額の汗を拭う暇もなく、須賀京太郎は疾走する。
乳酸の溜まりきった足は既に限界を告げていたが、構ってなどいられない。時間がなかった。
頭上から降り注ぐ声援が、残り少ない体力を奮い立たせてくれる。コートに刻まれるシューズの悲鳴、怒号のようなチームメイトとのやり取り、背後から飛んでくるキーパーのチェック――そして、中空を飛び交うは一つの黄色いボール。
五感全てを使って必要な情報だけを取り込む。当然、そこから考えて行動などしていられない。何度も反復練習し、チームメイトたちと共に体に刷り込んだプレイを選ぶ。
試合は終盤も終盤。前後半五十分を乗り越え、延長戦十分の残り時間はもう少ない。コートに立つ十四人の中に、疲弊していない者などいなかった。気を抜けば京太郎も、集中を切らしてしまいそうになる。
空中戦の激しいハンドボールというこの競技に魅せられたプレイヤーたちは、今まさに、意地と意地をぶつけ合っていた。
インターミドル、長野県大会決勝。
この試合の勝者だけが、さらに先へと進める。天下分け目の決戦であった。
京太郎属する清澄中学とその対戦相手の実力は、拮抗した。どちらが勝ってもおかしくない名勝負であった。
だが、「良い勝負」なんて賞賛は、京太郎は要らなかった。
勝利が全てとは言わない。
それでも共に研鑽を積んできた仲間たちと掴むのが、敗北であって良いはずがない。一試合でも長く戦いたかった。
ベンチから、コートから、互いを鼓舞する咆哮が飛んだ。最後の一滴まで力を絞り出すため、京太郎も吠える。めまぐるしく変わり続ける状況に、全員が食らいついていた。
清澄中学のビハインドはシュート一本分。
京太郎のチームメイト、ライトバックのポジションを務めるプレイヤーがボールを掴み取る。
残り制限時間を考えれば、このワンプレーしか残されていない。この機会を奪われたら――考えるまでもなく、京太郎は理解する。ここで追いつけなければ、スローコンテストにもつれ込むことなく負けだ。
司令塔たるセンターバックから指示が飛ぶ。
京太郎たちは、勝利に向けて走った。キーパーだけを置き去りに、全員で攻める。パスを織り込みながら、相手陣へと切り込む。延々と練習してきた形は、この最終局面でなお切れを落とさない。
しかし、敵もさるもの。
一辺倒の攻め方は、既に対応されている。見透かされている。
エースポジションのレフトバックを務める京太郎は、間違いなくこの大会で最多得点選手だった。中学生としては充分な高身長に加え、その巨体の運動量は他の追随を許さない。全国区の学校でもエース級として活躍できるポテンシャルを秘めていた。
だからこそ、警戒されている。
相手ゴールに向かってコート左手側を進む京太郎を阻むのは、同じく敵側のエース。彼の瞳には、炎が点っていた。何があっても通さないという覚悟が見て取れた。
ここまでの対決の結果はほぼ五分と五分。しかしながら、京太郎は直感する。
――今強引に行けば、止められる……!
その勘に従って、京太郎は即座にその手からボールを離す。エース対決を制するよりも、一パーセントでも高い勝機を目指した。
京太郎からレフトウィングへ、レフトウィングからセンターバックへ、センターバックから再びライトバックへ。清澄中学もう一つの得点パターンへと繋げてゆく。ボールの軌道は黄色の帯となり、息の合った者同士でもキャッチできるか怪しい速度であった。だが、彼らはそれをこなした。そうでもしなければ、勝てなかった。
ボールを離した後、すぐに京太郎は走った。ぎりぎりの綱渡りを強いられていた。逆サイド側、視界の端で、ライトバックとライトウィングが敵選手を躱すのを確認する。
――いける!
コート右手側に、プレイヤーたちの意識が集中するのを、京太郎は肌で感じ取る。後はもう、仲間たちを信じて自分の仕事をこなすだけだった。
清澄中学のライトバックがミドルシュート体勢を作る。そのコースを妨害しようと敵ライトバックが立ちはだかった。
果たして彼の手から放たれたのは――パスであった。
既に清澄センターバックが、半円状のゴールエリアライン手前で跳躍していた。ハンドボールにおいて、ゴールエリアライン内でプレイを許されるのはキーパーだけである。
しかし、地面に足を着かなければ話は別だ。キーパー以外のプレイヤーも、ゴールエリア内空中への侵入は許されている。
清澄のセンターバックは、空中でライトバックからのパスを受け取る。しまった、と敵選手の誰かが叫んだ。スカイプレイと呼ばれるその戦術は、絶妙なタイミングで飛び出したセンターバックの功績であった。敵選手のほとんどを、出し抜いた。
そう、あくまで「ほとんど」であった。
最後の砦、敵キーパーは完全にそれを読んでいた。正確には、その道しか残さないようにディフェンスに当たらせたのだ。センターバックの真正面に立ち塞がり、シュートコースを封鎖する。目の前に人間一人が飛び込んでくる恐怖に打ち克ち、決して退かない。
そのまま打てば、確実に防がれていた。
だからこそ――
京太郎は、飛んだ。
チームメイト二人を影にして、センターバックの跳躍から僅かに遅れて、京太郎もコートを踏み切っていた。
空中で、中央のセンターバックから左の京太郎へとパスが送られる。京太郎は、きっちりとボールを受け取った。
完全に、虚を突いた。
京太郎の目には、シュートコースが見えていた。キーパーが防ぎきれないその一点めがけて、ボールを放つ。
――いった!
手応えは、あった。追いついた、という歓喜が彼の中で湧き上がる。
だが。
「――っ!」
ボールは無情にも――
「なっ」
「ああ――」
「そんなっ」
ポストに、弾かれる。
そして、試合終了を告げる笛の音が鳴り響いた。
京太郎は呆然とコートに立ち尽くす。言葉が全く出てこない。この現状を、彼はすぐに理解できなかった。
激闘の果て、一方のチームは勝ち鬨を上げ、もう一方のチームは項垂れる。
その様を見て、自らが犯した致命的なミスに京太郎は打ちひしがれた。もう取り返しはつかない。時間は決して、巻き戻らない。
京太郎は、そこから一歩も動けずにいた。
それでも整列しなければならない。戦った相手を讃えなければならない。ようやく最初の一歩を踏み出そうとして、
「え……?」
コートが、黒一色に染まっていた。足が、止まる。――コートだけではない。辺りの風景、ベンチも観客席も、闇に包まれていた。チームメイトも、監督も、相手チームも、応援に来てくれていたはずの友達も全員、姿を消していた。
『お前のせいだ』
ねばつくような、男とも女とも分からない声が京太郎の耳に届く。
『お前のせいだ』
『お前の失敗だ』
『お前がしっかりしていないから』
『恥ずかしくないのか』
『エースだの言われて調子に乗っていたんじゃないのか』
声は何重にもなって、京太郎の頭の中に響き渡る。
反論したくとも、彼の喉は言うことを聞かない。闇の奥底から聞こえてくる声だけが、空間を支配する。
『お前のせいだ』『どうして入れられなかった』
『どうして失敗した』『お前のせいだ』
『笑わせる』『期待していたのに』『お前のせいだ』
『所詮はこの程度だったか』『お前のせいだ』『出来損ないが』
止めてくれ、と京太郎は耳を塞ぐ。しかし声は、嘲笑うかのように容易く掌を貫いた。
ふと気付けば、目の前にチームメイトたちが立っていた。ああ、と京太郎は彼らに手を伸ばす。しかし彼らは京太郎に一瞥をくれると、全員が踵を返して立ち去っていった。京太郎の手を取る者は、いなかった。
一人闇の中に取り残された京太郎は、膝を着く。闇はまるで泥沼のようで、ずるずると彼の体を飲み込んでいく。
京太郎は抵抗しなかった。そのまま奥底へと沈んでいく自分の体を、まるで他人のもののように見つめていた。――もう、何もかもがどうでも良かった。このままでいれば、楽になれる。抵抗など、意味がない。
京太郎は、そっと目を閉じた。
◇ ◇ ◇
京太郎は、はっと目を覚ました。
体は、ちゃんとある。どこも欠けてはいない。安堵感から、京太郎は深い溜息を吐いた。
「……まーた、あの夢か」
独り言がぽつりと漏れる。
もう、半月以上も前の出来事――しかし、忌々しい敗戦の記憶はそう簡単には拭えない。脳の随までこびりつき、今もこうして彼を苦しめていた。
見慣れない部屋を間借りして、しばしのうたた寝と洒落込んだが酷い寝覚めであった。
気を取り直すように京太郎は立ち上がって、伸びをする。階下に耳を傾けてみれば、数時間前からの騒がしい気配に衰えがないのはすぐに分かった。
扉を開けて、廊下に出る。家屋内に充満している焼香の匂いが鼻をついた。
――長野を出て、京太郎が生まれて初めて訪れたのは岩手の片田舎であった。
曾祖父の訃報が届いたのは、数日前のことだった。
会った回数こそ少ないものの、京太郎は曾祖父と接したことをはっきりと覚えていた。厳格外見とは裏腹に、茶目っ気たっぷりの人物だった。その人柄の良さから、親類たちからも随分と慕われていたようである。
実際、交通の便も悪いこの土地に、各地から多くの親類が集まってきた。京太郎もその一人だ。今現在、親類の集まりが一階の広間で行われている。曾祖父が住んでいたこの広い屋敷の端まで届きそうなくらい、元気な笑い声が聞こえた。
大往生と言える年齢であったし、そもそも曾祖父はしめやかな空気が苦手だったと言う。どうせ送り出すなら派手にやれ、という彼の命は確かに聞き届けられたようだ。ただの世間話では終わらず、宴席になったのは当然の流れだったのかも知れない。
昼間から始められた宴に、最初は京太郎も参加したが、気分がどうしても優れずこうして一時退席していた。勧められた酒からも逃れたかった。未成年のスポーツマンとして、許容できなかった。
「なんて、引退した身なのにな」
自嘲気味に、京太郎は独りごちた。夢のせいで、すっかり気分が滅入っていた。
階段を降りると、忙しそうにお酒を運ぶ母と出くわした。
「あらあんた、もう気分は良いの?」
「まだちょっとしんどい」
「もう少し寝てたら? 岩手、遠かったものね」
「……それより体動かしたい。散歩行ってくる」
「そう。あんまり遠くに行かないようにね。この辺、目印になるものも少ないんだから」
了解了解、と京太郎は生返事をしつつ玄関へと向かった。途中、広間のどんちゃん騒ぎには掴まらないように足音を殺して。
普段の自分なら、と京太郎は思う。
――普段の自分なら、あの輪の中にも入っていくんだろうけれど。どうしても今は、乗り気になれなかった。
引き戸を開くと、途端に太陽が照りつけてきた。
八月も終わりに近づいている。
岩手の夏はもっと涼しいかと京太郎は期待していたが、案外気温はそこまで低くない。これから一気に冷えていくのだろうが、少なくとも今はその気配はない。それに、暑いのには慣れている。去年のこの時期は、炎天下でひたすら走っていた。
目の前に広がるのは、ひたすら田園である。家屋はぽつぽつと、視界に入る限りでは片手で数える程度しかない。余所様の土地を田舎だとこき下ろす趣味はなかったが、それ以外に当てはまる言葉を京太郎は知らなかった。
ともかくとして、車で通っただけの道を京太郎は歩くことにした。
もちろん、当てはない。
畦道には、京太郎以外の人影はなかった。遠くには大きな山が見えた。長野の山脈に負けないくらい、雄大であった。
――とても綺麗な、光景だった。
京太郎は、なんとなくそちらに向かって進み出した。さして理由があったわけではない。なんとなく、であった。
しばらく歩いていると、左手側に木造の小屋が見えた。既にあちこちがぼろぼろで、人が利用しているようには見えない。
そのまま通り過ぎても良かった。
しかし、京太郎は足を止めた。
気になった。小屋自体に、ではない。ここに至るまでの道中、感じなかった気配がそこにある――気が、した。
そのような違和感、放って置いても良かった。だと言うのに、気付けば京太郎は畦道から逸れて、小屋へと近づいていた。
崩れた壁から、小屋の中は覗けた。ぼろぼろの内装は、しかしとりわけ不自然には見えなかった。中に、誰かが居る気配もない。当たり前だった。
「……気のせいか」
京太郎はぽつりと呟き、元来た道に戻ろうとする。
ふと、再び彼は足を止めた。
今度こそ、はっきりと京太郎は違和感を覚えた。
以前は小屋を取り囲んでいたのだろう、あちこち崩れた生垣が傍にあった。中学校でも随一の高身長――既に180cmに達そうとしている――を誇る京太郎であったが、生垣の高さには及ばない。
その生垣の上に、赤いリボンの添えられた麦わら帽が乗っていた。汚れた生垣とは裏腹に、その帽子はとても綺麗であった。
それだけでも充分おかしな光景であったと言うのに――
麦わら帽は、するすると横に動いたのだ。
「っ!」
変な声が漏れ出そうになり、京太郎は慌てて口を押さえる。
帽子が生垣の上に置いてあるのではない。生垣の向こう側に、誰かがいるのだ。だが、そうなるとその身長は優に190cmを超えているはずだ。
一体何者なんだ、と京太郎が動揺している内に、ふっと麦わら帽が姿を消した。屈んだのだろう。またもや漏れ出そうになった声を抑え付け、京太郎はそろりと足を忍ばせる。
生垣の向こう側の人物は、自分に関心を寄せている。京太郎はすぐに気が付いた。理由は分からない。身の危険、とまでは言わないが、不穏な気配があった。それに、相手の出方を待つやり方は性に合わない。
足音を殺し、生垣の端にまで辿り着く。
深呼吸を、一度。
「誰だ!」
意を決し、その裏手に回り込んで叫ぶ。
が、
「いない……?」
草むらばかりで、人の姿などありはしなかった。田園に住む動物たちの声だけが、虚しく周囲に響き渡っている。
――幻覚、だったのだろうか。
急に、京太郎の頭が冷える。まるで子供の頃に戻ったかのように、得体の知れない「何か」を相手にわくわくしていた。そんなもの、あるはずがないのに。あったとしても、自分がどうなると言うわけでもないのに。
ばかばかしくなった京太郎は、曾祖父の家に戻ろう、と頭を掻く。
その瞬間――首筋に冷たいものが走った。ぞくり、と鳥肌が立つ。
ハンドボールでどれだけ強豪の選手と対峙しても、京太郎はここまでの恐怖を覚えたことはなかった。心の底から、戦慄いた。
背後を、振り向けない。そこに、「何か」は確実にいるというのに。ばくばくと心臓は強く脈打ち、冷たい汗が背筋を流れる。片田舎の日常とは不釣り合いなほどの緊張が、京太郎の体を支配していた。
だが、この機会を逃せばもう二度とその正体を掴めない。そんな気がして、京太郎はありったけの勇気をかき集める。
鍛えた体のバネを存分に活かして、振り返りながら飛びすさる。
「わわっ」
狼狽える、可愛らしい声が京太郎の耳に届いた。
そこにいたのは果たして――少女、であった。京太郎よりもさらに高い身長――思わず「でかっ!」と口に出してしまうほど――ではあるが、あどけない顔つきは間違いなく少女のもの。
生垣の向こうにあった麦わら帽に、白いワンピース。肌の色も負けないくらい白く、ほっそりとした体には無駄な肉の一欠片もない。長い、黒髪が腰まで流れ落ちている。
少女の瞳は紅く、妖しく輝いていた。
彼女ははにかんで、京太郎に言った。
「こんにち、はー」
僅かに震える、そしていつまでも耳に残る、心を癒す声色だった。
「こ……こんにち、は?」
答える京太郎の声は、間が抜けていて。
少女は微笑みを、ゆっくりと深めた。
◇
遙かなる岩の上に美しき女一人ありて、長き黒髪を梳りていたり。顔の色きわめて白し。
身のたけ高き女にて、解きたる黒髪はまたそのたけよりも長かりき。
次回:第二回 招き魅入られて