「……」
陽乃さんの言葉に何も返せない。
何かをしないといけないという衝動に駆られる、
目の前の儚い涙を流す彼女に対して。
しかし俺の中の目を背けてきたものがその衝動を抑え込む。
お前はまた過ちを繰り返すのか?と
「出ようか…」
「そうですね…」
俺は無言で着いていくことしか出来ない。
図書館の出口を出て中央のエントランスから階段を降りると、
途端に外気の冷たさに触れる。
吸い込まれそうな青すぎる空は俺を身震いさせる。
その空の先が見通せないからだろうか。
まだ春は遠い
ー何から逃げようとしているのですか?ー
と思わず口に出して聞いてしまいそうだった。
「本当に大事な事はその人に聞いてはいけない」
いつか聞いた言葉を思い出す。
「旅に必ずしも目的は必要ではないでしょう。別に旅自体が目的でも」
辛うじて口から出たのはそんなつまらない逃げ上戸だった。
「ただ何から逃げようとするのは違うと思う」
前を歩く陽乃さんは後ろで手を組みながら
振り返らずにそう言う。
何が違うのだろうか…。
逃げることの何がいけないのだろうか。
「旅には目的地が、何かを成し遂げる目的が無いとね…。私はあのネズミに憧れるんだよ」
「目的ってそんなに大事ですか…?」
「どこかに到達するのが旅じゃないかな?ただ彷徨うだけなら旅とは言えないよ」
彷徨うだけ…。
陽乃さんからそんな言葉が出たことに少し動揺してしまう。
いつもなら、ぼっちを生かした気の利いたセリフを返せるはずなのに。いつもの比企谷八幡なら言えたはずの言葉が何故か出ない。
少し歩いて、息を吸って、前を見据えてから俺は言う。
「一歩でも遠くに行くために」
その声はこの青い空に吸い込まれそうな矮小ものだった。
「遠く?」
「ここから、自分のいる場所から一歩でも遠くに行くため……ではだめですか?」
陽乃さんは立ち止まり少しの間黙ってから
「相変わらず君は優しいね」
笑って振り返る。
そうして俺の前までやって来てポケットに手を入れたまま
俺の胸に頭を押し付ける。
「ところで、満足どころか泣かせてるんだから罰ゲームだね」
「今日は一緒に居て」
××××
世界は不変で人生は一寸先は闇である。
炉端の蟻んこを見下ろしその小ささを嘲り笑っても、
世界からしたら自身の小ささもさほど変わらない。
一瞬で、ほんの些細なことで
目の前は変わってしまう。
忘れたころにいつも思い知らされる。
炉端の蟻と何ら変わりないことを。
自身の矮小さを。
と、自意識高い系の畔けりに想いふけっていたが
あくまで現状からの逃避であった。
なぜこんなことになったのだろうか?
さっきから続く沈黙と微妙な空気。
鼻腔をくすぐる甘い柑橘系の香り。
自分の心臓の鼓動が耳障りなくらい大きく聞こえる。
唾を飲みこむ音が相手に聞こえそうだ。
顔が、手が、自分の体表面の体温が全て
数度上がったような気がする。
今の状況をありのまま説明するぜ。
①魔王とネットカフェに行く
(千葉中央駅直結の高そうなホテルに連れて行かれそうなのを何とか止めてもらった結果、二人でゆっくり過ごせる場所でこうなる)
②カップル席に入る
(とりあえずピザを頼むと何故かサラダが付いてくる)
③適当に漫画や映画を見る
(陽乃さんは雀〇シリーズを見ていた。)
④魔王とアダルトチャンネルを見ている ←今ここ
③と④の間にいったいどんな世界線の移動があったのだろうか?
はちまんワカンナイ…。どんなノスタルジアドライブだよ。
始めは興味深々で見ていた陽乃さんもいつの間にかマジマジと見ながら
「へ~」「ほ~」「痛そう~」「気持ちいいのかな?」
「八幡もああなの?」とか聞いて来るし。
終いには
「私処女だからね~」
とか聞いてもいないことをさらっと言ってくる始末。
確か図書館までけっこうシリアスな展開だった気がするが…。Rのタグが無いので見ている映像の詳細は描写できないが、まあそれなりの一般的なノーマルな方のやつだろう。年上の綺麗なお姉さんシリーズらしい。
「八幡はどんなのに興味あるのかな~?」
八幡も男の子だからそういうのに興味無いことは無いし…。俺のパソコンファイル「哲学者への道」のことを思い出す。
ちなみに、音は出せないのでイヤホンを片耳ずつで聞いている。ただでさえいろいろまずい状況なのに、距離が近い、近い。
「八幡食べないの?」
陽乃さんがさっき取ってきたソフトクリームを差し出してくる。
「いただきます……」
コーンに乗ったソフトクリームが食べれるとはネットカフェは何でもありだな。マッカンも常備して欲しい。受け取るときに陽乃さんの手が触れてその暖かさに思わずビクついてしまう。
その瞬間、ソフトクリームの一部が落ちて俺の手の甲に付く。
しまった、何を慌ててるんだ俺は。
何か拭くものを探そうとするー
が
陽乃さんが俺の手に付いたソフトクリームを舐め取った。
陽乃さんが、
俺の(手に付いた)
ソフトクリームを、
舐め取った!
「これ……八幡の味がするね」
アダルトな映像をバックに飛びっきりな妖艶な笑顔。
その艶やかな唇にわずかに残るソフトクリーム。
捕まれた手から伝わる熱。
俺を下から見上げる魔王の瞳。
な……んだと……?
いや、待て、まずいってばよ。
八幡のはちまんがエイトビートを突発してさらなる高みに、そうまさにハーレムビートに到達しようとしている。
最早エアウォークをしてしまいそうだ。
「少しもらうね~」
そう言って俺のソフトクリームを食べ始める陽乃さん。
いやいやあなたの分あるでしょうに。
「さすがに冷たいもの食べると冷えるね~」
そう言って俺に寄りかかる陽乃さん。身体の柔らかさと暖かさが服の上から伝わる。
五感のほとんどが陽乃さんに占拠され、思考はほとんど機能していない。
魔王には敵わない。
こうやって過剰なスキンシップはいく束の男を死地へと送ったのだろうか。村人の俺なぞ瞬殺だろうに。
ふと、
自分の鼓動ともう一つの鼓動を感じるが、
その鼓動は
自分のよりも早いような気がする。
「陽乃……さん?」
「しばらくこのままで……」
寄りかかった陽乃さんの顔が伺い知れないが感じる鼓動と暖かさはそれ以上を必要としないだろう。
アダルトな映像もいつの間にか終わっていたようで再び静かな沈黙が訪れる。二人で使っている膝掛けの暖かさを感じる。
「ネズミは本当に旅をしているんでしょうか?」
「え?」
「いえ、そのあの絵本ですけど。あの旅はあのネズミにとっては旅では無く単なる日常の延長では無いのでしょうか?」
「日常の延長?」
「果たしてあのネズミは旅をしている自覚があるのかなと思いまして。旅が永く続いて、目的地に着かなくて、それが当たり前になって」
「ただ歩いているだけなの?」
「上手く言えませんが、そういうのを全て受け入れた上で旅をしているのではないでしょうか?生活の一部として。だからあんなにも堂々と何事にも動じない……」
いつもの俺の言葉では無いことは分かっている。
本音を隠して相手の裏を探るお得意の会話も魔王には意味を成さない。
詭弁でも無く確さも無く真実では無いこの会話に確固たる意味は無いのかもしれないが、
「ありがとう。でも、もういいから……」
俺を見上げる陽乃さんの顔は目と鼻の先。
潤んだ瞳はゆっくりと閉じられ俺の肩に手が置かれる。
俺はー