義の刃足る己が身を 作:黒頭巾
郭嘉は、司隷の弘農郡を発ち馬車を一乗走らせながら襄陽へ向かっていた。
天下取り。中華統一。
その道に必要な権威を用意しに、彼女は単身司隷へ向かっていたのである。
「士は己を知る者の為に死す、とはよく言ったものです」
陶器のように白く透き通った肌に朱が宿り、心中に情熱の火が灯った。
彼女は仕官すると決めるに至った時に袁紹のところへ行った。そこで、同郷の者の殆どが就職したが、彼女は袁紹に仕えるどころか酷評するだけして去った。
つまらない。彼女に去来した感情を一口に言えば、それだったのである。
秀でてもいない。欠けているところもあまりない。歪な器ではなく、ごくごく普通の円の器。
完全な円か、そこしれぬ器が、とびっきりに歪んだ円か。
そんな主が、欲しかった。
誰にも比肩できず、変えの効かない主がよかった。
「あなたは私を知ってくれた。私もあなたを知った。とびっきりに歪んだ器に、魅力を見出してしまった」
この時代は忠誠心の証として真名を預けるのが普通である。
真なる自分を見せ、誠忠を尽くすのが美徳とされているからこその、風習だった。
くだらない、と。思っていた。
何故見たばかりの主に真名を預けねばならないのか。何故自分そのものとも言える誇りの源泉を渡さねばならないのか。
一乗の馬車。言った倍の路銀。直属の精鋭。自分の名を記した書状。
こちらが必要とする以上の物を全て用意してもらい、国境付近まで見送ってもらって、彼女は人材を集めに旅立った。
「……郭奉孝。不真面目極まりないお前が何故そこまで奴に入れ込む?」
背後から声を掛けるは、陳羣。
彼女がこれはと目をつけていた優秀な人材である。
「失礼な。私はいつも真面目です」
「一度も本気で先を読もうとしなかった女が何を言うか」
「読むのが私である必要がありませんでしたから」
いけしゃあしゃあと言い返す郭嘉に、陳羣は眉を顰めて押し黙る。
どこか達観していたような郭嘉が、凄まじい欲にまみれていた。
「天に見初められた才覚で何を欲するか、郭奉孝」
「永劫の名」
胸を張り、心胆から声を出す。
永劫の名。何年何十年経とうと、色褪せることのない、不朽の名声。
「王にすることは、先を見ずとも容易い。帝にすることも、先を見れば容易い」
大胆不敵な発言に、乗員すべてが色めき立った。
漢を支え、その忠義の道を完遂せんとする義人を助けるために、彼らは招かれたからである。
郭嘉は鐘を鳴らすように朗々と、唄うように言った。
「だが、帝も王も何れは無くなる。朽ち果て、旧きものとなるでしょう。
しかし、私の中で滅びぬものが一つ在る」
「何だ」
郭嘉は、答えない。
「主を神にでもする気か、お前は」
ただ、大業の完遂を静かに見ていた。
そして同時に。
主君が張遼を優しく抱きしめながら、襄陽に入る姿を見ていた。
無論そんなことはなかったのだが、最早病気とも言える彼女の想像力の豊かさが、すぐさま置き換えとその後の展開の妄想を可能にしたのである。
結果。
一目見てから馬車からおり、拝礼をしようとしていた郭嘉は、血の池に沈んだ。
自分の鼻から出た、血の池に。
「おお、軍師ッ!」
血の池。
器用にも周りの人々には一滴すらかからぬ吐血を見た関籍は、嘆きと共に馬をおりた。
張遼から真名を預けられ、預け返して帰る道。襄陽に着いた瞬間、どうやら帰ったらしい軍師が血を吐いたのである。
鼻から。
「天は忠節の人に齢を与えぬか……」
「か、関籍……殿?」
血の池に膝を付きながら、胡服に赤がしみるのも構わず軍師の身体を抱き上げる関籍の手には、哀しみが満ちていた。
「喋るな、軍師!」
「い、え……これ、は―――癖、なの、で……」
盛大に弔わされそうな雰囲気を察し、水分を失った唇を力なく動かす。
意識は、朦朧としている。
貧血であった。
白い肌が青白くなっている。
貧血であった。
目の前が霞む。
貧血であった。
「癖?」
「はい……しばらくすれば、何とかなる、と……」
「重病を押しながらも拙者に仕えてくれていたとは……呂子明が言った身の回りに気をつけよというのはこれであったか……!」
止まらない勘違いに、郭嘉はあっさりと誤解を解くことを諦めた。
貧血だったのである。
「関将軍。奉孝は思考をせずにはいられない女なのです」
「……そちは?」
「陳羣と申します。兎に角、奉孝の思考はいつ如何なる時でも止まりません。そしてそれは時々行き過ぎることになり―――こうなります」
ピッと指をさし、陳羣と呼ばれた短髪の女性が郭嘉をおぶる。
実に手慣れた手つきであった。
「軍師は死なぬのか?」
「死にはしません。一寝すればまともな思考ができるようになり、三日も寝れば天才軍師になるでしょう。心配には及びません」
「おお……それはよかった……」
心の底からの安堵を見せた関籍を見て、街の人々が涙ぐむ。
くだらない理由のくだらない茶番だったが、やっている当人の本気具合が涙を誘ったのである。
「……随分信頼なさっているようですね」
「ああ、我が軍師だからな」
理由になっていない。
外見に比べて子供っぽい。
情の変動がないと見せかけて実は深い。
総じて面白い男だと、陳羣は見た。
「では私はこの女を寝かせてまいります。湯と布を用意していただければ、助かるのですが」
「すぐさま用意させよう」
血の池に膝をついたまま、関籍は手早く指示を出す。
変なところで優秀な男なのであった。
というよりも臣下の命がかかっているところで優秀なのかも知れない。
ともあれ戦場に居るときの関籍を思わせる見事な指揮で、郭嘉は私室に叩き込まれた。
そして、三日後。
「お気を煩わせました」
「いや、無事に復調して何よりだ」
白磁の肌に血の気を戻した郭嘉は、帰還の報告を行っていた。
持てる能力を余すところなく解放した結果、妄想力までもが成長してしまったあたりに、郭嘉の悲哀のようなものがあるだろう。
そんなことは誰も知らなかったが。
「……韓浩殿、司馬孚殿、陳羣。この三人がすぐさま関籍殿に仕えると言うことになり、他は色々と手を打つための手先になっていただきました」
「そうか」
謀略に使うこともできたが、彼女はこの数ヶ月を壮大な下準備に費やしていた。
一度発すれば必ず勝てると言うのが、王道には相応しい。
「彼ら三人には、腹案があるようです。とりあえず今は韓浩殿の案のみを実行に移したいのですが、よろしいでしょうか?」
「軍師の推薦ならば間違いはあるまい。韓浩殿の裁量勝手とする。好きなだけ予算を使い、思うような成果を上げられよ」
相変わらず寛容―――と言うよりも、半ば盲信的な自分に対しての信任の厚さにこそばゆさを感じながら、郭嘉は拝礼した。
「お三方。拙者にはあなた達が誠実であり、秀でていることはわかる。しかし、その展望の内容はわからんから、どしどし提言してくだされ。
今は韓浩殿のみだが、財政が破綻せぬよう蒋別駕従事と相談し、提言していただいた案の実行は追々方々の裁量に任せるつもりでござる」
主自らの拝礼に、郭嘉の後ろに控えた三人が慌てて拝礼を返す。
新参者にも礼を尽くし、提案した仕事を独自の裁量に任せる。
才在る者にとって理想とも言える『虚』の器が、そこにはあったのである。
「関籍殿。数日中に劉徐州牧より使者が参ります」
三人が平伏して退室した頃を見計らい、郭嘉は静かに予言した。
彼女には一瞬先の利益と展望を見ている者には到底及びもつかないほどの広い視野を持っている。
それを不気味がらずに容れる主と、気味悪がられることを恐れない郭嘉が先の展望を元にしたまっ正直な提言をするところに、この主従の特異さがあった。
信頼の度合いが、違っているのであろう。
「うむ」
「そこで、御心のままに激し、御心のままに嘆いてください。私はただ、関籍殿の御心に従います」
主のあるがままを受け入れ、その大業を為すのが軍師の道。
自重を促すことはあれど、意志を曲げさせることは、なかった。
かくして三日後。
劉備の使者がこの荊州を訪れることになるのである。