――邪魔だ。
息を潜めながら、「それ」は闖入者たる熊倉トシを観察していた。彼女は、この世界に招かれざる者。この世界を破壊しかねない者。放置は愚策、早急に対処しなくてはならない。
だが、簡単な相手でもないことは分かっている。何者なのか正体がさっぱり見えてこない。足取りも佇まいも、常人のそれとは比較にならなかった。加えて、現状はまだ仕掛けるには不向きな状態だ。
焦るな、と「それ」は自らを落ち着かせる。
幸い熊倉トシは、山を登るという。ならば、いくらでも機会は巡ってくる。
――確実に、邪魔者はこの世界から排除する。
霧の中に、「それ」の敵愾心は溶け込んでゆく。
◇ ◇ ◇
トシの先導で山へと出立する一時間前。
京太郎は、居間でのほほんとせんべいをかじるトシと向かい合っていた。豊音は一人、寝室で眠っている。
「さっきは訊く余裕がなかったんですけど、教えて貰いたいことがあるんです」
「なんだい?」
「熊倉さんは俺が魂だけの存在だって言ったけど……俺の体のほうって、一体どうなってるんですか?」
ふむ、とトシは顎に手を添える。
「原因不明の昏睡状態として、今は東京の病院にいるはずだよ」
「東京って。……もしかして、かなりの大事になってたりするんですか」
「中々例を見ないことだからね」
「その割には、熊倉さんは結構落ち着いてませんか」
「人生それなりに長く生きてると、色々なものを見るものさ。似たような体験もしてるしね」
果たして長生きだけで済ませていい事柄なのか京太郎には分からなかったが、落ち着き払ったトシを前にすると納得してしまう。おそらく彼女は、真実だけを告げている。
「俺は一体、いつからこんな状態になってたんですか」
「あんたが発見されたのは、例のトンネルの中だそうだよ。心当たりはないかい?」
「――あります」
初めてあのトンネルに侵入して、豊音の村を訪れようとしたときだ。引っかかるような、妙な違和感を京太郎は覚えた。あの瞬間から、異変は起こっていたのかも知れない。
「俺は無事に、戻れるんですかね」
「そこは心配しなくても良いよ。私がなんとかするから」
「頼もしい限りですけど、その、さっき体が保つかどうかって言ってたじゃないですか」
ああ、とトシは一度頷いて。
それから何故か、少し声を抑えて言った。内緒話をするようであった。
「私の見立てでは、まだ余裕はあるわよ。大丈夫、心配しないで」
「……分かりました」
「でも、ひとつだけ覚悟しておくように」
「え?」
命とは全く別の問題、可能性――
それを、トシは京太郎に語り聞かせた。京太郎は彼女の話を、最後まで黙って聞いた。それから、目を伏せて頷く。
「……分かりました」
「最近の子供は物わかりが良くて助かるよ」
「別に、良くはないですよ」
「あらそうかい。――とりあえず、あんたももう少し休んでおいたほうが良い。次にいつ機会が巡ってくるか分からないんだから」
そう言って、トシが立ち上がろうとする。慌てて京太郎は彼女を引き止めた。
「まだもう一つ、訊きたいことがあるんですけど」
「なんだい?」
「一体熊倉さんって、何者なんですか?」
京太郎の質問に、トシは肩を竦めて苦笑した。
「現在無職、来月から教師のただのおばさんだよ」
京太郎の追求から逃れるように、トシは部屋を出て行った。こういう状況に造詣が深いということだけは分かったが、結局は謎が深まるばかりだった。
京太郎は溜息を吐き、言われたとおりに休もうかとその場に寝転がって、
「……姉帯さん?」
「お、おはよー」
自分を見下ろす豊音と、目が合った。トシの入れ替わりで、いつの間にか居間に入ってきていたらしい。
慌てて京太郎は立ち上がろうとするが、
「そのままで、良いよー」
豊音が制止した。そのまま彼女は、京太郎のすぐ傍に座る。
「須賀くんも、疲れてるよねー。ずっと、こんなところにいて」
「いや、俺は別にこのくらい、どうってことないって」
虚勢混じりであるが、豊音に情けないところを見せたくなかった。
「よいしょ」
するりと豊音の手が、京太郎の頭に触れる。えっ、と京太郎が戸惑う間に、彼の頭は豊音の膝の上に乗せられていた。いわゆる膝枕の格好になり、思い切り京太郎は狼狽える。
「あ、姉帯さんっ?」
「畳は硬いから痛いでしょー」
確かに彼女の膝の上は柔らかかった。見上げると、彼女の笑顔がそこにある。京太郎の髪に、豊音の指が触れた。どきりとして、京太郎は顔を背ける。
「姉帯さんのほうが、辛いだろ、これじゃ」
「さっき、麻雀にも付き合って貰ったしねー。お礼だよー」
「い、いちいちお礼されるほどのことじゃないって」
「でも、私は嬉しかったからー」
ふにゃりと柔和に笑う豊音は、京太郎の頭を撫でる。
「ゆっくり、休んでねー」
「……むしろ緊張で休めないっつーか」
「んー?」
「なんでも、ないです」
ぼやきながらも、京太郎は受け入れる。抗いがたい魅惑であった。豊音のてのひらが、優しく京太郎の頭を撫でる。暖かいものに包まれている気分になった。自分が魂だけの存在なんて、信じられなかった。
「須賀くん」
「なに?」
「……なんでもないよー」
「その言い方、気になるんだけど」
豊音の指先が、京太郎の頬に触れる。改めて京太郎が豊音を見上げると、彼女はどこか悲しげに、微笑んでいた。
「なんでも、ないのー」
彼女はそう言って。
腰を折って、ぎゅっと京太郎の頭をその身に包み込んだ。
「――」
「ずーっと」
豊音は目を伏せて、誰にともなく呟いた。
「こうして一緒にいられたら、良いのにねー」
京太郎は、黙ってされるがままになる。彼女の望みに、殉じる。そうしなくてはならない理由が、彼にはあった。
そろりと、豊音が離れる。彼女の顔は真っ赤になっていた。京太郎もまた、ほとんど同じ状態であった。それでも豊音は、京太郎から離れようとしなかった。しばらく二人は、沈黙の帳が落ちた部屋でそうしていた。
「――あんたたち」
「うわわっ」
「きゃっ」
突如居間に戻ってきたトシに声をかけられ、京太郎は豊音の膝から滑り落ちる。がつん、と後頭部をテーブルの足にぶつけた。
「いってぇー……!」
「だ、大丈夫ーっ?」
「何をやってるんだい」
若干呆れ気味にトシは言った。
「ほら、しっかりしなさい。夜が明けそうだよ」
その言葉を聞き――同時に二人は、立ち上がった。
◇
見上げた山は、うずたかくそびえ立ち、見ているだけで圧倒される。生半可な準備で登山できるとは京太郎には思えなかったが、トシの鶴の一声で出立することとなった。元より常識の通じない世界である。まともな尺度で考えるほうが間違いなのかも知れない。
ただし、ひとつだけ京太郎は提案した。
「姉帯さんは、家に残ったほうが良いんじゃないですか。山男に会いに行くなんて、何が起こるか分からないですよ」
「あんたが守ってやれば良いじゃないか。一人で残して、そこを狙われたらどうするんだい? それこそ守れないだろう?」
すげなくトシに言い返され、京太郎は言葉を詰まらせる。さらにトシは続けて言った。
「あんたこそ、残っていても良いんだよ。私がなんとかしてみせるから」
「自分のことなのに、人に任せてばかりいられないですよ」
「男の子だねぇ」
トシは嬉しそうに笑うが、京太郎の胸中は穏やかではない。だが、ここでトシに当たっても仕方がなかった。
京太郎は背後の豊音へと訊ねかける。
「姉帯さん、行けるか?」
「私は、大丈夫だよー」
黒い帽子を目深に被り、豊音はしっかり頷いた。
「じゃあ、行こうか」
トシを先頭に、京太郎、豊音の順で続く。
霧はなおも晴れていないが、幾分か薄まっているようであった。数歩先なら充分に見える。贅沢を言っていられる状況ではなく、気を付けながら京太郎は歩く。
不思議なのはトシで、この視界の悪い状況でも、彼女はひょいひょい前へ前へと進んでゆく。山の入口も一度豊音から聞いただけなのに、まるで迷いがない。後ろの京太郎たちに、悪路を注意する余裕まである始末だ。
「これも年の功ってやつですか」
「あちこち飛び回ったからねぇ」
「結局、前の職業って何なんですか?」
「実業団チームの監督だよ、麻雀の。めぼしい選手がいたらどこにだろうとスカウトに行ったものだよ。おかげさまで一番の特技は交渉さ」
誇らしげにトシが言う。
なんとなく、京太郎は察してしまった。
「……なんとかするって言ってましたけど、まさか、山男と交渉するつもりですか?」
「そのまさかだよ」
全く悪びれずトシは答え、京太郎は溜息を吐いた。
「言葉が通じない相手だったらどうするんですか」
「通じるさ」
「――そうですか」
二人の会話は、そこで途切れる。
山の入口に、差し掛かったのだ。山道は暗い森の中に続いており、やはりその中も霧に包まれている。
「豊音」
「は、はいー」
「ここで良いんだね」
「そうですー……」
トシは豊音に確認をとると、意気揚々と山へと足を踏み出した。京太郎は唾を飲み込み、一度豊音へ振り返った。帽子のせいで、彼女の目元が見えない。
「姉帯さん」
「うん」
名前を呼ぶと、豊音は歩き始める。彼女の体は強張っていた。京太郎は、彼女の隣へと寄り添った。
山は、不気味なほどに静寂に包まれていた。
人の気配はおろか、動物や虫の存在も感じられない。草や樹木も、まるで形だけを真似た作り物めいていた。
道が、細まってゆく。
三人は沈黙を保ったまま、山の奥へ奥へと分け入る。霧と闇は、更に濃くなるばかり。凍えるような冷たい風が、京太郎の頬を掠めていった。
もう元来た道にも戻れないのでは、というくらいに歩いた先で、
「……どこにも、いませんね」
京太郎が呟くように、言った。
「どうだろうね。もう少し探してみないと」
トシはなおも暢気にとぼけてみせる。
「一度、帰ったほうが良いんじゃないですか」
「諦めるにはまだ早いよ。もっと辛抱強くなりなさい」
京太郎の進言を聞き入れるつもりはないようで、トシは構わず歩き続ける。そっと盗み見た傍らの豊音の顔色が、青かった。――様子がおかしい。京太郎は慌てて前をゆくトシに声をかけた。
「熊倉さん、休憩しましょう」
「……仕方ないね」
不承不承、トシは頷いて足を止めた。
大丈夫か――そう、京太郎が豊音に訊ねようとした、そのときだった。
「――ッ?」
突然霧が、濃くなった。視界が一気に覆われて、一寸先さえ何も見えなくなる。同時に、ずるりと足元が滑る。
ばかな、と京太郎は叫ぶこともできなかった。しっかりとした地面が急に消失し、京太郎は転倒してしまう。そのままごろごろと、彼の巨体は転がっていった。
「痛ぅっ!」
大きな木の幹に京太郎は受け止められ、苦しげな悲鳴を上げる。だが、痛みに悶える暇はなかった。すぐに立ち上がって、彼は叫ぶ。
「姉帯さん!」
返事はない。
「熊倉さん!」
返事は、ない。
そんなに遠くまで離れていないはずなのに、虚しく京太郎の声が木霊するだけ。辺りは霧に包まれて、何も見えない。
「姉帯さん! 熊倉さん!」
京太郎が何度呼びかけても、返事はなかった。
「畜生……!」
京太郎は走り出す。まさに五里霧中、彼女たちに会える当てなどどこにもない。しかし、彼に他の選択肢はなかった。ただただ、走るしかなかった。
◇ ◇ ◇
――好機だ。
分断は、成功した。唯一の懸念事項は、取り除かれた。
あれを排除する、この上ない好機である。だが、慌ててはいけない。油断せずに、確実に対処すべきだ。
――もっと霧を。
何もかも覆い隠してして見えなくすれば、きっと上手くいく。この世界ならば、何もかも全て意のままである。
――もっと、もっと霧を。
気配を霧の中に溶け込ませる。存在を悟らせてはいけない。
じぃっと、「それ」は標的を観察する。移動していくその背中を、目線で追いかける。早い。標的は木々の間を縫うように進んでゆく。もっと容易かと思われたが、中々タイミングが定まらない。
許された時間はそこまで多くはない。
足音を押し殺して、標的を追って移動する。
「……ふぅー」
吐いた息が、どこかに消えていった。
――逃げるのなら、この世界から早々に失せればいいのに。
苛立つ思考とは裏腹に、「それ」の行動は素早く、冷静であった。標的から一定以上の距離を作らず、また必要以上に近づかず、徐々に徐々に迫ってゆく。
にやり、と「それ」の口元が歪む。
標的が気付く気配はない。警戒はしているようだが、こちらのほうが一枚上手だ。
からん、と小石が転がる音がした。
標的が、立ち止まる。
森を抜け、切り立った崖に出たのだ。流石にそのまま滑落するような愚行は犯さなかったが、仕方なく標的は踵を返す。再び、森の中へと帰って行く。
――このときこそ、待ちに待った機会であった。
崖に出くわし、一度標的は動揺した。なんとか踏み止まって、命が助かり一安心したこのタイミングこそ、狙うべき瞬間。
ここまで気取らせなかったからこその、勝利。
霧の奥底から標的の背後へと忍びより、
「――ッ?」
瞬間、天地がひっくり返った。
背中から地面に叩き付けられ、鈍い痛みが全身を走る。
「――ぁ、は――」
呼吸がままならない。体が麻痺したように動かなくなる。
「どう、して――」
零れる声は、か細く。誰に問うたわけでもなかったが、果たして返答があった。
「それは通じないと、証明したつもりだったんだけどねぇ」
霧の中から、標的の影が現れる。
――嘘だ、と歯噛みする。あんな細腕に転がされたというのか。
「年季が違うよ」
心を見透かしたかのように、標的――熊倉トシは、答えた。
「思い知ったかい?」
「ぐ……」
立ち上がろうと体に力を込めるが、まるで呪縛をかけられたかのように腕も足も言うことを聞かなかった。
「馬脚をあらわしたね。――やっぱりあんたが、京太郎をこの世界に引き込んだ犯人だったわけか」
熊倉トシが、冷たく言い放つ。
「山男の正体見たり……といったところかしらね」
真上から、顔を覗き込まれる。熊倉トシの目付きは、まるで哀れむかのようだった。それが酷く、心をざわめかせた。
「何か申し開きはあるかい?」
攻守は逆転し。
「――背向の豊音」
地に叩き付けられた姉帯豊音は、狙い定めたはずの標的を、忌々しげに見上げることしかできなかった。
次回:第七回 ひとりぼっちの山姫は・後