8
駆逐艦 時雨は夢を見る。
いつも自分が描く曖昧で、残酷で物悲しい夢ではなく、眩しいほどに嬉しい夢を見た。そこに憎悪はなく、そこに無念はなく、そこに地獄はない。自分の夢ではない夢。自分の記憶ではない夢。艦娘としての自分自身が見る夢だった。
温かさに包まれながら、耳には鼻歌が届く。
夜の帳の中、再び彼女と月を眺めた。二人だけの空間。温かい体温と懐かしい匂い。自分ではない、現代の時雨だけが得た彼女との思い出。自分が得られなかった平和な一時。それを自分に重ねて夢に見る。
美しきあの船は、もう船の姿をしていない。柔らかな女性の身体で、同じく人の姿を得た自分の身体を抱いていた。鋼鉄の冷たさはなく、彼女の身体はどこまでも温かい。それが嬉しくて、ちっぽけな魂は満たされた。
あぁ……、なんて幸福なのだろう。願わくば彼女達にも幸せを──“駆逐艦 時雨”は、そう切に祈った。
9
その目覚めは最悪だった。
ソファで眠ってしまった身体は軋みをあげ、髪の毛は普段はできない寝癖までついている。極め付けはアレだ。目覚めて最初に見たのが、よりにもよって自分がソファで眠る事になった元凶だった。
「……信じられない。わたしが姉様以外をお持ち帰りするなんて……」
自分のベッドで眠っている時雨を見て、山城は頭を抱える。なぜこうなったのか、思い出すまでもなく覚えていた。
「だって、泣き疲れて眠ってしまった女の子を放っておく訳にはいかないじゃない。だから緊急処置的に自分の部屋に運び込んで……、そうよ、これは人道的な行為であって、決して情が移ったとか、寝顔が可愛かったとかではないの……」
ぶつぶつと自分を正当化する言葉を呟く山城は、最後に「……不幸だわ」と結論付けて立ち上がった。低血圧でふらついたが、天蓋付きベッドのフレームに掴まって、なんとかまっすぐ立つ。
山城はいつも自分が使っている豪華絢爛なクイーンサイズの天蓋付きベッドで眠っている時雨に改めて目を向ける。未だ女らしさに欠ける中性的な顔付きで、少女は規則正しい寝息を立てていた。ゆったりと歩み寄って、山城はベッドに腰を下ろす。
「……なによ、幸せそうな顔しちゃって」
そう呟いて時雨の頬を指でつついた。弾力のあるその頬は、ほどよい反発で指を押し返してきて、なんだか愉快だった。
「ふふっ」
笑みが浮かぶのも束の間に、ふと昨日の事を思い出す。
突如として泣き出した彼女と、何かしなければと思った自分。あれはいったいなんだったのだろうと、山城は思慮を巡らす。けれど答えが出る事はなかった。
「ま、この子が変な奴だったってだけでしょ」
なので気にしない事にした。思考停止と現実逃避は不幸な星の下に生まれてきた山城の得意技なのである。そうしていると部屋の扉からノックの音が聞こえてきた。
「山城、わたしよ。少し聞きたい事があるのだけど、いいかしら?」
その声は姉である扶桑のものだった。姉の声を聞いて、反射的に山城は反応した。
「はい、姉様! どうぞお入りくださ──……ん?」
何かが頭の隅にひっかかって山城は視線を泳がす。そして見つけてしまった。自分の人差し指の先、先程まで頬をつついていた存在がいた。……山城がそれに気付いたのと、扶桑が部屋に入ってきたのは同時だった。
「おはよう、山城。今日も良い天気……、あら?」
朝の挨拶もほどほどに、扶桑の視線は山城ではなくベッドで眠る時雨へと注がれる。山城の顔色が途端に青ざめた。扶桑の見知らぬ少女を自分のベッドに寝かせ、ソファで眠ったからとはいえ乱れた身なりで頬をつつく姿はまごうことなき変態。このままでは誤解されると恐れた山城は必死の形相で弁明する。
「こ、こここれは違うんです姉様! これは捨て犬を拾った的なアレでして、決して不埒な行為ではないんです! そもそもわたしは姉様一筋! こんな男だか女だかわからない小娘に劣情など──」
「ふふふっ、今日の山城は珍しく朝から元気ね。……安心して、姉として妹の言葉を信じるから」
あなたは嘘を言う子じゃないものね──と扶桑は笑みを浮かべる。そんな扶桑に「ううぅ、流石は扶桑姉様です!」と山城は感涙した。
「それで姉様、お聞きになりたい事とはなんでしょう?」
「ええ、それはこの子から聞いて頂戴。もっとも、もう聞く必要もないようだけれど」
「……?」
山城が不思議そうに首を傾げると、扶桑より遅れて、亜麻色の髪を左右で纏めた髪型をした少女──満潮が部屋に入ってきた。
「この子、満潮というの。わたし達を護衛してくれる駆逐艦の一隻よ」
本人に代わって扶桑が紹介する。
ああ、そういえば昨日、時雨が言っていたわね──と、山城は思い出す。
「しかし、酷い顔ね」
「……うるさい」
山城の感想に、満潮は心底機嫌悪い口調で返した。
満潮の顔は疲れに満ちて、目の下にははっきりとクマが出来ている。その為、元々鋭い目付きは、今や手負いの獣が如き眼光となっていた。
「どうやらこの子、そこで眠っている子を一晩中探していたみたいなのよね。何か知っているかと思って山城に聞きに来たのだけど、見つかってよかったわ」
いつまでも自室に戻ってこない時雨を、満潮は朝まで捜索していた。だが一向に見付からなかった為、時雨が気にしていた扶桑を頼って、ここまで辿り着いたのだった。
「馬鹿ね、なんで会社の職員に言わなかったのよ。アナウンスしてもらえばそれで済んだ話でしょうに」
「……これから戦艦を護衛する駆逐艦が迷子だなんて恥ずかしくて言えるわけないじゃない。艦娘の沽券に関わるわ」
「まぁ……確かに」
自分の事に置き換えて考えた場合、確かに山城も同意見だった。
無事に見付かったならそれでいいわ──そう呟いて、満潮は時雨に歩み寄る。幸せそうに眠っている時雨を確認して、一息吐くと今度は山城を睨み付けた。
「アンタ、コイツに変な事してないでしょうね」
「す、するわけないでしょっ!」
頬はつついたけれど。
「そ……、ならいいわ」
満潮は呟くとふらついた足取りで部屋の出口に向かう。その後姿を見て、仕方なさそうに山城が口を開いた。
「ちょっと待ちなさい。あなた、眠いんだったら、ここのベッド使っていいわよ。もう既に一人寝てるけど、ちっさいあなた達なら窮屈でもないでしょ」
山城なりの気遣いだったが、声に振り向いた満潮は鼻で笑う。
「結構よ。その子の安眠を邪魔したくないし、自分の部屋で寝るわ」
そう言い捨てて、扶桑にだけ頭を下げると満潮は部屋から出ていった。残された山城は釈然としない様子で首を傾げる。
「なにあいつ、寝ぞうでも悪いのかしら」
「この二人にしかわからない事もあるのでしょう。……それにしてもあの子、よく似てるわね」
扶桑は満潮の言動を思い出しながら笑みを浮かべた。
「誰にです?」
まるでわからないと山城は眉間に皺を寄せる。そんな彼女に、扶桑は意地悪な笑顔を向けて言った。
「素直じゃなくて、ちょっと捻くれてて、不器用に優しい。そういうところ、あなたにそっくりよ、山城」