闇の中を、歩いていた。いつから歩き始めたのか、いつまで歩き続けなければならないのかも分からない。しかし、足を止めてはならないと本能が告げていた。止めてしまっては、何もかも台無しになる。振り返ってもならない。そんな、予感があった。
地面の感覚が、ない。それでも前へ前へと進む。
目の前に、光が見えた。目が眩む。
道が、途切れていた。長い道程の、終わりだった。
迷わずに、光の中に飛び込んだ。
「――で、気付いたら病院のベッドの上だった」
「……それって結局、何も覚えてないってこと?」
「そうなるな」
暢気な物言いに、宮永咲は深い溜息を吐いた。
「心配させるだけさせておいて、それはないんじゃないの? 京ちゃん」
「しょーがねーだろ、覚えてないもんは覚えてないんだから」
シャーペンでノートを突きながら、京太郎は小声で彼女に言い返す。
「岩手で曾爺ちゃんの葬儀に出たところまではちゃんと記憶にあるんだけどなー」
「そこからが大事でしょ、もう」
「俺にとって今大事なのは受験勉強だっつの。二ヶ月以上も浦島太郎状態なんだぜ、流石に焦るって」
図書館の隅の隅。そこで、京太郎は机を挟んで幼馴染みの少女と向かい合っていた。かねてからの約束の通り、受験勉強を見て貰うため。軽い気持ちで話していたことだったが、今となっては切実な問題となっていた。
京太郎は八月の終わりから一ヶ月以上に渡り、原因不明の昏睡状態に陥っていた。目覚めた後、中学三年生である彼にとっては、冷汗三斗の思いであった。スポーツ推薦という手もなくはなかったが、できるだけ実家に近い高校を選びたかった京太郎としては参考書にかぶりつくしか選択肢はなかった。
「京ちゃん、京ちゃん」
「なんだよ」
「もう、大丈夫なの?」
「ああ、リハビリも終わって万全。お医者さんにも『超健康体で倒れたのが意味分からん』って言ってて、太鼓判を押されたくらいだから」
「ああ、うん。そっちじゃなくて。ううん、そっちもだけど」
歯切れが悪く、咲は視線を中空に彷徨わせる。「なんだよ」、と京太郎がせっつくと、彼女は若干言い辛そうに切り出した。
「ほら、京ちゃん県大会決勝で負けちゃったでしょ」
「ああ……何かと思えばそのことか。そりゃ悔しかったけど、いつまでも引き摺っていられないだろ」
「そうじゃなくて。私が言いたいのは、終わった後のことだよ」
「はぁ?」
咲は、ほら、と人差し指を立てる。
「何だか友達を避けてたよね。私のことも。結構びっくりしたんだよ。京ちゃんらしくないって」
「あー」
言われてみれば、心当たりがある。やさぐれていたというか、合わす顔がなかったというか。思い返せば、恥ずかしくなるような理由だった気がする。そう、とても子供染みていて、情けなくなるような。
「でも、退院してからはいつもの京ちゃんに戻ってたから、安心したよ」
「そうか?」
「そうだよ。岩手で何かあったの?」
「だから、覚えてないって」
見知らぬ、もう思い出せもしない土地で起きたことなど、分かるはずがない。
分かるはずはないけれど――
「そう、なのかもな」
「え?」
「いや……なんでもない」
自分でもよく分からない述懐を、京太郎は笑って誤魔化した。とにもかくにも今は目の前の数式をなんとかしなくてはならない。ボールを投げるよりも四苦八苦しながら、京太郎はノートに数字を書き滑らせる。
◇ ◇ ◇
「岩手から来ました、姉帯豊音です」
練習しておいた自己紹介と共に、帽子を外して豊音はぺこりと頭を下げた。どうしても跳ね上がる心臓を必死で抑え付け、声が震えなかったか不安になった。
顔を上げ、改めて四人――三人と聞いていたが――の姿を、豊音は視界に収める。
「ここも岩手だよ……ってでかっ!」
「うわぁー」
突っ込んできたのは、おかっぱ頭の少女だった。後頭部には、おだんごがひとつ。彼女が話に聞いていた部長、臼沢塞なのだろう。
歓声を上げたのは一際小柄な少女は、おそらく鹿倉胡桃。それから気怠げに、しかしはっきりとこちらを見つめているのは小瀬川白望のはずだ。ブロンドの髪の少女――外国人は初めて見た――については、トシからは何も聞かされていない。予想外の存在に豊音は一層緊張を強めたが、それよりも喜びが勝っていた。
「あんたらと同じ高二だよ」
後ろで控えていたトシが、補足してくれる。
「ここに来る前にあちこち見てまわってね。そのときに見つけた逸材なんだ。とりあえず打ってみるといいわ」
「よろしくねー、お願いします!」
どきどきとわくわくが止まらない。
四人で、しかも全員同年代の少女たちと打てるなんて数ヶ月前まで夢にも思わなかった。自然と笑顔が零れてしまう。
途中自己紹介を交えながら、豊音は三人と麻雀を打った。外国人の少女は留学生で、エイスリンという。初めての海外交流だった。
「ぬぎゃー、勝てないわー」
「くっ」
「わーい」
勝てたことよりも、打てた喜びのほうがずっと大きかった。久々に、こんなにも楽しい時間を味わった。
だから、時計を見たとき涙が溢れてしまった。
「なんで泣いてるのっ?」
「せっかく楽しかったのにも帰らなきゃ。次の電車に乗らないと最後のバスに間に合わないんだー」
「そうなんだ、残念」
「勝てなかったけど面白かったよ!」
しゅん、としながらも豊音はコートに袖を通す。かけられる優しい声は暖かく、足が重たくなってしまう。
「それで、いつ転校してくるの?」
「え……」
白望の予想外の発言に、豊音は目を丸くする。
「うちらの仲間候補として熊倉先生が連れてきたんだと思ってたけど」
「違う?」
塞と胡桃も、白望に追従してきた。おろおろと豊音は狼狽える。
「えっ、いや……聞いてない……っ」
「誰にも言ってなかったけどね」
トシもまた、肯定の発言をする。
しかし、豊音の心にずきりと痛みが走る。そんなことが、許されるのだろうか。自分に仲間を作る資格が、あるのだろうか。
「私なんかが皆さんのお仲間にとか……ありえないかなー……とかとか」
豊音の否定は、
「こっちはいつでも」
「うん」
白望と塞が、あっさりと断ち切ってしまった。胸の中に、こみ上げてくるものがあった。
「各種方面の許可はもう取ってあって、手続きの準備もできてるのよ。――あとはあんたらが合うかどうか、それだけだったんだ」
知らぬ内にトシはことを水面下で進めていたらしい。彼女に背中を押される形で、豊音は再び雀卓の席についた。
卓に右頬を乗せ、胡桃がこちらを見つめている。対面で塞が、上家で白望が、やはりまっすぐ視線を送ってきていた。
――ああ。
彼女たちの目にも、やっぱりあの光はない。とても、綺麗だった。
「ちょーうれしいよー」
目元を拭いながら、豊音は笑った。本当に、嬉しかった。わぁっと、部室の中が明るくなる。
「書類上だけならもう転校済みになってるのよ。私と豊音が初めて会った去年の秋にね」
「あっ、あれ編入試験だったんだ!」
トシは目を伏せながら、言った。
「土地のしばりでなかなかでてこれそうになったけど、ようやくだね」
「なんでそんな……」
「そっか」
疑問符を浮かべる塞の隣で、先に白望がトシの言わんとすることに気付く。それで、はっと塞も勘付いた。
「インターハイ!」
にやり、とトシは笑う。彼女が見据えていた未来に、豊音もぽかんと口を丸くする。
「でも団体戦は五人必要でしょ? あとひとり……」
塞の呟きに、
「ハイ!」
元気よく返事をする者がいた。留学生の少女だった。
「エイスリンさん……?」
「なんか描き始めたっ?」
白望と胡桃が驚くのにも構わず、ホワイトボードに彼女はペンを走らせる。
描かれたのは、塞と胡桃と、杯だった。
「何その絵っ?」
「みんなで地区大会に出て入賞しよう」
「わかるのっ?」
あっさりと白望が翻訳する。
ともかくとして。
五人目が揃い、宮守女子麻雀部はさらに活気づく。
一気に四人もの仲間が増えた豊音は、頬を上気させていた。自分を受け入れてくれる場所が、こんなところにあった。
「村から、ここに。ここから、全国に」
囁くように、トシが豊音の傍で語る。
「そうやって、あんたはあんた自身の手で、世界を開いていくんだよ、豊音」
「熊倉先生……」
「そして、いつか会いに行こうじゃないか。あの男の子に」
「……はいっ」
豊音は笑顔と共に、頷いた。
◇ ◇ ◇
夏。
若者たちが、あらゆる競技で鎬を削る季節。
全国高等学校麻雀大会選手権、女子の部。京太郎が所属する清澄高校麻雀部は、県大会を制し、全国大会でも二回戦まで駒を進めていた。
出場選手ではないものの、控え室で京太郎は手に汗握りながら戦いの行く末を見守っていた。流石は全国の舞台、初心者の目から見ても誰一人として気の抜ける相手がいない。全幅の信頼を置かれる部長でさえ、苦戦してしまった。
二回戦も終盤に差し掛かり、副将の原村和から大将の宮永咲にバトンが渡される。
清澄高校、姫松高校、永水女子――それから宮守女子。この四校の内、二校が落ちる。出揃った大将たちが、席に着いていくのを京太郎はテレビ画面で確認する。
「……あれ?」
「どうかした? 須賀君」
首を傾げた京太郎に、目聡く部長である竹井久が問いかける。
「いえ、大した話じゃないんですけど」
「何よ、気になるわね。言ってご覧なさい」
「あのおっきい人、どこかで見たような気がして」
「おっきい人? 永水の?」
「そっちじゃなくて、宮守のほうです」
むう、と久と先輩の染谷まこが目を細める。
そこにいたのは、確かに「大きな」少女だった。おそらく今大会――というより、日本で一番背の高い女子高生ではなかろうか。
「あれだけ特徴的なら、もっとはっきり覚えとるじゃろう」
「よね」
「そうなんですが、どうにも思い出せなくて」
先輩二人の指摘は正しく、京太郎も唸る他ない。同学年の優希は、
「どーせ他人の空似とかそういうのだじぇ」
と、軽く流していった。
それもそうだな、と京太郎は自分を無理矢理納得させる。今は、最前線で戦う咲の応援が一番だ。そう言い聞かせながら、京太郎はテレビ画面を見つめる。
戦いは熾烈を極めた。姫松が失点を重ね、場が平らになってくると緊張はピークに達する。元々余裕など見せられるゲームでもないが、ぶつかり合いは激しくなる一方。
全く違う競技に身を置いていたとはいえ、戦う苦しみは同じだと京太郎は知っている。あの小さな幼馴染が心配で、自然と拳を固めてしまう。
「――大丈夫ですか、須賀くん?」
「え?」
隣の和から、突然声をかけられて京太郎は動揺する。
「ど、どうしたんだよいきなり」
「何だか凄く辛そうだったので……何かあったんですか?」
「ああ、いや、咲が心配で」
「その割には、宮守の人をよく見ていたみたいですけど」
「えっ」
和に指摘され、京太郎は初めて気付く。――確かに、彼女のことがどうしても気になってしまっていた。
「なになに? 恋の予感ー? そういうのは、試合が終わってからにしてねー」
「止めて下さいよ、部長。そんなんじゃないです」
注意という名の部長からのからかいに、京太郎は顔を赤くする。
「そんなんじゃ……ないです」
零れた声は、誰へ向けた者か。京太郎自身でさえ、分からなかった。
画面の中で、黒衣の少女は鳴きに鳴く。あっという間に四副露、裸単騎。人差し指を牌に添え、何事か呟いている。
かと思えば、次順でツモ上がり。さらにこの裸単騎を、連続で決めて見せた。
不思議な感覚だった。あれと似た何かを、京太郎は知っている気がした。だが、どうしても思い出せない。
試合自体は、清澄の一位抜け、姫松の二位抜けという結果で終わった。喜ばしいはずなのに、京太郎はどこか落胆していた。
控え室に戻ってきた咲を、全員で出迎える。
「やったな咲!」
「う、うん……ありがと京ちゃん」
彼女の手元には、どういうわけか二枚の色紙があった。
「なんだそれ」
「そうだ、和ちゃんと京ちゃんのサインを頼まれたんだよ。姉帯さんに」
はぁ? という五人の困惑の声が、重なった。
「のどちゃんはともかく」
「どうして、須賀君?」
「やっぱり知り合いだったんか? 京太郎」
「い、いえ……覚えは、ないです」
咲に押し付けられるように色紙を渡され、京太郎はサインペンを手に取った。
◇ ◇ ◇
三枚の色紙を抱え、豊音は宮守女子の控え室に戻ってきた。
「トヨネ!」
「おかえり……」
「サインいっぱいもらってきちゃったよー」
見て見て、と言わんばかりに出迎えてくれたチームメイトたちに、トヨネは色紙を見せびらかす。
「まずは大将の三人さん! それから――あつかましくもお願いしてみたら原村さんと神代さんのサインも貰ってきてくれるって! ちょーうれしいよー」
色紙を持つ手が、震える。同時に、声も震えてしまう。
「私が……みんなと一緒にこのお祭りにくることができた、この夏ここにいることができた……その大事な思い出の、記念になるんだよ……」
豊音の赤い瞳から、涙が零れる。彼女の元へと、塞たちが駆け寄った。
一年前は、その思い出の記念も残せなかった。彼の名前が書かれた一枚の紙片は、永久に失われてしまった。だから――何があっても、証だけは残したかった。
その後永水女子の石戸霞と神代小蒔の両選手が控え室を訪れて、豊音はサインを貰い受けた。
「わ~~っ、すごい! すごいです! 宝物にしますっ!」
「よかったです」
憧れの選手のサインを掲げて、豊音はぴょんぴょん飛び跳ねる。永水女子の面々と海に行く約束をし、彼女はさらに舞い上がった。開けた世界には、楽しいことが一杯だった。
――そして。
永水の二人に続き、再び、控え室の扉がノックされる。
「お邪魔します……」
先頭で入ってきたのは、清澄の大将であった。その後ろには、インターミドルチャンピオンの原村和。さらにその後ろには――彼の姿。
和からサインを受け取り、やはり豊音は飛び跳ねて喜ぶ。
それから。
訳の分からない、と言った顔で彼が豊音の前に立つ。――ああ、と豊音は小さな息を漏らした。胸がぎゅうっと、締め付けられる。
「本当に俺で間違いないんですか」
「そうだよー、間違いないよ、ありがとー」
豊音はにっこり笑って、頷いた。
彼から、色紙を受け取る。今度はもう、失われない、失いたくない記念の証。豊音はそれを胸元に抱き締め、微笑んだ。
「あの」
おずおずと、彼は切り出してくる。
「俺と姉帯さんって、どこかで会ったことがあるんですか……?」
「――ううん」
豊音は首を横に振り、一度帽子を目深に被る。
「でもね」
しかしすぐに、彼女は帽子のつばを指で押し上げた。
「私は君と、出会いたかったんだー」
一滴だけ。
「あ、れ……?」
少年の左目から、無自覚の涙が零れ頬を伝う。本人も気付かない、細い筋が生まれた。
「お願いがあるの」
差し出すのは、右手。
目一杯の勇気を振り絞る。自分から言うと、彼女は決めていた。本当は、あのときに言うべきであった言葉を。
「私と、お友達になって欲しいんだー」
ひとりぼっちだった山姫は、自ら世界を開いてゆく。
その手に彼の手が添えられることを、信じて。
ひとりぼっちの山姫は おわり
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前作:Summer/Shrine/Sweets(完結済)
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