Re:DOD   作:佐塚 藤四郎

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教授と王子の邂逅 改筆了 21.9.26


2.「邂逅」-5

     5

 

 

 

「そろそろ行きますか、教授」

 

 床に屈みこんでいたちゆりが革トランクの腹をポンッと叩いて立ち上がると、水兵帽をはたいて被り直し、私に語り掛けてきた。

 雑然としていた研究室はすっかり片付いてた。棚に飾っていた私物の類は消え失せ、パイプ椅子やパーテーションの類は部屋の隅に寄せられている。机上にこんもり堆積していた書類と文献の山はフォルダーで整理され、棚に整頓されていた。

 研究室は異動して初めて入った時のように小奇麗サッパリしてしまった。天井の蛍光灯の光が部屋全体へ均等に降り注ぎ、空間全体が少し明るくなった気がする。しかし、天井ってこんなに広かったのね。

 

「ちゆり、何も退去が決定した訳じゃないのよ?」

 

 キャスター付き回転椅子に腰掛け、クルクル回りながら問い掛ける。これではまるで私の退去が確定したものみたいじゃない。

 

「何言ってんです。退去で済めばまだ良い方ですよ。情報機密の為に退去させねぇことだって有り得ます。現状ですら研究職は軟禁みてぇな状況なんです。監禁くらいワケねぇですよ。その辺分かってんです?」

「だぁいじょうぶ。まぁかせて!」

「着の身着のままで本丸に突撃カマした後によくもまぁ言えますね……」

 

 ちゆりはゲンナリした様子でこちらを窺う。そんな日もあるさ。

 心配は杞憂だと思うのよね。私は"岩"の研究そのものに一切携わっておらず、私がいないと研究が立ち行かないという状況でもなければ、私だけが掴んでいる情報や手掛かりというものもない。研究に参加できれば、それこそ他者に無い知見を得ることも有り得たかもしれないが、今の私の内にあるものは、主任が把握しているだろうものの域を出ないのだ。機密として漏れ出る程のまともな情報は無く、機密と言い張るには夢物語としか受け止められないだろう仮説しかないのだから。

 それに、主任はどうだか知らないけれど、他の研究員は私を酷く恐れている。それが出て行くとなったら、彼らは別れに俯きがちに得も言われぬ笑顔で見送ってくれることであろう。

 いや、一つ、嫌な予測が無い訳では無いのだけれど。

 

「ウ=ス異本的な事は流石に無いと思うのだけれど」

「退去なら問題ねぇです。それでも出て行くの急かされるは嫌なんで予防線です」

「ウ=ス異本な展開だったら無駄にならない?」

「無視してるのをゴリ押さねぇで下さい。なんです。欲求不満ですか」

「いや、私ってこんな(なり)じゃない? 捕まったらあの手この手で実験動物(モルモット)にされそうだなぁ、なんて」

「ご存知でない? それ、人体実験って言うですよ? 今の今までにその手の要求は無かったんです、今更でしょ」

「私ならこんな格好の獲物放っておかないのに……」

「獲物の言うセリフじゃねぇですね。この国は自由と民主主義を謳ってますから。一応。教授と違って手順や行儀ってのを理解してて品が良いんですよ、たぶん」

「晴海文書に予言サレシ描写だとね」

「耳年増と処女ビッチ、どっちでもいぃですよ? なんなら合体させましょうか?」

「うーん。そうね、」

「悩むな拒否れ。何があるか分からねぇ時は逃げるに限ります。ほら、最低限の荷物だけ纏めましたから。持ち込み私物ほとんど無ぇですし、(ぜに)なんかの貴重品は身に着けてるので替えの服ばっかですが。教授はほんとに荷造りしねぇんです?」

 

 ちゆりが近付いて、私の傍ら、かつて書類が占拠していた机に腰掛ける。

 ちゆりはさしてこの手の危惧はしていないようだ。確かにその通りではある。第二の預かりではないが、回収された"竜"も研究の対象となっているでしょうし、第二(ここ)の"岩"、『壁』の変異感染者、方々の隔離所の感染者達。他人からすれば優先すべき研究対象は他に幾らでもあるのだ。

 些か自身の視点に寄り過ぎていたようだ。私のようなもでも、一度自室で準備を整えてからとなると頭も冷えて、今からマズい事を行うことに緊張するものがあるらしかった。私一人ならそんなこともなかったのだろうけど、ちゆりもいる以上うまく事を運ばなければね。助手に凭れ掛かりっぱなしなのは教授としては減点だ。

 

「私は身軽だからね。必要な物はちゆりが纏めてくれてるでしょう? なら、私にはマントとちゆりがいれば充分よ」

「教授。私ら、今から"岩"見に行くんですよ? おーけーです?」

 

 あからさまな私の物言いに胡乱気なちゆり。腰掛けた姿のまま、ただただジト目で見下ろしてくる。私の正気を窺うように顔を覗き込んで、子どもをあやすように語り掛ける。この助手、すっかり覚悟が決まり切っている。

 研究室の掛け時計を見ると、残り三十分足らずで長針と短針は時計の頂上でかち合う時刻となっていた。

 

「おーけーです。行きましょうか」

 

 ちゆりの言葉に意を決して椅子から長い後ろ髪を揺らして立ち上がり、マントの上から更に白衣を着用する。着るといっても袖は通さずに肩掛けに羽織るだけ。私の様子を見てちゆりは白衣へと袖を通しきちんと着用している。実験を行うでなし観察のみ予定なのだから適当でも構わないのに、まめな性格だなと内心綻ぶ。白衣は支給された既製品で、成人を想定した規格であるためか、18と15の私達には少々大きい。ちゆりに至ってはてるてる坊主も斯くやたる惨状である。拝んでおこうかしら。

 

「明日は、良い天気になりそうね」

「拝むな。地下暮らしの私らには関係ない、こともねぇかもな話ですが」

「俺たちに明日はない、なんてね」

「死の舞踏(バレエ)がお望みならソロでどうぞ」

 

 部屋を後にしつつ、(うやうや)しく拝む私の祈り手をちゆりが(はた)く。もったい付けた軽口は景気付けの食前酒のようなものだ。

 機会としてはまたとない絶好のものだ。千藤主任は23時頃に官邸へ再召喚をかけられ帰還が遅れる旨の連絡があったことを所員達の会話で確認している。再召喚であるあたり、大方、"岩"に対して朗読会や音楽鑑賞会など、他機関と大きく異なる方針を取っていることへの説明だろうか。無理も無い。他所が分析、解析で四苦八苦している中でのこの所業だ。

 その事を考慮すると、外野の圧に屈することなく独自の実験方法を進めているのは、主任も中々どうして骨があるようだ。昼の会話で国立超自然第二研究所にも圧力があるようなことを言葉端に零していたが、きっと無関係ではないでしょう。やれしかし、あの眼鏡。門外漢のお歴々がたへの説明とか出来るのかしら。経歴は知らないが、どうにも教壇に立つことに喜びを見出していたクチではなさそうだけれど。

 

「教授ー。電気消しますよ」

 

 その一言でトランクを手にして軽い足取りで出口にまで跳ねたちゆりは照明の電気を消した。いや、忠告じゃなくて報告なのね、教授ビックリ。

 まぁ、願わくばこの部屋の電気を再び灯すことが出来ますように、そう思う事にしよう。

 

 

 × × ×

 

 

 羽織っただけの白衣と自前の赤外套をはためかせながら、照明の無機質な灯りを冷たく反射させるリノリウムの床を踵で鳴らす。

 最下層の最奥、"岩"の実験室がある層まで何の障害も無く着いてしまった。温湿度管理が行き届いているらしく、外は梅雨の頃にも関わらずこの階層の空気は乾きっており、肌寒さを感じるのは照明の冷たい色の所為なだけではないのだろう。

 この最下層、実験棟ならぬ実験階層に立ち入るのはこれが初めての事であったけれど、NBC対策の防護服、エアロック等のものが本当に無いというのは、何とも奇妙に感じられた。誰しも白塩化症候群の発症は恐れる所でしょうに、"岩"からは感染しないとの確信があるのだろうか。

 白塩化症候群患者が確認され出したのは【6.12】から3~4ヶ月の期間が空いてのこと。災厄当初はこの期間を潜伏期間と見る説もあったが、遠方から新宿区に初入りした後、ひと月もしない間に発症した事例もあり、今やその見方は懐疑的だ。崩壊した"巨人"や全身塩化で死亡した感染者、殺処理された変異感染者らが遺した白い粒子、いわゆる『塩』と称されるものが感染源であると見られている。その見解に私個人としても相違ない。とはいえ、これだけが感染の全てではないのだろう。『エリコの壁』で防衛に当たる人員は塩塵舞う環境での活動を余儀なくされる。当然、必要な感染防護策を講じてはいるだろうけれど、完全とは得てして難しいもの。それだのに、良い事であるのには違いないが、『壁』からは新規の感染者はただ1人も確認されていない。遍く粒子を完全にシャットアウト出来ていた、なんてのは楽観に過ぎるだろう。『壁』が出来たのは昨日今日の話ではないのだから。

 他の感染者がそうであったように、何かトリガーあるいはスイッチのようなものが新宿区にいると働くのかもしれない。――――それこそ、意思、のようなものが。こんな調子だからオカルトだのと揶揄されるのでしょうね。けれど、"巨人"と"竜"はあの日、新宿にやってきた。その行動に、そうせんとする意思が無かったと、どうして言えるのだろうか。その魂の、心の、意思の存在者の不在をどうして言えるのだろうか。

 

「……儘ならないものね」

「ちょっとだけカッコよかったですよ?」

「でしょ?」

「今どのへんかご存知で?」

「……次の十字を真っ直ぐね」

「分かってんなら良いです。せいぜいスッ転ばないことです」

 

 どうにも漏れていた声がちゆりが茶化すように返す。いつの間にやら相当進んでいたようだ。記憶の経路図を思い描き、周囲の様子から現在地を割り出すと、"岩"のある部屋まで僅かとなっていた。

 思索の中で意固地になっても仕方がない。防護処置うんうんに関しては、単純に人体実験で概ね確認したか、現在進行形でここにいる所員らが人体実験の被検体かもしてないなと結論付けて思考の隅に追い遣った。

 道中、他の研究職や警備に足止めを食らうかと思ったのだけれど、ちゆりの様子を見るに呼び止められることすらなく、何事も無かったようだ。ともあれ、"岩"はこの十字路の先、この場からでも見える白く金属質な扉。その扉一枚隔てた向こう側に在るという。

 歩みは止まらず、十字路を越え扉の前に私は立ち尽くす。何の障害も、何の問題も無く、辿り着いてしまった。何とも平凡な出会い。これでは向こうに本当に"岩"が、世界を変えてくれるものがあるのか、何処か嘘っぽく、非現実に感じてしまう。

 

「ねぇ、ちゆり。帰る?」

「は? いやいや、何言ってんです?! すぐそこですよ、それに行く言ったの教授じゃねぇですか」

「いや、そうなのだけれどね……」

 

 言い淀む私の様を見て、ちゆりは声音は驚嘆のものから小悪魔的な愉悦が混じったものに変わる。

 

「もしかして、怖気付きましたぁ?」

「もしかしたら、みんなでドッキリしてるんじゃないかって思う訳よ。実は"岩"なんて在りませんでした! 残念! なんて、教授堪えられない……」

「こっちがビックリで堪ったもんじゃねぇですよ! 何か考え込んでるなとは思ってましたが、そんなワケねぇじゃねぇですか。おら、さっさと行きますよ」

 

 正直に話したが一蹴されてしまった。ちゆりの小さな私の手をグイと引く。暗がりに沈み込んでいた気分と共に重くなっていた身体を引っ張り上げられる。

 引っ張られながら扉脇の掌紋認識端末に手を翳すと、登録抹消等はされていなかったらしく白い鋼鉄の自動扉は認証の電子音と微かな駆動音を鳴らし、道を開いた。

 

 

 × × ×

 

 

「な―――、に、あれ……?」

 

 その声が自身のものだと気付くのに暫しの時間を要した。

 道の先にあったのは、間仕切りの無い大部屋。

 室内は中央を除き、最低限の光量が確保されるのみで仄暗い。部屋の隅には陰が溜り、部屋の輪郭そのものが朧気な感覚を覚える。室内には計器の類が雑然と並び立ち、それらからは幾多のコード、ケーブルの束が血管のように床に敷き詰められ、薄暗い闇の中でメーターやランプの赤や青、黄、緑と様々に色鮮やかな光点が灯している。

 微かに聴こえる音楽は、――――そう、実験内容にあったものだ。ワーグナーの舞台祝祭劇『ニーベルングの指環』四部作の四作目に当たる『神々の黄昏』。経過観察の為に再度干渉の為に再生された音源から、オペラとオーケストラの旋律が調和して部屋全体を包み込んでいる。

 酷く冷たい人工的な空間であるのに、闇に光、音楽が合わさって超自然的な神秘を感じてしまう。宇宙をキュッと小さくしたら、きっとこんな感じなのだろうかなど、学者らしくもない思いを抱いた。

 そしてなにより、その神秘を放っているのは部屋中央にいる存在。直径5m程の透明な強化アクリルガラスの円柱状カプセル。そのカプセルとその中身が四方より光に照らされている。

 その空間、林立する計器の群れと透明な檻の向こう側に"()()"がいた。白い繭のような膜の中に"人間"が、影の如く揺らめく黒い"人間"が膝を抱いて浮いている。

 ――――アレは何? あれを研究員共は"岩"と評したのか?

 だとしたら、ここの研究員は全員、角膜どころじゃない、眼球ごと移植手術を受けさせるべきだ。さもなくばクビにした方が良い。あれはどう見ても"人間"じゃない。

 そんな時、傍らにいたちゆりが感嘆を挙げた。

 

「おー、あれが"()"か。何と言うか、名状し難い感じですね。しかし、ほんとに真ん丸なんですね。転がらねぇよう底にストッパーが付いてますよ」

 

 今、この子は何と言ったか。言葉を慎重に選び、音に紡ぐ。

 

「……ちゆり。貴方はあれが"(いわ)"に見えるのね?」

「は? 敢えて名状するなら"岩"で差支えねぇと思いますが、――――教授?」

 

 ちゆりが顔を覗き込んでくるも、仄暗くてその表情は窺えない。

 なるほど。眼球を疑うべきなのは私の方らしい。ちゆりには見えていない、なるほどどうして。私には、見えているわ。あら、これは全く解らないわね。あぁ、解らないわ。さっきまでの、平凡な出会い、かもだなんて、とんでもない。これは素晴らしいわ。あぁ、素敵。これならきっと世界を、変えてくれる。

 

「――――授、教授! 一体どうしたんです、急に黙って行くんじゃねぇですよ!!」

 

 後ろから聞こえた声に振り返ると、ちゆりがバタバタとコード類を踏まないように、慎重かつ器用に足場を探しながら此方に向かって来ている。

 私はと言えば何時の間にやら"人間"のすぐそばまで来てしまっていた。足が自然とカプセルの方に向かっていたようで、私の足跡は引き摺られたコードの束達と道程に落ちている私の白衣が物語っていた。少しはしたないことをしたと反省するも、仕方のないことだ。何せ、丘の向こうと思っていた存在が、今此処に、目の前にいるのだから。

 私と"人間"を隔てるものは透明なカプセルのみ。カプセルに両手を突いて凭れながら、上から下へと委細注意して観察する。白い繭、黒い人間、膝を抱くその姿はまるで胎児のようにも見えた。

 溢れ出る歓喜と執着に酔いどれながら観察していると、"人間"の左手首に光るものが浮かぶのが見えた。

 

「―――カ。―――イ。―――ム?」

 

 4つの文字が光を放ち浮かんでいた。

 記号のような文字。仮名でも漢字でも、アルファベット、アブジャド、デーヴァナーガリーでも他のどの文字でもない。現代人が使う中には存在しない文字。似ているとすれば『天使文字』。12世紀頃、魔術師と呼ばれた人間達が暗号に用いていたとされる文字に良く似ている。だが、そんな知識に頼った解読ではなく、私の脳は自然とその文字を受け入れていた。

 

「―――カイム。それが貴方の名なの?」

 

 問い掛ける。反応らしきものは無い。"人間"は膝を抱いたまま漂っている。だが、確信があった。この"人間"の名はカイムなのだと。心がどうしようもなく騒つき、熱いものが込み上げてくる。

 ……カイム、応えて、応えろッ! 応えろッ!!

 

「―――カイム、カイム」

 

 呼ぶ。名を呼ぶ。何度も、何度も。何度でも。心の声は小さな呼び声となり、小さな呼び声は次第に大きくなっていく。

 

 ―――カイム、カイム、カイムカイムカイムカイムカイムカイムッカイムッ!!

 

 応えて、応えて、お願い。貴方は今、丘にいるのでしょう。私も其処に行きたいの。この丘の内側の世界じゃなくて、貴方という存在がいる場所の先を見たいの。新しい世界。未だ見ぬ世界。私はウェンディではないし、ましてピーターパンでもない。誰かが勝手に連れて行ってくれるだなんて期待しない。だけど私は諦めない。新しい世界を、夢の国だなんて言わせはしない。私は飛べもしない人間。だったら、走って、歩いて、這ってでも辿り着いてみせる。夢の丘の先を見る為なら、世界にも常識にも足掻き抗い続ける。……だから、お願い、お願い応えて。こっちを見て、私は、私は此処に在る。私も、私も丘の先(そこ)に行かせろッ!

 

「――――カイムッ!!!!

 

「夢美」

 

 誰かが岡崎夢美の名を呼ぶ声に我に返る。

 呼吸を忘れていた肺が酸素を求めて悲鳴を上げ、酷く呼吸が乱れる。右手をカプセルに突いたまま膝を折って座り込む。動悸する胸を左手で胸を押さえるとブラウスに深い皺が出来た。

 

「『カイム』。それがこれの名前なんですね」

 

 傍らに来たちゆりが屈むように私の背をさすりながら、確かめるように言葉を紡ぐ。その顔は照明の明るさもあってかはっきりと見えた。呆れるような、安堵したような顔。その手のあたたかさはマント越しにも確かなものとして感じられ、私の内で熱暴走していたものを宥めてくれた。

 

「……そうよ、これはカイム。人間の形をした解らないモノ」

「"人間"……、岩太郎じゃねぇんだな、夢美?」

「ふふ、そうね。ありがと」

「ま、伊達に教授の助手はやってねぇってことだぜ」

 

 ちゆりはそう言うと立ち上がって落とした水兵帽を拾い上げ、(はた)いて被り直し、カプセルの周りを回っては目の前の存在の観察を始めた。

 ほんと、私はダメな教授ね。熱に浮かされて随分とはしたないというよりも情けない様を晒してしまった。ともあれ、落ち着いたわ。これからどうしましょうか。

 そう思いカイムを見ると、その姿に変化があった。胎児のように折り畳んでいた肘膝を伸ばし、二本の脚で立ち上がっていた。そして、その両手をあたかも剣でも構えているかのように頭上に振り翳し上げる。

 

「ちゆり、こっちに来なさい。離れるわよ」

 

 酷く嫌な予感がする。この変化が定期的に起きていたものなのか、今突発的に起こったものなのかは観察不十分なこともあって予測が付かない。だが、あの中の"人間"は何かをしようとしている。

 

「どうしたんですか、教―――」

 

 ちゆりが不思議そうな顔で此方を向いて問い掛けてきたが、その先は聴くことは出来なかった。

 原因は、轟音と衝撃。

 "人間"がその両手を振り上げきった瞬間、その手の内から剣のような物が突如として出現し、白い繭を内側から貫いた。そして、その巨大な剣を真下へと振り下ろす。その瞬間、途轍もなく轟音と衝撃が起こった。剣が振り下ろされた床は粉砕し、頑丈なはずの透明アクリルガラスのカプセルは振り下ろしの衝撃波で破砕した。周囲の林立して計器の幾つかも衝撃につられてなぎ倒れる。

 床に座っていた私も例外ではなく、その衝撃に襲われ身体を仰け反らされる。そして、腕で顔を覆いながら覗く視界の端には、転がってゆく白く小さな体が見えた。

 

「――――ちゆりッ!!」

 

 破壊が収束し、静寂した室内。明滅する光点は消え、音楽も止まった空間を駆ける。

 衝撃に当てられ、おぼつかない脚の所為で幾度か床のコードに転ばされるも、すぐさまに駆け寄る。ちゆりは衝撃で吹き飛び、計器の一つにぶつかって止まっっていた。

 その小さな身体は力無くぐったりとしていたが、その手にはトランクを握り締めたままであった。意識を失っているちゆりの手を取る。脈は、ある、身体も擦り傷打ち身こそしているが、大事は無さそうだ。

 

「よかった、」

 

 無事でよかった、本当に。それに、意識を失ってもトランクを離さないなんてね。まったく。さすが私の助手よ、ちゆり。

 さて、どうしてくれようかしらね。いや、どうしたものか、か。

 安堵や恐怖、歓喜、怒りが心中に渦巻くも、その一切合切無視する。邪魔なだけよ。動作と同時並行で思考を巡らせろ。止まるな、止めるな。

 どうする、何が問題だ。この状況、研究所も"人間(カイム)"も脅威だ。設定すべき条件は何だ。前提条件は第一にちゆりと私の安全。次点で目の前の存在の研究。手段はどうする、どうする。脳は思考を加速させ、一つの最適解を叩きだす。

 意識の無いちゆりを背負い、トランクを手にする。背負った少女の身体は軽いはずだが、意識を失っていることもあってか少し重く感じられた。これが今私が背負っているものの重み。大切な重さを自覚した。

 得た解答を胸に、トランクを手に、ちゆりを背に破壊を齎した存在と対峙する。

 向き直ると右手に大剣を携え、全身が影のように黒く揺らめいている"人間(カイム)"がカプセルから一歩出た位置から此方を静かに見ている。割れた繭は何処かに消失していた。その繭に満ちていたのであろう赤黒い液体が流れ出でて、砕かれたカプセルの内を血のような水で満たしていたが、その水も蒸発するかのように消えてゆく。

 待ってくれていたのかしらね。獣のように即座に襲われないのなら、見た目通りの人間なのなら、まだ活路はある。

 

「こんにちわ、いや、こんばんわかしらね。――――カイム」

「――――!」

 

 カイムとはこの存在の名のことで間違いないのか、明確な反応と共に一歩近づいてきた。うん、反応は上々ね。名には反応している。名以外の言葉まで通じてるかは不安だけど、変異感染者とは違って言葉を解すだけの理性あるいは知性はあるようね。だけど、ご免なさい。考える暇はあげない。

 

「よくもちゆりを、って復讐したいところなのだけれど。あぁ、ちゆりっていうのは今私の背にいるこの子ね。カイム、貴方の所為で気絶したみたい。まぁ、事故って事にしてあげる」

「…………」

「貴方が何者なのかは知らない。興味尽きないのだけど、此処に居たら私達は身動きが取れなくなる。貴方は、私に興味がお有りかしら。カイム」

「…………」

 

 言葉による応答は無い。だが、此方を注視している辺り、聞いていない訳ではないのだろう。なら、言葉を続けるだけ。

 

「カイム。私は貴方の名を呼んだ。呼んでしまった。何故だなんて誰も知らない。誰もがその訳を知るために私を追うでしょう」

「…………」

「私達は逃げる。逃げるしかない。私達が無事逃げられたら、貴方と、貴方の片割れ、なのかしらね。私達が"(the dragon)"と呼んでいるものについて教えてあげるわ」

「――――――!!」

 

 名前を再三読んだり、同じ単語を繰り返したりと意志相通に相応に気を払っていたが、思った以上に言葉が通じているようだ。"竜"、ドラゴンという言葉にカイムは過敏に反応して、また一歩近付く。回収地点が同じであった"竜"と"岩"、ドラゴンとカイム、何かしらの繋がりがあると見て良さそうね。だけど、

 

「今はダメ。私達は逃げないといけないから。もし、興味がお有りなら、東京タワー、……といっても分からないわね、貴方達が墜ちた赤い塔にいらっしゃい。外苑東通り国道319ご……東。東に行きなさい。東の赤い塔」

「…………」

 

 東の方向を指差す私を見てカイムは頷いた。その動作があまりに人間的でどうにも可笑しかった。どうやら、この"人間"は黒々しいなりをしているが、ちゃんと()()のようだ。

 

「―――それでは、またお会い出来ることを祈ってるわ。カイム」

 

 最低限の伝えるべき情報を伝え、私は実験室の出入り口にある、幾つもの蓋で覆われていたスイッチの蓋を外し、力強く押した。

 けたたましいサイレンと真っ赤な警告灯が寝静まりかえっていた研究所を叩き起こす。今頃、警備に研究員、他の職員はおろか所外でも大混乱しているだろう。並の警報なんて先の馬鹿みたいな破壊の折にとっくに伝わっている。その上でのこの非常警報は、実験室内に置いて敵対存在の発生危機を伝えるものだ。この混乱に乗じて逃走する。カイムがどうなるかは賭けだ。未知の何かに関わった人間、変異感染者は通常の人間と兵器を圧倒する。それに先の破壊力、分の悪い賭けではないでしょう。囮にして悪いとは思うけど、ちゆりを傷付けた罰よ。ちゆりの無事が確保出来るように注意を引いてくれることを祈っているわ、本当に。

 ―――祈る。物理学者は何に祈るのかしらね。取り敢えずはあの"人間(カイム)"にでも祈っておきましょうか。

 私たちはカイムを部屋に残し、真っ赤になった研究所を疾走した。

 

 




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