若干グロテスクかもしれない。
これは夢だ。意識が点いた瞬間に僕は目の前の光景をそう断じた。
なぜなら目の前に立つ女性は、半年以上前に僕を化け物でも見るような目で見ながら理解できないと叫び僕の頬を引っ叩いて去っていった筈だから。
あれはかなりショックだったけど、もう十分立ち直ったと思っていたのに。こうして夢に現れる所を見るに、僕は未だにあの恋を振り切れていないのだろうか。男の恋は別名保存だという言葉を不意に思い出した。
閑話休題。
「愛してるわ。」
不意に口を開いた彼女が、そう言う。類似の言葉を言われた事は何度かあるけどここまで直接的な形で言われた事は無かった筈。そしてこの言葉が脳の中で勝手に形作られたものであることを裏付けるように、彼女の声には違和感を感じた。
そして、その言葉と同時に彼女の左脛から炎が吹き上がる。赤黒いそれは彼女の穿いているジーンズの生地を突き破って噴出しているが、ジーンズを燃やしたりはしないし、また彼女が熱さを感じている様子は無い。
不思議だと思いかけた瞬間に、これが夢であることを思い出す。夢なのだから別に不思議でもなんでもない。ただ、そうあるだけだろう。
「愛してるファ。」
2度目の言葉は途中から不明瞭になった。それもそのはず、言葉の途中で彼女の右頬から噴出した炎の所為で彼女の口腔は形を損なった。
噴出の衝撃で捲れた皮膚が彼女の顎へ垂れ下がる。凡そ人の顔がして良い造詣ではないが、それをグロテスクだと感じる神経は僕の中で麻痺している。或いは、夢の中の僕にとってこれは日常なのかもしれなかった。そんな日常は出来れば御免被りたいが。
「愛してるわ。」
3度目の言葉は何故か再び明瞭な発音に戻り、1度目より違和感が少なかった。或いは僕のほうが慣れて来ているのかもしれない。
今度は左肩から炎が噴出する。
何回呟くのだろうか。それとも何か終了条件があるのだろうか?
そういえば以前明晰夢を見るといっていた友人は夢の中で特定のものを探さなければ夢から覚められなかったらしい。これもそう言う類のものだろうか。
何かを探さなければならないのなら、ここから移動するべきなのだろうが、そう思う僕とは裏腹にこの体は一切動かない。ただ体感としては、寧ろ動かせる訳が無いという感覚のほうが近い。なんというか、そう。これを夢だと断じている僕と、この状況を現実として受け入れている夢の中の僕がいて、体の支配権はそちらにあるような。
だとすれば動けないのも納得だ。この状況を現実として受け入れなければならない僕には同情する。
そんなことを考えていると傍らで何かが落ちた音がして、僕は意識を外へ向ける。
重い音を立てて落ちたそれを注視すると、それは彼女の焼け落ちた左腕だが、その断面は焼け、焦げ、砕けた物ではなく、まるで熱で変質したプラスチックの様な、溶けて伸びたものだった。そもそもこの炎は熱を持たない様に振舞っていたような気がするが、どうやら彼女の皮膚と筋肉には損傷を与えるらしい。
それを見て、彼女の頬が気になりだす。
今度は注意深く、彼女の右頬を見てみれば、確かにその表皮と筋肉は損傷を受けていて、溶け落ちたそれらはいつの間にか彼女の右肩に染みを作っているし、そもそも彼女の下顎はいつの間にか傾いでいる。右の顎関節が外れたのだろう。
しかもご丁寧に熱は上へ上へ伝わっているらしく、彼女の右目は垂れ下がって歪んでいる。皮下の眼窩は歪んでいないのだろうか。というかそもそもこれだけ損傷が刻まれていて、なぜ骨だけが無事だと確信できるのだろう。
そんな好奇心に突き動かされたかの様に左手が彼女の右頬を撫ぜる。
炎の上から撫ぜた彼女の右頬は、そういえば存在せず、結果として彼女の歯列と下顎骨を撫ぜる。その感触は随分昔悪戯に触れた骨格標本のものと同じだったが、少なくとも硬かった。成程彼女の形を支えるには十分だろう。
触れられて、彼女が小さく首を傾げる。こんなところまでそっくりだ。
彼女は何時も、僕が彼女の理解の外側にある行動をするとこうして首を傾げ、僕に理由を尋ねた。それは彼女が僕を理解しようとしていた動かざる証拠であると同時に、あの日への小さな布石だったのだろう。
と、なんとなく頬を撫ぜ続けていた僕の左手を彼女の右手が撫ぜる。僕の左手には一切損傷を与えない炎はしかし律儀に彼女の左手を溶かす。
皮膚が溶け落ち筋肉が落ちて、腱が断ち切られ、支えを失った手の骨がばらばらに落ちて地面で跳ねて軽い音を立てた。
「愛してるわ。」
4回目の声は少し困ったような声音。
何故かと考えて理由に思い当たる。頬を撫でるなら顎の動きを阻害することは無いだろうが、僕の手は今彼女の顎骨そのものに触れている。成程喋り辛いだろう。と一度は思ったが、そもそも彼女はいま言葉を発するために口の動きを必要としてない筈だ。
そして、彼女の言葉と、それから首を傾げる仕草が、僕にあることを思い出させた。
間接的に僕へ愛を囁いた後、必ず彼女は首を傾げたのだ。何故かは僕に解らなかったし、彼女もその時だけは口を開かなかった。結局その理由はとても単純なことで、ほんの一言をくれれば良かったのにと僕は思ったが、その前に僕は一言を彼女にあげられなかった。
つまりどっちもどっちで、彼女も僕も、言葉が足りなかったのだろう。
だが今は答えを知っている、だから今日は返そう。
「愛してるわ。」
その決意を合図にしたかのように彼女が呟く。
「僕もだ、愛してるよ。」
そう僕が返した瞬間に彼女の全身が燃え上がって蒸発して。
目が、覚めた。