【完結】暗殺教室 ―Twinkling of a star― 作:春風駘蕩
カタカタと、高速でキーボードをタイピングする音が響く。暗い教員室に、手元を照らす照明だけが明るく輝く中、防衛省の烏間は一人、報告書をまとめていた。鋭く尖った刃のような彼の目はピクピクと痙攣するように左右に動き、指は目にも留まらぬ速さで動き続ける。
しばらくして、手を止めた烏間は眉間をつまんで椅子に体を預ける。ふぅー吐息を吐き、眉間を揉みほぐす様から、相当疲労が溜まっていることが伺えた。
そこへ、白く湯気を立ち昇らせるカップが一つ、ソーサーに乗せられて烏間の前に差し出された。
「お疲れのようね」
烏間の方に手を置き、カップを差し入れした金髪の美女が、凛とした目で烏間を見下ろす。イリーナ・イェラビッチは同僚の肩にしなだれ掛かると、烏間はちらりと横目を向けた。
「ああ…、すまん。今日は冷えるな」
カップに口をつけると、温かさがじんわりと体の奥底に染み渡る。日が沈んだ今、夜間の気温は昼に比べて格段に下がり、冬の日には氷点下にまで陥ることもあった。そんな時の温かい差し入れは、非常にありがたい、が。
「なんならアンタも私を温めてくれる? …ベッドのう・え・で」
この女の色ボケさえなければだが。
「…………お前の中の大罪は色欲しかないのか」
「待って待ってお願い待って‼︎ 寒いのよ淋しいのよ構って欲しいのよ‼︎ せめて今だけでも‼︎」
思わず席を立ちそうになるから烏間だったが、涙目になったイリーナに体を張って止められる。有能なのだが、肝心のところで欲に走るため、烏間の苛立ちを募らせていた。
だが、今最も烏間を悩ませているのは、イリーナのことではない。
「…………」
烏間はイリーナを片手であしらいながら、パソコンの報告書とは別の、あるファイルのアイコンに目をやり、静かに唸った。
ーーー…
未曾有の大災害による混乱が収まらぬうちに水資源の確保に暗躍し、一大財力を有して政府への巨大な発言力をも手にした謎の多い組織。
生物の命綱とも言える水を独占されたために、民衆からの反発も大きいと聞く。
カップの残りを飲み干し、イリーナの誘惑を適当にあしらいながら思案する烏間の表情は固く、眼差しはどこか冷たい。気に入らないのだ。ZECTの手際の良さが。
まるで、世界がこんな姿になることが、予見できていたかのように。
(それに、今ZECTでは内部で対立が起きているという噂も聞く。生徒たちが暗殺を成功させたとしても、のちに彼らが生きる世界が残っていなければ意味がない。影響が及ばないよう、注意しておかねば……)
と、そこまで考えたところで、烏間の鋭い目がさらに釣りあがり、額に太い血管が浮き上がった。
「ところでそこで何をしている
プルプルと肩を震わせ、白目を剥く烏間は、教員室の引き戸の隙間から顔をわずかに覗かせ、はぁはぁと鼻息荒く手帳にペンを走らせる黄色い超生物に怒気の籠もった声をかける。
隠密を見抜かれた殺せんせーは咎める目を気にもせず、荒い呼吸のまま烏間とイリーナを凝視した。
「いえいえお気になさらず。なんなら私は姿を消しますからお二人でゆっくりと……」
「黙れ」
烏間の声が一層低くなり、浮き出る血管の数も増える。いたたまれなくなったイリーナは顔を赤くし、そそくさと烏間の傍から離れていった。
殺せんせーは態とらしくため息をつくと、窓から外を眺めた。
「ノリが悪いですねぇ。もっとこう……『月が、綺麗ですね』ぐらい気の利いた言葉を言ってもらわないと」
「やめろ。名台詞を汚すな」
一瞬だけ真顔になってダンディーな声を出した標的にツッコみ、烏間は椅子の背もたれに身を預ける。かの文豪も、自身の残した台詞をこんなくだらないことのために引用されたと知ったなら浮かばれまい。
イリーナもゴシップ好きのころせんせーに好き勝手に覗かれることは面白くないため、唇を尖らせてそっぽを向く。が、何かを思い出したようにはっと表情を変え、ちらりと横目を殺せんせーと烏間に向けた。
「……ねぇ、知ってるかしら? 最近巷で噂になってる“はぐれ”のライダーの話」
「…………」
「ライダー、ですか。確かZECTが抱えている特殊武装兵士の名称でしたねぇ」
イリーナの言葉に、烏間は黙って目を細め、逆に殺せんせーが強く反応する。ただ、表れている感情は興味というより、不信感に近いものに思える反応だった。
「……ZECT内部で起きている内乱も、そのライダーシステムの装着者が筆頭になっていると聞いている。その中の一人ではないのか?」
「それとは別件よ。まぁ…、そっちもそっちで厄介な件だとは思ってるけど。ただでさえ能力や性能がやばい連中が争っているわけだしね。…と、話が逸れたわね」
冷や汗を流すイリーナが、咳払いをして話を戻す。
「私が言っているのは、ZECTにも反ZECTにも属さない完全な野良の方よ。身元も所属も不明。一時、ZECTの施設に侵入して大暴れしたって話があるとんでもないやつよ」
イリーナは腕を組み、報告でもするかのように淡々と語る。ハニートラップや色仕掛けなど、女の武器を駆使した暗殺を得意とする彼女は、その技術を利用して政府の役人や要人を籠絡して重要情報を手に入れることも可能としていた。
だが、その情報が及ぼすのは、何も政府“以外”というわけではなかった。
「烏間、アンタも気をつけなさいよ。上の命令がどんなものであろうと、今のZECTは危険よ。いつ破裂するかもわからない爆弾と、敵味方関係なく噛み付く野犬がいるんだから」
「…………」
イリーナの言葉に、烏間は眉をわずかに潜め、自身のタイピングした報告書に目を向けた。
イリーナはおそらく、既に知っているのだろう。烏間が今、何をしようとしているのかーー上層部から何を命令されているのかを。烏間はただ黙って、光を放つパソコンの画面を見下ろしていた。
「…烏間先生。
殺せんせーはそう言い、烏間の方をじっと見やる。ただし、いつもの黄色い顔色ではない、本気で怒る一歩手前の、赤黒い顔色でだ。
「ですが、生徒たちにもしものことがあれば、私は
「……ああ、わかっている」
烏間は短く頷き、パソコンの電源を落とす。立場がなんであろうと、彼もまたここでは一人の教師。その最たる任務は、生徒たちの安全を守ることなのだ。
短く簡潔ながらも、望んでいた答えを受け取った殺せんせーの顔色が元に戻る。すると、今度はイリーナの方に視線を向けた。
「そういえばイリーナ先生。先ほどおっしゃっていたはぐれのライダーさんのことをなんですが、詳しい話を聞いてもよろしいですか?」
「ん…そうね。言っておいたほうがいいわね」
タバコをくわえ、火をつけたイリーナが視線を返す。煙をくゆらせながら、彼女はサファイアのような瞳を月光に反射させ、二人の同僚を見つめた。
「どこの誰が使っているかは知らないけど、『何が』使われているのかは判明してる。数少ないライダーシステムの一つを使っていることから、“やつ”はこう呼ばれているわ」
灰を落とし、イリーナはその名を呼んだ。
「コードネーム“カブト”」
† † †
ハァ…と吐き出した息が、すぐ目の前で白く染まる。ベランダ出た渚は、上着の襟を引き寄せて口元を覆うと、一切の光が消えた町並みを見下ろしていた。
燃料資源節約のため、夜間の外出禁止令が出てからは、夜になると全く音が聞こえなくなり、蝋燭の明かりで勉強していても全く頭に入ってこないのだ。それにやはりわずかな明かりだけではやりづらく、気分転換がしたくなった。
「……さむ」
寒さに頬を赤く染めながら、渚は静かな世界で一人佇む。そして、ふと天を見上げ、思わずほぅとため息を漏らした。
そこに広がっているのは、満天の星空。街の明かりが一切なくなったために、星の光を遮るものがなく、辺境でしか見られなかった景色が風のない日には拝むことができた。
不謹慎だが、人間は文明を失うことでこうして大切なものを取り戻したのではないだろうか、などとくだらないことを考えながら、渚は夜の絶景に見惚れていた。
そんな時だった。日頃の訓練で鍛えられた感覚が、渚にある存在を気づかせた。
「…ん? あれ……人、かな?」
渚の眼下、マンションのすぐ下の道を、黒い影が歩いていた。遠すぎてよく見えないが、おそらくローブと思わしきボロ布をまとい、真っ暗な星明かりしかない道を一人歩いている。
それを見て、渚はわずかに首を傾げ、眉をひそめた。外出禁止令は、節約だけが目的ではなく、他にもっと重要な理由があるのだ。この令は随分前からあるもので、知らないものがいるはずがない。
少し悩んだ渚は、ぐいと体に力を込め、思い切ってベランダの柵を飛び越える。そこからすぐそばの建物へ飛び移り、まるで軽業師のような動きでみるみるうちに地面に向かって降りていった。彼の事情を知らないものがいれば、おそらく自分の正気を疑うだろう。
そしてものの数秒で、渚は目標の人影の元へとほとんど音もなく降り立っていた。わずかな足音で気付いたのか、黒衣もピタリと足を止め、ちらりと少しだけ視線を渚に向けた。
「…ハァ……ハァ……君、この時間は外にでちゃダメだってこと忘れてないかな……」
「…………」
黒衣は面倒臭そうに渚を見やると、ふっとかすかに鼻で笑った。
「…それは、君も同じだと思うけど?」
「なっ……! それは君が外に出てるのを見たからで……」
渚が抗議するように呟くと、黒衣は肩をすくめたように見えた。思わずしかめっ面になる渚を無視し、黒衣はまた前へと歩き出す。
「僕の行く道は僕が決める……じゃあね、お人好し」
「…………」
取りつく島もなく置いていかれそうになった渚は、困ったように反目になって黒衣を睨みつける。ぽりぽりと頬を掻いてどうしようか考えていると、黒衣が再び渚の方に振り向いた。
「早く家に帰ったほうがいいよ。…抗争に巻き込まれないうちに」
「え?」
思わず、渚が訊ね返した時だった。
ドォン、という音がどこか遠くから響き渡り、渚と黒衣の足元を揺らした。
「うわっ⁉︎」
「…………‼︎」
ふらつく渚をよそに、黒衣は足を止めて音のした方の空を見上げた。戸惑いながらも、渚も同じ方向を見上げて目を見張った。
空が、僅かに明るく染まっている。夜明けにはまだ遠い時間であるはずなのに、ほのかに空が淡いオレンジ色に染まっては、時折点滅するように光を放っていた。少し遅れてから、ドォンドォンと言う空気が震えるような音が轟いてきていた。
「な…何が……?」
静かな夜が突如破られ、混乱する渚。
その前で、黒衣は淡く染まる空を見上げ、小さく舌打ちを零した。
「ッ……そこか」
そう呟きが聞こえた瞬間、黒衣の姿が一瞬にして消え失せた。
「⁉︎ 速っ……!」
目を見開く渚の前で、黒衣は軽々と跳躍して建物の凹凸へと飛び移り、みるみるうちに夜の闇へと姿を消してしまった。E組でも機動力に特化した木村や岡野にも匹敵するかもしれないスピードで、黒衣は音のする方へと消えた。
呆然としていた渚は、ややあってから我に帰り、思い悩むように頭を掻く。そして、盛大に顔をしかめて「ああもうっ‼︎」と叫ぶと、黒衣が消えた方へと走り出した。
お人好しという一言に、内心苦笑しながら。
「にゅや……困りましたねぇ。こんなところで戦争なんてされては」
やや高い、半壊したビルの上で殺せんせーは腕を組んで眼下の混乱を眺めていた。
黒いボディスーツに、機関銃から火を噴かせる蟻を模したような姿の武装兵たちとカラーリングの変えられた同型の武装兵たちが互いに睨み合い、文字通り火花を散らせている。それが巷で話題のZECTの武装兵とその反乱分子であると、殺せんせーは見切りをつけていた。
「暴れているのが住民のいない廃墟区であるのが幸いですが…近所迷惑には変わりありませんねぇ」
わずかにひたいに血管を浮き立たせ、顔色を赤くした超生物は、何やら顎を撫でながらどうしようかと考え込む。手入れするのは簡単だが、下手に手を出して狙われるのは困るし、生徒たちにも迷惑がかかる。何より、よその問題に口を挟む必要などないだろう。
「ま、とりあえず様子見といきましょう」
独りごちると、殺せんせーは屋上に腰を下ろし、懐から大量の紙書類の束を取り出すと、所々に赤ペンで○や×、もしくは一言を添えていく。抗争を見世物感覚で眺め、答案採点を同時にこなす時点で、この超生物も相当ドライになっているのかもしれない。
だが、何が大事なのかなど比べるまでもない。一番大切なのは生徒たちなのだ。
「…にゅ?」
そこで、殺せんせーは僅かに顔色を変えた。
視界の端に、自分の生徒の姿が映った気がしたのだ。
黒と白の武装集団がぶつかり合う戦場に、渚はいた。そこかしこで銃弾が跳ね、火花が散る中を、姿を見失った黒衣を探して激しい銃撃戦をくぐり抜けていく。
「……っ、あの人はどこに……⁉︎」
轟音と破壊音が交わって、あちこちから耳に襲いかかってくる中、廃墟の陰に身を潜めた渚は必死に辺りを見渡す。常人とは思えない力で闇の中へと消えた黒衣は、すでに痕跡すら残しておらず、もうさっさと離脱したいと半ば心が折れかけていた。
「……大丈夫だよね。幾ら何でも、こんな所にいるはずが……」
一般人がこんな戦場にいるはずがない。そんな命知らずがいるはずがない。
そして何より、“あいつら”がはびこっている時間帯に外に迂闊に飛び出すものがいるはずがない。
自分にも跳ね返ってきそうな言葉で、自分を納得させようとした渚が、くるりと踵を返そうとした時だった。
渚のすぐ近くから、ぐるるるる…と低いうなり声が聞こえてきたのは。
「‼︎」
目を見開き、顔を青ざめさせた渚がバッと振り向く。建物の陰から姿を現したのは、緑色の甲殻と鋭い爪を有した人形の異形。気色の悪い芋虫を無理やり人型にしたような、吐き気を催させる凶悪な存在が、ゆっくりと姿を現した。
「わ、ワーム……⁉︎」
渚はとっさに姿勢を下げ、ワームの視界から自身を外す。
巨大隕石は海を奪っただけではなく、全くありがたくないものを残していた。
身を潜めた渚は、騒音に引き寄せられて現れたワームを見据え、静かに去ろうと腰を浮かす。
だが、移動しようとした渚の背後で、ドゴンという激しい粉砕音が響き、ビクッと体をを震わせた。外で戦っていた武装兵の一人が、吹っ飛ばされて壁をぶち破ってきたのだ。
渚は一気に青ざめた。破られた壁の穴から、また新たなワームが侵入し始めたのだ。ワームたちはかがんでいる渚に気づき、轟音に気付いた渚の目の前のワームも振り返り、怪しく目を光らせる。丸腰の渚は完全に包囲されてしまった。
「しまっ……うわああああ‼︎」
思わず渚は、突如訪れた命の危機に悲鳴をあげてしまい、ワームを反応させてしまう。人間の悲鳴に興奮したワームたちは、グロテスクな口元の牙をカチカチと鳴らし、渚に一斉に襲い掛かった。
周囲を鋭い牙と爪に囲まれた渚は、恐怖で石のように硬直する。
死ぬ、直感的にそう思った瞬間だった。
ぐいっ! と襟首が引っ張られ、渚の体が宙に浮いた。と思った瞬間、渚の軽い体が乱暴に放り投げられ、廃墟の壁に叩きつけられた。ワームたちの爪が標的を逃し、互いに体をぶつけ合うのをよそに、渚は混乱したままずるずると地面に落ちていく。
そして渚は、見た。集まったワームたちの緑色の体に赤い閃光が走り、汚い体液をぶちまけ、緑色の炎を吹き上げて倒れていく姿を。
黒衣の人物が、渚に背を向けて立っている姿を。
「……君は、本当にお人好しだね」