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――――――目が覚めたのは血溜まりの中だった。
闇。
何処まで遠くにあるような、それでいて息苦しいまでに近しく感じる闇。
何処までが闇だ。
何処からがワレ―――ワ、ア、ァレ、オレワ、オレはドコだ。
何もキコエナイ。
何もミエナイ。
何もナニモナイ。
ナニモ、なにモ、何モカもガ何だ?
ワカラナイ、解らナい、判らない。
血、赫、黒。濃厚で噎せ返りそうな血の匂い。
腐り掛けの血。生臭い血。
ヒトの血。ケモノの血。マモノの血。オレの血。
――――――仄かに混じる懐かしい薫り。
ワレ、俺はこの匂いを知っている。
その匂いに惹かれるまま血海を漂った。
× × ×
どれ程漂っていたのだろうか。
朦朧とした意識のまま漂っていると一筋の光が見えた。
光は瞬く間に闇を喰い尽し、世界を拡げていく。
ただ一つ、俺という黒点を残しながら、光で塗り潰していく。
出来上がった世界は王城の庭園。
それは抽象的な風景。色彩に乏しく、モノもヒトも輪郭が定かではなく、波打ってはぼやけ歪んでいる。
そんな曖昧な舞台の中心に、二つの人影。
栗毛を時折弄りながら蒼眼で兄を傍らから眺める妹。
その視線の先でひたすら剣を振る蒼眼黒毛の少年。
二人は繰り返していた。少年は剣を振り、妹はそれを眺め続ける。
二人して何をするでもなく、ただ二人が在るがままに在った。
俯瞰する光景の変化の無さに、時間が緩慢になってゆくように感じられる。ともすれば、二人はこの繰り返し続ける光景の中で、世界ごと凍結してしまうのではないかと思える程に。
俺もそれをただ宙から傍観していた。
俺には少年が何故剣を振るのか解る気がした。
彼は怖いのだ。
目の前の膨大に広がる時間を前に、不可避な変化の到来を予感しているから。その変化はきっと優しいものではないことを知っている。
少年にも、少女にも、この庭園にも、世界にも――――――。
それは無慈悲に不条理に、だけれど、平等に訪れるものであることを理解している。
だから、ひたすらに剣を振る。
剣を振っている間は、誰も、何もかも、不可避の変化すらも遠ざけられそうで。今この
少年が剣を振る。妹が眺める。俺が俯瞰する。振る。眺める。俯瞰。……。…………。
繰り返し、繰り返しを繰り返す。
動的に静止した世界。
この庭園は救われている。素直にそう思う。
少年は少年のまま。妹は妹のまま。世界は世界のまま。何も変わらない小さな箱庭。
だからこそ、思わずにはいられなかった。こんなものはまやかしだと。不変など、永遠などはありはしないのだと。
時間は、世界はどこまでも残酷で、望んでもいない未来を押し付けてくる。そう――――――、
――――――もう、全て失ったというのに。
止めどない感情の奔流から言葉が一滴、口から
何故、こんな言葉が漏れたのか、自身でも解らない。
―――もう。
――――全て。
―――――失った。
自身の口から零れた言葉であるのに、その真意が解らない。ただ、その言葉は真実だというだけの確信めいたものがあった。
そう、確信。俺は知っている。
彼らが兄妹であることを、妹のフリアエを、王城の庭園を、この世界を知っている。その全てが、嘗て俺の目の前に確かに存在したことを。その全てが、もう失われてしまったことを。
知らないのは、一つとたくさん。
少年の名。そして、何故これらを知っているのかを俺は知らない。
脳に異物でも蠢ているかのような不快感。尽きない疑念に思考が囚われかけるも、世界は俺の停滞を許さない。
一つの変化が、世界の均衡を破る。
気が付くと彼らの頭上を漂っていた俺は、少年の正面に対峙していた。
少年が振っていた剣を下ろし、こちらを見ている、気がする。
少年はその何も見ていないような
「ァ ケ … ォ」
その言葉は聞き取れない。少年は繰り返し言葉を淡々と紡ぎ続ける。
何だ、なにか言いたいことがあるのか。聞こえない。聴こえない。キコエナイ――――――。
俯いて静止していた俺に、少年は口を噤み手にしていた剣の切先を向けた。
再度、同じように、――――――いや、薄紅色を醜く歪め、赫い舌を覗かせる。
「
静かな声だった。
それこそ耳元で秘密を囁くような声。されど、それは鼓膜を貫き、脳を脊髄を心臓まで冷たく震わせる声。
少年は口元を歪め、嗤うような泣くような顔で俺を見る。
バケモノとは何だ。その顔は何だ。その切先は何に向けている。俺か、それとも後ろに何かいるのか。
曖昧で歪んだ舞台。その中で意識の磨滅を感じながらも、少年の切先、背後へと振り返った。
× × ×
そこには石造の玉座の間が拡がっていた。
先程までの庭園、曖昧な舞台は霧散し、確然とした輪郭と目が眩む極彩色の世界へと変貌している。
目に焼き付く色は赤、赫、紅。
血の海と、それを舐めるかのように床を這う炎。
そこには少年が立ち尽くし、傍らの妹は兄の手に縋り、玉座には黒竜が鎮座していた。
玉座の間一面に広がる血の海は、黒竜の太い前肢から流れ出でている。圧し挽き潰されたモノは、血液と脳漿と臓腑の欠片を血の海へと惜し気もなく注いでいる。
唯一、鉤爪の隙間から原型を覗かせる白く細い右腕が、前肢の下にあるモノが王妃、母であること証明していた。
黒竜に腹から咥えられた王、父は少年達に視線を向け、口唇から朱を零しながら言葉を絞り出す。
「 」
王が語り終えるのと同時に、黒竜はその顎を静かに閉じた。
竜の咢と牙によりソレは上下に裂かれ、下半身がぼとりと血の海に沈んでゆく
断面からは赫い鮮血と白い骨、黄土色の脂肪が覗き、咥えられたままの上半身からは薄桃色の臓腑がだらりと垂れる。
少年は踵を返し、妹の手を曳いて駆け出していた。
扉の前に佇んでいた俺の横を走り抜けるその横顔は、庭園で見せたあの顔だった。手荒く開け放たれた扉はギィギィと鳴り、真っ直ぐ伸びる廊下の先には小さな背中が二つ遠ざかっていく。
黒龍の方を見遣ると、王の残滓を咀嚼しながら、満足そうな表情で少年達の背を見送っていた。
黒鱗と黒殻に覆われた顔では人間らしい表情など作れはしないだろうが、目が、口が、嗜虐に恍惚と歪んでいた。
―――何処となく、少年のあの顔に似ている。なんて事を場違いにも思われた。
黒竜は僅かに顎を引き、晒した赤い口腔からは緋い魔光と魔力が漏れ出す。
少年達に向けられたであろう灼熱の炎は、俺を巻き込み、世界と俺の意識は炎と光に呑み込まれ何も見えなくなった。
王子登場回。
精神世界を書くのは難しいですね。会話も事件も乏しい。淡々と語り続けるから、時間の進行も緩慢になり冗長になりかねない。文字数の割に書くのに体力使わされるものだと思い知りました。
しかし、如何にかこうにか、DOD原作では見え難かった王子の内面、ただの殺戮狂ではない別の側面も掘り下げていけたらと思う所。
王子は動物に例えるならヤマアラシもあり、ジレンマ的な意味で。つづく