気付いたら、おれは森の中に立っていた。
広がるように伸びた大樹の葉。その隙間から差し込んでくる陽の光が、おれの意識を少しずつクリアにしていく。
「ここ……どこだ?」
おれはぽつんと呟いてみる。返ってきたのは鳥のさえずりと、風になびく葉のささやきだけだった。
森だ。自然豊かな緑の大地だ。いや、それは分かっている。問題は、なぜおれが森の中に立っているのか、ということだった。
目をつむり、前後の記憶を思い出す。
確か、おれはコンビニでエロ本を読んだ後、女子高生に……何かしら呟かれて、スーパーに買い物に行って、そして家に帰る途中だったはずだ。その日の天候は雨で、靴が濡れて最悪な気分だったけれどブラが透けてる巨乳の女子高生を目撃できて一転して幸せな気分になった所まで覚えている。
「……で、おれは女子高生の透けブラを見ていただけなのに、なんで森の中にワープしてるんだ?」
腕を組んで考えてみるが、何も思い浮かばない。
ふと、妙な夢の記憶が頭をよぎった。かぼちゃの格好をした気持ちの悪いやつが、おれを賭けのコマにしただの、異世界に召喚するだの、よくわからないことを言っていたような気がする。
しかし、所詮は夢なんて支離滅裂なものだ。特に参考材料にはならないだろう。
腕を組んで、平凡な頭で考える。頭をひねくり回しても、拉致か誘拐か記憶障害くらいしか思いつかない。
おれはエロに関しては想像力が無限大に広がるが、それ以外の分野での柔軟な発想というやつがとても苦手だ。
おれは、なにかとルールに当てはめたがる。ルールを把握した上じゃないと物事が考えられないタイプなのだ。
良く言えば論理的思考力があるとも捉えられなくはないが、悪く言えば頭が硬い。
――この融通の効かないクセがどうして生まれたのか、理由はあまりにもしょうもないので今は語らないでおこう。
とにかく、こういう『急に謎の状況に置かれました』みたいなルールが不鮮明な状況が一番気持ち悪い。
「オーケー、落ち着けおれ。まずは五感をフルに使って状況を把握しよう」
目の前にあるのは何だ?
森だ。
ここはどこだ?
常識的に考えて日本であることには違いない。どうやってスーパー帰りに海外に行くんだよ。飛行機に乗った覚えはないぞ。
結論。今の状態で状況を理解するには根拠が足りなさすぎる。ひとまず、ここにおれが立っている理由は置いておいて、家に帰ろう。
「スーパーの袋は……やっぱ無いか。くそっ、またスーパーに行って食い物を買わないといけないのか。そろそろ、お袋が腹すかせて起きてくる頃だってのに」
元ボーイスカウトの経験(小四の夏休み二ヶ月間だけ)を活かし、太陽の位置から時間を推測する。たぶん、現在の時刻は昼の二時頃だろう。
スーパーを出たのが夜八時ごろだったから、何かしらの理由でおれは一夜の記憶をふっ飛ばしてしまったようだった。
そろそろスナックで働いているお袋が起きてきて飯をねだる時間だ。お袋を空腹にすると暴れるから、早く帰らないと部屋の障子がまだ破かれてしまう。
「あーもう、本当にここはどこなんだよ」
ぶつぶつ言いながら歩を進めると、奥の方に開けた道が見えた。
あそこで車を拾って、近くの駅まで届けてもらおう。
理由は分からないが、とにかくおれはどこかの森の中に置いてきぼりにされたのだ。
拉致られたのか、寝ぼけてここまで来たのかわからないが、なんにせよ家のある横浜から、そう遠くない場所だろう。
そこで、ふと違和感を覚えた。視線の高さが普段より妙に高い。おれの身長は百七十五センチ。高校1年生の平均身長より少し高い程度だ。
しかし、今のおれの視線の高さは明らかにそれよりも高い。脚立に登って作業している時くらいの視線の高さだ。恐らく二メートルはあるだろう。
その違和感をきっかけに、身体の節々がちょっとおかしいことに気付いた。
何だか足が長くなったような気がする。腕の感覚もちょっとおかしい。尻の部分も妙にむずむずする。
自分の身体に目線を落とそうとしたその時だった。
「キャ――ッ!」
女の子の甲高い悲鳴が森中に響き渡った。
おれはとっさに声の方へ視線を向けた。木々に邪魔されて見えないが、その悲鳴は明らかに身の危険を知らせる切羽詰まった悲鳴だった。
「な、なにが起こったんだよ!? くそっ!」
警察に電話、と思ったが、通報から到着まで平均10分以上かかるという警察密着二十四時で得た知識を思い出し、通報をしている暇はないと判断。
周囲には当然人っ子一人おらず、悲鳴を聞きつけた人はいないようだ。おれを除いて。
「じゃあ、おれが行くしかないじゃないか! あーもうっ、全然状況が分からねえぞ!?」
おれは悪態をつきながら、声のした方へ走りだした。
地面を蹴り、飛ぶように森を駆け抜ける。いや、飛ぶように、ではなく実際に少し飛んでいるようだった。おれは自分自身の脚力に驚いた。いつからおれはこんなに身軽になった?
血の臭いが鼻についた。あと三百メートル前方、そこで誰かが血を流している。臭いから距離感まで把握出来るなんて、犬になったみたいだ。
違和感がいよいよ本格的に疑問へと変わってきたが、今はそのことを考えている暇はない。
悲鳴の主が見えた。
外人の女の子だ。ブロンド色の長い髪を、頭の上で二つ結びにしており、マントのようなものを羽織っている。彼女は肩を押さえながら地面に尻もちをついていて、その怯える視線の先には――怪物がいた。
俺は思わず足を止めて呆けてしまう。普通、森のなかで女の子の悲鳴をきいたら、暴漢に襲われているとか、せいぜいクマやイノシシといった危険な野生動物に遭遇してしまった――そんな事態だと予想していた。
しかし、それは明らかに、おれの想像の範疇を凌駕していた。
「なんだよ、これ……冗談だろ?」
怪物。それは例えでも何でもなく、本当に怪物としか言いようのない生き物だった。体型的にはヒグマに近いだろう。二メートル近いがっしりとした巨体に、太い四肢を持ち、黒い体毛に覆われた巨大な生物がそこにいた。
爪は人間の皮膚なら軽く剥ぎ取れてしまうくらいに鋭く尖っている。
そこまではいい。熊やゴリラなど(日本に野生のゴリラはいないだろうが)森に生息する動物にはよくある特徴だ。
おれがそいつを動物といわず怪物と例えた理由は頭部にあった。怪物の頭部には、潰れた人間の顔が張り付いていた。
目玉は飛び出しており、紫色の泡を耐えず口から流している。
まるで趣味の悪いゾンビマスクのような、しかし造り物というにはあまりにも生々しいものだった。
「あ……あ……」
女の子は逃げようともがいているが、腰が抜けているのか、立つことが出来ないでいる。
おれだって同じだ。あんなものが目の前に現れたら、足が震えて逃げるなんてとても出来ない。
「ウォオオオオ――――ッ!」
怪物は雄叫びをあげて、怪物はその大きな足で一歩踏み出し、腕を振りかぶった。
振り下ろされた瞬間、彼女は死ぬ。おれは目を見開いた。命を奪う一撃の予備動作。あんな鋭くて大きい爪で抉られたらひとたまりもない。女の子の首が跳ね飛ばされて、血しぶきが森に飛び散る光景が頭に浮かんだ。
助けなきゃ。
そう思うけれど、足が動かない。
助けられるわけがない。
逃げよう。
巻き込まれたくない。
臆病な理性と正義感がおれの中で葛藤を起こし、わずかな差で臆病さが勝ってしまった。
例えこれが夢だとしても『女の子が襲われてるから』という理由だけであんな得体の知れない怪物に向かっていけるのは、勇者の生まれ変わりか頭のネジが三本ほど抜けた大馬鹿野郎くらいだろう。
自分の命が一番大事、という合理的なルールがおれの足を縛って動けない。同時に
『困っている人がいたら助けてあげる。これが出来れば、いつかお前のことを好きと言ってくれる女の子が出てくるだろう』
不意に、初めて失恋した時に、姉ちゃんに言われた言葉を思い出す。
――ああ、クソ! 言われなくても分かってるよ! 女の子が死ぬのを黙って見てる臆病者(チキンヤロウ)に彼女なんか出来るはずないってことくらい!
姉の言葉で、足の指先くらいは動かせるくらいに勇気の炎が心に灯った。しかし、それでも非現実的な怪物相手に向かっていくには、まだ足りない。
――あと一つ、ほんのわずかでいい。理由が欲しい。彼女を助けに行く明確な理由(ルール)があれば、おれは足を縛っているクソッタレでビビリな合理的な理由(ルール)とやらを吹き飛ばせる。
その刹那。
「~~~~ッ! あれはッ!」
不意に女の子の姿勢がかわり、おっぱいの谷間が視界に入った。
谷間。その魅惑的な世界が作られるということは、彼女は巨乳の持ち主。
そして、おれは見てしまった。彼女のふくよかなおっぱいの存在を。服に隠されて入るが、最低でもFカップはあるだろう形のいいおっぱいを。
ああ、ダメだ。見つけてしまった。おれが彼女を助けなければいけない明確な理由(ルール)が。
目の前で、巨乳の女の子が醜い怪物に殺されかけている。小学生の頃から巨乳を一心に愛してきたおれが、命の危機に瀕した巨乳の女の子を見逃せるか? いや、見逃せない。
おっぱいの大きさは愛の容量だ。美しい巨乳を持った女性は、愛しむべき高貴な存在だ。
――現実を無視した怪物が相手でも、そのルールだけは絶対に変わらない。
ルールが明確になった。それは、おれの本能が下した判断。理性よりも早く、その電気信号はおれの身体を動かした。
おっぱいを救え。ただ、それだけ。
たったそれだけで、おれは世紀の大馬鹿野郎に変身した。得体の知れない怪物に素手で立ち向かうという、第三者から見れば自殺行為のような行動に打って出た。
「ちくしょう! その高貴な存在(おっぱい)に汚い手で触るんじゃねえ――ッ!」
おれは女の子に襲いかかる怪物めがけて突進した。
自分でもあり得ないと分かるほどの速度で、至近距離まで飛び込む。足腰をぐっと落とし、踏み込んだ右足の勢いを左足で止め、その速度と重さに腰の回転をくわえて全てを右拳に伝えて放つ。
いつか女の子が暴漢に襲われている場面に遭遇した時のために通信講座で学んだ格闘術。
結局、総額で八万円も使ったけれど一度も使う場面に出くわさず涙しながら捨てた通信講座の教材。まさか、今になって役立つとは思わなかった。
「ふっ飛べや怪物野郎ォ――ッ!」
叫びながら、拳が当たるインパクトの瞬間にねじりを加える。拳に衝撃が走り、メキリ、という骨にヒビが入る音と共に、怪物の顔から血が飛び散った。そのまま怪物はよろける。
「グオォオオオッ!」
しかし、すぐに体勢を立て直し、こちらに向かって爪を突き出してくる。
動きは速いけど、動作も大きいし軌道も真っ直ぐだ。おれは最小限の動きで怪物の一撃を避け、サイドステップで怪物の右側に回り込んだ。そこから一歩踏み込んで下腹付近にレバーブローを打ち込む。怪物が顔を歪めて怯んだ。
まるでプロボクサーのような俊敏な動き、完璧なコンビネーションだった。
やべえ、おれ喧嘩なんてしたことなかったけど、こんなに強かったのか! ありがとう八万円の通信講座! 元は十分取れてるぜ!
さっきまでの臆病さはどこ吹く風、いけると判断したおれは、立て続けに左アッパーを怪物の顎に打ち込み、完全にガードが空いたところにもう一度、渾身の右ストレートを打ち込んだ。
「グオォオオオ……ッ!」
怪物が悲鳴をあげた。骨が砕ける鈍い音が鳴り響き、拳が怪物の顔面にめり込んでいく。
今度こそ、完全に顔面を潰したようだ。
――ドシンッ!
衝撃音と共に、怪物は地面に倒れ込んだ。
おれは息を荒げながら「やった」と自分を安心させるように呟いた。
信じられない。満身の力をこめた右ストレートとはいえ、あのヒグマみたいな巨体を持つ怪物をノックアウト出来た。いや、正確には顔面を砕いたといったほうが正しいか。
「はぁ、はぁ、おれ、強すぎ、だろ」
肩で息をしながら自画自賛をしていると、ふと、怪物を淡い青色の燐光が包み込み、光の玉となって四散した。
怪物が消えた? 死んだら光になって消えるって、おいおいおい、ゲームじゃあるまいしどうなってんだ?
色々と疑問は残ったままだが、興奮と疲れで麻痺した頭じゃ何も考えられなかった。
とにかく脅威は去った。おれは安堵の溜息をついて女の子の方を見た。
「きみ、大丈夫?」
おれが手を差し伸べると、女の子はその手を掴むことなく、自力で立ち上がり後ずさりをした。
ちょっと傷つくぜ、その反応。けど、目の前であんな修羅場を見たら、誰だって怖くなるのが普通だよな。
「えっと、怖がらないで。おれは味方だよ。君と同じれっきとした人間。怪物はもうどこかに行っちゃったから、もう安全だよ」
両手をあげて、自分に敵意がないことを示すと、女の子はようやく強張った肩を落とし、警戒心を解いたようだった。
「ありがとう。でも……どうして助けてくれたの?」
「どうしてって、そりゃ君のおっぱ――コホン。女の子があんな怪物に襲われてたら誰だってそうするだろ」
おれは紳士的に答える。まさか君の巨乳に惚れて考えるより先に身体が動いたとは言えない。
「そうじゃなくてっ。だから、その、魔族なのに、なんで人間である私を助けたのかって――」
女の子はふと何かに気付いたのか、顔を近づけてきて、おれの目をじっと見つめた。
目の前に女の子の顔がある。澄んだ水の色のような、青い瞳が特徴的な、綺麗な女の子だ。見た目的に日本人ではないだろう。
まるで造り物のように整った顔立ちに、新雪のような白い肌、絹糸のような美しい髪の毛は見るもの全てを感嘆させる魅力を放っていた。
それでいて庇護欲をそそるような小柄で女の子らしい印象を持っている
もしクラスに彼女が転校してきたら少なくとも十人以上はその日のうちに愛の告白をするだろうし、おれもそのうちの一人として参加するかもしれない。
そして、その美しい顔の遥か下、上半身についている柔らかそうなおっぱいは、服の上からでも分かる、まさに非の打ち所がない形のいい巨乳だった。世界一巨乳の形にうるさい男と呼ばれたおれでも一発でSSランクをつけてしまうくらい、神おっぱいだった。
おれは思わず目をそむけた。頬が熱くなるのを感じる。
「な、なに? おれの顔に何かついてる?」
「その赤い瞳……あなたは『チェンジャー』なの?」
「チェンジャー?」
おれが首を傾げると、女の子は解せないといった表情を浮かべる。
「そうよ。チェンジャー。それとも、あなたは人語が喋れる魔族なの? でも、そんな高等魔族が守護のクリスタルで守られてる『神聖の森』に存在しているはずがないし、やっぱりあなた、チェンジャーよね。そっちの方がまだ筋が通ってるわ」
魔族? 女の子が何を喋っているのか、さっぱり分からない。不意に、おれは夢の話を思い出した。
『ブックメーカーに選ばれた』
『異世界アトランタル』
『勝利条件は魔王を討伐すること』
ジャックと名乗ったかぼちゃの声が反芻する。まさか、ここは異世界で、おれはあのかぼちゃに召喚された? ありえない。そんな非現実的なことがあるはずがない。確かに漫画や映画じゃ、異世界の存在なんてポピュラーな題材だけど、現実でそんなことがあるはずがない。
しかし、先ほどの怪物が映画の特殊メイクではなく本物の怪物だったのだとしたら、全ての筋が通ってしまう。
いや、これが夢だという可能性もある?
そう思って、しかし、おれは拳の感覚から夢ではないと判断した。
さっき怪物を殴った拳には、生々しい感触がまだ残っている。返り血だって拳についたままだ。
おれは右拳を顔の前に持ってくる。その時になってはじめて、おれは自分の身体の異変に気付いた。
「な、なんだよ、これ……!」
そこにあったのは、茶色の体毛で覆われた獣の腕だった。形は人間の腕に近いが、腕の太さも、長さも、すべて人間のそれとは異なるものだった。
足を見る。こちらも同じく体毛に覆われており、その筋肉量は外見からでもわかるほど強大で、この足が先ほどの飛ぶように走った体感を生み出したのだのだと納得がいった。
極めつけは、尻の違和感の正体。表現し難いが、第三の足のような感覚のそれを前に振ると、そこには尻から生えた長いしっぽが姿を表した。
自分の身体が人間のものじゃなくなっている。
こんなの、信じられるか? まともに受け入れられるか? おれは無理だ。世の中にはルールがある。常識がある。物理法則やら何やらお偉いさんが作った『これが現実で起こることの理由だよ』という裏付けがある。
けれど、いくらなんでも、ある日突然こんな姿になるなんて事は御伽噺の中でしか許されない現実無視のルール違反だ。
「あなた、自分のチェンジフォームも分からないの?」
女の子は呆れたような口調で言った。カバンから手鏡を取り出し、おれの面前に突きつける。
そこに映っていたのは、毎朝顔を洗う時に嫌というほど見てきた横浜生まれ横浜育ちの高校一年生『神崎悠真(かんざき ゆうま)』の姿ではなかった。
狼男。そう表現するしかない獣の顔が、小さな鏡の中で目を見開いていた。鼻は長く、口には鋭い牙が生えている。耳はまさしく獣の耳で、驚きに見開かれた瞳は間違いなくおれ自身の瞳だった。
おいおい、いくらおれが人よりちょっとばかしエロへの興味が強いからって、狼男にすることはないだろう?
なんて心の中で突っ込みをしつつ、おれはめまいと共に意識が遠のいていくのを感じた。
「冗談きついぜ、神様よ――……」
「ちょ、ちょっと、どうしたの!? 大丈夫!?」
人間は信じがたい事実を目の当たりにすると、意識を失うという。
おれはその定説通り、本日二度目の気絶をすることになった。