ひとりぼっちの山姫は   作:TTP

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第三回 鳴り響いて

 濃くなる一方の霧に、二人はひとまず豊音の家に避難した。道中、村の中の様子を窺う余裕もなかったが、不気味なまでに静寂に包まれていた。

 

 窓の外から覗く光景は、深い霧ばかり。最早何も見えやしない。出歩くのも危険な状況だ。携帯電話は、相変わらずの圏外。

 

 何よりも、例のトンネルが京太郎の行く道を阻んでいる。未だ理解が追いついていないが、少なくとも現状あの道を通って帰ることは許されないらしい。

 

 居間で居心地悪そうに座る豊音に向かって、京太郎は謝った。

 

「迷惑かけてごめん、姉帯さん。思ったよりお邪魔することになっちゃったな」

「め、迷惑だなんてー」

 

 ぶるぶると豊音が首を振る。

 

「元はと言えば、こんなところに連れてきた私のせいだからー……」

「着いていくって決めたのは俺だから」

「でも」

「まぁ、そんな気にしないでくれよ。俺が帰らなかったら、親たちもすぐに気付いて探そうとするって」

「……うん」

 

 京太郎が慰めると、豊音は不承不承と言った様子で、頷いた。

 彼女が何か言いたそうにしていることは、京太郎もすぐに察しがついた。けれども同時に、上手く説明できないようでもある。こういうときは急かさずに、ゆっくり待って上げたほうが良いと、京太郎は正しく知っていた。彼のコミュニケーション能力は高い。彼自身、そう自負していた。――知らなかったのは、転げたときの起き上がり方だった。

 

 部屋の中に沈黙を生まないため、京太郎は気を取り直すように言った。

 

「だからもうちょっと、お喋りしようぜ」

「い、良いのー?」

「もちろん。どうせやることもないしな」

 

 色めき立つ豊音に、京太郎もほっと安心する。

 

「あ、その前に須賀くんお腹空いてないかなー?」

「ん……いや、それほどでも、ないけど」

「でももうすぐ晩ご飯の時間だし、いつ帰れるかも分からないから、ここで食べて行ったりとか……ど、どうかなーって」

 

 そこまでしてもらうわけには、と京太郎は口を開きかけて、結局閉ざした。乞うような豊音の目に、逆らえなかった。

 

「……お願いします、姉帯さん」

「っ、ちょーがんばるよー!」

 

 すくっと笑顔で豊音が立ち上がる。

 

「須賀くんはテレビでも見ててねー」

「いや、手伝うけど」

「良いよ良いよー、須賀くんはお客様なんだからゆっくりしててー」

 

 豊音に肩を抑え込まれて、京太郎は無理矢理座らされる。彼女は駆け足でキッチンへと向かっていった。京太郎は苦笑と共に溜息を吐いて、テレビのリモコンを操作する。

 

 しかし――番組が、映らない。岩手で放送しているテレビ局がどれだけあるか京太郎は知らないが、どこのチャンネルに合わせても画面は真っ黒なまま。仕方なく、京太郎はリモコンを机に置いた。

 

 もう一度窓の外を見ても、やはり一面霧。

 

 不安にならない、と言えば嘘になる。だが、ここに住む豊音さえ戸惑い、彼女自身も怯えている。ここでパニックになるのはみっともない、と男としての矜持が京太郎を支えていた。

 

 しばらくして、豊音が夕食を配膳してくれる。麦御飯と山菜の天ぷら、それから豚汁。漂う香りが、京太郎の気持ちを落ち着かせてくれた。

 

「テレビ、見ないのー?」

「ああ、映らないみたいなんだよ」

「えー?」

 

 困り顔で豊音がチャンネルを手にする。やはりどこの局も映らなかった。しかし諦めず彼女が操作している内に、画面に光が走った。

 

「……麻雀?」

 

 京太郎が、呟くように言った。

 テレビの中で、牌を握る女子中学生たちが卓に着いていた。彼女たちの表情はいずれも真剣で、見ているだけで緊張が伝わってくる。

 

「これ、インターミドルの録画だよー」

「インターミドル……」

 

 自分が、辿り着けなかった場所。自然と京太郎の拳に、力が入った。

 一方豊音は、目を輝かせてテレビ画面を食い入るように見つめていた。

 

「麻雀、好きなんだ」

「ちょー楽しいよー! 須賀くんはやってないのー?」

「俺はずっと、ハンドボールばっかりやってたから」

「そっかー」

 

 やや残念そうに豊音は言いながらも、すぐに気を取り直して京太郎に食事を勧めた。

 

「召し上がれー」

「いただきます」

 

 料理はどれも美味しくて、京太郎は舌鼓を打った。素材を活かした――なんて批評をできるほど食通でもなかったが、過剰な味付けや癖もなく、空腹ではなかったはずの京太郎の箸は進んだ。皿の上から何もなくなるのは、あっという間だった。

 

「――ごちそうさま。すっげー美味かったよ」

「ほ、ほんとー? 良かったよー」

「ほんとほんと」

 

 手放しの賞賛に、照れ臭そうにしながらも、豊音は相好を崩した。暗い顔よりも、よっぽど彼女に似合っていた。

 

「片付けは俺がやるよ」

「あ……じゃ、じゃあ一緒に」

「ん、そうしよっか」

 

 二人は小さなシンクの前に並んで立って、皿を洗う。

どちらも体が大きいため、どうしても手狭になる。けれども二人はお互いに、退こうとしなかった。まるでパズルのピースがぴったり合ったときみたいな感覚が、京太郎の中に確かにあった。シンクに水が流れ落ちる音が心地良い。

 

「姉帯さん」

「須賀くん」

 

 期せず、二人は同時に名前を呼び合った。二人して、目を瞬かせる。

 

「姉帯さんから、どうぞ」

「須賀くんから、言ってー」

 

 また、声が重なった。今度は二人して、笑い合った。

 どこか重苦しかった空気が、少しだけ軽くなった気がした。京太郎は洗い終えた皿を重ねてから、ゆっくりと言葉を紡いだ。

 

「姉帯さん、麻雀好きなんだろ? 今度は姉帯さんのそういう話、聞きたいなって思ってさ」

「わ――私の話?」

 

 まるで予想外だと言わんばかりに、豊音は狼狽える。

 

「そう。ダメ?」

「き、きっとつまんないよー」

 

 ぶんぶんと勢いよく、豊音は両の手のひらを振った。

 

「きっと面白いって。聞かせてくれよ」

「……考えておくからー」

 

 逃げられてしまった。残念に思いながら、京太郎は苦笑いする。

 

「それで、姉帯さんは何言おうとしてたんだ?」

「あっ、うん、どうせならお風呂もどうかなー。汗、かいちゃってるでしょー?」

「確かに有り難いけど……何から何までお世話になりっぱなしで悪いな」

「全然気にしないでー。お風呂沸かしてくるよー」

 

 軽くステップを踏みながら、豊音はキッチンを出て行った。

 

 程なくして、入浴の準備が出来上がる。冷静になって考えると、女子の家のお風呂――しかも一人暮らしの――に入るというのは、ハードルが高すぎると京太郎は自覚する。しかし、仕事をやり切ったといわんばかりににこにこ笑う豊音を前にすると、「やっぱり入らない」とは言えなかった。

 

 浴場は案外広く、湯船も大きかった。タイルや給湯器も真新しく、リフォームした跡が見られる。確かに豊音の体の大きさを考えれば、一般家庭の広さではやや手狭になろう。

 

 体を洗って熱い風呂に浸かると、疲労を自覚する。歩いた距離はさほどでもなかったが、心が疲れていた。

 

 ふぅ、と一息ついていると、

 

「お湯加減はいかがー?」

 

 扉の向こうから、豊音から声がかかった。

 

「丁度良いよー」

「良かったー。あ、何か足りないものなかったかなー」

 

 疑問の声と共に。

 がらりと扉が開かれた。

 

 水滴が、水面に落ちる音が浴室に響き渡る。

 

 豊音に他意はなかったのだろう。純粋に心配に思って、覗き込んできたのだ。しかし、お湯に浸かっているとは言え、京太郎は丸裸。

 

 かぁ、と豊音の白い頬が真っ赤に染まった。

 

「……あの」

「……うん」

「……えっと」

「……ごめんなさいー」

 

 開けられたときとは真逆に、静かに扉は閉じられた。

 取り残された京太郎は、しばらくどきどきしたまま固まっていた。彼もまた、年頃の少年であった。異性の視線を意識したのは、初めてだった。

 

 京太郎がお風呂を出ると、交代で今度は豊音が風呂場に入る。

 

 ――悪いことは何もしていないのに。

 独り居間で、インターミドルの録画を眺めながら京太郎は思い悩む。

 

 スポーツマンの役得か、女子との付き合いはそれなりにある。だが、ハンドボール一本に集中していたため、特定の彼女はいなかった。どういう縁か、一番仲の良い文学少女とも未だそんな空気が生まれたことはない。

 

 さりとて異性に全く興味がないというわけではなく、むしろその逆。ただ、経験が伴っていない。

 

 要するに、まだまだ初心な少年であった。

 そんな彼の背後に、お風呂から上がった彼女が忍び寄る。

 

「戻ったよー」

「あ、おかえ、り……」

 

 振り向いた京太郎の声が途切れる。

 

 覗ける彼女の肌は、体温が上昇してほのかに桃色になっていた。薄い夏用の寝間着のおかげではっきりと体型が分かってしまい、目のやり場に困る。シャンプーの香りだろうか、鼻孔をくすぐる心地よい感触が京太郎を惑わせる。漂う色香を振りまく少女自身、自覚していないのか京太郎のすぐ近くに座った。

 

「さ、さっきはごめんねー」

「いや、気にしてないから、うん」

「良かったよー」

 

 ほうっと吐かれる息が、京太郎の頬にかかる。変な声が出そうになった。

 

「あ、またインターミドル見てるんだねー」

「あー、うん。ルールはよく分かんないけど」

「私も最初はさっぱりだったんだー。でもテレビで見て覚えたの。――あ、この原村さんってちょーすごいんだよー。とっても打ち筋が正確なんだー」

「へ、へー。凄いんだなあ」

 

 豊音は出場選手をあれやこれやと解説してくれる。が、京太郎の頭にはちっとも入ってこなかった。普段なら原村某の胸部に注目しているところであるが、そんな余裕もなかった。

 

 もっとも、だからと言って豊音を無視するわけでもなく。

 

 楽しげに話す彼女の傍にいるだけで、京太郎は充分だった。お風呂に入る前に希望した、「姉帯さんの話」はちゃんと達せられていた。

 

 ただただ、時間だけが無情に流れてゆく。

 

 八月も終わりとはいえ、まだ太陽が顔を見せる時間は長い。それでもなお、周囲はすっかり暗くなっていた。

 

 時刻は八時半。

 

 そろそろ帰らない京太郎を捜索する動きが起きてもおかしくないはずである。

 

 だが、村は静寂を保ったままである。霧のせいもあってか、闇の中には明かり一つ見えない。まるで、この豊音の家だけが世界から隔絶されたみたいだった。

 

 あまり、京太郎に選択肢は残されていない。

 

「須賀くんさえ良かったら」

 

 京太郎の悩みを敏感に感じ取ったのか、豊音のほうから切り出してきた。

 

「今日はここに泊まっていったら、どうかなー」

「そ、それは流石に不味いような……」

「私は全然気にしないよー」

 

 俺が気にします、という京太郎の抗議は言葉にならなかった。先に豊音が退路を断つ。

 

「今外に出るのは危ないよー。怪我だけじゃ済まないかもー」

「う」

「少なくとも、今はここでゆっくりしたほうが良いよー」

 

 魅惑的で、蠱惑的な誘いであった。抗えるはずもなく、

 

「……分かった。ほんっとにごめん。お世話になります」

「ううん。さっきも言ったけど、こんなところに連れてきた私のせいだからー」

 

 豊音は繰り返し言って、それから立ち上がる。

 

「お布団、敷くよー」

「あ、うん、分かった」

 

 居間の中央のテーブルを、京太郎は隅に寄せる。その間に、豊音が布団を持ってきた。――二組、持ってきた。

 

 彼女はいそいそと、居間に布団を並べる。

 当然、京太郎が見過ごせるはずなかった。

 

「……姉帯さん?」

「うん? どうしたのー」

「いや、その、……なんで、二つ?」

「一人じゃ、寂しいでしょー? 折角だから一緒にと思ってー」

「あ、うん、そうかも知れないけど」

 

 この状況は当然だと主張する豊音を前にして、京太郎は鼻白む。

 

 たぶん、彼女にそういう意図はない。おそらくその考えが抜け落ちているだけだ。しかしこればっかりは、はいわかりましたと頷けない。

 

 なんとか彼女を説得しようと京太郎が口を開きかけ、

 

「それに」

 

 先に豊音が、これまでよりも低い声色で言った。

 

「一人になったら、危ないかもー」

 

 どういう意味だと、京太郎は訊ねようとした。

 

 しかし、できなかった。

 

 ずん、と重い音が家の外から響いたのだ。あまりに突然の出来事だった。

 

「なん、だ――?」

 

 京太郎が窓の外を覗こうとして、

 

「だめっ」

 

 その手を豊音に掴まれた。彼女は素早く電灯とテレビを消す。部屋の中が一瞬で真っ暗になった。

 

「あ、姉帯さんっ?」

 

 ぎゅう、と。

 京太郎は、彼女の胸の中に包まれる。柔らかな感触が、頬を通して京太郎に伝わってゆく。とても強い力だった。その気になれば振り解けるだろうが、動揺する京太郎にはすぐにできなかった。

 

「な、なにを――」

「静かに」

 

 乞われるように言われて、京太郎はそのまま押し黙る。暗闇の中、彼女の息遣いと体温だけが傍にあった。ばくばくと、先ほどの風呂場とは比較にならないほど心臓が強く鼓動を打つ。

 

 ずん、と重い音が再び聞こえた。まるで石に何かを叩き付けているような音だ。

 

 ――石?

 

 はっと、京太郎は気付く。

 

 塀だ。

 

 この村の家屋は、どこも高い石垣で囲われていた。それに、何かがぶつかっている音だ。ずん、ずん、ずんと、さらに音は三度続く。

 

 言いしれぬ恐怖が京太郎を支配しそうになる。しかし、そんなものにかまけている暇などないと、彼はすぐに知った。

 

 暗闇の中、豊音の体が震えていた。

 

 京太郎は、彼女の抱擁から抜け出る。あっ、と豊音の口から短い息が漏れた。そのまま彼女の体を、今度は京太郎がしっかりと抱き締めた。自然と、そうしていた。

 

「……すが、くん」

「うん」

 

 ただ一度、京太郎は頷く。ぴたりと、豊音の震えが止まった。

 

 ――鳴り響く音が、途切れる。

 

 しばらく、京太郎は周囲を警戒する。試合中と同じように、感覚を研ぎ澄ます。音がしていた方向からは、既に何者かの気配は消えていた。

 

「……行った、みたい」

 

 豊音が呟き――京太郎は、がばりと彼女から離れた。

 

「ご、ごめんっ」

「ううんっ」

 

 お互いの姿は見えなくとも、頭を下げ合っているのは分かった。

 

 気まずい沈黙の後。

 おずおずと、京太郎から切り出した。

 

「……今のって、一体」

「……うん」

 

 豊音が、豆球を点ける。彼女の表情は、暗い。

 

「あれは、きっと――山男」

「やま、おとこ?」

 

 聞き慣れない単語に、京太郎は眉根を寄せる。

 

「そう――この地に住まう、山の神様。……今、分かったよー」

 

 ごめんね須賀くん――豊音はじわりと涙を溜めて、言った。

 

「この状況は、きっと山男を怒らせたから。須賀くんが帰れないのも、きっとそう」

「え……」

「私が……私のせいで」

 

 ――山男を、怒らせてしまった。

 懺悔するように、彼女は言った。

 

 

 霧はまだ、晴れない。

 

 

 




次回:第四回 彼の者は訪れて

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