義の刃足る己が身を   作:黒頭巾

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馬氏の五常

「……軍師、大丈夫なのですか?」

 

「大丈夫……な、はず……で―――」

 

大人しめな気性の駿馬に乗せて、落ち。

 

殆ど癖のない平均的な馬に乗せて、落ち。

 

ならば悍馬に乗せたならば、振り落とされ。

 

全て関籍が落ちた瞬間に背中を受け止めてやったから良かったものの、それがなければ普通に骨を折っていただろう。

 

「……乗れません」

 

「そうらしいですな」

 

江夏から夏口まで、自分の後ろに引っ付いてきたあたりで察していた関籍は、特に驚くことなく頷いた。

私財を割りと持ってきていたのに履いていた靴が旅塵にまみれていた時点で何となく察していたのだが、この瞬間に確信に変わる。

 

この郭嘉、運動全般ができないのだ。

 

湿った黒土の上を、無情な空風が吹き去っていく。

最早出陣は間近に迫っていた。

 

「仕方ありませんな」

 

「…………はい」

 

苦渋の決断。

 

関籍の背後で凄まじい爆音の如き馬蹄が響き、湿った黒土が巻き上げられていく。

九尺を越える巨馬。関籍の愛馬が、そこに居た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

南方らしい湿った黒土の上に両軍合わせて八万の軍が布陣し、戦いの始まりを今か今かと待っていた。

 

西北の風が『関』の軍旗をゆらりと靡かせ、声一つない静けさがその精強さを物語る。

練兵にかけては天下有数の生粋の武将、張遼に練り上げられた江夏は当時としては異様な練度を誇っていた。

 

「動きました」

 

赤い、『孫』の軍旗。

追い風を受けて膨らみ、風の抵抗を受けずにすらすらと進む。

 

中央軍が、厚かった。

 

「なるほど、両翼は脆弱だ」

 

こちらの中央軍は一万四千。両翼は三千ずつ。

 

むこうは中央軍が四万で、両翼に一万ずつ。

 

中央軍が鏃となり、一気に江夏へ突き進む構えだった。

 

「敵は常に二倍、三倍の兵力差を以ってこちらに当たってきています。随分と警戒されているようですね」

 

「孫家とは因縁がある」

 

だから手の内や戦力、やり口を掴んでいる。

お互いに、知り合っている。

 

少ない言葉の裏に隠された真意を汲み取り、郭嘉は少し頷いた。

 

「ですが、それが却って仇となります」

 

「ああ」

 

関籍配下の猛将どもは、戦う前に仕掛ける大規模な戦術ではなく、ぶつかってからの防ぎ切れぬほどに巧妙かつ獰猛な超局地的な戦術機動で知られている。

つまり孫堅の注意は大方目の前の機動に注がれ、軍全体の機動はさほど気に留めないのだ。

 

「では行こうか、軍師」

 

「はい」

 

馬に乗れないなら、御せる奴の後ろに乗ればいい。

関籍の単純思考の末、郭嘉は馬に乗れていた。

 

関籍の乗っている、その後ろに。

 

「戦炮で平行を保つくらいは、できるだろう?」

 

「な、なんとか……」

 

殆ど揺れず、馬の動きに戸惑いがない。

いつもの如く、関籍は腿の締め具合で馬にその意志を伝えていた。

 

片手に青龍偃月刀、もう片手に手綱。鐙を踏みしめ、体勢を保つ。

 

白い戦炮が後ろに引っ張られるのを感じながら、関籍は最後に声をかけた。

 

「軍師」

 

「はい」

 

肝が座っているのか。異常な速度で疾駆しているにも関わらず、郭嘉は平静な調子を崩さない。

戦炮を掴む手の力からして相当緊張しているはずなのだが、そんな一面を微塵も見せないあたりは流石軍師といったところだろう。

 

「この関籍の後ろを取れるものも、横に回れるものも居らん。鐙と戦炮でうまく姿勢を保つことに専念することだ」

 

「いえ、戦況分析も怠りません」

 

「血と喚声の坩堝だぞ」

 

「例えその場が血の池であろうと、私の思考は止まりません。時に行き過ぎたりもしますが、この戦場においては好都合でしょう」

 

接敵するまで、ほんの数秒。并州で駆けたときのようなもうもうとした土煙は上がらないが、その響きだけは変わらない。

 

関籍の優れた視力には、最早槍を構える敵がどのような姿をしているかすらもが認識できていた。

 

郭嘉は、関籍の広い背中から少し顔を出す。と言っても眼が少し出るだけであり、名を売りたいとかそういうことでは無論なく、『ただ戦場が見たいだけ』であった。

 

陽人の戦いで、郭嘉はその智謀の限りをこの将帥の道を助けることに賭けることを決めた。

その自分の決意を知ってか知らずか、彼は自分に全幅の信頼を置いてくれている。

 

裏切るつもりは、毛頭ない。

ただ、自分を虜にしたあの景色を、別の視点で見たかった。

 

陽人の戦いの相手も、孫堅。

まるでその戦いの焼き直しのように、またもや黒騎兵は急峻な坂から岩を転げたかのように疾駆し、白い一点を戦闘にして赤い集団に突っ込んで行く。

 

―――切り替わった

 

一瞬の光芒の中に居るような、夢幻の心地が身体を包む。

理性ある為政者から、本能の闘将へ。

 

そっくり中身が入れ替わったのかとすら思うほどに、振る舞い方が一変した。

 

全く減速する様子を見せない馬甲をつけた関籍の愛馬が兵卒を纏めて後ろに吹き飛ばし、空いた空間を関籍が支配する。

 

手を繋いだ人が、二人分。

 

それくらいの領域に入った瞬間に、敵の身体に刃が喰い込む。

理性で考えてはこうも疾くはならない。

 

思想という鎖に縛られ、凝り固まった関籍と言う名の殻の内から、ただ武神の如き勇だけが顔を出していた。

 

(なるほど、やはり体験しないとわからないものはある)

 

何故敗北が決定的な戦力差を前に、兵たちは狂喜勇躍して敵を殺し続けられるのか。

 

(これを見ては、敗北などは頭を過るはずがない)

 

矢すらも効かずに最優先で弾かれ、人一人を護りながらもなお色褪せない至高の武。

 

将とは軍そのものである。それがこの時代の常識だった。

将が討たれればそれまで如何に有利であろうが潰乱し、軍としての集をなさなくなる。

 

「軍師」

 

「目下、包囲は成功しつつあります」

 

張遼の騎馬隊も、郝昭の重装歩兵も、存分にその役割を果たしている。

関籍の存在が与える不敗感に包まれながらも酔ってはいなかった郭嘉は、問われる前に察していた。

 

「馬謖」

 

将校らしき騎馬武者に偃月刀を突き立て、貫通させた腹を両断。勢いそのままに敵の一集団に叩きつけた関籍は、おもむろに傍らの若武者を呼んだ。

 

「はっ」

 

額に眼のような紋様を施した兜を被った若武者、馬謖。

張遼から用兵を、関籍から武技を手ずから教わっている次代の将。

 

「道はわかるな」

 

「御意」

 

何をするのかと問う前に、乱戦にあった自分の隊を神速の如き素早さで纏めた馬謖が敵陣の隙間を泳ぐように縫っていく。

 

向かう先は、大将の在り処。

 

「道とは、こういう道でしたか」

 

返事の代わりに、こちらに向かって放たれた矢を斬り、応える。

 

白と黒の入り混じった鎧を纏った秀才は、一度も振り返らずに向かっていった。

 

「馬上の士、敵将と見た!」

 

快活な若武者の声に、馬上に居る荘齢の男性が振り向く。

 

呉景。孫堅の死んだ夫の父であり、孫堅にとっては義理の父にあたった。

多分に血縁的なものがあり、非凡ではないがまず良将と言うべき将である。

 

「何用だ、若造!」

 

「その首を貰う」

 

ニヤリと明らかな自信を滲ませ、馬謖は馬蹄高らかに距離を詰める。

白と黒の二色を混ぜた配色の鎧は、自分を戒める未熟の色。

 

白にも黒にも染まる、染まりきらぬ自分に相応しいと思い、自ら意匠したものだった。

 

「ぬかせ!」

 

遅い。

敵の槍から繰り出される刺突を見て、馬謖は冷静な思考でそう断じた。

 

(文遠様と、比べるに能わぬ)

 

避け、次いで受け止める。

いつも受けている一撃と、同じ攻撃とは思えないほどに軽すぎる一撃だった。

 

(師父に、比べるに能わぬ)

 

薙刀。神速を謳われた師父の右腕が嘗て使っていた武器を、馬謖は受け継いでいた。

 

「……ふん」

 

軽く突きを放ち、怯ませる。

やはり、弱い。

 

突いたら切っ先が到達する前に腹に刃を触れさせてくる関籍や、切っ先が届く前に後から出したはずの飛竜偃月刀が先に鼻先につきつけられている張遼を相手にしている彼からすれば、それは止まっているに等しかった。

 

振り上げる。

 

師父たる関籍の、必殺の一撃。放たれた者全てを唐竹割りにしてきた、振り上げてからの一撃の呼び動作を視認した呉景は、槍の柄を頭上に上げて盾とする。

 

関籍と言う武の怪物に仲間の将が片っ端から唐竹割りにされている光景を、この男は知っていた。

 

「それっ!」

 

そして、馬謖は『呉景が関籍の唐竹割りの一撃を知っていることを知っていた』。

 

故に、神速の挙動で隙の出来た呉景の胴を払い、討つ。

 

「戻るぞ」

 

名乗りは、上げなかった。

 

 


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