Re:DOD   作:佐塚 藤四郎

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長くなりそうなので分断投稿。
(改)分断していたのを統合 統合了21.9.20


2.「邂逅」-3

     3

 

 

 階段を上り、白を基調とした無機質な廊下を抜けると、幾多もの丸テーブルと椅子が雑然と並ぶ開けた空間に着いた。

 ここは研究所としての最上階、地上一階にある食堂。箱物としてはさらに上層階が積み重なっているが、そちらはほとんど使われていないという。

 秘密の地下研究所というのは如何にも、な感じがして非常に胸が躍る。最終的には研究所丸ごと爆破して全て地中に沈める……というのは、パンデミックホラーのド定番、王道だろう。そういった話が実際にあったわけではないが、あからさまに上物(うわもの)を他の用途にも使わず、実験範囲と研究者を地下に限定させているあたり、隠す気もないのでしょうね。安全対策、非常時を考慮しているあたり、自身の属する組織が正気であることは喜ばしいことだ。

 大きなガラス戸からは現代風なオブジェや青々と茂る木々、遠くにそびえる『壁』の風景が望め、差し込む自然光が網膜を心地よく刺激する。

 この食堂は研究所に勤務する職員、研究職に警備、その他の職員にまで広く利用に供されており、地下暮らしの引き籠り生活な研究員らにとっても気分転換の貴重な空間である。

 研究員には個別の研究室が宛がわれてはいるけれど、研究所住み込みの仕事の為、研究室と銘は打っているものの、"研究"よりも"生活"の要素の割合が高い空間となっている。そんな事情もありプライベートを気にせず多人数が一堂に会することが出来る食堂は、コミュニティスペースとしても用いられている。

 地下にもミーティングルームは配置されているのだけれど、セキュリティー管理の都合とやらで、研究所内での飲食は基本、食堂か自室でしか認められていない。その事も食堂(ここ)に人が集う要因の一つとなっている。

 大きな干渉実験が終わった後だからだろう、中にいる人達の白衣の数は普段よりも多く見受けられる。

 

「さて、私の想い人はどこかしら」

 

 私の研究室の隣、『千藤 汽笛』とネームプレートが掲げられた研究室は先に赴いて、扉をしつこくノックしたが返事は無かった。

 気配も無かったし、室内で「ただのしかばねのようだ」にでもなっていない限りは食堂(ここ)にいるでしょう。そんなナチュラル不謹慎な事を思っていると、傍らのちゆりに肩を叩かれた。

 

「お、教授、ほら、あそこ。あそこに居るんだぜ」

 

 ちゆりが指し示す先、ドア窓の向こう側に探していた顔があった。

 痩身長躯の男性。白髪交じりの黒いオールバック。四十半ば程の顔に眼鏡を掛け、眉間に皺が寄せている男。間違いない、千藤(せんどう)(呼称仮)主任だ。

 ―――ふふん。さて、どう登場してあげようかしら。

 意気込んで来たはものの、流石にスパーンッ!と格好良く入る気分ではない。研究所に移りたての頃、ブチ上げのテンションのままにやらかし、食堂内にいた所員さん達を縮み上がらせてしまい、私と他所員との距離が物理的にも精神的にも()()開くこととなった。その後にちゆりからの小言のオマケ付きというダブル役満。

 兎も角、余計な騒動は此方としても願い下げ。同じ轍を踏まぬよう気を付けましょうか。

 

 開けた扉がギィと小さく唸る。

 ちゆりには堂外で見てるよう伝えたので、入るのは私一人。

 私がその空間に足を踏み入れると、周囲の視線が私に向けられ、堂内の空気が俄かに(ざわ)めきだす。

 うん、知ってた。うん、全然っ、傷付いてなんか、いないんだからっ!

 本当に気にしていたらキリが無いので、一切合切無視して、男の方へと歩を進める。

 

「こんにちは、主任さん」

 

 脇から明るく穏やかな社交スマイルで語り掛ける。

 先ずは軽いジャブ。

 いきなり実験参加の嘆願をしても、取り合ってもらえない事は目に見えている。止まっているモノを動かそうと、最初から大きな力でぶつかっても反作用で自身が跳ね返されるだけ。心にかかる力、言葉の大きさ、方向を理解しなければ。

 先ずはこの男を会話の土俵に立たせ、会話の流れの糸口を…。……。………。

 圧倒的沈黙。

 この男、まさかの真スルー。

 千藤(せんどう)(仮)主任はこちらの事など気付いていないかのように、左手に持った書類の束を注視したまま、右手はロボットアームの如く決まった動作でカレーライスを口に運んでいる。

 反応は、勿論のこと、無い。

 お、おちおっお、落ち着け、落ち着くのよ夢見。まだ慌てるような段階じゃない。

 ここで暴れても仕方がない。折角、実験が一段落して相手の気持ちに余裕が出来ている今こそが好機。今を逃せば、また研究だの、実験だのと言い様にあしらわれてしまう。

 押してダメなら押し倒す。ゆっくりと、されど確実に。

 

 思考を整理した私は、男の脇を抜け、対面の丸テーブルの椅子を曳いて対面に腰掛ける。

 男はそのまま一定の動作を続ける。並々でない集中力、研究者としては若い年齢で主任を任されるだけあって、優秀な人物なのは間違いないのだろう。

 休憩時間の終了までまだ時間はある。私の空き時間はもっとたっぷりある。

 ここは待ちの一手と決め込み、しばらく男の様子を観察していたら、首からゆらゆらと垂れるものに目が行った。

 

 『職員証:千藤(ちとう)汽笛(きてき) 主任研究員』

 

 送り仮名(ルビ)の振られた職員証。それを見て腑に落ちていくもの感じる。

 そう、そうだわ。チトウよ。砂糖でも果糖でもないわ。ちゆりはセンドウと呼んでいたけれど、微かな違和感があった。それがこれか。

 悲しいかな、所内でハブられている私と他の研究員との関わりは素粒子レベルに希薄。会話中に出た名前を見聞きする以前に会話がほぼ無い。出たとしても"千藤(これ)"の呼称は基本『主任』で通っている。私は研究チーム発足時、研究員の顔見せの会合で名を一度聞いていたけれど、ちゆりはその場にいなかったものね。それに、ちゆりにとって情報源たる各個人研究室のネームプレートにフリガナは無かったわけで。

 うん、うん。そうか、そうか。と一人勝手に満足していたら、食べ終えたのか、水の入ったグラスに手を伸ばす千藤(ちとう)主任と眼が合った。

 少し間を置き、男は空いた食器をテーブル端に少し寄せ、椅子に腰掛けなおす。

 

「……岡崎研究員。何を、いや。何のようだ」

「あ、いえ、美味しそうなカレーだなと」

「そうなのか。それで」

「千藤主任に少し用事があったのですけれど、集中されていたようで、邪魔するのもあれかと思いまして」

「そうか。報告書か、相変わらず早い」

「ええ、こちらに」

 

 膝上に載せていた書類封筒を手渡す。

 淡々とした会話。敢えて本題を持ってくるのは避ける。似たようなのを行動心理学では何と言ったか。確か、"foot(フット) in(イン) the() face(フェイス)"? ―――違う、絶対違う。これだとただの顔面キック。何かが足りないような、多いような。

 

「第65次干渉実験、望ましい成果は得られませんでしたね」

 

 私の発言に千藤は姿勢そのままに、眼だけを報告書から私に向け、赤瞳に視線を交錯させた。

 有象無象が恐れるこの赤を、目も晒さず、静かに見ていた。

 

 

 × × ×

 

 

 この千藤汽笛(ちとうきてき)は変わった男だ。

 

 変わっていると言っても、私が彼の人となり何なりを詳しく知っているわけではない。

 知っていることを列挙すれば、物理学の研究者であること。四十半ばで研究者として学会で実績と名を挙げていること。この国家レベル研究の一つの主任研究員に任命されていること。人格等にまで言い及ぶなら、物静か。口数が少ない。食堂ではいつもカレー。そんなところ。

 ただ、私が彼にあるイメージというのは一つ。

 

 "嗤わなかった"ことだ。

 

 

 2003年3月某日―――。

 

 開催された春季物理学学会。私が発表した一つの論文。

 集大成として世界に提示した、新しい世界と摂理。

 

 『非統一魔法世界論』

 

 世界を観察し、記録し、再現していると常に付き纏ってくる"何か"。

 世界を観察していると、今の我々が摂理、因果等と呼んでいるものらでは理解出来ないもので溢れている。

 十の中ではまだ見えない。百も、千もまだまだ。万に、億に、それ以上のデータになって漸く顔を覗かせてくる、法則のようなソレ。

 ―――人は言う、ソレはバグだと。

 ―――人は言う、ソレはイレギュラーだと。

 そんなバグとイレギュラーの集積。そんなボタ山と評されるソレに、どうしようもなく惹かれた。

 研究者は解明せずには、知らずにはいられない人種。しかし、それはまた人間の本能なのだと思う。

 人間は知らないモノを恐れる。

 視界を白に焼き潰す閃光を神と、決して見通すこと出来ない深淵を悪魔と、丘の向こうや押入れの隙間、視えない心それらを纏めて魑魅魍魎と呼ぶように。

 知らないから、知ることのできる次元に落とし込める。

 本質すらも平気で捻じ曲げる。

 

 私は違った。その視えないけど、其処にあるソレが欲しい。

 怖くてこわくて、だけど知りたくて欲しくて堪らないソレ。

 どうか真理(ソレ)が、(コレ)を証明してくれますように。

 

 そんな想いから出来上がった一つの論文。

 魔素と名付けた粒子―――。魔力と名付けた力―――。魔法と名付けた現象―――。

 バグとイレギュラーの果てに存在する新世界証明。

 

 そんな"新世界"は世界によって蹂躙される。

 学会発表の場で巻き起こったのは、人間の嘲弄嘲笑の渦だった。

 よく出来たファンタジーだと、夢物語だと、やはりまだ子供だと、その理論は有り得ないと、観客達は嬉しそうに、さも愉快気に嗤う。

 彼らは何を言ってるのだろうかと。

 聞こえるのは、私への人格攻撃と論文の存在の拒絶ばかり。

 私が視て信じるものの存在は認知すらされず、否定さえされない。

 誰も、誰彼も、私の世界を『非統一魔法世界論』を見ていないかった。私は無意識に奥歯を噛み締めていた。

 

 大口を開けて嗤う人間達の歯の白と舌の赤さが浮かぶ世界に空白が一つ。

 其処には一人の男が眉間に深い皺を刻み込み、只管(ひたすら)に沈黙していた。

 その男は最前列中央、私の正面に座っていた。黒髪のオールバック。縁なしの楕円眼鏡。その奥の切れ長な目は瞑目している。

 備え付けの机に両肘を突き、口元で手を組んで俯く姿は、眠っているようにも、祈っているようにも見えた。

 

 ―――どうしたの、あなたは嗤わないの。

 

 有象無象が起こす小さな雑音は反響と同調を繰り返し、大きな不協和音となり会場が鳴動する。

 私の声は大海に放られた小石。水面(みなも)に打ち付け小さな波紋をつくっても、すぐさま大波掻き消される。聞こえるべくもない。

 受け入れられなかったモノは仕方がない、と。この"論文(世界)"は本物だと、私が思える。それで充分だった。

 それよりも、―――何故、彼は嗤わなかったのか。

 そのことばかりに感興を覚えた。

 

 卑しい歓声が冷め遣らぬ中、議場を退場する。扉が復元力に従い徐々に閉まりゆく中、会場を一瞥すると男と眼が会った。

 今と同じように、姿勢を崩さず眼だけを此方に向け、この赤目を凝視していた。

 扉のドアクローザーの油圧が高いせいか、自身の意識が深く集中していたせいか、扉の締まりゆく速度は極めて緩慢に感じられた。

 男に見詰められた私が男を見詰めるその瞳に私が映る。

 このまま見詰めていれば心中渦巻く疑念に答えてくれそうに思えて。

 互いに目を逸らすこと許さず、逸らすつもりもない。

 (ほど)けない視線は強制的に絶たれ――――――そして、扉は閉じられた。

 

 

 その後、"岩"の研究の為、国立第二超自然研究所に配属される多分野の研究者が招集、会合する場が設けられた。

 いつぞやの学会で挙げた私の悪名は語り草となっているようで、私の事を知る者は嗤い囁き、知らない者は明らかな面倒事と赤い瞳を避けて遠ざかった。

 そのような中、やはり彼だけは嗤わず、遠方からこの赤目を見つめ、眉間に深い皺を刻み込んでいた。

 

 この千藤汽笛(ちとうきてき)は変わった男のままだった。

 

 変わったと云えば、私からの彼の認識が代名詞()から固有名詞(チトウ)に変わったことと、千藤の黒のオールバックに白髪が目立つようになったことだけだった。

 

 

 × × ×

 

 

「その、ようだな」

 

 千藤は赤目を凝視しながらも、何の感慨も籠っていないような平坦な調子で応えた。

 

「主任さん、そんなに熱烈に見詰められると照れてしまいますよ」

「そうか」

 

 千藤は短く端的に言葉を発すると、赤瞳から目を離し、報告書の束に視線を戻す。機械的な動作で書類の角を指先で弾いては捲り始めた。

 ふと周囲に目を向けると、小煩い騒めきは遠退いていた。

 私と千藤が座る丸テーブルを中心に人的真空が形成され、他の研究員達はそのバッファーゾーンの外へ自主的に弾き出される。遺憾ではあれど、私の赤目、未知の危険の可能性、それに思い至れる頭があるならこれが普通の反応だとも言える。

 ともあれ、食堂という共同コミュニティスペースで、他者に気兼ねすることなく会話が出来るスペースが確保できたのはありがたい。別段、会話を秘密にするつもりはなかったのだけれど、遠慮なく使わせてもらおう。

 

「主任さんはこの目が怖くないので?」

「どうだろうな」

「あまり見つめられていると感染するかもしれませんよ?」

「視線で感染する、そのような報告は無い」

 

 報告書の確認の片手間に応える千藤。

 千藤主任はこの場で報告書の確認を済ませようとの腹積もりのようで、その間の世間話程度には付き合ってくれる雰囲気だ。研究者の世間話は当然、研究にまつわるものだ。髪の話はオジサマが多い学会界隈ではセンシティブであるし、定番の天気の話題を振ろうにも我々研究者は基本インドア、それも活動中心は地下だ。天気のての字もない。

 

「あら、つれない。赤目と言えば、白塩化症候群について新しい報告がありましたね。白塩化症候群の発症時に『死亡』するか『凶暴化』するかは遺伝子レベルで決定される可能性。あまりつれなく当たられると、私の遺伝子の中の秘められしパゥワーが目覚めて凶暴化してしまうかもしれませんよ?」

 

 最近報告された変異感染者の調査の話題を振る。内容としては興味深いが、遺伝子差別を助長させかねない、あまり行儀の良いと言える代物ではなかった。

 

「白塩化症候群と感染者は我々の研究対象ではない。埒外のことだ。……その報告は捏造だ」

「さすが主任さん。お耳が早い。しかし、捏造というのは初耳ですが何か根拠でも?」

「論拠が『回収した感染者に、一部染色体の異常が多く見られた』などではな」

「塩化した人間が健常時のままであるとは考えにくいでしょうね。染色体の異常が事実だとしたら、それはそれで脅威ですけど。それだけで奇病の因果を語るには乏しいでしょうね。報告する前に思い至りそうなものですが」

「感染性の奇病、という扱いだ。それを預かる国立感染症研究所など権威ともなれば、……上からの期待は相応にかかるものだ」

 

 他人事ではないが。千藤主任はそう付け足すように呟くと、グラスに手を伸ばし、出かかった言葉を呑み込むかの様に水を一口静かに呷った。そこには捏造が故意的である可能性が言外に含まれているように見えた。

 上からの圧力に駆られた現場の暴走の可能性を考慮したが、仮にそれがあったとしても、組織を守る安全機構(セーフティ)が働いて、この手の不祥事が表に出ることは、そう無いだろう。少なくとも、千藤主任がそう言ったように、埒外の私達にまでこれほど早く話が出回る事は無いはずだ。とすれば、より上位の、いわゆる政治的判断というやつの可能性が見えてくる。

 日本国政府は他国から奇病の原因解明の追及を受けて続けている。とは言え、全くの未知に対しての研究は芳しくない。そうなると他国、この場合は同盟国でない国、から研究への付け入る隙を与えることになる。それら他国からの当座の追及を躱す為に、成果の一つとして捏造報告を上げた可能性はありえそうだった。捏造だとしても偽装や隠蔽の類でなく、原因の可能性の提示であれば、その後、誤りであったと判明しても幾らでも身の躱し様はあるだろう。遺伝子差別を生み兼ねない論拠も、いたずらな情報の拡散を抑えさえ、追試での確認を慎重にさせて時間を稼ぐには丁度良い方便、というのは流石に邪推というものかしら。

 しかし、世間話がとんだ陰謀論に大変身。勘の良いガキは嫌われるもの、下手なことを言って藪蛇なのはゴメンである。

 

「まったく、宮仕えはツライものですね」

「他人事か」

「失礼。現場の人間でないもので、つい」

 

 話し込み過ぎて気が緩んでいたのか、軽い悪態をついてしまう。内心ヒヤりとしたけれど、千藤主任は気分を害するわけでもなく、静かに鼻息を鳴らしただけであった。他の所員同様、主任にも厭われているものとばかり思っていたが、そうでもないのかもしれない。単にこの男が極めて割り切った性格なだけであったり、自身の希望的観測に過ぎないのかもしれないのだけれど。

 

「以上か。雑談がしたければ君の助手とするがいい」

 

 一瞬、報告書から逸れた主任の視線を追うと、食堂の扉の陰から見慣れた水兵帽と逞しいツインテールの片割れがチラチラと覗いていた。ちゆり、あなたは隠れているつもりなのでしょうけど、果てしなく無意味よ。

 しかし、目敏いな千藤主任。主任、目敏い。

 

「いえ、実験について少しだけ。18の干渉実験はどれも鳴かず飛ばずでしたね」

 

 本題に持ってきて反応を窺うも変化は無い。

 千藤主任は何構わず機械じみた所作で報告書の確認作業を続けている。こちらも構わず続けることにする。

 

「物語の読み聞かせにクラシック音楽鑑賞。童話から三編を多言語での読み聞かせに、音楽はドヴォルザークにワーグナーですか? 何時から科学者は劇作家や音楽家になったのでしょうね。本当、儘ならないものですよね。いっそのこと思い切り叩き割ってみるのは如何です。案外、"岩"から生まれた岩太郎とか生まれるかもしれませんよ」

 

 淡々と報告書の端を弾いていた千藤主任の指が一瞬止まる。

 あら、釣れた。けど、どこに喰い付いたのか。

 

「童話が人魚姫と白雪姫、灰かぶり姫と姫系に集中してますが、これのチョイスは"岩"が姫萌えという学術的判断なんでしょうかね。それとも主任さんのご趣味…」

「割れるものなら、既にやっている」

 

 食い気味で千藤が閉じていた薄い唇を開いた。

 

「そうでしたわね、つい」

 

 再び出かかった毒をぐっと抑え、相槌を打つ。

 そうね。アレに対して常識的なアプローチが通用するのならば、どんなにラクなことか。

 視線を食堂のタイル床にちらと向け、思う。

 "岩"はこの食堂の地下深く。研究所の最下層の一室で今も眠っている。

 調査開始から僅かひと月、研究は行き詰っていた。と言うのも、"岩"に対しては如何なる物理的干渉が通用しなかったからである。

 私はデータでしか確認出来ていないが、熱や圧力、流量、光、磁気その他外界からの干渉を"岩"は受け付けないとのこと。内部を調査しようとX線や超音波を用いても、波動が"岩"の外殻部で干渉遮断されているとレポートにあった。他の干渉も同様"岩"の外殻部で全て干渉遮断されているようで、加熱しても冷却しても一定の温度を保ち続け、光波や電磁波を照射しても波動は遮断。圧力を掛ければ装置の方が破損する始末で、"岩"本体からは組織の一片すらも採取が出来ていない状況だ。

 計測出来た数値は直径約1.85m、重量約75kg。"巨人"や白塩化症候群患者の塩化部に類似した白色結晶質の球体。表面温度35℃程で推移。一定の間隔で振動を"岩"側から片方向に放っている―――と、その程度の情報。実質"正体不明(no data)"のままだった。

 しかし、そんな残念極まりない情報はここの研究員であれば知っていること。この男が反応して、親切にも間違いをわざわざ指摘するような要素ではない。

 だとすれば、発言の内容ではなく、どうして発言したのかこそが重要。

 

「主任さんは"岩"(あれ)、何だと思います?」

「何とは、含意に富み過ぎる」

「色々な説が飛び交っていますよね。便宜上は"岩"と呼称してはいますけど、あれは岩石や鉱物の類ではない。【6.12】から回収されたアレ。未だ外部から干渉を拒み続けている。それは逆に外部から一切のエネルギー供給を受けていないという事。それなのに"岩"は回収されてからの間、変わらない温度を保持し続け、振動を、いや脈動を放ち、活動している」

「それがどうした」

「無尽蔵なエネルギーって感じですよね。国は白塩化症候群や感染者の為にって研究させてますけど、本当は新エネルギーを解明して世界を牛耳りたいとか考えてたりして」

「それは一介の研究職でしかない我々が考えるべきことではない。政治談議なら他所ですることだ」

「失礼、話が逸れました。つまりは"巨人"の心臓だとか、"竜"の卵だとか、好き勝手に言われてますよねって話です。私的には結構まじめに岩太郎推しなんですけども」

「―――何が言いたい」

「最初に申し上げた通りですよ。主任さんも"岩"(あれ)が、いや"岩"(あのコ)が唯の物質ではない。そうお考えなのでは、と」

「…………」

 

 千藤主任は沈黙し、報告書の束を見る目を僅かに細めた。未確認の報告書頁は残りわずかにまで減っていた。

 岩太郎の名前こそ思い付きから出た戯言であって、発言の核は別にある。

 他の研究機関の例にもれず、物質の性質や現象の解明解析、基礎研究から始まった第二研究所の仕事は、他の研究機関の例にもれず早々に行き詰まった。"岩"への積極的干渉実験も開始されていたがひと月程で、干渉アプローチは物理的なものから精神的なものへと変わっていた。研究員達自身、持っていた科学的常識を使い果たしてしまったというのもある。何より"岩"に対する認識が、他の研究員がどうかは知らないけれど、この千藤主任の中で変わりつつあったのだろう。実験案は各研究員から提案されるものであるが、それらに対して、最終的なGOサインを出すのは研究所の責任者である主任研究員の千藤汽笛だ。

 彼もその石仮面の内側では思っている、思わずにはいられないのだろう。

 

 "岩"は、生きているのではないかと。

 

 割った中に何かいるのか、あの球形全体が一つの形態なのか、はたまた全く別の何かなのかは判然としない。ただ学者の直感がそう告げるのだ、アレは物質ではなく存在である可能性を。だからこそ、彼は沈黙している。この沈黙は肯定だ。

 暫しの沈黙が空間を支配する。

 すっかり沈黙してしまい、途切れてしまった会話。

 そんな澱んでしまった流れを戻そうかと思っていたら、

 

「アレは、人智の及ぶものでは無い」

 

 千藤主任は遠く、虚空を見るような眼をして言葉を紡ぐ。

 

「干渉不可な以上、調査の仕様が無い。あれを解明できる理論を、今の人類は持ち合わせていない」

「……なら、新しい視点が必要なのでしょうね」

 

 小さく吐いた。

 小さくも、私の本懐、本心が込められた言葉。

 その言葉の裏の真意に目敏く気付いたのか、千藤は間髪入れずに返す。

 

「駄目だ」

 

 その言葉を無視し、被せるように言葉を重ねていく。途切れさせはしない。

 

「どうです、私を実験を加えてみては。私が招集された理由の一端は、多分にあの論文を発表したイロモノ枠でしょう」

 

 ―――丘の向こうを見る為には足を進めなければ見える世界は変わらない。

 

「許可できない」

 

 ―――貴方はきっと怖いのでしょう。今ある常識が、世界が壊れることが。

 

「訳の解らないモノを研究していた研究者に、訳の解らないモノを研究させれば、何か解るかもしれませんよ」

 

 ―――丘の内から見える世界で満足していたい。だけど、

 

「報告書は確認、受領した。次回の報告書を待つ」

 

 ―――丘の向こうへの道筋は私が示したじゃない。

 

「岡崎2003『非統一魔法世界論』。貴方は嗤わなかったわ」

 

 ―――嗚呼、駄目ね。こんなのは素敵じゃないわ。

 

 

 静かな言葉の応酬はそこで途切れた。

 氷河の様な冷たい静謐。

 私は瞑目して静かに息を吐き、やってしまったなと自己嫌悪に浸る。

 熱に浮かされるがまま言葉を吐き続けた。交渉のつもりで、あれやこれやと考えを巡らしていたのに結局はこうなった。

 最後の言葉は他者が聞いても理解出来ない内容。いや、この男にしても過去に邂逅していたことなど記憶の彼方になっているかもしれない。

 閉じていた瞼を開くと、虚空に向けられていた男の視線が私に向けられていた。

 その目は切れ長の目は、睨むでもなく、唯々、静かであった。

 

 

 × × ×

 

 

 食堂に備え付けられたスピーカーが、時限のチャイムを鳴らす。

 千藤主任は書類封筒と空食器の乗った盆を手に席を立つ。

 そうね、これ以上は無駄でしょうね。―――でも、

 

「一つだけ、訊いてみても」

 

 席を立った彼は、首を振るでも頷くでもなく、静かに見下ろしていた。黙っているその姿は「続けろ」とでも語るようであった。

 そうだ、明確に言葉にしてもらわなくては。仮説は実証してこそ、その正当性を示す。

 

「あなたは、『非統一魔法世界論』を信じているの」

「……君の理論を私は用いない。それが答えだ」

「だったらどうして、あの時、あの場所で、あなたは嗤わずにいたの」

「一つと言ったはずだ」

 

 千藤主任はそう言い残し、席を離れていく。

 

「そうでしたね、失礼しました」

 

 私も席を立つ。そのまま、立ち去ってゆく男の背に静かに言葉を吐いた。

 

「諦めませんから」

 

 一瞬、千藤主任は歩みを止めたが、振り返ることなく、そのまま食器盆を返却口に置き扉から出て行った。

 

 

 × × ×

 

 

 休憩時間が終了し、まばらに残ってた数少ない人も退出して各々の持ち場に戻っていく。その人流に逆流して此方に向かって来る小さな影があった。

 

「想い人への告白は上手くいったか?」

「残念。友達のままでいましょうって言われたわ」

 

 そう、交渉は見事決裂。

 それも、今までは研究だの、実験だのとで先送り、はぐらかされていたのとはワケが違う。明確な否定。僅かな期待のようなモノを抱えていただけに、流石に凹むものがある。

 身体を動かしたわけでもないのに酷く疲れた。

 

「友達と呼ぶ間柄ですらねぇでしょうに」

「ちょっと?」

「聞きましたよ、主任さんのお名前。珍しく他人(ひと)に興味持ったかと思えば、名前間違ってたとかガバガバじゃねぇですか」

「ぐ……、けどそこは『教授、大丈夫ですか』とかじゃない? 慰められる用意と心構えはできてるわ。さぁ」

「教授、大丈夫です。あまりに暇だったんで、お昼ごはん持って来ましたよ」

「ちょっと?」

 

 ちゆりは良い笑顔で右手を掲げる。

 その手には研究室で見たビニール袋をぶら下げられていた。

 一瞬、この子の中で『お昼ごはん>私』の図式が出来上がっているのかと思い、私はサンドイッチ以下の存在なのかと軽く絶望する。

 

「昼休憩終わってんです。ダラダラ居座ってたら片付けされる方の邪魔です」

「それなら自室でだって」

「もうご飯持って来てんです。それに、ずっと地下生活なんてキノコ生えますよ。陽の光浴びてください」

「わかりました、降参、こーさんです。向こうのウィンドウシートにしましょうか」

「窓際席ですか、良いですね。教授的で」

「あらあら、それはどういう意味かしら」

「頑張れって言ってんです。らしくない。お好きなのどぉぞ」

 

 ちゆりは素っ気なさそうに言うと、いただきますと呟き日本式食前礼を簡易に済ましてサンドイッチを頬張る。全くしっかりしている。私の方が3つほど上のはずだが、そうは感じさせないしっかりさだ。しかし、美味しそうに食べるもので、その様を見ていたらこちらまでお腹が空いてくるというものだ。

 

 

 × × ×

 

 

 昼食を摂り終え、風景を眺めながら紙コップ自動販売機の紅茶を啜るのんびりとした時間。

 千藤汽笛への直談判で脳は相当疲弊していたのだろうか、苺サンドの甘味と酸味は味覚に濃く感じられ、糖分が脳に染みた。

 食堂内の人間は私とちゆりだけになっていた。

 他の職員、他の研究者であれば、研究だの経過観察だのと各々にこなすべき業務があるのだろうけど、私の決められている業務は報告書の編纂、作成のみ。次の第66次実験が開始するまでは、考察するような情報も、纏めるべき報告も無い。

 消化吸収の為、血液が脳から消化器系に集中し、代わりに不足していた糖分が脳に補給されていく。止めの陽気な日差しコンボが差し込んでくるわけで、意識は確実にダイバーダウンしていった。

 

「教授、結局何を話してたんです? 遠目には静かなもんでしたが」

 

 広く静まり返った食堂の一角で、血液濃度の低下した頭をうつらうつらさせていたら、隣で同じく紅茶を啜っていたちゆりが訊ねてきた。

 何を、か。そう言われると、何を話していたのだろうか。抗いがたい睡魔に半分降伏していた私は、机にうつ伏して頬に机の心地好い冷たさを感じながら応える。

 

「何だっけ。主任さんは姫萌えなのですかとかー、岩太郎とか」

「はい?」

 

 何言ってんだこいつ? の副音声まで聞こえた気がした。

 いや、訊いておいてその反応はどうなのよ。まぁ、気にせず続けるのだけど。

 

「あー、あと政府の陰謀論とかかしらね」

「あーはい。もう結構ですよ。どうにもまともな会話じゃなさそうなんで」

「あとは"岩"は単なる物質でなく存在かもねで見解が一致したわ」

「待って。それってどういう事ですか? というか、そんな大事そうなことは一番に言って下さい」

「それに彼、『非統一魔法世界論』を用いないと言い切ったのよ? 酷いと思わない?」

「ストップ! ストップです教授! それは残念無念ご愁傷様なんで、一つ前に戻ってください!」

 

 柔らかい陽射しの中、薄らいでいく意識の中、お口から記憶垂れ流しにしていたら、ちゆりの琴線に触れるものがあったのか、席から飛び上がると私の方を掴んで起きろとばかりに激しく揺さぶった。

 彼女は私の助手ではあるが、それと同時に一介の研究者だ。興味を惹かれるのも解る。解る、解ったから揺らすのや、止め…ッ! 起きる、起きるます!

 

「うぅ…、それで何だったかしら。"岩"がどうかしたの」

 

 モソモソと居住まいを正して、一息。酸素を取り込み、脳をしかと働かせる。

 

「どうかしたいのはこっちのセリフですよ。"岩"が何か解ったんですか?」

「いいえ、解らないわ。いや、解らないことが判った、とでもいうのかしらね」

「話がよく見えてこないのですが、それは」

「ふふん。私の講義は高くつくわよ、ちゆりくん!」

「一 回 で 良 い ん で ブ ン 殴 り、」

「よよっ、よし! じゃあ、ここで視点を変えてみましょう! ちゆりは白塩化症候群の変異感染者についてどこまで知ってるかしら?」

 

 腰だめでキュッと拳を握り込むちゆり。その大きな金眼が睨むとそれはそれは迫力がある。美人は怒るとコワいとはよく聞く言い回しであるが、なるほどなと思わされれる。

 

「変異感染者? "岩"でなく? ……現時点で分かってることを言えば、白塩化症候群を発症した者の内、『死亡』には至らず『凶暴化』した個体です。『塩化』に加えて『赤目』の形質を獲得し、人類に敵対的な反応を示す人類の敵って感じです。この『凶暴化』と『塩化』と『赤目』の程度は、個体差有りの但し書きは付くものの、概ね相関するものとの見方が強いですね」

 

 ちゆりは私からの問いに僅かに疑念を抱いたようだが、即座に思考を切り替えて能う限りの答えを列挙する。流石の思考の柔軟性ではある。ただ切り替えが早過ぎたのか、拳構えた姿勢そのままウンウン考え込んでいるのがなんとも可笑しい。

 

「2004年9月の事件。政府要人が新宿区で変異感染者に殺害されての報道。あれで国内での変異感染者の認知と、新宿封鎖の世論が形成された事で『新宿封鎖計画』に踏み切れた事を思えば、万事拳王が馬ってやつかしらね」

「塞翁が馬な。世界の現状、世紀末に向けて坂道転げ落ちてる感無くはねぇですが。しかし、月の頃までよく記憶してますね。主任さんの名前はすっぽ抜けてたのに」

「他の所員なら名どころか顔すら怪しい自信あるけど?」

「おぅ、威張るとこじゃねぇんですよ」

 

 せいっ、ともっともらしい声と共、チャージされていたちゆりの拳が飛んでくる。飛んできた拳は軽く緩やかであったが、食後の弱い脇腹に刺さり「うっ」とも「んっ」とも「むっ」とも付かない情けない苦鳴が漏れた。

 ちゆりは満足したのか、席に腰掛けなおし、紙カップに入った紅茶の水面を見詰めて続ける。

 

「その事件報道もですが、変異感染者という観点に絞るなら、事件以降も新宿区封鎖域に意図的に残っていた報道系が変異感染者に襲われた映像の方が影響は大きい気がします。映像がインターネット上に出回ってますから、誰でも見ようと思えば見れるのは大きぃですよ。百聞は一見に如かずってやつです」

「突如ネットに流出、拡散した経緯的に、揉み消し指示からの反発、リークじゃないかなんて騒がれてたわね」

「そこはなんとも。映像記録に残された、並の変異感染者と異なる個体の姿と、犠牲者らの被害状況が、前線で変異感染者と対峙してる方らの間で噂話として広まっていた変異感染者の習性や性質と合致。今の相関見解の大本となってます」

「犠牲者らが『壁』設置前から封鎖域に入って活動を続けていたとなれば、最低でも1か月、変異感染者だらけの新宿封鎖域で生き延びていたことになるわね」

「……すごい、バイタリティですよね」

「彼らは、世界の誰よりも変異感染者の危険度と習性を理解していたでしょうね。そんな危険を躱し続けてきた猛者達を襲撃したと言う事実。『赤目』の顕著化、『塩化』部の巨大化など外見の変化のみならず、症状が進行した変異感染者個体の人類への敵対性、身体能力を含む『凶暴化』の評価が改められる切っ掛けにもなった。英雄と呼んで申し分ないと思うわ」

「―――えらくはっきり称賛しますね。賛否あれど、封鎖域で活動していた犠牲者らを自業自得と非難するのが当時の主流でしたけど」

「それでいいのよ。模倣者が出て来るのは、彼らの望む所ではないでしょう」

「……何が、彼らをそぉまでさせたんでしょうか」

 

 そう零したちゆりの顔はどこか寂しそうな顔をしていた。亡くなった者達のこと悼んでいるのだろう。それは美徳ではあるが、この先、決して優しくない世界で、研究者として在り続けるには不安にも思えた。

 何の慰めにもならないが、一つ無駄話をすることにしよう。研究者と言うのは無駄話しないと死ぬ生き物なのだから、仕方がない。

 

「これは完全な憶測だけれど、彼らは、既に白塩化症候群に罹患していたのでしょうね」

 

 私の発言にちゆりは紅い水面からこちらに豆鉄砲を食らったような顔を一瞬向けると、そのまま視線を自身の視覚左下に寄せる。深く思索を巡らせているようだ。

 発症しても、即『死亡』や『凶暴化』するわけではない。死亡率は100%ではあるものの、その始まりから終わりまでの経緯には個人差がある。人は己が死を自覚した時、何を思うのか。

 彼らの遺した映像は、手振れの酷い、突如録画を開始したと思しき状況から始まる。始まりの時点でどこからか、男のものとも女のものとも付かない絶叫が木霊している。カメラマンは取り乱す様子も無ければ、安否を確かめるようなこともなく、無言で絶叫の方向、塩塵舞う路地に画面を向ける。

 およそ尋常の精神状態ではない。おそらく、事前に取り決めていたのだろう。この映像を見た者の多くは先の絶叫を『悲鳴』と呼んだが、それは主観に過ぎる。客観に見るなら『絶叫』であるし、視界主の行動、精神を察するにこの者は『断末魔』と理解したに違いない。私達の悲鳴は誰にも聞こえない。地獄にいることを理解している、行動がそう示していた。絶叫は止み、路地からは大きな影が覗かせた。

 ―――並の変異感染者は、その呼称の厳つさと、死亡事故被害の脅威度の割に見た目は普通の人間と大きな差はない。それこそ人権団体が変異感染者への武力行使にデモを起こしたり、その手の議論を呼ぶ程度には、人間の共感性を誘う形をしている。

 けれど、そこから現れたのは全身が塩化部で覆われた出来の悪いデッサン人形のような姿形をした存在であった。体高は推定2m程、手足の比率が常人と大きく異なり、特に腕部が長く直立姿勢でも手が地面に届く程。映像流出当初は、人間以外の何かの可能性も疑われていたが、この存在の塩化部体組織に生前の感染者が身に着けていたであろう衣服の一部が巻き込まれていたことと、赤目の共通項から、変異感染者に連なる個体であると断定された。

 その白い巨体の赤い双眸がこちらを向き襲い掛かる。映像は逃げて投げ出される所か、ブレることすらなく対象を捉え続け、悲鳴か、断末魔か、雄叫びか、故の知らない絶叫を最後に残し映像は途切れる。

 

「事実なら、彼らの評価は改められていいかもしれませんね」

「そうね、彼らの献身的な行いは美化、正当化され、他の感染者が尖兵にされるでしょうね。自らの行いのおかげで」

「……なるほど。模倣者、は出したくないでしょうね。自身も感染者であったなら尚更」

「やりたいからやった。覚悟も決まってた。尻拭いもきちんとした。立派よ。ちなみに頃合いは同年12月初頭ね。なに、クリスマスまでには帰れるさ」

「教授、それ死亡フラグってやつですよ。あぁでも、彼らも言ってそうですね」

「なぁぁんて、ぜんぶ憶測なんだけどね?」

「む、――――そうかもしれねぇです」

 

 ちゆりはむくれ顔になりかけるも、窓の外遠くに目を向けて、少し深く息を吸う。そして、何とも言えない顔で溜息と共に呟きを吐き出すと、すっかり温くなったであろう紅茶を飲み干した。

 そう憶測だ。映像には彼らの自身の姿などは、一切、徹底的に映されていなかった。だから憶測でしかない。彼らの最期は悲惨だったかもしれない。それでも、ただ憶測として、その旅路の全てが絶望では無かったと、救いの瞬間はあったのだとも思える。

 やれ、些か無駄話が過ぎたかしらね。内心そう独り言ち、私もすっかり冷めてしまった紅茶を啜る。

 

「同じ白塩化症候群発症者でも、ここまで症状の違いがあるってのは、なんなんですかね」

「気の持ちようだったり?」

「プラシーボですか」

「じゃあ個人差ね」

「身も蓋もねぇぜ」

「とは言え、アレコレ語れる程度には観測出来てるのよね」

「感染者は"岩"と違って物理アプローチが有効かつ、サンプル元もより取り見取りですから、実験方法、実験試料には事欠かねぇでしょう。それでも研究難航してんですが。それで、変異感染者と"岩"がどぉ関係あんです?」

「どうかしらね。さて、変異感染者達は今どこで、何をしているのかしら」

 

 私の発言に怪訝そうに眉をひそめるも、「そりゃ」と、ちゆりは静かに指を窓の風景、その遠景に(そび)える『壁』に向ける。

 

「『エリコの壁』の中でしょう。何をかは見当付かねぇですが」

 

 ちゆりが指し示す先には、風景の奥からずっとその姿を覗かせていた巨壁があった。

 

 ―――『エリコの壁』

 

 2004年9月の襲撃死亡事件を受け、翌10月から実行された『新宿封鎖計画』により築かれた『壁』。聖書に因んだ名のそれは、新宿区東京都庁を中心に半径およそ3~4km程の範囲を囲むように築かれ、高さは凡そ30m程とビル10階相当にも及ぶ。壁付近の内外の建造物は、変異感染者が昇ってくる可能性を潰す為や、戦闘領域、部隊展開のスペースの為に解体されている。周囲に比肩する建造物が無いことで、見る者に『壁』の高さを実数値以上に高く感じさせる。

 日本国内の世論は新宿封鎖の方針で固まっていたが、海外からの批判は大きく多数の反対デモ、非難があったものの、封鎖策は実行され、結果として白塩化症候群と変異感染者の脅威を遠ざけることに成功した。壁周辺には自衛隊と武装警察、一部の自警団が展開され、今もなお鎮圧と防衛に当たっている。

 

「そう。彼らは『エリコの壁』により隔離された新宿区封鎖域にいる。封鎖域への突入は感染リスクを大きく増大させる都合、今なお武力行使は封鎖域の外部『壁』で膠着しているわ」

 

 彼女が指し示したものについて、互いの情報の確認も込めて補足する。

 

「教授は回りくどいんですって。つまり変異感染者が何だって言いてぇんです?」

「あら、駄目よちゆり。焦れるのは解るけど、科学者は結果ではなく過程こそを重視しないと。それに、あと二点。ちゆりは変異感染者に対する認識が足りてないわ」

「……何です」

 

 ちゆりは身体ごと此方に向けると、椅子の上で少し小さくなった。研究者としての在り方について思い直してくれたようで何よりだ。

 私は教授。「研究をする」「教え子も守る」「両方」やらなきゃいけないってのが「教授」の難しくも楽しいことね。

 シュンとした様子のちゆりは片手で水兵帽を弄りながら、上目がちにこちらを見る。その視線は時折、視線が左上に左下にと泳ぐ。今この時でも思考放棄せず、記憶と知識を洗っているのだろう。見たこと、聞いたこと、自身の内にある情報を。言われて自覚して、即行動に移す。さすが私の助手。

 そんな良い子をあまりいじめるのも良くないわね、いじるのは止めないけど。一つ目を教示することにしましょうか。

 

「一つは、変異感染者はとても働き者だという事よ。変異感染者は隔離から凡そ一年半。その数の自然減少は確認されていないわ。新宿封鎖域にはまだ、少なく見積もって数千、それか万単位にも及ぶ変異感染者が存在していると言われてる。さて、ここで疑問。彼らはどこからエネルギーを得ているのかしら」

「人間を捕食、……なんて如何にもな話は今のとこねぇです。凶暴化した個体の噛みつきに因る死傷事例は記憶の範囲だけでも幾つかありますが、そのいずれも捕食目的ではなく加害手段の1つであったと見られてます。そも、封鎖計画以後の新宿封鎖域に並の人間はいません」

「人間が無ければカップ麺食べればいいじゃない」

「……嫌過ぎるでしょう、カップ麺啜って缶詰で食い繋いでるゾンビとか。封鎖域には事業者や家庭に日持ちする食糧が相当量残されているそぉですが、それらを消費してるなんて話は聞きませんね」

ケイ素生物(シリコニアン)の可能性は? ケイ素生物と炭素生物の生存競争対立はSFではよくあるテーマだけれど」

「ねぇです。白塩化症候群罹患者の外観的特徴から真っ先に調査され、今なお行われてる続けてる追試の結果でも否定されてます。もしそうなら、変異感染者の群れがビルに齧り付いて穴あきチーズにしてたんでしょうかね」

「夢のある光景ね」

「ねぇよ。あっても悪夢の類です」

「太よ、」

「太陽光を超効率に活動エネルギーに変換している説もなしです。封鎖域及び感染者から異常な電磁波は観測されてませんし、変異感染者が日当りの良い場所を好む習性、行動も確認されてねぇです。地下での遭遇事例報告だってあるです」

「アァン、途中ダタノニ。……そうね、『エリコの壁』に目が行きがちだけど、『新宿封鎖計画』は地下のトンネルや暗渠、配管といった場所まで潰したり埋めたりと徹底してたから。その時の記録ね」

「あくまで人間への加害、殺害が目的の行動ばかり。そもそも摂食を必要とするのかも不明。……解らんです! 霞でも食ってんじゃねぇですか!?」

 

 ぬがーっ!なんて擬音語が似合いそうな感じで爆発したちゆりは、頑張っていた眼球動作を止め、キッと私の目を凝視して詰め寄る。

 悩んだ甲斐があったじゃない。答えが出たわよ。

 

「あら、良い線いってるわよちゆり。そう、変異感染者もあんなでも元人間。みんな結構忘れがちなのか、もう人間でないと無意識に思ってるのかは知らないけどね」

「通常の感染者は別として、凶暴化した変異感染者を人間と見なす人はそういねぇですよ。生きている変異感染者がいながら発症死亡率100%って言われてんのは、―――そぉ言うことです」

「死亡扱いされても、彼らは現実に在るのよ。通常の人間なら絶食後、約1日で肝臓と筋肉に蓄えているものがすべてエネルギーとなり全身で使い果たされる。それらを使い果たしたせば、次は肝臓や筋肉が、ついで肝脂肪、更に飢餓状態が進むと、体脂肪や皮下脂肪など肝臓以外の脂肪がエネルギー源となる。水分を摂取出来たとして絶食から生存可能なデッドラインは2~3ヶ月程度。この限界を越えれば死亡、餓死に至る。だけど、変異感染者達は死滅することなく未だに活動を続けている。これが生物災害(バイオハザード)とかのゾンビだったら、隔離から一年半、今頃みんな壁の向こうで人間ビーフジャーキーになってお終いだったでしょうね」

「人間なのか、牛なのか」

「人間ジャーキー」

「はい。えぇと、つまり」

「つまりは、変異感染者は喉渇いたりお腹空かないのかな? ってこと」

 

 ぺらぺらと長ったらしく説明したが、つまりはそういう事。一行で事足りわね。

 

「―――まとめだけ聞くと、何言ってんだこいつって思われそぉですね」

「だから言ったじゃない。過程こそ科学者の恋人だって」

「そこまでは言ってねぇです。で、それが"岩"と何か関係が?」

「あら、言わなかったっけ? まぁ、いいわ。それより、似てると思わない? 変異感染者と"岩"の状況。互いに隔離された状況。その中で互いに活動を継続している。活動している以上はエネルギーを必要とする。だけど、エネルギー供給無い。いや、無いはずがない。だとすれば、それこそ私達が知らない所で霞のような"何か"を摂取しているということ。これが"解った"一つ目の"解らないこと"ね」

 

 そう、"岩"も感染者も外部からのエネルギー供給無しに活動している、ように見える。見えてしまっているだけ。

 未だ常識の丘の内側で動けないでいる私達が見ているのは、感染者らが、"岩"が丘の地平線に立つその影だ。その影の裏、いや表かしらね。彼らが屹立する地平線、丘の向こうにこそ、新しい世界がある。

 

 

「……それで、もう一つはなんです」

「単純よ、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 間が空く。私は半身で彼女の方を向いたまま、彼女は真正面に私の方を向いたまま。

 決して長いものでは無く、息を一つ飲む程度の間隙(かんげき)

 

「―――教授は、"岩"が人間だって言うんですか!?」

 

 張り詰めて緊張していた空気の糸はちゆりの驚嘆によって切られた。

 そんな変わったことを言ったつもりは無かったのだけれど。

 

「どうかしらね。そうそう、私は"岩"(あのコ)を岩太郎って名付けたのだけど、良い名前じゃない?」

「ねぇです。 じゃなくて! 名前は果てしなくどぉでもいいです! というか、人間にしか感染しないと決めつけるには、」

「そうかしら、現に白塩化症候群は"人間"という種にしか確認されていないわ。犬猫は勿論、人類に近しい霊長類にも感染の兆しすら無かった。其処にどの様なプロセスが介在しているかは解らない。検証も足りないかもしれない。だけど、これは一つの事実」

 

 私の発言をちゆりは片手で帽子の縁を弄りながら黙々と聞いていた。一拍置いて、弄る手が止めてから静かに言葉を放つ。

 

「仮に……、仮にそうだとして、"岩"が感染者だと、元人間だとする根拠にはならねぇです。今まで確認された変異感染者らに"岩"のような形態をしたものは確認されてねぇじゃないですか」

「あら、私は"岩"(あのコ)が感染者だとは言ってないわ。ただ、"岩"そのものについて考えてどうしても解らないのなら、視点を変えてみればと言っただけ。感染者は視点の一つでしかなわ。そして、現状で我々が解らないモノの要素には、"人間"という要素が一緒に存在している」

「見解の一致、と言うのは主任さんもそう考えてるってことですか」

「最近の実験内容の傾向を見る分には多分にね」

「物語の読み聞かせに音楽鑑賞、どれも人間的な高度知能を試すものばかりではありますね」

「そもそも前提が間違っていたのよ。私も含め、研究者らは最近までは"岩"を未知の物質だと考えていたわ。それこそ、白塩化症候群や凶暴化を引き起こす未知の物質の塊か何かじゃないかってね。だけど、"巨人"や"竜"はおろか、白塩化症候群、その感染者にですら解っていないことを"岩"に解答を求めるのは間違いだったのよ。前提が間違っているから目的も、手段も間違う。なら、前提を問い質す必要がある。「"岩"は何だ」「物質だ」そうじゃないわ。「わからない」でいいじゃない。そっちの方が研究者としてよっぽど誠実だわ」

 

 問題の再提起を脳裏に浮かべ、言葉として発現させる。その言葉は自身の耳にも入ると、耳孔の奥から直火で脳漿を沸々とさせる。

 そう、この「わからない」の段階に千藤主任はいるというのに、その上で私の論文を蹴ったのよ。重要性、可能性とも考慮出来ない研究者ではないだろうに、そこまでして私を研究から排斥したいのか、何なのか。

 紙コップを握る手に力が籠ったのか、容器の形を微かに変形させ、紅い水面は歪な波紋を浮かべた。

 ふと、横の前の少女を見ると、質問ですとばかりに右手を真っ直ぐに挙手していた。別にこの即席講座は挙手制ではないのだけれど。

 

「はい、どうぞ。ちゆり君」

「教授がアレを人間だとする最大の根拠はなんなんです?」

「そうね。勘、かしら」

「教授の勘は馬鹿にできねぇですね。けど、もしかしたら、中から出てくるのは二十二世紀から来た短足胴長の二頭身アンドロイドだったり、M67星雲からやって来た宇宙人かもしれませんよ?」

 

 ちゆりは然も冗談めかして訊いてきた。そうね、そういう展開もありっちゃありね。だけど、やっぱり一番は、

 

「だけど、人間の方が素敵じゃない?」

 

 素直に冗談みたいな答えを出す。

 これは一つの願いだ。

 アンドロイドも宇宙人も十全に魅力的。もしそうならそれで、私はそれらを理解するのだろう。だけど、きっとそこで終わってしまう。

 人間でなければ、きっと私は、私の理解まで至らない。

 この赤髪赤瞳、私、世界は解らないことだらけだ。だから私は解き明かしてきた。それは私個人のことだって例外じゃない。

 これは研究者としてではなく、岡崎夢美個人としての探究。

 願わくば、丘の向こう側が、私の知らない世界が、私を証明しうる世界でありますようにと。

 

「よし! ちゆり、行きましょう!」

 

 ぐいっと冷めきった渋く紅い液体を胃に流し込み、紙コップをくしゃりと握り潰す。流れ込む液体が喉を濡らし、消化器系にその冷たさを、あるいは自身の身体の熱を鮮明に実感させる。

 靴音を鳴らし、席から勢いよく立ち上がる。

 

「は!? いや待つんだぜ、見に行くって何をだ?」

 

 ちゆりは驚きつつもゴミをビニール袋に押し込み始める。

 私は気にせず数歩足を進める。

 そうだ、歩みを止めていては死んでしまう。

 私は諦めない。

 丘の向こうを見るのは私。私が動かなければ何も変わりはしないわ。

 

「勿論。"岩"よ」

 

 問いに対し、片付けが済んで準備完了なちゆりに振り返り様に対峙し、左手にはためくマントを押さえながら、右手で真下を指差す。指し示す先。地下。そこに"岩"はある。あるいは、いる、か。

 

「……許可は?」

「ちゆり、いいこと? 科学の発展に犠牲はつきものなのよ?」

「おはマッドサイエンティスト。無許可ですね。計画は作戦はあんですか?」

 

 もっともらしく言い放った戯言はジト目な視線にバッサリ切られた。真下を指していた指をピンッととちゆりに向ける。

 

「ヒント。報告書の提出」

 

 少しの間が空くもすぐに得心がいったようで、ちゆりは答えた。

 

「主任さんは霞が関とか関係各所に出頭しなきゃですもんね。今まで通りなら、上長や他機関との連絡、会議で最低でも半日は第二研究所(ここ)の席空けることになりますね。他所で一泊もありえそうです」

「まとめご苦労ちゆり君」

「すんごいイラッとします。やめてください。で、その後はどぉすんです? 見ること自体は曲りなりに研究員として招集された教授を縛る規則はねぇですが、上司の命令に違反したことでの処罰は免れませんよ?」

「あとは野となれ山となれね。一縷の望みにかけて大人しくしてたけど、あぁもハッキリと私を用いないと言われたらね。なんとかするわ」

「果てしなく無計画ですね。ま、地下で腐ってるよりは、無計画な計画が立ってるだけでも、らしいんじゃねぇですか」

「それに、ちゆりも見てみたいでしょう? "岩"をね」

「ま、多少」

 

 ちゆりはやれやれといった感じで短い嘆息を吐く。

 何だかんだで付き合ってくれるちゆり、まじツンデレ! と心中でひっそり呟く。声に出して言えば、拳かパイプ椅子くらいは軽く飛んで来かねない。

 そうと決まれば早く、2人足並み揃えて食堂を後にする前、ちゆりの向こう、窓ガラスのそのまた向こうに聳える『壁』が印象的に脳裏によぎる。近いようで遠く、見ているようで視えていない。けれど、その存在は現実にそこに在る。"岩"の事に今、深く心掻き立てられているのは、似た存在である『壁』を見たからかもしれないなと、自身の心の在処を分析した。

 

「『壁』が『エリコの壁』と呼ばれるなら、神田川は差し詰めヨルダン川かしらね」

「なんです急に。その理屈だと東京湾は死海になるんですが、それは」

「東京湾文書、うーん語呂が悪いわね。……晴海文書! これじゃない?!」

「それなんて同人誌」

「新約聖書も旧約聖書の二次創作、同人誌みたいなものでしょ」

「死海文書は旧約聖書にまつわるものらしぃですけどね」

「むむむ」

「何がむむむだ。ほら。部屋に戻りますよ」

「え?」

「は?」

 

 意識と身体が自然と最下層へと向かうのを、助手に文字通り後ろ髪を引かれながら、一たび自室へと向かうのだった。

 




千藤汽笛の登場。
(改)諸々変更修正 主任の名前 レギオンの呼称はこの時点ではまだレギオンと命名されていなかったため、変異感染者と改称 他多数

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