桔梗の娘   作:猪飼部

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第十回 遭紅少女

 青く澄んだ秋の空。遠く、高く、無尽に広がる天穹。

 

 気付けば空を見上げていた。仰向けに転がったまま、全身隈なく激痛に支配され、それでも秋草を手放さずに遥かな青を眺めていた。吸い込まれそうな青空に、地に張り付けられたままなのに、何故か落下していくような、空に向かって落ち行くような錯覚に囚われ、その身を強く地に押し付けた。その所為で痛みがより鮮明に襲い掛かって来たが、お蔭で意識に掛かっていた霞も晴れ、思考も鮮明になった。

 気を失っていたのか……。漸くそこに思い至り、痛む身体に鞭打って起き上がる。こんなところで何時までも寝こけてはいられない。そんな勿体無い話はない。

 

 なにせ、今目の前には天下無双が居るのだから。

 

 

 ――――

 

 

 

 第十回 遭紅少女

 

 

 

 首都洛陽。

 黄河(こうが)中流南岸に位置し、周囲を丘陵に囲まれた盆地に存在する。北に邙山(ぼうさん)、東に嵩山(すうざん)、南に伊闕山(いけつさん)万安山(ばんあんさん)、西に周山(しゅうざん)を擁する山脈の支脈に取り囲まれ、盆地中央には伊水(いすい)洛水(らくすい)という 二条の河が西と南西から東へと流れている。東に虎牢関(ころうかん)、西に函谷関の関所が鎮座し、古代より多くの王朝がその中心と見定めた兵家必争の地である。

 東西に六里十歩(約2495.5m)(*141)、南北に九里七十歩(約3806.5m)の城内は、その殆どを皇城(宮廷施設)と各種官衙(政庁機能)が占めており、その他諸施設や庶民の住居は城壁外に県城として外殻城を築き、洛陽城を中心とした洛陽盆地全域をして洛陽と成している。

 

 今、その二重の城門の内側、都城の中の更に内、南宮を囲む城壁の上に蕣華は居た。常に共に在るのが既に当然となったトラの姿はない。今頃は兀突骨と共に謁見の最中であろう。トラの頑張りを知っているし、信じてもいる。兀突骨も付いている。それでも心配でそわそわしてしまうのは致し方ない事だろう。

 

「トラ、ちゃんとやれてるかな……」

 

 城壁西南角から眼下に見える四つ辻に建てられた銅製の駱駝の頭頂を眺めながら、ぼんやりと呟く。中々に稀有な景色だが、心配が先に立ってそれほど楽しめずにいた。巴郡に居た頃は、宮城の内側に立ち入る機会が来るなどとは夢にも思わなかったのだが、それもまさかこんな気分でうろつく事になるとは……。

 

「いや、余りうろつくのも拙いか。一応の許可を得ているとは言え……」

 

 ん~、と伸びをしながら気を入れ直して控えの間に戻ろうとすると、小さく軽快な足音が此方に向かってきているのが聞こえた。人のものではない。首を回して音の方を見遣れば、一匹の小型犬が近づいてくる。

 

柯基犬(コーギー)だ」

 

 胴長短足にふさふさの毛並み、天を衝く大きな耳、殆どない尻尾。自身の体格を遥かに凌駕する牛や羊にも物怖じせず任務を果たす勇敢さと、賢さと、従順さを併せ持つ牧畜犬。

 一人、強烈な人物を想起するが、今や目の前にまでやって来た柯基犬は赤い襟巻をしていない。世に柯基犬が一匹しか居ないわけでなし、決めてかかっては危ういだろう。

 

「どうした? お前、こんな所で」

 

 しゃがみ込み、そっと手を伸ばしながら話しかける。対して柯基犬は、蕣華の指先をすんすんと匂うと、得心がいったという風にその場にちょこんと座り込んだ。

 その様子に、ふむ、と一つ頷き、ふかふかの矮躯を撫で始めた。始めは優しく、次第にしっかりと掌で味わうように、やがて全身余すことなく愛でだした。

 

 暫し無言の時が過ぎる。一度などは見回りの兵卒が、何をしているのか誰何の声を上げようとしたが、一人と一匹の様子を見てそそくさと去っていった。両者ともそんな事には目もくれず愛で、愛でられながら時を過ごした。

 

「ふぅ」

 

 満足げな吐息が少女から漏れる。「わふ?」と、もういいのか? と、問い掛ける様な柯基犬に、頷いて答えた。

 

「そろそろ、本当に戻らないとね」

 

 そう言って立ち上がると、柯基犬も立ち上がりその横に控えた。付いて来るらしいが、拒否する理由もないので好きにさせる。

 

「それにしても、柯基犬やお前では少し不便だな」

 

 流石に犬の喉では名乗りを上げる事は出来まい。仮でもいいから、何か名付けようと頭を捻りながら歩を進める。隣を歩く柯基犬に目を向ければ、この事に関しては興味もないのか、素知らぬ顔である。それを見て、先程までの柯基犬の様子を思い起こした。如何に撫で摩ろうとも姿勢を崩さず、耳をぴんと真っ直ぐに立て、一声も上げず、時折気持ち良さそうに目を細めたかと思うと、はっと目を開いて襟を正すかのように佇んでいたあの様子。

 愛でたいんだろう? 構わないが、俺は媚びたりしないぜ。と言わんばかりのあの態度。

 

「ふむ、柯基犬には柯の字が充てられてたな。頑ななまでに凛と立つお前には、寧ろ梗の字が相応しいな。暫し、お前を梗子(こうし)と呼ぼう」

「ワン」

 

 好きにすればいい。そう聞こえた気がして、蕣華は足取りも軽く控えの間へと戻った。

 

 

 ――――

 

 

 控えの間に戻った蕣華が目撃したもの、それは死屍累々の南蛮娘達。ではなく、骨抜きにされた南蛮娘達であった。其処等から「はにゃぁ」だの「ふにゅ~」だのと気の抜けた吐息が漏れている。すわ、発情期か? と一瞬思ったがそうでもない様子。皆、至福の表情で眠りこけているだけのようだ。

 兀突骨が献上品の運搬に連れてきた娘達は、比較的大人しく落ち着いた性格の子が選抜されている。だから蕣華も安心して一人散歩に出かけたのであるが、その間に何があったのだろうか?

 蕣華がやや呆然と考えにふけっていると、その足元をすり抜けて梗子が南蛮娘達に近づいた。鼻先を寄せ、ふんふんと匂いを嗅ぎ取ると、短い尻尾を振りながら「ワン」と一鳴き。安心しな、と言って来た。

 

「梗子がそう言うなら」

 

 無論、実際に何と言っているのかなどは解らないが、何となくそんな意志を感じるのだ。長く付き合いのある獣達からも同様に感じるこの感覚を、出会ったばかりの梗子からも感じるのだ。随分と意志の強く、賢い犬だ。

 それにしてもどうしたものか、と考えながら入室し、一番手近で眠りこけている娘の脇に屈み込み、頭をやわやわと撫でてやる。フニャァ、と寝ぼけた声を上げ、すりすりと此方にすり寄って来たので膝枕してやると、気配を察知したのか、それでも半ば夢見心地のまま皆すり寄って来た。あっという間に蕣華を中心として身を寄せ合い改めて眠りこける南蛮娘達。うむ、可愛い。

 

 その様子を見届けると、気を使ったのか幾分か小さな声で一鳴きし、梗子は部屋を辞した。その背に「またね」と声を掛けると、一度振り返り、視線で頷いて去っていった。

 

 それから暫くして、トラと兀突骨が無事戻って来た頃には目を覚ます子もちらほら現れ始めた。何があったのか気にはなったが、それよりも、何よりも優先すべきトラ達の話に耳を傾ける内に、意識の奥に追い遣られ、結局聞きそびれてしまうのだった。

 そして、トラが話し終える頃には殆どが目を覚まし、話し終えた途端にトラがストンと眠りに落ちた。緊張の糸が切れたのだろう、蕣華はそんなトラをやさしく抱き寄せ、背を撫で労いながら、兀突骨と話を続けた。

 

「お疲れ様、トラ」

「トラちゃん、すっごく頑張ってたにぃ」

「ふふ、目に浮かぶようだよ。 それで、芽衣の眼から見てどうだった?」

 

 その問いは無論、トラの事ばかりではない。

 

「最初は良くも悪くも反応薄かったにぃ。……興味の問題が大きいと思うけど、なんだか調子も悪そうだったにぃ」

「陛下の御加減が?」

「にぃ。宝物の献上で機嫌は上がったけど、気分は……って感じで、謁見は思ったより短く終わったにぃ。トラちゃんのボロが出ることなく首尾よく終われたから、こちらとしてはいう事はないけどぉ」

 

 皇帝の反応に不満気に眉を寄せた蕣華だが、続く言葉でより深く眉根を寄せることとなった。程度が判らないが、楽観視できる対象ではない。その玉体に何かあれば一大事である。漢に対する忠心はそれ程ないが、皇帝の早逝など良い事は一つもない。だが、頭のどこかでそれは避けられない事態だと囁く声もする。

 

「心配事を一つ消化できたと思ったら、全然別のところから懸念が飛んでくるとは……」

「謁見できる元気があるなら、今すぐどうこうとは思いたくないねぇ。漢の混乱は望むところじゃないにぃ」

 

 二人が深刻そうな気配を纏いだすと、自分達には理解できず関係もない話が始まったと、それまで聞き入っていた南蛮娘達の集中力が切れ始めた。それを察し、兀突骨は近くにいた一人に、外で控えている給事(きゅうじ)謁者(えっしゃ)(*142)に宿泊先への案内を頼むよう言付けた。

 

 

 ――――

 

 

 銅駝街(どうだがい)

 二体の駱駝の銅像が宮殿の西南の街(太尉・司徒府官衙の間)にあり、四つ辻で道の東西を挟んで向かい合っている。故に銅駝街と呼ばれている。

 先日、南宮の城壁上から眺めていた駱駝像の足元で、九尺(約207cm)もの銅像を見上げる蕣華一行。今日はここで親友と待ち合わせをしていた。

 

「本物とおんなじくらい大っきいにぃ」

「いいなぁ、芽衣は本物見た事あるんだね」

「トラも見たことないにゃ」

「西方からの隊商が乗ってたにぃ。樹海のある南蛮中央まではこれないけど、西端では交易があるにぃ」

「交州にも駱駝通商隊がちょくちょく来るらしいけど、時機が合わなかったのか見れなかったんだよなぁ」

 

 駱駝談議に花を咲かせる三人。他の南蛮娘達は、南宮内の迎賓宿画でのんびりしている。角々した漢の街並みよりも、広い庭園の方が落ち着くようだ。数日様子を見て、留守を任せても大丈夫だと兀突骨が判断した事で、蕣華の約束に二人も同行した次第である。

 洛陽行きが決まり、日程計算をしてある程度の余裕を持った日時で落ち合う約束を交わして後、連絡を取り合えずにいた為、向こうは南蛮使者が二人居る事は知らないが、蕣華は特に問題視していない。予め言っておけ、くらいは言われるだろうが、それだけで済む話だろうからだ。

 

 しかし、その約束相手は少々困惑していた。約束の場所を目指して歩を進めていれば、周囲の意識がある一点に集中している事に気付いた。それは正に落ち合うための目印のある場所。遠目にも目立つ異民族の娘に誰しもが注目していた。駱駝像と殆ど遜色ないほどの長身、しかも今は小さな同族の少女を肩車して駱駝像よりも高く聳えている。二身一体となった少女が短い手を伸ばして駱駝を撫でようとしているその光景は微笑ましいが、とにかく目立っている。

 今からあそこに行くのか、と思うと少しばかり気が重くなった。南陽から届いた手紙に書いてあった南蛮の友人に違いあるまい。となれば、今は人波の向こうで見えないが、あの二人のすぐ傍に居る筈なのだ。一言くらいは文句を言わねばなるまいと、足取り鋭く近づいていく。しかし、一向に親友の姿が見えない。困惑を深めつつもさらに近づく。常に両脇に侍る愛犬達は迷いなく進んでいる。ならば二頭の先導に素直に従い進むと、漸く見つけた。何やら足元に屈んでいた為、遠目では全く見えなかったのだ。何をしているのかと目を凝らせば、洛陽で得た友の飼い犬と戯れていた。相変わらず動物には手の早い奴だと、呆れ半分、感心半分で声を掛けた。

 

「蕣華」

「おお、鋼! 久し振り!」

 

 兀突骨に肩車されるトラを微笑ましく眺めていた時、踝をつんつんと突かれ足元に目をやると、ここ数日で何度か訪ねてきた小型犬が此方を凝視していたので、屈み込んでいつもの様に撫で摩っていると、今度は頭上から久方振りの怜悧な声が聞こえ、笑顔でそちらに向き直った。勿論、梗子を撫でる手はそのままに。

 

「その前にだ」

「うん?」

「南蛮の友人を同行させるなら、予め言っておけ」

「あはは」

「いや、何故そこで笑う」

「予想通りの反応だな、と」

「蕣華……」

「ごめん、ごめん。 じゃあ、改めて。久し振り、鋼」

「ああ、久し振り、蕣華」

 

 気軽い調子で謝罪しながら漸く立ち上がり、故郷の友と再会の挨拶を交わす。短いやり取りの中で、半年程振りに会った友人に変わりがない事を知り、互いに喜んだ。

 

 そんな二人の様子、頓に幼宰をじっと見詰めるのはトラだ。幼宰が蕣華に声を掛けた時にそわそわと兀突骨から降りて、蕣華が折に触れて話題に出す人物の一人を興味深げに見詰めるのだった。

 自分の知らない蕣華を知る人。それは、蕣華が自ら語る事の出来ない、トラのまだ知らない蕣華の側面を知っている人。教えて欲しいな。でもどう聞けばいいのだろう?

 蕣華の大切な人となら、絶対仲良くできる。無根拠にそう信じているトラであったが、実際にそのような人物が目の前に現れると、どう話し掛ければ良いのか解らなかった。

 

 そんなある種不躾な視線を浴びる幼宰が、不意にトラの方を振り向いた。外見上は余り表情が豊かな性質ではない幼宰に見詰められ、更に物怖じしてしまうトラ。

 

「傷付かない、傷付かない」

「そんな事を言うくらいなら、早く紹介して欲しいものなんだが?」

 

 本人的にはただ見つめ返しただけなのだが、年下の女の子の反応にやや落ち込みかけた所を狙って蕣華が茶化す。流石にじろりと蕣華を睨み付けながら、幼宰が零す。もう少し私に優しくしても良いんじゃないか?という想いを込めて。

 それに対し、どこまで本気なのか、申し訳なさそうに謝罪しつつ南蛮の少女をあやしながら紹介を始めた。

 

「この子はトラ。私の可愛い妹分だ。 ほら、トラもそんなに緊張しなくていいんだよ? でも、ちょっと珍しいところが見れたかな」

「んにゃー」

 

 蕣華の軽口に、トラも若干恥ずかしそうだ。どうにも一人浮き上がってる蕣華に、呆れた溜め息を漏らすと、もう一人の南蛮人と目が合った。こちらは小柄な少女と違い、にっかりと笑い掛けてきた。蕣華の陽気を楽しんでる風だ。大物だな、と幼宰は見て取った。

 

「今、見詰め合ってるのが芽衣ね。漢名は兀突骨」

「可笑しな言い方をするな。 ……漢名、と言うのはどういう事だ?」

 

 長身の女性が兀突骨というのは噂で聞き及んでいた。何せ目立つ御仁だ。こうして相対してみれば、それが良く解かる。その兀突骨を、いきなり真名で紹介したと思ったら、漢名等と言い出す。

 そんな幼宰の疑問に、蕣華と兀突骨は簡単に南蛮の命名法に付いて説明する。

 

「成る程、本来は真名はなく本名ただ一つ。漢の習俗に合わせて漢名を名乗り、本名を真名と位置付けている、と」

「それも対外的に必要な者達だけに限るにぃ。トラちゃんは漢名をもってないし。……でも、今回の事で持った方が良かったかもしれないねぇ」

「にゃ、トラがかん名名乗るにゃ?」

「考えておくと良いにぃ」

「はいにゃ!」

 

「それでは、」

「私の事は芽衣と呼んで欲しいにぃ!」

「……宜しいので」

「た・だ・しぃ……」

 

 漢名は持っているが、字までは付けていない兀突骨に対してどう呼び掛けたものか、逡巡が口から出た幼宰にかぶせるように兀突骨は本名、或いは真名で呼ぶようにと提案した。

 この流れに既視感を感じた蕣華は半歩下がった。何を感じ取ったのか、足元で梗子も同様に下がった。

 

「敬語禁止だにぃ!!」

 

 一瞬で間を詰めて幼宰に抱き着く兀突骨。余りの速さに両脇に侍る幼宰の愛犬・剣司と秤司も全く反応できなかった。気付けば主が長身の同族に抱き着かれている。半瞬遅れて身構えようと身を沈めかけるがしかし、敵意も害意も感じず、主の親友も笑顔で見守っている為、自分達も事の推移を見守る事にした。

 一方の主も、突然の事態に目を白黒させていた。とは言え、外面からでは判り難いが。今日初めて会った兀突骨には当然判らず、「あり?」と呟いて幼宰の両肩を掴んで身を離し、じっと見詰めた。興味深く。

 

「動じないにぃ」

「いえ、充分驚愕してま……しているよ」

「そうそう、鋼の吃驚した顔なんて中々貴重な代物を拝んだよ」

「今、びっくりしてたのにゃ?」

 

 じっと見詰めるトラ。声も上げず、表情も動かさず、とてもそうは見えなかったのだが、蕣華に言わせれば違うらしい。

 

「あ、照れてる」

「言わなくていい」

「姉ー、凄いにゃ!」

 

 自分の表情の硬さで盛り上がるのは勘弁してほしい。話しの流れを無理やり変えるべく、視線を足元に落とした。それに気付いた蕣華がすかさず紹介して来た。

 

「この子は梗子。最近、ちょくちょく止宿先に姿を現わすんで遊んであげてるんだ」

「ほぅ」

「ま、仮の名だけどね。人馴れ具合が明らかに野良のそれじゃないし、すごく賢いんだ。多分、南宮内の誰かの飼い犬なんだろうけど……」

「いや、宮城内ではないよ」

「え?」

「セキト。お前、また襟巻を外して勝手に外に出たのか。しかも南宮に忍び込むとは……。あまり、(れん)に心配を掛けさせるな」

「……ワゥ」

「鋼、この子の事知ってるの?」

「ああ、この悪戯小僧はな……」

 

 最初に気付いたのは兀突骨だった。背後から誰かが近づいてくる。通り掛かりではなく、明確にこちらへと向かってくる気配には、敵意や殺意といったものはなく、闘気や覇気といったものもまるで感じない。当然だ。街中の、それも皇帝の足元で不穏な気配を漂わせながら練り歩く者など居る筈もない。だというのに、首筋がちりちりと熱くなった。僅かに遅れて犬達も気付いたが、剣司と秤司は特に反応しなかった。ただ、梗子だけは石像の様に固まった。警戒しながら静かに振り向いた兀突骨も、俄かに固まった。

 

 紅い少女だった。

 

 深紅の髪に、同色の瞳、露出の多い短衣に包まれた褐色の肌には所々刺青が浮かぶ。ゆっくりとした足取りで、此方を一瞥もせずに、どこか茫とした(まなこ)はある一点に注がれており、その一点を目指して歩み寄っていた。

 兀突骨は自然と半歩下がって、少女に道を開けた。それにトラが気付き振り向いた。そして、目を奪われた。無意識のうちに蕣華の裾を掴み、そこで漸く蕣華と、その様子に幼宰が気付いた。

 

 その少女を視界に収めた瞬間、視線が釘付けにされた。いや、視線だけではない。全神経を注いで注視した。前知識など必要ない。一目見ただけでそれと解かる程の超絶の存在。武に心得のある者なら誰もが感じ取るであろう。練達の武を修めていればいる程に、隔絶した差を感じる。正に武の極み。今、目の前に現れた少女はそういう存在だった。

 

 彼女を初めて見る武人は皆同じ反応をするな。そんな事を考えながら、幼宰は紅い少女に声を掛けた。

 

「セキトを探しに来たのか? 恋」

「ん……」

 

 視線を一点から全く逸らさず、殆ど声を発しないその短い返事に、蕣華の足元で石像と化していた柯基犬がびくん!と跳ねた。悪戯が見付かった悪たれのように恐る恐る少女の方を振り向く。

 

「セキト……」

「ワゥ」

「勝手に居なくなっちゃ……だめ」

「ワン」

「襟巻も、取っちゃ……だめ」

「クゥン」

 

 少女が声を掛ける度にしおらしくなる小型犬の様子に、幼宰はくすりを笑みを漏らした。その僅か漏れた弛緩した空気に、固まっていた者達から漸く力が抜けた。それを見て、幼宰は故郷の親友に、洛陽の友を紹介しようと声を掛けた。

 

「蕣華、昨年末の宴席で并州の話が出たろう? 彼女こそが呂布(りょふ)(*143)、字は奉先(ほうせん)だ」

 

 そこで初めて此方に気付いたように、恋と呼ばれた少女は蕣華に目を向けた。じっ、と見詰める。無垢な幼子のような深紅の瞳。吸い込まれるように見詰め合う。

 

「宜しく、奉先殿。私は厳……」

「恋」

「……え?」

「恋で、いい」

 

 今度は別の意味で固まってしまう蕣華。真名を預かる最速記録である。以降、この記録が破られる事はないだろうと確信できるほどの速さ。しかも、その要因がとんと解らない。思わず全ての動き止めてしまうのは致し方ない事だろう。

 そんな蕣華に、隣に立つ幼宰から助け舟が出された。

 

「蕣華、恋はこういう奴なんだ。私の時もそうだった」

 

 その言葉に、ゆっくりと、と言うよりぎこちない動きで幼宰の方を振り向く蕣華。その蕣華を見て、随分と面白い顔になってるな、と内心で独り言ちて続けた。

 

「私の場合は、剣司と秤司が主な要因だったな。恋、蕣華に真名を預けたその心は?」

「セキトの匂いが……する」

「だそうだ」

 

 つまり、梗子改めセキトが懐いているので、真名を預けるに足ると判断したという事だろうか? それにしても随分と鼻がいい。それとも比喩か何かだろうか? ともあれ、これほどの人物に真名を預けられる栄誉(と言うと聊か大袈裟だろうか)を得たのだ。是非、此方の真名も受け取ってもらいたい。

 

「では、私の事は蕣華と呼んで欲しい」

「ん、……よろしく、しゅんか」

「ああ、改めて宜しく、恋」

 

 互いに真名を交換し、一段落着いたところで呂奉先の視線が斜め下にずれた。何やらもじもじしているトラに。

 

「ああ、紹介するよ。この子は……」

「ねこ」

「ねこじゃないにゃ!」

「そうだよ、トラはこう見えて虎だよ。子虎だよ」

「蕣華ちゃんも何言ってるにぃ」

 

 二人の呆けたやり取りに、南蛮勢から突っ込みが入る。

 奉先は突っ込みには特に反応せず、困ったように眉根を寄せて小首を傾げながら蕣華の言葉を反芻する。

 

「……とら?」

「そう、トラ」

「トラだにゃ!」

「トラちゃんだにぃ」

「皆して言わなくていいからな」

 

 今度は幼宰が突っ込む番になった。

 

「……トラは、ねこじゃ…ない?」

「ちがうにゃー」

 

 何故か執拗にトラを猫ではないかと主張しようとする奉先に、何かこだわる訳でもあるのだろうかと、幼宰はその訳を尋ねた。ぽつりぽつりと返ってきた答えは、以前、南宮の一角で出くわした猫集会で(たむろ)していた猫達に似ているからだと言う。そして、それはトラと芽衣が皇帝と謁見していた時に重なった。

 

「私が梗子、じゃないや、セキトと初めて会った日でもあるね」

「控えの間に戻った時、皆至福の表情で寝こけてたにぃ」

「にゃー」

「つまるところ、恋が遭遇した猫集会というのは、南蛮使者の少女達の事か」

「……?」

「そこで不思議そうな顔をするな」

「……」

「いや、何も困らせようとしている訳ではないぞ」

「幼宰のねぇねぇも凄いにゃ!」

「恋は割と表情に出てるだろう。それとトラ、に芽衣も私の事は鋼でいいぞ」

「にゃ!」

「確かに預かったにぃ」

 

 こうして取り纏めのない初顔合わせが済んだところで、奉先が兀突骨に目を向けた。妙にうずうずしている長身の女傑に。

 幼宰やトラなどは、兀突骨の落ち着きのない理由を推し量れなかったが、蕣華にはその気持ちが良く判った。自分も同じだからだ。奉先にも伝わったのだろう、暫く兀突骨を眺めた後でおもむろに提案して来た。

 

「……うちに、来る?」

「是非、お邪魔するにぃ!」

「あ、でも得物を取ってこないと」

「何かと思えばそういう事か」

 

 武人と武人が出会えば、そこには言葉より尚雄弁な語り合いが待っている。しかも、ここで出会えたのは特級の武。普段は保護者然とした兀突骨も、南蛮人らしい欲求に対する素直さを抑える術を持たなかった。

 

 

 ――――

 

 

 都城内の光禄勲(こうろくくん)府官衙の一角にある中郎将(ちゅうろうしょう)の公邸。蕣華達は取り急ぎ南宮に得物を取りに戻り、鋼の案内でここに通された。

 

「恋って中郎将だったのか」

「東のな」

「他の方角もあるにゃ?」

「四位中郎将は、あとは()北中郎将だけだな。他にも皇甫(こうほ)左中郎将と(しゅ)右中郎将がいらっしゃるが」

「と言うか、勝手に上がり込んじゃってるけど大丈夫なの?」

「ああ、恋はあまり従僕の類いを雇い入れていなくてな。私も初めは戸惑ったが、来たい時に好きに上がり込んでいいと言われてな」

「なんか凄いな。でも、その割に庭は結構綺麗だね?」

「偶に園丁を入れて手入れさせているらしい。住み込みは動物の世話役が数人いるくらいなんだ。あとは……あの娘が取り仕切っている」

 

 邸の庭を進みながら話していると、奥から一人の少女が此方目指してずんずんと歩み寄って来た。

 トラと殆ど変わらない背格好。年齢も似たようなものだろう。二つに結んだ青竹色の髪を左右に揺らしながら、小豆色の強気な瞳で睨み付けて来ている。明らかに丈の大きい黒い外套を翻して、堂々と蕣華達の目の前までやって来た。

 

「よく来たのです、鋼。で、こやつ等ですな? 恋殿に挑もうなどと言う身の程知らずは」

「なんにゃ、このちみっこ」

「ちびはそっちですぞ」

 

 いきなりの物言いに、幼宰が返事をするより先にトラが不満の声を上げた。外套の少女もすぐさま言い返し、俄かに険悪な空気が場に漂い出した。

 

「ほらほら、二人とも落ち着いて。喧嘩は良くないよ?」

「姉ー、でも……」

「子ども扱いするなです。ねねはこう見えて恋殿の専属軍師なのですぞ」

「へぇ、そりゃ凄いな」

「そんな事よりも、ねね」

「そんな事とはなんですか!」

「私達を迎えに来たのではないのか? 第一、このままではお前を皆に紹介も出来ないぞ」

「ぐぬ……」

 

 蕣華が仲裁に入り、幼宰が突っ込む事で一先ず場を治め、そのまま幼宰が少女を紹介した。

 

「先程、自分でも言っていたが、この子は恋の軍師で陳宮(ちんきゅう)(*144)だ。この齢で并州に居た頃から恋を支えてきた、正に忠臣だな」

「字は公台ですぞ。それと鋼、齢の事は言うななのです。ねねは年齢の事でとやかく言われるのが一番むかつくのです」

「ああ、済まない。しかし、齢の事を言うならこの場に居る皆若年だ。誰も気にしたりしないさ。芽衣もまだ十代という話だしな」

「よく見えないと言われるにぃ」

 

 兀突骨の言葉に陳公台はそちらを見上げ、納得したように頷いて応えた。

 

「成る程、みえないのです」

「よく言われるにぃ」

「それはもう聞いたのです」

 

 それを機に皆で自己紹介をし、改めて奉先の元へ案内される事となった。広い邸ではあるが、程無く庭園の一角へ辿り着く。

 そこに、方天画戟を片手にぶら下げた呂奉先の姿があった。

 手入れをされたのは最近なのだろう、形よく整った庭木で、身を寄せ合いながら羽を休めている小鳥をぼんやりと眺めていた。

 

「恋殿、連れて来ましたぞ」

「ん……」

 

 陳公台が傍に寄り声を掛けると、ゆっくりと此方を振り向く。ただその様を視界に収めるだけで肌が粟立つのを感じる。先程、街中で遭遇した時とは明らかに違う。闘気を迸らせている訳ではない。しかし、得物を携えている。それだけで武人の完成形を観た。実際に刃を交わらせたら、ここから更にどれ程跳ね上がるのだろうか。

 

「先に()らせてもらうにぃ」

 

 最早、我慢も限界といった風に前に出る兀突骨。大人しく先番を譲った蕣華の元に、兀突骨と対峙した奉先から離れて公台が近寄って来た。

 

「さて、あやつはどれ程持ちますかな」

 

 その公台に対し、如何にも不満気に呻るトラ。余程、悔しいらしいが、実際に言われ放題の二人が何も言い返さない為、仕方なく大人しくしているようだ。そんなトラの頭をいつもの様に撫でるが、今はあまり嬉しくなさそうだ。それでも、若干肩から力が抜けたのを見て、奉先と兀突骨の立ち合いに集中する。

 すると、隣にまでやって来て、同じく二人の立ち合いを振り返って見学に入った公台が小さな驚きの声を上げた。

 

「ほぅ、なかなかやりますな」

「なんだ ねね、珍しいな」

「ふん、恋殿に挑んだ殆どの者が、ねねが振り向く前に地に伏せますからな。ここまで持ち堪えているだけで大したものです」

「恋って、そんなに頻繁に挑まれてるの?」

 

 中途半端な防御を捨てて、奉先と打ち合う兀突骨の頑強振りに感心しながらも、漏れ聞こえてきた二人の遣り取りに横から質問する。

 

「お前達の様に嬉々として挑んでくる者は、それ程多くはないのです。大体は圧倒的な実力差を感じ取って引き下がる。ま、当然ですな」

(ルオ)も委縮してたな」

「あやつは己の分を弁えてますからなー。ただ、弁え過ぎの感もありますが」

 

 誰だろう?と僅かに疑問が湧いたが、公台の話が続き、鶸なる人物の事は一先ず意識の奥に仕舞われた。

 

「ただ、恋殿の評判を聞いた連中が、子飼いに立ち合いを命じる事が偶にあるくらいですな」

「成る程ねぇ」

「ま、そんな連中は悉くねねが距離を取る僅かの間に、無様に這い蹲っていますな、と。……むむ」

 

 公台の言葉尻に、奉先の強撃が兀突骨の右脇を強かに打ち据え、遂に片膝を付いた。公台はそこで決着と思ったが、次の瞬間には跳ね上がって大上段から奉先に向かって一撃を加える兀突骨に、驚きの唸り声を上げた。

 だが、そこまでだった。誰にも奉先の動きが見えなかった。恐らく、兀突骨もどうやって自分が吹き飛ばされたのか判っていないだろう。刹那の間に放たれた一撃。決着である。

 

「めぃさま!?」

「トラ、と言いましたな」

「にゃっ?」

「先程、あの者を侮った発言をしたこと、撤回しますぞ」

 

 悲痛な叫びをあげるトラに、公台が声を掛けた。なんだか冷静な声音に無性に苛立ち、つい強い声で返事を返し振り向いた。だが、続いて紡がれた公台の突然の言葉に、動きを止めて眼を見開いて公台を見詰める。視線に耐え切れなくなったのか僅かに頬を紅潮させて、ふいっとそっぽを向く公台。そんな二人を眺めて蕣華と幼宰は小さく笑んだ。

 

「さて、芽衣が一分を魅せたのなら、次は私だな!」

 

 もうこの二人の関係は大丈夫だろう。少し気に掛かっていたが、それが晴れた今、ほんの僅かの引っ掛かりもない。一切の憂いなく濁りなく挑めるというものだ。元々充溢していた気合いを更に込め、秋草を手に呂奉先に向かって進み出た。

 

 

 ――――

 

 

「……また、立ち上がりましたぞ。あやつは何で出来ているのですか」

「蕣華ちゃん、凄いにぃ」

「姉~」

「……」

 

 もう幾度目になるか……。打ち倒されてはその度に立ち上がり、尚も奉先に挑みかかる蕣華の姿に、誰もが驚愕と、称嘆と、そして戦慄を覚えていた。

 今もまた袈裟掛けに切り掛かり、易々と避けられるとそれを見越していたのだろう、奉先が避けた方へ深く一歩踏み込んで斬り上げ、その勢いを以って更に前進する。逆撃を狙っていた奉先の横薙ぎは、前進によって間合いを潰され、穂先ではなく柄の半ばが蕣華の横腹にめり込んだ。互いに懐深く対峙する。双方共に長物を振るうには適さない距離だ。奉先は下がろうとするが蕣華がそれをさせない。腹に方天画戟をめり込ませたまま、秋草の柄と左肘を上段から奉先のこめかみに打ち込んだ。

 そして、吹き飛ばされた。

 めり込んでいた方天画戟をそのまま振り抜いて、蕣華を三丈(約7m)程吹き飛ばした奉先は、右手を右のこめかみに当てた。立ち合いが始まってから、初めて受けた一撃である。

 

 倒れる度に動き自体は鈍っている。当然だ。だが、身のこなしは徐々に洗練されてきている。

 

 だが流石にもう限界だろう。僅かに笑んだ奉先が目を向けると、震える身体を鞭打って、尚も立ち上がろうとする蕣華の姿がそこにはあった。

 

「まだやるつもりなのですか……」

「ああ、大した奴だ」

「……?」

 

 感心とも呆れともとれる声音で呟く公台に、聞き覚えのない声が答えた。疑問符を頭上に掲げながら声の方を振り向くと、矢張り見覚えのない、しかし知己の面影を映す女傑が大きな胸の下で腕を組み、(しき)りと感心した様子で蕣華の立ち合いを見守っていた。

 

「誰ですか? お前は」

「済みません、勝手にお邪魔してしまって」

「何だよ、いい筈だろ。そう言ったじゃないか、鶸」

「確かに言ったし、普段から恋さんからもそう言われてるけど、取り込み中みたいだから出直そうって言ったじゃないですか」

 

 問い掛けると、女傑の脇からひょこっと顔を出してその知己が謝罪して来た。良く似た二人、会話から推し量れる関係性、公台にはすぐさま女傑の正体が解かった。

 

「お前が西涼の錦馬超(ばちょう)(*145)ですか」

「お噂はかねがね。鶸にはいつも良くして貰っています」

「おう、妹がいつも世話になってる。あんたが陳公台で、董幼宰。それであれが呂奉先、か」

 

 挨拶もそこそこに、立ち合いに目を向ける新たに現れた武人。座り込みながら立ち合いを観戦していた兀突骨が、興味深げに横目で窺う。

 長い栗色の髪を後頭部で一つにまとめた、強い意志を宿す葡萄(えび)色の瞳を更に強調する太眉が凛々しい、快活な印象の美人。満身に漲る闘気は一流の武人である事を声高に主張している。

 馬超、字を孟起。西涼きっての猛将。常に異民族の脅威に晒され続ける後漢の西端にて武勲を上げ続ける若き豪傑。若年でありながらも、今、この大陸でもっとも実戦経験豊富な武将の一人である。

 

「なぁ、呂奉先と立ち合ってるあの子は?」

「あいつは私の親友でして。名を厳寿と申します」

「厳寿……、聞いたことあるな。確か、益州巴郡太守の一粒種、だったか」

「よくご存じで」

「最近は、益州の評判を結構聞くんだよな」

「鶸も以前、そんな事を言ってたな」

「うん、本当にここ数年で増えましたから」

 

 益州と、その土地の才子の噂の流布。公台には見当がついていたが、その事については口を挟まなかった。それに、今はそれよりも注視すべきことが目の前にあった。

 

「構えたまま動きませんな」

「気息を整えているのさ」

「本当はもうとっくに限界を超えてるにぃ」

「ああ、次が最後の一合だ」

 

 馬孟起の言葉に、トラが心配そうに息を呑む。そのトラの視線の先で、無理矢理に体の震えを抑え、じりじりと摺り足で間を詰める蕣華。その先には悠然と佇む天下無双。

 

「それにしても……」

「ん?」

「あやつは何故、あそこまでぼろぼろになってまで挑むですか。最早十全どころか、満足な一撃を見舞う事も出来ますまい」

「だろうな」

 

 公台がぽつりと漏らした疑問に答えたのは、疑問を持たぬ二人の内、馬孟起の方だった。

 

「あれだけ満身創痍じゃあ、立ってるだけでも辛いだろう。次の一撃、どうなろうとその後ぶっ倒れるのは確定だな」

(すい)姉さん、それじゃあの人は勝機も何もないのに闇雲に立ち向かってるんですか?」

「勝機、か。厳寿は今そんなものの為に立っている訳じゃないさ」

「じゃあ、なんにゃぁ?」

 

 泣きそうな顔でトラが会話に割り込む。そんなトラを窘めるように頭を撫でて、兀突骨が後を接いだ。

 

「今、蕣華ちゃんは凄い速さで成長してるにぃ」

「せーちょう?」

「動き自体は倒される度に鈍っている。だが、立ち上がる度に身のこなし、力の入れ加減、太刀筋から無駄が無くなっていってる。厳寿自身の理想の武に少しづつだが近付いて行ってるんだ」

「蕣華の理想の、武……」

 

 幼宰のその呟きと共に、遂に蕣華が仕掛けた。引き絞る様に後ろ腰に構えた秋草を横薙ぎに一閃。そこには確かにいつものような(はや)さは微塵も無かった。しかしその分、武才に乏しい者達にもはっきりと、その美しいとさえ感じる白刃の軌跡が視えた。

 

 そして、庭園の植木にまで吹き飛ばされて、今度こそ完全に蕣華は意識を失った。

 

 

 

 第十回――了――

 

 

 ――――

 

 

 目を覚ますと、視界一杯に心配そうなトラの顔が映った。

 

「……おはよ」

「姉ー!!」

 

 感極まって、ぎゅむっ、と抱き着いて来たトラによって完全に覚醒した蕣華は、痛む身体を無視して、寝台から半身を起こして周囲を見回した。どうやら、皆揃っている。自分の無茶に、随分と心配やら迷惑やら掛けてしまったようだ。

 

「あー、随分面倒かけちゃったかな」

「全くですぞ」

「恋もありがとね」

「ん、いい。 ……しゅんかは、へんな奴。でも、面白かったから、……またやってもいい」

「お、本当? やった」

「少しは懲りやがれです」

「あはは」

「ねねの言う事も尤もだぞ、蕣華。余り無茶するな」

「まぁまぁ」

「心配に押し潰されそうになるトラの姿を見せ付けられる此方の身にもなれ」

「う……、ご免なさい」

「姉~」

「ご免ね、トラ。もうあそこまでの無茶はしないから」

 

 トラの背を撫でながら抱き寄せて謝る。やれやれ、という空気が部屋に蔓延する。その中で、好奇の視線を感じ蕣華は顔を上げた。そして、疑問の声を上げる前に相手が名乗って来た。

 

「よぉ、私は翠ってんだ。宜しくな」

「翠姉さん、いきなり真名で……!?」

「なんだよ、いいだろ。あれだけのものを魅せられたんだし」

「最速記録、か」

「ん? なんだって?」

「いえ、何でも」

 

 まさかの名乗りについ漏れた呟きは適当に誤魔化す。何故、彼女がこんな所に居るのかはよく分からないが、ともあれ返礼をしなくては。

 

「私は蕣華です」

「ん、確かに預かったぜ」

 

 生まれて初めて真名で自己紹介してしまった。と言うか、そんな経験をする事になるとは夢にも思わなかった。妙な感慨に耽っていると、もう一人の少女も名乗って来た。

 

「あの、私は馬休(ばきゅう)(*146)字を仲承(ちゅうしょう)(*147)といいます。済みません、姉が突飛な事を」

「いえ、お気になさらず。馬休さん……、という事は翠はあの錦馬超」

「まぁな!」

「まぁな!じゃないですよ! もう、順序が目茶目茶じゃないですか」

「な、なんだよ、そんなに怒るなよ。人様の前だぞ……」

「いえ、ここは言わせてもらいます。そもそも―――」

 

 突如始まった姉妹喧嘩?に取り残される一同であった。そんな中、元々妹の方と友人関係に会った二人が最初に再起動した。

 

「話しに聞いていたよりも、随分と自由人な姉上のようだな」

「ですな。話に聞く妹や従妹はあれよりも酷いのですか」

「……でも、好いにおい、する」

 

 恋は匂いで人を判別するのかな? と思いつつ、事情に明るそうな二人に声を掛ける。

 

「えーっと、結局あの二人はどういう事?」

「鶸、妹の馬休がな、私と同時期に涼州の上計掾として洛陽に召し出されてな。共に朝議に参与するうちに友誼を結んだのが始まりだ」

「へぇ。じゃあ、翠は?」

「あたしは中央に報告する事があってな」

 

 ここで妹の説教から逃れる為に、馬孟起が話に加わって来た。

 

「西方異民族に何事かあったのですな?」

「良く判ったな」

「ふん、これくらい類推できなければ軍師は務まらないのです」

「で、具体的には何があったのさ」

「それがなぁ、上手く言えないんだが、なんか違和感があるんだよな」

「なんですか、そのふわっとした物言いは。そんな報告じゃまるで役に立たねーですよ」

「いいんだよ! 報告には母様の報告文書を上表したから!!」

「まぁ、元々期待はしてなかったのです」

「おい!」

「聞くのです。丁并州刺史からも、手紙で鮮卑の様子が可笑しいと送って来たのです。それも長年鮮卑と対峙してきた丁刺史殿でも何やら違和感を感じる、といった程度のものらしいのですよ」

「鮮卑も……?」

「変って、言ってた……手紙で」

「蕣華、益州はどうだった?」

「どうだろ? 私が出立したその日に、州牧から安遠将軍府に氐族討伐の要請が来てたけど……」

 

 何やら俄かにきな臭い情勢の気配が漂って来た。内に大乱の気配があると言うのに、外患までが活性化すればどうなる事か……。

 

「あー! ここでうだうだ言っててもしょうがない!! なったらなったであたし等で蹴散らしてやればいいさ!!」

「頼もしいにぃ」

「ねねは逆に不安ですぞ」

「なんだとー」

「翠姉さん、落ち着いて」

 

 不安な空気を消し飛ばす孟起の激。反応は各々様々だが、蕣華はなんだか故郷の義姉を思い起こして、場違いに微笑ましい気分に浸った。

 

「賑やかにゃ」

「だね」

「ん……」

 

 こうして洛陽でも新たな出会いを果たし、蕣華の京師での滞在も賑やかになる事となった。

 

 

 

 

 




*141歩:後漢の一歩は約115cm。

*142給事謁者:光禄勲府に属する官吏。天子の賓客の接待をする謁者のなかで下位二番の官。灌謁者が一年務め上げると給事謁者に昇する。また大夫以下の弔問の使者も務めたという。

*143呂布:并州五原郡九原県出身の武将。始め丁原に仕えたが、董卓に寝返って丁原を弑逆した。後に董卓をも裏切って矢張り弑逆した。その後、各地の群雄の元を転々とし、最後は下邳にて曹操に敗北。処刑された。武勇においては時代最強と評されたが、短気で軽率で裏切りを重ねるなど、人物評は最低であった。
恋姫では、比類なき武勇を誇る天然癒し系動物好き少女として登場する。チートクラスの武力を誇り、正に天下無双である。

*144陳宮:兗州東郡武陽県出身の軍師。始め曹操に仕えたが、曹操が徐州の陶謙を攻めた時に反旗を翻して、呂布を盟主として迎え入れた。以後、最後まで呂布とその運命を共にした。
恋姫では、恋専属の小さな軍師として登場する。能力は高いとされるが、直情型で並み居る軍師キャラの中では下位に甘んじる印象を受ける。得意技はちんきゅーきっく。

*145馬超:司隷右扶風茂陵県出身の武将。若い頃から武勇を鳴らし、父の軍閥を引き継いだのちは曹操に服属していたが、疑心暗鬼から叛して幾度となく曹操を脅かした。しかし、連合していた韓遂と策によって仲違いを起こし、遂に大敗を喫する。その後も涼州に厳然たる影響力を発揮していたが、涼州刺史韋康を騙して殺害したのを契機に、遂には涼州を追われるほどに零落れる。その後は張魯の元に身を寄せていたが、劉備の入蜀を知ると、劉備の元に走って帰属する。劉備の元で驃騎将軍・涼州刺史にまで上ったが、四十代の若さでこの世を去った。
恋姫では猪突猛進の猛将にして、照れ屋なところのある可愛らしい女の子として登場する。女の子扱いに慣れておらず、可愛いなどと評されると酷く慌ててしまう。

*146馬休:司隷右扶風茂陵県出身の武将。馬超の弟。父馬騰が曹操の要請を受けた時、父と弟馬鉄と共に入朝し、奉車都尉に任命された。しかし、馬超が曹操に叛乱を起こしたせいで処刑されてしまった。
恋姫では英雄譚から登場。馬家の中では内務を一手に取り仕切るなど、馬一族にしては武勇以外にも有能さをみせるが、その分、苦労性である。真面目で突っ込み気質で、そして弄られ役でもある。膀胱の働きが少々弱い。

*147仲承:馬休の字。本作独自のもの。

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