゃ?と首を傾げていた。怒髪天を衝いた蕣華に悪い意味で馴れていた。

 

 

 仲峻が蕣華に追い着いた時、そこは既に修羅場だった。蕣華の怒声が下軍校尉の天幕の外にまで響いていた。天幕入り口に転がっている兵士が、強かに打ち据えられ悶絶しているだけなのは、ぎりぎりの理性が働いたのかと、こんな事でも胸を撫で下ろしたくなった。しかし、天幕の中は殺気立っており多数の気配を感じるし、周囲からも何事かと人が集まってきている。完全に拙い事態であった。

 

「貴様等もこの芥屑と同類か? 薄汚い汁に甘露を感じる様な汚物であれば、……諸共斬り捨てるぞ!!」

「ご…芥だと!!? お前ら何をしておる! とっととこの不埒者を殺せ!!」

 

 あ~、行きたくない、と心中で盛大に愚痴りながら仲峻が天幕に踏み込むと、うんざりする程の怒気と殺気と動揺が綯い交ぜになっていた。酔いそうだ、しかも悪酔い。

 

「はい、蕣華、そこまで。流石にこれは拙いって」

「止めてくれるな紅玉。こいつは許しておけない。こんな屑がのさばっているから、この国は駄目なんだ。黄巾賊を産み落としたのはこいつ等だ」

「あー、解かる。痛いほどに良く解かるよ。屯騎兵の皆さんも心情的には蕣華に賛成なさってるよ。でもねー、ここで蕣華にこいつを成敗させるわけにはいかんでしょー」

「何だ貴様は!! 貴様もこの糞田舎者の同類か!!」

「喧しい!! 空気読め、この豚!! 今、お前の命運を握ってるのは私だぞ!! 真っ当に棄市(死罪)になりたかったら黙って震えてろ!!!」

 

 闖入者を止めに来たと思った者が、闖入者同様ブチ切れた。下軍校尉を護る屯騎兵(鮑鴻は下軍校尉として出征したが、率いる兵は屯騎校尉時分の兵をそのまま継承していた)は早く誰か何とかしてくれと祈った。

 先程の仲峻の言は間違っていなかった。屯騎兵は常々頭に乗る鮑鴻に嫌気が差していたし、薄々不正を働いていることにも気付いていた。中には鮑鴻におべっかを使って甘い汁を吸っている奴が居ることも知っていた。その一部は現在、天幕の外で蹲っており、幸いこの場には居なかった。

 

「き、き、き、貴様等ぁ、ただでは済まさんぞ!!」

「そこまでだ」

 

 憤激した鮑鴻が無様な贅肉を震わせ声を荒らげると、天幕の外から冷や水を浴びせる様な凛とした声が響いた。天幕に居る誰もがその声を無視する事は出来なかった。威厳のある落ち着いた声音。張り上げている訳でもないのに、身体の中心にまで染みわたる声の主が、ゆったりとした足取りで天幕の中に姿を現した。

 黄琬。豫州牧黄子琰その人であった。その後には魯子敬と、呂子明が続いていた。

 

「こ、黄豫州牧」

 

 呻くように呟く鮑鴻に、冷たく一瞥しただけで無視するように黄子琰は蕣華に言葉をかけた。

 

「厳寿よ。其方(そなた)の怒りは尤もだが、そのように後先考えず暴発させるのは感心せぬな」

「う……、その、申し訳ありません」

「これから先の漢土には其方のような若者こそが必要なのだ。それを、このような事で投げ捨てさせるような真似はしてくれるな。何より、其方に未来を託した者達に申し訳が立つまい」

「はい、仰る通りです」

 

 母と同年代の人物の、それもより落ち着いた静かな叱責に、寸前までの激憤もどこへやら、身を小さくして猛省する蕣華であった。

 

「やー、助かったよ 包」

「間に合って良かったです。何故か貴女の怒声も聞こえた気がしましたけど」

「それは気の所為って事で」

 

 蕣華が叱られている脇で、小声で合流を果たす仲峻達。互いにほっと胸を撫で下ろしながら、こそこそと軽口を叩き合った。

 

「こ、黄州牧! 先程から何を温い事を!! 早くこの小娘を拘束せよ!!」

「黙れ鮑鴻。拘束されるのは貴様の方だ」

「な、なにを……!?」

「貴様の罪は明白。証拠も既に、そこの魯粛めが一通り揃えておるわ」

「私は、下軍校尉だぞ! 皇帝陛下より直々の……」

「ここは豫州で、私は陛下よりこの地の牧伯の印綬を賜っておる。我が職権に於いて貴様を弾劾する」

「ぅ……あ…ぅ……」

 

 静かな圧を以って淡々と告げる牧伯に、鮑鴻は遂には二の句も継げられなくなり、体重を支え切れなくなったかの様にへたり込んだ。

 これにて騒動は終着し、屯騎兵はほっと安堵の息を吐いた。

 

 

 

 第十四回――了――

 

 

 ――――

 

 

 鮑鴻は罪人として洛陽へ送られ、処刑される前に下獄死した。

 鮑鴻の護送時、黄豫州からある上奏文が共に送られた。それに先んじて、大将軍にある早文が届いていた。南陽太守の元にも似たような文が届いており、それを面白がった袁公路は、母に宛てて手紙を書いた。近々、引退を考えていた公路の母は、普段滅多に我が儘を言わぬ娘の久方振りの頼み事に大いに張り切った。張り切り過ぎて、妹まで巻き込んだ。妹は大将軍と親交があり、同様の案件を抱えると知った。

 洛陽を巡ったのは文だけではなかった。魯子敬も一時、主の元を離れ洛陽に足を伸ばしていた。

 

 気付けば蕣華は行屯騎校尉に任じられていた。

 

「何が起きたの。というか何をしたの、包」

「ふむ、如何にも無理筋と思うておったが、其方の軍師はやり手よの」

「黄州牧様は何かご存じなんですね?」

「其方の腹心は大したものよ。よく労ってやるが良いぞ」

「は、はい……」

 

 こうして、蕣華は此度の黄巾征伐に於いて注目の的となった。それも、戦場よりも洛陽での注目度が非常に高まったのだが、勿論、当人には全く判らぬ事であった。

 




*164鮑鴻:司隷右扶風出身の武将。涼州の乱時、屯騎校尉として出征しており、西園八校尉が創設されると下軍校尉に任じられた。葛陂賊征伐の勅を得て出征するが、官有物を横領した咎で豫州牧黄琬に弾劾された。刑が執行される前に下獄死した。
本作でも史実と似たような経路と末路を辿る。

*165李旻:出身地不明の政治家。反董卓連合時の潁川郡太守。孫堅に従って出兵したが、梁の戦いで董卓軍の徐栄に敗北し生け捕られた。洛陽の郊外 畢圭苑(ひっけいえん)に張られた董卓軍本営にて、張安という人物と共に生きたまま煮殺された。その際に、「同じ日に生まれることはなかったが、同じ日に煮られることになったな」と語り合ったと伝わる。

*166黄琬:荊州江夏郡安陸県(あんりくけん)出身の政治家。幼い頃から非常に聡明であった。長じて五官中郎将に任じられると、血筋だけの無能を排除し、貧民でも有能な者を取り立てるなどの改革を推し進めようとしたが、権力層に疎んじられ政界から遠ざけられた。光和年間末期、世情の混乱が深まると太尉の楊賜の上奏により、官界に復帰。まず議郎に任じられ、青州刺史を経て、侍中に昇進。更に将作大匠・少府・太僕を歴任、豫州牧となって州内の匪賊を悉く殲滅した。董卓が実権を握ると中央に召し出され司徒に、次いで太尉に任命されたが、長安遷都を批判した為、免官された。のちに光禄大夫として復職し、遷都後に司隷校尉に転じた。司徒の王允らとともに董卓暗殺を計画した。李傕、郭汜が長安を占拠すると捕らえられ下獄死した。
本作では怜悧で秀麗な中年女性として登場する。官界に復帰してすぐに豫州牧に任じられたとする。

*167何儀:出身地不明の賊徒。黄巾賊の渠帥の一人。黄邵・劉辟・何曼と共に汝南・潁川を根拠地として暴れ回った黄巾の一派。数万の軍勢を率いたという。後に袁術に服属したが、討伐に出向いて来た曹操軍との戦闘で敗れ、降伏した。

*168劉辟:出身地不明の賊徒。黄巾賊の渠帥の一人。何儀らと共に汝南・潁川を根拠地として暴れ回った黄巾の一派。数万の軍勢を率いたという。後に袁術に服属したが、討伐に出向いて来た曹操軍との戦闘で于禁に討ち取られた。

*169何曼:出身地不明の賊徒。黄巾賊の渠帥の一人。何儀らと共に汝南・潁川を根拠地として暴れ回った黄巾の一派。数万の軍勢を率いたという。後に袁術に服属したが、討伐に出向いて来た曹操軍との戦闘で敗れ、何儀と共に降伏した。

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