義の刃足る己が身を 作:黒頭巾
「よく引きつけろ」
迫る騎兵一万、こちらは千数百。
白い鎧は他者の血で真っ赤に染まり、手に持つ五人張りの弩が僅かな軋みを上げ、装填された矢が敵を穿く時を待っていた。
雄叫びを上げ、迫る。
一秒、二秒、三秒。
弩を構えて待つ兵からすれば、手を鳴らせば過ぎるような僅かな時間が無限の長さを持っていた。
「てーッ!」
五人張りの弩は流石の馬甲すらも貫き、つんのめった騎兵が折り重なって倒れる。
崩れた敵を見逃さず、魏延は壮健な五百の楚兵を率いて出撃。騎兵を千ほど斬って馬を奪い、設営した野戦陣地内にこれを運び込んだ。
馬は資源。今は三百の馬を鹵獲したから、三百の弓騎兵ができる。
「……我らは耐え切ったぞ!」
最早、夕刻になっていた。
昼を過ぎる頃までは勝っていたものの、やはり陣地内に退いてからは退嬰的になるざるを得ない。
即ち、最終的な勝敗判断からすれば、負けていると言えた。
「飯を食え」
敵が完全に退いたことを確認し、敵の脚の折った馬を殺して捌いて焼き、炊いた米に盛りつけて生き残った兵卒と派手に食い飽きるほどに食い、腹を満たす。
一見馬鹿に見えるが、魏延にはあれだけ乱した隊列を整え直すにはちょっとやそっとでは無理だという自信があった。
袁紹軍の陣屋にも炊煙の煙が上がったこと確認した魏延は、骨を咥えながら少し頭を傾げ、思考を巡らした。
(馬鹿か、袁紹は)
敵を目の前にして食事など、不用心にも程がある。
つまりは、こちらを舐めているのだ。
その思考をこうして三秒ほどで打ち切ると、骨を無言で火にくべ、事も無げに呟く。
「……よし、行こう」
「もうですか」
「ああ。炊煙の煙は絶やすなよ」
ひょいっと愛馬―――関籍の愛馬、烏の娘―――に跳び乗ると、何とはなしに集まってきた三百の弓騎兵に向けて、言った。
「袁紹軍を強襲する。戦法は突撃じゃなく、騎射を中心に組み立てるぞ」
《応》
食事中に襲われた袁紹軍は再び算を乱して逃げ惑い、千ほどが蝗のように飛び交う矢の餌食となったのである。
飯を食いながらも半数を警戒に回していた魏延と、魏延が飯を食い始めたから自分たちも飯を食い始めた袁紹軍先鋒。
図らずとも、将器の差が現れた戦いであった。
そして、その夜。
「甘興覇、どうだ?ワタシの腕は」
「それほどの犠牲を出しながらも袁紹を討てないとは……やはり、先陣は私が適任だった」
見えない火花が二人の間に散り、迸る。
貴重な歩兵指揮官として色々競わせていた―――魏延は騎兵を、甘寧は水軍を本業としているが―――こともあり、この二人は割りと対抗心があった。
喧嘩するほどに仲も良いとも言うが、この二人もその例には違わない。どちらもどちらが憎いというわけではないし、嫌い合っているというわけでもない。単純に本質と役回りが被っているからこその対抗心であると言える。
「………ふん、まあいい。百で奇襲、だったか?」
「ああ」
「………窮地になったら火矢でも打ち上げるんだな」
「ありえん」
口の端を僅かに上げて不敵に笑う甘寧に、魏延もまた獰猛な笑みを返した。
―――甘寧は、殺す気だ。
肘から手の甲にかけて、硬質な何かが灰色の長袖から浮き出ている。
暗殺者と武人の、中間。甘寧は二つの長所を取ってこの場に立っていた。
「喉に矢を受けて死ぬなよ」
「貴様こそ背後に気を使え」
関籍に指摘された隙を言い合った、刹那。
鈴の音が幾重にも鳴り、百一人の姿が闇に溶けていく。
無明無音の月無き暗夜に、ただ雨だけが降っていた。
「於夫羅様、如何なされたのですか?」
雨の中、幕舎からいでて佇む於夫羅に、隣の幕舎に居住していた一人が声をかけた。
彼の名は、軻比能。関籍に度々叩きのめされることに定評のある鮮卑。その族長である。
「軻比能殿か」
於夫羅は、不安だった。
雨。雨は天が鳴り、その怒気―――雷を呼び起こす。
嘗て、雷が落ちれば奴が来た。
「雨が不安なのだ」
「撐犂孤塗単于か……」
雨が降れば、奴が迫る。雷鳴に馬蹄が隠され、気づいた時には死んでいる。
天から降ってきたかのようにどこにでも現れることと、その超人的な武勇、巻き起こす神威と味方になった者に対する恵恤に、敵する者への暴威。
「黒いと言うのは、玄いとも書く。これは、水を表すらしい」
「五行説と言う奴か」
無言で頷き、天を見る。
天に逆らったら、死ぬ。当たり前である。人は天には敵わないのだから。
「来るぞ、必ず」
「やりかねん」
頷きを返すと、彼らは陣を払うべく部下に指令を出した。
そもそも木像にすら矢を射かけられない部下を率いてどう敵対せよというのか。袁紹軍の物資と兵力に屈したが、これは間違いだったのではないか。
「帰り、後方を荒らして許しを乞うか……」
「蹹頓も誘えば何とかなるだろう。羌のも誘えば更にいいのではないか?」
民から奪ったら、死。
雁門に行ったら、死。
漢に逆らったら、死。
逆賊に与したら、死。
しかし恩は忘れないし、窮鳥を害せないのが撐犂孤塗単于である。
そもそも、『関籍は来ないから来いよ』と言われてきたのだ。曹操ならばまあ、まだいいが、どこに叛逆の意志も持たないのに王に逆らう馬鹿がいるのか。
音も無く去った北方二雄に代わって、音無き百人が袁紹軍を訪れる。
「你们好」
重厚に構築された陣地の大混乱は、この一言からはじまった。
まず、挨拶をした相手である衛兵の首が落ち、ぐるりと周囲に居る衛兵の首を更に落としていき、安全を確保した後に柵を乗り越え、内側から叩き壊す。
この音に気づいた袁紹軍が内側から叩き壊された柵の元に集まる頃には、既に百一人はさっさとこの場を後にしていた。
向かうは本陣、狙うは袁紹。
雨で薄くなった警戒網を容易く突破し、退路に蔓延る敵を切り伏せる。
単身突っ込む甘寧の武器はいつも短刀ではなく、腕剣。
手の甲から肘を覆う籠手に付いた剣刃で敵を掻っ捌く独自の武器である。
「何者か――――」
呂の、旗。
恐らくは、呂翔だろう。
そう判断する前に左の剣刃が呂翔の首を断ち、腹に右の剣刃が突き刺さっていた。
しゃん、と。
鈴の音と刃が骨を絶つ音が同時に鳴り、血を纏った刃から赤が消える。
「……斬れる」
流石は楚の鍛冶師、と言ったところだろう。
骨など感じさせない滑らかな斬れ味が、鎧を纏った人体を容易く貫き、斬り通した。
(あと一陣)
斬り、指を揃えた両手から延びる剣刃が敵を穿つ。
悲鳴一つ許さず、命を狩る。
(突破)
雨が味方であり、闇が味方だった。
陣がばらばらに点在し、闇がするりと身体を隠す。
(百歩)
心無しか、身体が前に傾いた。
点々ばらばらにやってくる敵を斬り伏せ、屍を積んで柵を跳び超え、本営に入る。
(八十歩)
流石に本営には、機敏な輩がいたらしい。
しかし、甘寧の歩みを止めることはできなかった。
一斬する度に一歩進み、一歩進む度に首が地に落ちる。
傷ひとつ負わぬ修羅のような奮戦ぶりに親衛隊すらも怯えを見せた、その瞬間。
(五十歩!)
両腕を後方に振り切り、前方の敵を一掃する。
親衛隊を突破した彼女の前には、無数の矢。
流石の反射神経で向かってくる矢を粗方叩き落とした彼女の首のすぐ脇を矢が通過し、首周りでたなびく白い布に突き立っていた。
「……………」
無言で矢を引き抜き、破れた白い布を一瞥。
呆然と立ち尽くしているようにも見えるその姿に、親衛隊の弩兵を纏めていたその女は更なる斉射を行おうと号令を下そうとし、止まる。
「右か」
目の前には、甘興覇。
そう認識した頃には右肩がズレ、地に落ちていた。
疾い。
激痛に苛まれながらもせめて敵の動きを止めるべく、すぐ目の前に在る矮躯を掴もうとし、白い布に指が触れる。
「左か」
その途端に右腕が振り上げられ、触れるか触れないかと言ったところにある自分の左腕が肩ごと宙に舞う。
吹き飛ぶ腕に、噴き上がる血。二度も逆鱗に触れた彼女の命がないことは、すでに誰の目からも明らかであった。
「お頭、退き時です」
周りの弩兵があまりの惨状に口も利けずにいると、甘寧の隣の闇が喋った。
甘寧が袁紹軍の各方面にバラけさせた、百人の内の一人である。
「ああ、そのようだな」
周りの部隊が連携してこちらに向かってきているような、音がした。
整然とした軍かそれ以外かを見極めるのは、甘寧にとっては何てことのない技術である。
「退くぞ」
「へい」
確保していた退路を通り、百一人は帰還する。
名馬百一頭と、兵糧倉の一つを川の藻屑にしての帰還であった。
原作とは違う白いマフラーって時点で誰が贈ったかはお察しである。
甘寧「ドーモ、エンショウ=サン。ギャクゾクスレイヤーデス」
袁紹「アイエエエエ!?カンネイ!カンネイナンデ!?」