“お父さん…”
“ねぇ、お父さんってば…”
“起きてよ、ほら…”
……
目を覚ました僕の視界には、ただ白い天井が映っている。
チュンチュンと可愛らしい小鳥の鳴き声に混じり、けたたましく鳴り響く機械音。
その音の発生源である目覚まし時計のスイッチを切る。
「……」
このアパートの一室で暮らし始めてから、もう2年近くが経とうとしている。
朝の身支度にも、すっかり手馴れてしまったものだ。
この新しい生活も、ようやく板に付いてきたという気がする。
――
それが今の僕の名前だ。
僕の記憶の中に唯一あった名前。
だから僕は、それを自分の名前とすることにした。
「……」
病院で目を覚ましたのは、もう7年前のこと。
体中に、刃物によって付けられたであろう刺し傷に切り傷…
大部分に酷い火傷も負っていた。
体調が回復するまでには、数年の歳月を要した。
体調が回復してからは、アルバイトをしながらの勉強の日々だ。
そんな日々にまた数年の歳月を要し、僕はどうにか
教師という職に付くことが出来た。
「お父さん…か」
今朝に見たであろう、奇妙な夢を思い出す。
小さな子供が、横になった僕を揺さぶり、起こそうとしている。
その子の顔を思い出そうとするが、どうしても上手くいかない。
それに、もう1人――別の子供もいたような気もする。
……
本当の年齢は分からないが、僕ももう、いい歳だろう。
先生の見立てでは、今で大体、30代後半ぐらいの年齢だという。
つまり記憶を失ったのは、およそ30歳ぐらいの時…。
恋人や妻、そして子供がいたとしても、全然おかしくはない。
「……」
佐藤貴志という名前を頼りに、何か僕の素性に関する手掛かりを
探そうという試みは、当時から続けている。
だが、苗字にしろ下の姓にしろ、ごく有り触れた名前というせいもあってか、
未だにこれといった情報は集まっていない。
しかし僕は、その結果にそれ程
いや、むしろ…何らかの確かな結果が出るのを、恐れている自分がいる。
自分が何者で、どんな人生を歩んできたのか…。
それを他人から唐突に告げられるというのは、どんな気分なのだろう?
そして、僕はそこで記憶を取り戻すことが、本当に出来るのか…。
それが出来れば、今よりもより良い生活が待っているのか?
では、もしもそこで記憶が戻らなかったとしら…?
……
様々な思いが堂々巡りする頭の中に、軽快なチャイムの音が鳴り響く。
――いつも通りの時間だ。
僕は頭を切り替え、逃げるように玄関へと向かった。
「そろそろ、桜も散り際だね」
「…そうですね」
窓の外に見える公園の桜を見て、教頭先生が呟いた。
僕も同じように桜の木に視線をやり、相槌を打つ。
彼――
教師になりたいと言う僕に、担当医の先生は彼を紹介してくれた。
彼の協力がなければ、身元不明の僕が教員免許を取り、更に
「君はお花見とか、行ったことないのかい?」
「う~ん…。 記憶にある限りでは、ないですね」
おまけにこうやって、毎日のように車に乗せてくれて
僕を学校まで連れていってくれるのだ。
彼に対する感謝の念は、形容しようにもしきれない。
「そうか…今年はもう、駄目かもしれないがね。
来年は行ってみようか。 教師一同で」
「教師一同で、お花見ですか…? あんまり聞いたことないですね」
「ハッハッハ。 まぁ、いいじゃないか」
恐らくは、僕に気を遣っての言葉だろう。
実現する可能性は低いかもしれないけど、もしそうなったら――。
僕の頭の中に、ある女性の姿が浮かんだ。
「そういえば、
「えっ?」
その女性の名前が教頭先生の口から飛び出し、僕はギョッとした。
頭の中に思い描いていた妄想を振り払い、何事もないよう
「…どうって言われましても。 何でそこで、松岡先生の名前が出てくるんですか」
「ハッハッハ。 いやなに、最近2人の仲が良さそうなものだからさ」
「僕と松岡先生は、そんな関係じゃありませんよ」
「…そうか。 それは残念だなぁ」
教頭先生は意地の悪い笑みをしながら、僕と言葉を交わす。
実際のところ、本当にそんな関係ではない。
でも…除々にではあるが、確かに親しくなっているという自覚はある。
そして、もっと親密になりたいという想いが僕の中にあることも、否めなかった。
……
学校のすぐ近くの交差点で、信号に引っ掛かる。
何とはなしに窓の外を見ると、濃いブルーの車体をした
スポーツカーの運転席に、1人の男の姿がある。
「――うッ!?」
彼の顔を見た、その瞬間のことだった。
まるで全身に電流が走ったかのような衝撃の後、頭の中に
何か不思議なイメージが次々と浮かんでくる。
これは何だ…?
そういえば、彼は――。
いや、違う! それは、僕じゃなくて…。
「どうしたんだい、佐藤くん!?」
「……」
“お父さん…”
“ねぇ、お父さんってば…”
今朝に見た夢が、より鮮明になって蘇る。
そうだ。 彼女は確かに、僕の…。
そして、その傍らにいる、無表情な顔つきの少年。
彼は――
「しっかりしろ、佐藤くん!」
薄れ行く意識の中、はっきり感じ取れたこと。
それは、あの子供たちが僕にとってかけがえのない存在であったこと。
そして、もう1つ…。
僕には、やらなくちゃいけなことがある。