義の刃足る己が身を   作:黒頭巾

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読者たちを七十五話待たせたのだ……今更くだらない奴ら(涼州勢)に我々の理想を邪魔されてたまるか!




からからからから、馬車は進む。

景色を置き去りにすることなく、揺れる御簾から漏れる風景が、劉協の目に新鮮に映った。

 

「見よ、董仲頴」

 

董仲頴。董卓。

死んだ者の名を平然と、馬車の隣で騎乗しながら侍る近臣に使う。

 

粗末な一両立ての馬車に揺られながら、そのことに何の違和感感じさせない声色で劉協は傍らに控える董卓と呼ばれた少女に声を掛けた。

 

「陛下、今は……」

 

「あぁ、董承だったの」

 

人を一人抱えたままでの敵中突破は危険極まりないと判断した華雄の咄嗟の機転によって『殺され』、帝のあらせられる宮殿へ侍女として突っ込まれた董卓は、董承と言う名に変名していた。

 

もっともこの時代、変名自体はさして珍しいことでもない。陸議は陸遜になったし、李厳は李平になるであろう。何か切っ掛けがあれば変わるもやむなし、なのだ。

 

「へぅ……わざととかじゃありませんよね……?」

 

「朕にそのような臣下をからかう心などあるわけなかろうが、董仲頴」

 

「へぅぅ……」

 

反董卓連合結成時の巷では魔王やら何やら言われていた梟雄とは思えない押しの弱さで困り顔を見せる董卓―――一応は董承であるが―――を見て、劉協は少し笑う。

 

彼女の目には困る近臣と、幸せそうに笑う民が映っていた。

 

「『南方荊楚は別天地、租税は軽く賊はなく、悪徳官吏も居りはせん。

南方荊楚は平穏楽土、兵役無しに天下無双、軍神治むる別天地』とはまあ、よく言ったもんじゃ」

 

「……唄、ですか?」

 

さらさらと流れる小川のような声で唱えられた唄らしき二文には、独特の抑揚と調子がある。

劉協は元来声が美しい質であるから唄か唄でないかを見分けるのは困難であるが、今回ばかりは唄であろうと董卓は思った。

 

洛中洛外で、商人たちが盛んに唄い、囃していたからである。

 

「荊楚の民の喜びの唄じゃ。朕が民を間接的であれ安んずることができたのは、関籍を荊州牧に任命するという一事のみであろうな」

 

「へぅ……でも、李傕さんたちが政務を牛耳っていたわけですから、それは仕方ないと……」

 

「四方を敵に囲まれるよりはマシな環境じゃったわ」

 

老人は白湯を片手に筵を敷いて談笑し、若者は骨身を惜しまずに働き、子は朗らかに笑う。

 

程よい雨が氾濫せぬ程度に大地を潤し、田は豊潤な恵みを約束するかのように黄金に輝いていた。

 

建つ家々の間を置き、幾つかの水桶に水を張ることで火に備えている。

 

商人は景気よく闊達に道をゆく人に声を掛け、道行く者の袖で地を覆わんばかりであり、官吏は充分な給料をもらって満ち足り、道は馬車の道、馬の道、徒歩の道に分かれて人を留めることがない。

 

史書には端的にそう記されることになる関籍統治下の荊州は、司隷・揚州からの難民を軽々と呑み込んでもまだ人に飽くほどの発展を示していた。

 

「すごいもんじゃの」

 

「豫・荊の二州で千万人は居るらしいですよ」

 

彼ら彼女らが息づく三国時代は本来、中華の人口が七分の一になったほどの修羅の時代である。

この中華が修羅の国化した原因は、戦争と凶作による餓死であった。

 

それを手早く解決してしまったことと難民を積極的に受け入れる政策をいち早く実施したお陰で人口は増加。

元々楚が『楚に余っているのは土地であり、足りないのは人です。足りない物を消費して何故満ち足りたものを得ようとなされますか』と言われたほどの過疎地帯を保持していたこともあり、難民を移植する土地には困らなかったのである。

 

「……すごいもんじゃの、本当に」

 

「はい」

 

キチンと戸籍を取り、数ヶ月前に朝廷に収めてきたのだからまず間違いはない。

無論、戸籍が正しいとは限らない。現に今までの戸籍は凄まじく曖昧な物が多かった。しかし、関籍がやることに虚偽があるとは思えない。

 

「……千万人」

 

「最大動員兵力は二十分の一ですから、五十万人。外征用だとその三分の一の十五、六万だと思います。関籍さんの兵は志願制だからもう少し少なくなるかもしれませんが……」

 

袁紹という数の暴力を体現したかのような群雄が居るからいまいち有名ではないが、関籍軍もその気になれば相当な大軍を動員できる。彼がその気になることは生涯なかったが。

 

「……董仲頴」

 

「へぅ……なんでしょう?」

 

「なんじゃ、あれ」

 

儀仗兵です、と。楚人が居ればそう答えたであろう。しかしながら、一行の中に楚人は居ない。

つまるところ、楚人たる彼らの持つ『儀仗兵』という者の幻想は多分に古臭かったのである。

 

「司馬仲達」

 

「は」

 

「ありゃ、なんじゃ?」

 

「儀仗兵では無いでしょうか」

 

色が抜け落ちたような白髪と、赤眼。植物が蝶よ華よと愛でられて育てられたならばこうなるだろうという程に、髪と同じく白い肌。

日に当てられれば焼け落ちてしまうのではないかと思うほどに『薄い』少女の全身をくまなく覆う戈服が、日差しに弱いことを如実に表していた。

 

「古くはないかの?」

 

「精神は旧く、頭が新しい。関荊州牧はそう言うお方だと陛下も仰られていたではありませんか」

 

外見は黴が生えるほどに旧い癖に、示す儀礼は瑞々しいほどに新しい。

如何にも『らしい』兵卒に、劉協の口角が少し上がった。

 

見た目と中身が不釣り合いな癖に、見事に調和が取れている。まるであの男ではないか。

 

「久しいの、美髯公」

 

目の前でただただ頭を垂れる偉丈夫に、劉協は厳かに言を下した。

 

「陛下も……」

 

滅多になく言葉をつまらせる関籍に、儀仗兵たちに僅かな動揺が奔り、多感な楚人の心の琴線に触れる。

ああ、どの光景よりも、この一風景は美しいのだと。

 

「陛下も……御無事で―――」

 

最早何も言えないほどに落涙する関籍に釣られたのか、儀仗兵の幾人かもが落涙し、総指揮を執る為という名目で豫州くんだりから南下してきた魏延が人目も憚らずに泣き始める。

勤皇の志に触れながら将としてのいろはを教えこまれただけに、その感慨はそこらの楚兵とは比較にならない高みにあった。

 

城壁からその一枚絵を見る郭嘉は目尻に優しげなものを漂わせながら仄かに笑い、張遼はそっぽを向き、泣き顔を見せないようにして泣いていた。

 

呂布は、あくまでも呂布であった。

泣いている主に近づこうとしては止まり、近づこうとしては止まりを繰り返し、どこかおろおろとしている。

 

帝は、地に降りる。

天下無双の忠臣にその脚を持って一歩一歩近づき、利き手たる右手を差し出した。

 

「世が漢を忘れて争う中の、誠忠。

大儀である」

 

「臣下として、当然のこと―――」

 

差し出した手に敬意を持って触れた後に、片膝を立てて帝を見上げ、再び頭を垂れる。

 

「その誠忠を以って、これからも社稷を支えてくれるよう、頼むぞ」

 

「ハッ!」

 

十代半ばの英主と、三十代半ばの忠臣は、ここに改めて主従の契りを結んだ。

 

この一断を以って、劉協には千年帝国の祖足る英傑として天下に讃えられることが約束されたのである。




キリがよかったんだ。別に夏バテとかじゃない。イイネ?

劉協「献帝?ああ、奴なら死んだよ……」

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