アリサの家に橙色の大型犬がいるらしい。
高町なのはが長い休みから久しぶりに学校に来たその日、帰り際にアリサに聞かされたことがそれだった。橙色の犬は珍しい、というより見た事が無い。少なくとも前世の分も含め黒や白色の毛並みの犬は見た事があっても、アリサの言う橙色の犬は見た事も聞いたことも無いユクエは、珍しくも自分から犬を見てみたいとお願いをした。
何原行方は犬が好きだ。
犬派と猫派と聞かれればどちらもと答えるが、どっちかと言われれば犬を選ぶ。
だってモフモフしてるから、触っていると髪のない自分を補えるような気がするから。でもスコティッシュフォールドを引き合いに出されれば猫派を選ぶ、中途半端と人は言うかもしれないが、とにかくユクエは頭髪の事を忘れることができる癒しが好きなのだ。
「アリサちゃんのお家にはね、犬がたーくさんっいるんだよ」
学校の帰り、アリサの家の車に同乗し、高級車のシートの上で緊張しているユクエに、すずかがそう言ってきた。アリサの家に犬が沢山いる事は話には聞いていた、が、月村邸の時の様に猫が頭部に襲い掛かってくるような事態がもうないようにアリサには既に安全を確認しているのだ。
アリサ曰く『元気だけど、噛んだりしない大人しい子達よ』
他ならぬアリサの言葉だ。
信用に値する。これから出会う橙色の犬を少し楽しみにしながら彼は、ふと少し離れたところで思いつめた顔をしているなのはを見る。
アリサに犬の話を聞いてから何処か変だ。道中でユーノというイタチを迎えてからジッと見つめ合っている。
「……成程な」
それほど橙色の犬に興味深々なのか、無理もない。彼女とて9歳児、中身大人なユクエでさえ若干ウキウキしているのにジッとしていられるはずがない。
古来、男というのは未知というものに憧れるものだ。女子もまた然り。
「もう着くわよ。あれ?ユクエって来るの初めてよね?」
アリサの言葉に小さく頷きながら背負うのに慣れてしまったランドセルをしょい直す。次第に窓の外に大きな屋敷が見えて来る。その建物の大きさを見て、月村邸もそうだが自分の友人はどれだけお金持ちなんだと、ありきたりな感想を抱くのだった……。
使い魔アルフは、主思いの女性である。
度重なるフェイトへの虐待、母親ながらもあまりにも彼女をないがしろにする行為。アルフは我慢できなかった。フェイトに対するあんまりな仕打ちにとうとう激昂した彼女は、プレシアに反旗を翻した。
結果は惨敗。
返り討ちにされ、人化ができないほどの重傷を負い打ちのめされてしまった。怪我で動けない彼女は死を覚悟していたが、地球に住む心優しい少女により治療を施され、なんとか生きていた。
だがあくまで怪我は処置しただけで治ってはいない。しばらくは動けない状態に歯噛みしながらも、檻の中でジッとしていたアルフは、ずっと自身の主、フェイトの安否を心配していた。
ちゃんとご飯食べているんだろうか。
ちゃんと睡眠を取ってくれているのだろうか。
また無理をしてないのだろうか。
鬼ババアに苛められていないだろうか。
それだけが心配で心配で仕方が無かった。
本来ならば、今すぐここから飛び出したいが怪我があるので動けない。今は耐えるべき、そう自分に言い聞かせひたすらに檻の中で伏していると……。
「?」
自身を救ってくれた少女が飼っている犬の鳴き声が聞こえた。一応、犬に近い使い魔である彼女は言葉とまではいかないが、その感情位はなんとなく理解できる。感じられた感情は、歓喜。
遊んでもらえてうれしい!とばかりの真っ直ぐな感情で鳴いているその声。
『ユクエくん!あぶない!!』
『ジョ、ジョンッ!?』
『ああっ!』
三人の少女の声が遅れて聞こえたその時、聞き覚えのある声が屋敷の敷地内を走り回る音と、犬が駆ける音が響く。
―――な、何が起こっているんだい……。
顔を上げながら困惑するように首を傾げる彼女だが、屋敷内を走り回っていた二つの足音が側方から駆け寄って来る音を聴き、そちらを見る。
「ハフッ……ハフッ……」
視界に入ってきたのは、以前フェイトが時の庭園に連れた少年だった。息を身だし背後から追って来る金色の毛並みが特徴の大型犬から必死に逃げている彼を見て、アルフは割りと本気にどう反応していいか分からなくなった。
ずざざっと檻の前で立ち止まり同じく立ち止まった大型犬を見る少年、何原行方。「何で、俺を追ってくるの……」等と呟く彼に対し犬はハッハッと楽しそうに尻尾を振りながら、彼を見ている。相対する一人と一匹、険しい表情で頭部を抑える少年はジリジリと後ずさりしながら、対面の獣を警戒する。
状況が分からない、素直にアルフはそう思った。
ユクエの目の前にいる犬はただの犬だ。彼女が戦闘の際に出すような威嚇もせず、ただ尻尾を振り遊んでもらいたそうにしている。何を怖がる必要がある?
―――訳が分からないよ……。
目の前の奇怪な光景に理解が及ばないアルフは、静かにため息を漏らした。
ユクエが金色の毛並みの犬、ゴールデンレトリバーの「ジョン」を異常なほどに警戒しているのには理由がある。それは彼が此処、バニングス邸に訪れたその時にまで遡る。
特に何事もなくバニングス邸に到着した彼となのは達は、執事に案内され敷地へと足を踏み入れた。自宅とは比べ物にならない豪邸に開いた口が塞がらなくなりながらも、件の橙色の大型犬を見せてもらおうとその場所まで案内してもらおうとしたその時、事件は起こる。
「……ワォン!」
何処からともなく一頭のゴールデンレトリバーがアリサの方へ走り寄ってきたのだ。犬はアリサの方に駆け寄ると人懐っこく身を寄せ、撫でてと言わんばかりに伏せる。
「ジョン、また抜け出したのね。もうっ、悪い子ね」
ジョンと名付けられた犬を呆れたような優しげな表情で撫でつけたアリサは、呆けていたユクエ達を見て「本当にやんちゃで困った子なの」と苦笑しながらそう言った。確かにユクエからみれば活発そうな犬に見える。年も一歳か少し老いているくらいだから今が一番元気な頃だろう。
少し触りたくなった彼は、アリサに了承を得てから手をジョンの頭の上に乗せるように伸ばした。大人しい犬なのは感じで分かっていたし、尻尾も振ってくれてるし大丈夫。
そう思って伸ばした手が、ジョンの頭に触れる……その瞬間。
「わう!」
伏せていたジョンが突然目を輝かせ、ユクエへとのしかかるような形で跳躍した。ジョンは大型犬、大きさでいえば小学3年生であるユクエの体よりも大きい、子犬ならキャッチして終わりだろう。大型犬ののしかかりなど受けたら倒れてしまう。下は原っぱ、それほど痛くはない。だがそれでも、ヅラが落ちるのは避けられない。
「ぅぁッ」
ユクエの動きは早かった。
そう、彼とて成長しているのだ、度重なる危険にさらされ一度は暴かされ、苦悩と苦労の先に今のユクエはいる。彼の研ぎ澄まされた防衛本能が反射を促し、のしかかろうとするジョンの奇襲を躱すことを成功させる。
ただ単にビビッて横にずれただけといえばそれだけなのだが、とりあえずの危機は去った。安堵の息を吐きながら背後で着地したであろうジョンへ振り向こうとしたその瞬間―――
「ユクエくんっ!あぶない!!」
「ジョ、ジョン!?」
「ああっ!!」
三人の声、背後を振りむかずにそのまま横に跳ぶと頭の有った位置に折り返して飛び掛かったジョンの前足が通り過ぎる。この瞬間、ユクエは背筋が凍るような悪寒が走った。
「……お前、見えているのか……?」
狙って、いるのか?知らないであろう高町達には言葉が出せなかったが、尻尾を振りながらこちらを伺っている大型犬は、ハッハッと嬉しそうに息を吐き出しながらゆらゆらと揺れながら彼に体を向けている。
犬の先祖はオオカミと聞いたことがある。オオカミとは狩りを行う肉食動物、相手の弱点を突き喉元を喰らい確実なる勝利をもぎ取るハンター。目の前の犬、ジョンの目には自分の弱点が克明に見えているのではないか?そう急所よりも脆い
「ハッハッ……ッ」
「見えているのかと聞いているッ!!」
彼らしくもない声音だが、目の前の犬は不敵に尻尾を振るだけ。
既に彼の右手は頭部に置かれている。だがこの状況、この犬と戯れるには聊か危険すぎる。離れなければならない……高町達に気付かれず、尚且つこの犬を相手取るには彼女らをまく必要がある。
「ッ!!」
「わふ!?」
彼の取った行動はシンプルなものだった。
その場からの離脱、あまりにも簡潔すぎる彼の行動に犬はおろか彼女たちも目を丸くする。
オオカミの子孫と言われている犬は、動くものを追いかけようという本能がある。それは脱兎の如くその場から逃げだしたユクエも動くものに当てはまる、本能と好奇心に従い、ジョンはさらに嬉しそうに一声鳴き、己の本能に従い逃げるユクエ目がけ走り始だした。
―――こうしてユクエとジョンの逃走劇の幕が開けるのだった。
そして話はアルフの居る檻の前まで戻る。
彼は目の前のゴールデンレトリバー、ジョンとにらみ合うように構えていた。ユクエは自ずと理解したのだ、へたに動けば取られると。あの興奮冷められないであろうジョンの猛攻を止められる手段は自分にはない。
ではこんなところで止まらず逃げればよかったのではないか?と思うが、情けないことに彼は日々の運動不足のせいか呼吸することすら苦しくなり、グロッキーになってしまったのである。
だが、そんな彼にも収穫はあった。
逃走の最中、犬の散歩に使うようなリードを見つけたのだ。流石に失礼だと自分でも思うのだが、とりあえず失敬しここまで持ってきたリードを左手に握りしめる。
「後でバニングスに謝らないとな……」
屋敷の中を走り回ってしまい、かなり迷惑をかけてしまった。いくら秘密を隠すためとはいえ失礼なことをしてしまったということは自覚している。この犬の首輪にリードを取り付けてから謝りに行こう。
心にそう決め彼は意を決するように彼はジョンを見据え、半歩足を広げるのだった。
―――何しているんだこいつら……。
一方でそんなユクエを奇異の視線を見ていたアルフは、この状況のあまりの不可解さに頭が痛くなった。本当に訳が分からない。フェイトの友達だっていう彼が、なぜ今どこにでもいるような犬とにらみ合っているのだろうか。しかも犬の方は、遊んでくれるの?!とばかりに気色の感情を見せている始末。
わんっ!と犬が少年へ飛びかかる。
大型犬さながらの大きさの犬は、軽く飛び上がっただけで容易くユクエを覆えるくらいの大きさにな、彼へ迫る。だがユクエは鬼気迫るような表情を浮かべ「うおおっ……」と叫びながらその場を離れるように飛び、前転しながら地面を叩き起き上がる。
右手を頭に乗せていること以外は綺麗な飛び受け身だが、なぜこの場面でそれをする理由が不可解すぎた。
「ハッハッハッハッ………」
着地した犬は舌を出しながら息を吐き出している。その様子を見たユクエは得意げに微笑をもらし、確信する。勝てる……、と。一体、彼は何を相手に勝とうとしているのかは本人以外知りようもないが、はたから見ているアルフにとって、本当に意味が分からないやり取りだった。
しかし、ユクエを暫し観察していた彼女は、偶然あることに気付いた。
―――こいつ、ほんの少しだけど……魔力がある……。
フェイトと比べるまでもない量だが、ギリギリ感じ取れるくらいの魔力が彼にあった。フェイトの魔力が25メートルのプールほどの大きさだったのなら、ユクエのはポリタンク一つくらいの量だろう。
つまり比肩する必要が無い程の脆弱な魔力だが、全くないよりはいい。
なにせ、魔導士が用いる通信手段、念話が使える可能性が出てきたからだ、正直アルフ自身もユクエのような無いに等しい魔力量しか持っていない相手に念話をするのは初めてなのだが……。
というより……。
―――これ、今念話しちゃっていいのかな……。
本人は至って真面目に犬と向かい合っているのを邪魔してもいいのだろうか。
いや、今の彼女にとって一刻を争う事態だ。傷を癒すという彼女にとって歯痒い時に現れた彼はフェイトとを助ける為の助けになるかもしれない。フェイトの友達であろうこの少年ならば、あの鬼ババアにあった彼ならばきっと助けてくれるはず。
だからこそ、今の自分には犬と戯れている少年を見ている暇はない。
彼女は念話を飛ばす、今まさに犬と睨みあいを続けている少年へ―――。
『ちょっとあんた!』
「っ!?」
この時、アルフはあることを失念していた。
魔力がほぼないに等しいユクエへどう念話が伝わるのかを……。伝わる筈の言葉は言の意味を無くしただただ雑音として彼の頭に届く。そう言うなれば、脳を震わせる直感めいたものへと。
「わふっ!」
その時不運にもジョンは動いた。犬としての本能がユクエの致命的な隙を無意識について飛び掛かる。
普通の状態ならば避けられただろう、しかし念話により生まれた致命的な硬直が彼の判断を鈍らせた。
ユクエはジョンののしかかりを真正面から受け止めてしまった。ゴールデンレトリバーが小学三年生へのしかかる、そのあってないような異様な状況の中、芝生の上に叩き付けられた彼が見た光景は―――
今まさに自分の顔へ顔を近づける犬……ジョンの姿だった―――。
少年が犬に顔を舐められている。
その微笑ましい光景とも思える光景に、アルフは罪悪感のようなものを抱いていた。
何せ、今犬に舐められている少年は「うわああああ、やめっ、あぶ、きぇぇ」と恐怖の叫び声をあげ必死に抵抗しているのだ。犬の方は元来人懐っこい性格なのか、じゃれつくようにユクエの顔を舐めていた。
―――これ、あたしのせいなのかな?
正直自覚がないと言えばうそになるが、誰もこんな事になるとは思わないだろう。むしろこんな状況になるとはふつう思わないだろう。
次第に少年の声が小さくなったことに一抹の不安を覚えながらも、現実逃避気味に逸らしていた視線を彼に戻すと、白目を剥いてしまった彼が力なく横たわっていた。
―――なんか、ごめん。
思わず謝ってしまったアルフだが、彼にとっての悲劇はそこで終らなかった。
何を思ったのか、ユクエを舐めていた犬は唐突に彼の髪の毛を食み引っ張ったのだ。これには流石のアルフも「あっ」と声を上げた。流石に犬の力で髪を引っ張られれば大変な事になるのは分かっている。
しかし、予想と反して髪はするりと彼の頭から抜ける―――全部まるごと。
露わになる彼の秘密、光沢のある頭皮をまじまじと見ることになったアルフは暫しの絶句の後、腫れものを見る様に目を背ける。
―――………ごめん。
理解してしまった。
彼が何故必死に犬の猛攻を躱していたのかを。
「わぉん!」
―――あ。
彼の髪を食んだジョンは尻尾を振りながら、何処かへ走り去ってしまう。残されたのはカツラをぶんどられ白目を剥き顔をべたべたにさせた少年のみ。
最初とは別の意味で困惑しながら、どうしたらいいか悩んでいると犬が走り去ってしまった別方向から、三人の少女が彼の元にやってくる。一人は彼女を助けてくれた少女と、もう一人は見知らぬ少女、そして最後の一人は彼女にとって因縁浅からぬ少女、高町なのはだった。
彼女らはカツラを取られ気を失っているユクエの元へ駆け寄ると、顔を青くさせ口元をを押え、彼を抱き起す。
「ユクエ……っ……なんて、酷い……」
「こんなのっ、あんまりだよ……」
「護れなかった……」
悲壮に駆られるように嘆く彼女等。だが、すぐさま彼を芝生に寝かせると意を決したように立ちあがり、犬が逃げて行ったであろうその方向を見る。視線の先には、少女達を見て楽しそうに尻尾を振り、カツラを咥えている犬の姿。
「……待っていなさい。直ぐに取り戻してくるわ」
「手伝うよ」
「……うん」
並々ならぬ決意と共に犬の方へ駆け出す三人の少女達。
結局、気付かれぬままに傍観に徹していたアルフは、高町なのはの肩から降りたと思われるフェレットと視線を合わせたその後に、形容できない表情と思いと共に思い切りため息しながら、今日二度目になる言葉を吐き出した。
―――もう、本当に……訳が分からないよ……。
―――本当にね……。
この後、彼女達の奮闘によりカツラを無事、ユクエが気絶から目覚める前に戻すことに成功しようやくアルフとの会話をすることができた頃には、一匹のフェレットとアルフはほんの少しだけ仲良くなるのだった……。
(U^ω^)<遊んで!遊んで!!
((( ;゚Д゚)))<こいつ、狙ってやがるッ。
犬に負ける主人公でした。
でも小学生の身体で大型犬はわりと恐怖。