わたしの夢──わたしが描く未来は少しだけ色を失った。彼女を失った事で少しだけ色褪せた。もし、わたしが夢を叶えても、そこにあの子はいない。時雨が普通の人として幸福を得る事はもうない。それを悲しく思い、悔しさが積もった。
「あの時、無理やりにでも止めていればよかったのかしら……」
彼女──時雨との別れを思い出す。
「いいえ。きっと止めても聞かなかったでしょうね」
自問自答して、わたしは彼女に想いを馳せる。
時雨は運命に対する囮だったという。
山城は時雨から直接聞く約束をしたからと拒んだが、わたしは満潮からあの一戦の真相を聞いた。時雨の役割と、それを支えようとした満潮の思いを教えてもらった。だからわかる。あの時のわたし達にあの子を止める事は出来なかったし、止めてはいけなかった。時雨の決意を受け止め、信じて待つ事だけが、あの時のわたし達に出来た唯一の正解だったと思う。
そして、あの子は成し遂げた。
時雨と駆逐棲姫の決着がどのような結末になったのかは知れない。けれど、あれから駆逐棲姫の目撃情報は一切なかった。つまりはそういう事なのだろう。彼女は勝利し、自らの運命を変えた。それだけは確信できる。
未だ時雨の事を思い悩む妹に要件を告げ、防波堤より立ち去ったわたしは前を向く。うつむく事はしない。わたしが目指す夢は彼女を失って不完全なものとなった。しかし、それでも果てを目指す。あの子が支え、自分達の手で繋がった未来。それを無駄にしない為にも、わたしは時雨の死を受け入れる。そして、その死に報いなければならない。
「やあやあ扶桑。妹さんには伝えてくれたかい?」
物思いにふけながら散歩していると目の前に車が止まり、それに乗っていた人物──龍驤が話しかけてきた。鎮守府内で運転しているなんて珍しいと思いながら、わたしは彼女を見上げる。
「ええ、参加するそうよ」
「そかそか。そらよかったわ」
「それよりも──」
言い淀んで、わたしは龍驤が乗っている車を凝視する。一般車ではない。龍驤が操るのは液体燃料を運搬する為の車──小型のタンクローリーだった。
わたしの視線で察したのか、龍驤は思い付いたように口を開く。
「おお、これか? これはイベントに必要な燃料や」
「これだけの燃料を何に使うというの?」
野外で大規模なバーベキューをするのにも明らかに過剰な量だ。会食か何かだと思っていたが、どうやらもっと別の催し物であるらしい。
「みんな集まったら教えるよ。ま、楽しみに待っといてや」
そう言い残すと、龍驤改め彼女が操作するタンクローリーは去っていった。それと入れ替わるように庁舎の方から天龍と満潮が歩いてきた。庁舎の方から来たという事は提督への挨拶を済ませたところだろうか。なんにしろ二人が到着したのは朗報だ。
出迎えるべく、わたしは小走りに駆け寄る。真っ先に気付いたのは天龍だった。
「おっ、久しい顔だ。おい満潮、扶桑だぞ」
天龍に促され、隣にいた満潮がわたしを見る。……なぜだろう、どことなく不機嫌そうな顔をしていた。
「お帰りなさい、天龍。満潮も久しぶりね」
とりあえず挨拶をしてみたが、満潮の顔は変わらない。と思えば、せきを切ったように彼女は口を開いた。
「ちょっと聞いてよ、扶桑! 私達、一晩かけてここまで来たんだけど、昨晩どこで夜を明かしたと思う!?」
くわっ──と牙を剥く満潮に気圧されつつ、わたしは「さあ」と首を傾げる。
「山よ!」
「山?」
「ええ。それも管理されたところじゃない、手つかずの大自然!」
「どうしてそんな場所で……」
「気付いたらいたのよ……。というか、天龍が面白がって整地されてないケモノ道ばっかり進んだせいで、変な所に入り込んじゃって気付けば真っ暗な山の中で二人きり! 仕方ないからその場で野営するしかなかったのよ!」
昨夜の事を思い出しているのか、わなわなと震えながら満潮は熱弁する。そんな彼女の肩に天龍は手を置いた。
「不幸な事故だったな。せめて食い物くらいは用意しておくんだったぜ」
満潮は天龍の手を払い除ける。
「誰のせいだと思ってるわけ!? アンタが変な道ばっか進むからああなったんでしょうが! そもそもアンタのバイクはあんなオフロードを走るやつじゃないし!」
「人間は道なき道を行くもんだ。そして時には得意じゃねぇ道も選ばなけりゃならねぇ。己もバイクも甘やかしちゃいけねぇのさ」
「適当な事言ってんじゃないわよ!」
「んだよ、うっせぇなぁ。野営くらいで文句言うなっての。俺等の世代じゃ、常夏の無人島に数日待ち伏せして敵を不意打ちするのは常套手段だったんだぜ? それに比べりゃ、内地の山は涼しくて過ごし易いくらいだろうが」
「なにそれ、同情誘ってるわけ?」
「おうよ。苦労した先輩を労わって、多少の事は目を瞑ってくれ」
「チッ……。まあ、いつまでもグチグチ言うのもマヌケだからこれくらいで許してあげるわ」
そう言って満潮は容赦した。なんだかんだ甘い彼女らしい。それにわたしは少し笑みを浮かべる。
「それで、山で一晩過ごして二人ともなんともなかったの?」
「少し蚊に刺されたくらいだな」
「私は尋常じゃないくらい刺されたけどね。あーっもう、思い出したらまた痒くなってきた」
よく見れば満潮の肌は虫刺されの痕が多く残されていた。痒そう。
「とりあえず大事がないようで何よりよ」
「まあね。そっちも元気そうでよかったわ」
満潮は虫刺されを掻きながら、ようやくわたしと目を合わせた。
「山城は……どうしてる?」
「健康ではあるけど、元気とは言えないかしらね」
「ふぅん。やっぱりまだ引き摺ってるわけか。……今、どこにいるの?」
「まだ防波堤にいると思うけれど」
「そう。それじゃあ顔を見せてくるわ。二人はどうする?」
「俺も一緒に行くぜ。どうせ後で集まるんだからまとまっておいた方がいいだろ」
「ならわたしも」
頷いてわたしは満潮の後に続く。
山城の事は最も懸念している。しかし、情けない事ながらわたしには山城を立ち直らせる手段がわからない。慰める事は出来る。けれど、それだけだ。人の心は余人がどうにかできる事ではない。結局としてあの子自身がどうにかしたいと思わない限り決着がつく事ではないはずだ。だから必要なのは刺激。心を揺さぶる刺激。時雨の死を受け入れるにしろ、拒むにしろ、満潮との再会はその刺激になってくれるような気がした。
満潮と共に防波堤へと向かう。
波を遮断する為、高くそびえ立つ防波堤。その先端に山城はいた。山城だけではなく、天龍の妹──龍田の後姿も窺える。
「なんだ珍しい組み合わせだな。おーい、たつ──」
妹を呼ぼうとした天龍の口を満潮が手でふさいだ。特にその手をどけようともせず天龍は首を傾げる。
「少し様子を見ましょ」
そう呟く満潮に従って、わたし達はその場で足を止める。海は静かで、風もない。歩くのをやめただけで周囲の音は驚くほど鮮明になった。だからか、見つめる先にいる山城の声もわたし達の耳まで届く。
「わからない。わからないのよ。だって、わたしの中のあの子はまだ生きていたままだもの。遺体を見た訳でも、沈んだ瞬間を見た訳でもない。帰ってこなくて、轟沈判定がされただけ。確かにふとした時には消えていそうな子だったけど、それと同じくらい性根が図太い子だったし……」
「海に沈んでいく艦娘の最後はだいたいそういうものよ。遺体どころか遺品すら残らない場合がほとんどでしょう」
「わかってはいるの。ほぼほぼ生きてはいない事はわかってはいるのよ。……でも、なんか実感がなくて。肯定も否定もできないまま、この一ヶ月はずっと宙ぶらりんでいた気がする」
……妹の本音を初めて聞いた。決してわたしには話してくれないだろう心の底を聞いた。
「──だそうよ」
わたし達の存在に気付いていたらしい龍田はそう言って立ち上がり、続いて山城も後ろを振り向いた。その中で満潮は一人山城へと歩み寄る。そして口を開いた。
「だったら私と一緒にケジメをつけに行かない?」
突然現れた満潮の言葉に山城は戸惑いを見せる。その言葉の意図はわたしにもわからないのだから戸惑うのも仕方がない。それでも短く問い返した。
「……ケジメ?」
「そう。これから──」
満潮が言葉を続けようとした時、鎮守府内に設置された拡声器より放送が発信される。
『あーテステス。オッケー? ……よっしゃ。おはようさん、龍驤さんやで。出港の準備が出来たから、予め声をかけていた連中は船着き場に集合や。繰り返すよ。船着き場に集合や。というわけでよろしく』
実に気の抜ける放送だったが、満潮は「いよいよか」と気を入れ直していた。
「いいタイミングでお呼びが掛かったし、まずは船着き場に行きましょ」
「ちょっ、ちょっとどういう事!? 出港って言ってたけど……、また騒がしいパーティとかじゃないの!?」
「似たようなもんよ。ほら、行くわよ」
満潮は座っていた山城の腕を強引に引いて、防波堤から連れ出す。事情を知っている様子の天龍と龍田も満潮に続き、わたしは何もわからぬままに残される。けれど、なんとなく察した。
「ケジメをつける……ね」
満潮らしい。そう思いながら、わたしも彼女達の後を追った。
-◆-
あんな放送をしておきながら、船着き場に龍驤の姿は見当たらなかった。代わりに意外な人物を見つける。秘書艦である漣に車椅子を支えられる男性──ゴトウ提督がそこにおられた。
「て……提督がなんで」
状況の呑み込めない山城が呟く。
「なに、ただの見送りだよ」
提督が返答し、それと同時に船着き場に付けられていた船の一隻が起動した。それは大型のクルーザーだったが、軍のものにしては艤装が簡素に思えた。必要最低限の装備はあるけれど、一般船の範疇に収まっている。なぜこんな船が鎮守府にあるのだろうか。
そんな疑問はクルーザーを操舵していた人物を見てすぐに解消された。
「おっ、意外に早くきたな」
クルーザーの操舵室から龍驤が顔を覗かせる。どうやらあれで行くらしい。
「青葉、橋出してやってくれ」
「あいあいさーです!」
中には青葉もおり、彼女の操作でクルーザーから桟橋に搭乗口が伸ばされた。天龍と龍田は何一つの疑問もなく、早々に乗り込んでいった。
「ねぇ、これどういう事よ」
騒ぐのも疲れたのか、山城が手を引く満潮に問い掛ける。満潮はようやく振り返り、山城に目を向けた。
「これで時雨がいなくなった場所まで、もう一度行きましょ」
「……! 何の為に……」
「言ったでしょ。ケジメをつけるのよ。もう一度探してダメだったら、ちゃんとアイツにさよならを言う。それで私もアンタも前に進みましょ」
二人の視線が絡まる。互いの心を確認するように見つめ合った。
「…………、……そう……ね」
絞り出すように山城は返答を口にする。短い沈黙の中に多くの葛藤が窺えたが、それら全てを呑み込んで頷いた。あの子も現状が続く事を望んではいない。その事を知って、わたしは少し安心した。
「けれど提督、いいのですか? 作戦行動でもないのにわたし達が海に出てしまっても」
そこを確認すべく、わたしは提督に問い掛ける。提督はゆっくりと首を横に振った。
「いいや、これも任務の一環だよ。制圧下においたAL方面への巡視。書類上はそういう事にしてある。無論、クルーザーで行くなどとは書いていないがね」
「それは大丈夫なのでしょうか。上層部の方に発覚すればお咎めがあるのでは……」
「そりゃあ、あるともさ。だが、バレなければ問題ない」
悪びれる様子もなく提督は言う。この人は案外やんちゃな殿方なのだ。
「しかし……」
「仮にバレても、その時はその時だ。最悪、私が責任を取るだけの話だよ。……それにこれは未来を作り出した若者への返礼だ。どうか受け取ってほしい」
提督の報酬。それはわたし達に対してではなく、恐らくはいなくなった時雨に対してのもの。いなくなった彼女の為に、提督はわたし達に決別の機会を与えてくれたのだ。
「その想い、確かに受け取りました」
わたしは頷きつつ一礼すると、クルーザーに乗り込んだ。そして入口で妹を待つ。山城はわたしを見ていない。自分を見つめ、自分で考え、自分の意思で満潮の手を振り払い、山城はクルーザーへと搭乗する。その精神的な一歩。その成長をわたしは目撃した。
「ね、姉様……なんですか、いきなり……」
気付けば山城の頭を撫でていた。愛おしさに手を伸ばしていた。わたしは微笑みと共に妹の艶やかな髪を撫でる。
「わたしにしてあげられる事は少ないから、せめて褒めてあげたいのよ」
「わた、わたし、褒められるような事は……」
頬を紅潮させる山城を可愛く思いながら、わたしは撫でる事をやめない。嫌がっている様子ではない山城は、やがて大人しくわたしに頭を撫でられ続けた。
「なにやってんのよ、アンタ達」
最後に乗り込んだ満潮が入口にいたわたし達へ声をかける。その声色は呆れているような、けれど、どこか羨望も混じっているように思えた。
「ちょっ……!」
なので彼女にも手を伸ばし、その頭を撫でる。
「満潮も偉いわ。自分から前に進もうとしているんだものね」
「なん……、…………」
何か言おうとして、結局満潮は沈黙する。以前と同じようにわたしの手を受け入れて、その小さな頭を預けた。山城と満潮の二人は横目で互いを見て苦笑を零す。なぜだかわたしはその光景を嬉しく思った。時雨はもういないけれど、いつもと変わらないわたし達の姿がそこにはあった気がした。
それからわたしは満足するまで二人の頭を撫でると、三人揃って甲板にあがる。甲板は想像以上に広く、このクルーザーの大きさを物語っていた。
「制圧下にある海域とはいえ、こんな非武装の船で大丈夫なのでしょうか」
山城が呟く。確かにその懸念はわたしにもあった。
『阿呆。深海棲艦に通常兵装はほとんど効かへんのやから積むだけ無駄やろ。ウチのRJ号はその分、機動力に関する部分を改造してる。ウチの操舵技術も合わされば、深海棲艦のへなちょこ弾なんぞには当たらへんから安心せい』
船体に備え付けられたスピーカーから突然龍驤の声が発せられる。
「なによ、こっちの声は聞こえてるわけ?」
『そうや。トイレ以外の音は操舵室に届くようになってるから変な話はできひんと思ってな』
「というか、RJ号って……。この船、あなたの所有物なの?」
『えへへ、良い趣味やろ。結構高かったんやで』
「良い趣味ではあるけど、このご時世に船とは豪胆ね。ましてや、わたし達は自分だけで航海できる艦娘なのに」
『だからこそや。こういうご時世だからこそ、そして艦娘だからこそ、船を身近に感じるのは大切だとウチは思うんよ』
「そういうものかしら」
山城と龍驤の会話が途切れた瞬間、外から提督の声が聞こえた。龍驤はそちらの対応にまわる。
「龍驤、各員の艤装は積んでいるな? いざという時は──」
「わかっとるよ、おっちゃん。もしも敵と会敵したら、すぐに艤装を装着して船は捨てる」
「わかっているならいい。それと……ちゃんと保険には入っているな? これは正規の任務だが、クルーザーの事は含まれていない。全損しても私は補償しないぞ」
「うんや、入ってへんよ。今のご時世、船舶の保険はぜんぜん補償してくれへんからね。それに保険の補償を受けたら、そこから上層部に情報が漏れて、おっちゃんが責任を取る事になるかもしれへんしな」
「すまんな。気を遣わせた」
「かまへんかまへん。これも可愛い後輩達の為や」
「そうか。ならばいってこい。思い残しのないようにな」
ゴトウ提督は下からわたし達を見上げる。顔には優しい笑み。そしてわたし達を見送る信頼の瞳を向けていた。それに対して、わたし達は各々敬礼で返した。
「そんじゃあ出港や!」
エンジンはスクリューを回し、スクリューは推進力を生む。そうして船は動き出す。あの子と別れた海を目指し、絶望を確認する為の航海が始まった。
-◆-
陽光が降り注ぐ海上。陽気はすっかり夏のものになっていたけれど、わたし達が向かったのは北方のAL方面。本土に比べれば幾分涼しい気候だった。
風を切ってクルーザーは海を進む。
太陽は暖かく、風は涼しい。あの日の曇天とは違う。とても同じ海とは思えないほど綺麗で静かな海と空。わたしは甲板からそんな風景を一望していた。
「そういえばどうして船で行くのでしょうか。わざわざ面倒事を増やすくらいなら皆で艤装を身に付けていけばいいのに」
隣に座っていた山城が、わたしにふと問い掛ける。わたしはキャビン内にいる天龍・龍田・青葉・隼鷹がお酒を交えて楽しげに騒いでいるのを眺めつつ、その質問に返答した。
「それはきっと楽しみたいからよ。退屈な道中を賑やかに。そうでしょう、龍驤?」
わたし達の会話を聞いているだろう操舵室の龍驤へ届くように声を張った。すぐにスピーカーが音を発する。
『ま、そういう事や。……せやけど、それだけやないで。船でなきゃ、キミ等二人は連れていけんからね』
「どういうことかしら?」
『今回の任務は無理矢理こじつけたもんで、今の戦況にとって大した意味を持たへん。せやから船旅を楽しむような遊び半分なわけやけど、巡視任務はキミ等戦艦が請け負うような仕事やないのはわかるやろ? 形式上そういう事になっているから戦艦を出撃させる訳にも行かんし、そもそもウチらの鎮守府は艦隊決戦でもない私事で戦艦の運用コストを支払えるほど潤沢な資材がある訳でもない。ほんならキミ等を連れていくにはどうすればええかと考えた結果、ウチのRJ号の出番っちゅう事になったわけや。戦闘はできひんけど、コイツなら一隻分の燃料で十数人を運べるからね』
もっとも、リスクは伴うんやけどな──と龍驤はスピーカー越しに笑って言った。
「だからアンタ達も楽しまなきゃダメよ。せっかく龍驤さんがこの船を失ってもいいって覚悟で連れていってくれるんだから」
キャビンの方からグラスが乗るトレイを持った満潮がこちらへやってくる。トレイの上の飲み物をわたしと山城に手渡すと、彼女は隣に座った。満潮の言う事にわたしは「そうね」と頷き、手渡された飲み物に口をつける。ほのかに甘い柑橘系のジュースは清涼感と共に喉を流れていく。
『てなわけやから、キミらもせっかくの船旅を楽しんでくれ。仮に時雨の死を受け入れる結果になろうとも、決別の際は笑顔であれるようにな。ウチは大して付き合いがあったわけやないけど、あの子がキミら三人の笑顔を望んでいた事くらいは察せる。せめて最後は去った者の為に笑ってあげるんやね』
「…………」
「…………」
「…………」
『なんで黙るんや』
「いえ、なんていうか……あなた、良い人ね」
山城の言葉にわたしと満潮は「うんうん」と賛同した。かつて第一航空戦隊として名を馳せていた龍驤の事は昔から風の噂で聞いてはいたけれど、なるほど、噂通り気風の良い性格をしている。実力のほどは以前から把握していたが、その精神性も頼もしい人物だ。
『ハッハッ! そりゃ龍驤さんは人格者やで! さて……もうしばらくすればお目当ての海域に着く。短い時間やけど、それまで遊覧をお楽しみくださいな』
スピーカーから声が途切れる。
感謝の念と共に笑顔を浮かべ、わたしは隣にいる最愛の妹と信頼する友人の存在を感じながら、今一度果てしない海と空を望む。その青さは時雨の瞳と雰囲気によく似ていた。
-◆-
そうして時雨と最後に別れた海域に到着した。
これまでの道程で見てきた海と同じ風景。延々見続けた変わらない海の姿。座標情報がなければ区別もつかないような、そんな変哲もない海がわたし達の目の前に広がっていた。
勿論、そこに時雨の姿はなかった。彼女と別れたのは一か月も前の事。その日の内に出動した捜索隊ですら、たった一つの遺留品しか見つけられなかったのだから、今更何かを発見出来得る筈もない。そんな事は誰もがわかっていた。わかっていながら、少しだけ期待もしていた。ここに来ればあの子がいるのではないかと、儚過ぎる夢を見ていた。時雨はそういう期待を抱かせるような子だったから、だから……そんな夢を見た。けれど都合がいいだけの夢はいつか醒めるもの。その時が来た。
クルーザーは海上で動きをとめ、搭乗していた全員でいるはずもない時雨の姿を探す。天龍と龍田は達観した目で誰もいない海を見つめ、隼鷹はお酒を片手に珍しく真面目な表情で海を望み、青葉は大きな双眼鏡で果てを見渡す。反応はない。誰もいない虚空だけをみつめ、わたし達が決着をつけるのを待っていた。
わたしは山城と満潮へ目を向ける。
満潮を挟んで、わたし達姉妹は甲板の先端に立っている。横を見れば二人の様子は窺えた。
二人は平静を保ち、静かに海を眺めている。海という名の現実を眺めている。誰もいない海は時雨の死を訴えている。ここには誰もいない。ここには何も残っていない。ここには絶望すらもない。受け入れるべき事実。誤魔化し切れない現実だけがそこにあった。
やがて満潮が口を開いた。
「山城」
「ええ、もういいわ」
山城は返答し、ひたすらに見つめた海から視線を外す。そして不意にわたしと目があった。……小さな笑み。嬉しい時に零れる笑顔とは程遠い不格好な笑顔をわたしに見せる。それが山城の精一杯なのだろう。時雨の死を受け入れ、彼女に贈る笑顔は必死に作られたものだった。未練を残しながらも受け入れようとする姿勢をわたしは良しとする。その苦悩は実に人間的で、とても山城らしい。
対して満潮はすっきりとした表情だった。腰に差した髪飾り──恐らく山城が時雨にあげた遺品──を抜き、手のひらに乗せる。それを見つめながら懐かしむように笑みを浮かべた。髪飾りの先に時雨との思い出を見ているのか、その表情は楽しさに満ちている。
「アンタとの日々は……楽しかったわ。本当に、楽しかった」
小声で呟く。呟かれた決別の言葉と同時に髪飾りを握り締め、満潮は腕を引いて振りかぶる。海に投げるつもりなのだ。時雨の大切なものを彼女に返して、それを別れとする。ケジメをつけるというのはそういう事かと、わたしは納得した。
「二人とも……いいのね?」
「構いません。それであの子を忘れる訳ではありませんから」
「そうね。それにコレはやっぱりアイツの傍にあった方がいいと思うし」
あるべきものをあるべき場所に返し、前に進む。それが二人の選択だった。ならば、わたしが口出す事ではない。わたしがすべきは一緒にそれを見届ける事。そして、わたし自身も前に──目指す未来に踏み出そう。
満潮の腕に力が込められる。
眼前に広がる大海。果て無き蒼穹。そこを目掛けて、金色の髪飾りは投げられ──
「青葉、見ちゃいました!」
──そうになった時、青葉の声で決別は中断された。
全員の視線が青葉に向けられ、天龍が彼女に歩み寄る。
「どうした? 敵か?」
「それはなんとも言えませんが……、なにやら煙のようなものが」
「煙? ここらの近海で海戦やってるなんて連絡はねぇぞ」
「ですが、ほら、あそこの島の裏から」
双眼鏡を手渡された天龍は、青葉が指差す方を観察した。
「あぁ? どこだよ?」
「あそこですよ、ちょい右です」
「あー……、あったあった。すんげぇぼんやりとしてるが、確かに島だ。けど煙はよく見えねぇな。まあ俺は隻眼だから遠目が利かないってのもあるが。……でも、あれだろ。自然発火とかで火事になってるんじゃねぇの?」
「そうなのかもしれませんけど、どちらにしても確認する必要があると思います。もしかしたら深海棲艦が何か活動している可能性もありますし」
「そうだな。おい、龍驤! 青葉が指示する方向に舵を取ってくれ!」
『あいよー』
「そこの三人には悪いが、先にこっちを片付けさせてもらうぜ」
結局投げられなかった髪飾りを満潮は戻しながら、わたし達はその言葉に頷いた。急ぐ必要はない。山城はせっかくの覚悟に水を差されて嫌な顔をしていたが、時間的には余裕がある。
『念の為、みんな艤装の準備をしといてや。敵がいた場合は交戦する事になる』
龍驤の指示を受け、船内に格納していた艤装をいつでも装着できるよう甲板に持ち出す。そうしている間にクルーザーは青葉が発見した島を肉眼でも視認できる距離まで接近していた。
それは青々とした緑が覆う中規模の孤島だった。AL諸島に連なるのだろうが、地図を見ても名前どころか姿すら見当たらない。外から見た感想としては人が出入りした痕跡もなく、恐らく無人島だろうというのがわたし達の総意である。
そんな孤島から一本の薄い煙が立ち昇っている。規模から考えて火事ではない。その煙はわたし達がいる側の反対からあがっているようだった。龍驤は座礁しないように島へと近付き、島影に身を隠しながら外周を沿って反対側へと移動する。船はゆっくりと舵を取り、甲板に待機するわたし達は臨戦態勢を取った。
島の岸壁に沿って回り込んだ先。わたし達が先程までいた位置の反対側は砂浜となっていた。その浜辺はお世辞にも綺麗とは言い難い。数多くの漂着物に溢れ、累積したそれらは白い砂浜をまだらに埋め尽くしている。
「……………………」
けれど、その光景に誰もが言葉を失った。
煙は魚より立ち昇っている。火に焼かれる魚から立ち昇っている。誰もいないはずの無人島で火が起こされ、串に刺された魚が調理されている。そして、その煙の下には火を起こし、魚を調理したであろう人物が正座していた。
わたし達が沈黙して静寂に支配された空間の中で聞き取れたものは、波の音と、もぐもぐ──と手に持った焼き魚を噛み締める咀嚼音。美味しそうに食事をする人物は、ふと、こちらに目を向けた。僅かな驚きを見せたが、しかし、すぐに咀嚼を再開する。どうやら口にモノを入れたまま喋るのはマナー違反だと思ったようだ。この状況を踏まえれば、その程度の無礼は許されると思うが、相変わらずマイペースであるらしい。それを見て、これが夢幻でない事をわたしは確信した。
ごっくん──と飲み込み、“彼女”は向き直る。
「やあ、みんな元気そうだね」
彼女──駆逐艦 時雨が呑気な笑顔を浮かべてそこにいた。