【完結】暗殺教室 ―Twinkling of a star― 作:春風駘蕩
ZECTから解放された渚は一人、薄暗い夜明け前の街を歩いていた。加賀美からは施設で泊まっていくことを勧められたが、あまり眠ることができなかった渚は早々に退出し、自宅へ戻る道をとぼとぼと歩き、深い思考の中に入っていた。
頭の中で渦巻いているのは、昨晩加賀美に告げられた依頼についてのこと。天空の梯子計画という、自分ごときが背負えるとも思えない大それた話を突きつけられ、様々な感情に押しつぶされそうになっていた。
人類を救うという名誉への期待と、失敗した時のリスクへの恐怖。
ただの中学生男子に、その選択はあまりにも重すぎ、渚の胸の中にまるで鉛が入り込んだような重く苦しい気分をもたらしていた。
「…………僕は」
立ち止まって、渚は自問する。そもそも、自分は何に悩んでいるのだろうか。
失敗することが怖いのか、挑戦しないことに後悔すると思っているのか。もはや、自身が一体何に迷っているのかすらわからず、渚はただ悶々と考え続ける他になかった。
「…僕は、どうしたら…」
「一人で悩んでいては、出せる答えも出ませんよ?」
背後からかけられた声に、渚はハッと目を見開いて振り返る。朝日すらまだ上がっていない薄暗い世界の中、渚の少し後ろに黄色い担任教師が立っているのが見えた。
「……殺せんせー」
「ヌルフフフ……ZECTの人たちも酷ですねぇ。生徒にそんな決断をさせるなんて」
殺せんせーはいつも通りの笑顔に見えるが、その目には渚に対する気遣いに満ちている。生徒を見下ろしながら、超生物教師はうつむき気味の生徒の表情を案じていた。
「困った時は、誰かに愚痴を聞いてもらうのも手の一つですよ? 大人になれば、そうやってストレスを解消して問題を解決することもあります。一人で抱え込むと逆に体に毒です」
「…………」
渚はぎゅっと拳を握りしめ、殺せんせーの視線を受ける。相談したいのは確かだが、頭の中がぐちゃぐちゃで何を言えばいいのかもわからないのだ。
殺せんせーは急かすこともせず、悩み込む渚に向き合い続ける。触手の腕を組みながら、自分でも考え込むように天を仰ぎ、小さなため息をついた。
「……渚君、失敗することが怖いのは、誰もが思うことです。恥じることはありませんよ」
「え…………?」
「人は誰しも、大きな勝負を挑むことは何度もあります。それは時に、挑戦者を逃さず、決断を強いるものもあります。……ですがね、渚君」
指を一本立て、殺せんせーは顔を上げた渚を見つめる。その顔は、何度も見た悪戯小僧のような、A組や理事長に勝負を挑んだ時に見せた、思わぬ抜け道や戦い方を伝授するときの表情だった。
「逃げられる勝負なら、逃げてもいいと先生は思うのです」
「……!」
思わぬ答えに、渚は大きく目を見開いた。
「暗殺者は、正面切って戦いを挑みません。戦闘になる前に致命的な一撃を与え、一瞬のうちに結果を引き出す職業。勝てるかどうかわからない勝負には乗りません」
「……じゃあ、僕はどうしたら」
「道は一つではありません。すぐに決めることもないですよ?」
殺せんせーに諭され、渚は再び考え込む。とはいえ、先ほどまで胸中で渦巻いていた重い何かが一つだけ減ったような気分で、渚は悩み込むまで陥ることはなかった。
“教師”と相談したことが理由か、少しだけ心が軽くなった気がした。
そんな時だった。
「……いいこと言うね、殺せんせー」
ビルの陰から、聞いたことのある声が届いた。
「! その声は……」
殺せんせーが顔を上げ、声がした方を見る。渚もつられるように顔を向け、瞳に銀髪の美少女の姿を映して驚愕で言葉を失った。
「逃げるって、賢明な判断だと思うよ」
「……ヒバリさん」
目を見開く渚の前で、建物の壁にもたれかかって腕を組んだヒバリが、横目を向けて渚にうっすらとした笑みを見せていた。傍らには赤い大型のバイクが止められていて、暗い中でも重厚な存在感を放っていた。
ヒバリは笑みを浮かべたまま目を細め、呆然としている渚を見据えた。
「……ヒバリさん、どうしてここに」
「君に忠告をしに来たんだ。……これ以上、ZECTに関わらないように」
「……え?」
ヒバリはもたれかけていた背を起こすと、カツカツと靴の踵を鳴らして二人の元へ近づいていく。渚はなぜか緊張しながら、近づいて来くる少女の目を見つめ返した。
「ど…どうして? 前に言ってた、世界を壊すってことのために……?」
「…………まぁ、そうかな」
ヒバリはぐっと唇を引き結んで立ち止まると、すっと渚から目をそらして答えた。当たっているのか微妙な反応で、渚も殺せんせーも怪訝そうにヒバリを見つめる。
ヒバリはその視線に鬱陶しそうに顔をしかめ、散らせるように鋭く睨みつける。それ以上聞くなとでもいうかのような鋭く冷たい眼力に、かなり気弱な渚と殺せんせーはヒッと声を漏らして、体を竦みあがらせた。
「天空の梯子については知ってる。君は計画への参加を辞退し、大人しくしていればいい。あとはボクが片をつけるから、……君はいつも通り学校にでも一定なよ」
「……! そんなこと言われても……」
「…わからないかな。
反論しようとする渚の口が止まる。渚を見据えるヒバリの目はまるで凶悪な刃のように尖り、声は地獄の底から響くように低く恐ろしく聞こえる。目の前の可憐な少女からは、明らかな殺気が迸り、渚に突き刺さらんばかりだった。
「…………ッ‼︎」
「君さえ動かなければ、ZECTの計画は変更せざるを得ない。NEO–ZECTの奴らは乗っ取りなんて考えてるみたいだけど、ボクはZECTの奴らを潰せればそれでいい」
優しさのかけらも、感情すらも感じさせない冷たい声で語るヒバリを、渚は信じられない気持ちで見つめていた。かつて助けられた時に聞いたものとは全く異なる冷酷な声音で、彼女がそんな風に言い放つとは思わなかった。
勝手に裏切られた気分になった渚は、沸々と湧き上がってくる怒りに乗せられ、キッとヒバリを鋭く睨みつけてしまっていた。
「………どうしてそんなことが言えるの、ZECTは確かに乱暴だったかもしれないけど、聞いた計画では大勢の人を救えるはずなんだよ‼︎ それが…間違ってるっていうの⁉︎」
「……現実は、そう甘くない」
渚の睨みなど、小動物のような取るに足らないもののようにあしらい、ヒバリは小さく吐き捨てる。しかしそれでも、渚の反論は止まらなかった。
「君が言ってた『世界を壊す』って、そういうことなの⁉︎ 大勢の人を見殺しにして、……そんなことをするのが君の望みだっていうーーー」
感情のままに、言うべきではないことを口走ってしまう渚。だが、その瞬間。
「ーーー黙れよ、クソガキ」
氷のような声と冷たい感触が、渚の暴言を半ばで止めた。押し寄せる激情を封じ込めたような声は至近距離からのもので、冷たい金属の感触を渚は自身の首筋に感じていた。
そこで渚はようやく、自身の首に刃が突きつけられていることを理解した。一瞬で渚の懐に入り込み、少女は抜いた刃を渚の首筋に当ててみせたのだ。今や、渚の命は目の前に立って鋭い目を向ける少女に握られてしまっていた。
「たかが中坊が、でかい口を叩くもんだね。本気で自分が世界を……人類を救えるとでも思っているのかい? ……妄想も大概にしろよ、青臭いガキが」
「ッ………ヒバ、リ…さ……」
「ガキ一人に何かが救えるもんか。人間に人間が救えるものか。……できることと言ったら、邪魔になるもの全部をぶっ壊すことだけだ」
凄まじい殺気とともに放たれてくる、ヒバリの燃え盛るような感情の波。激情を一瞬で削ぎ落とされた渚は、少女の恐ろしい眼差しを真正面から受け止めて気づく。
これは、怒りだ。
金縛りにあったように硬直する渚と、刃を手に怒るヒバリ。
その近郊は、唐突に破られた。
「そこまでです」
「⁉︎」
「うわっ⁉︎」
ヒバリが突きつけていたはずの刃がひょいと持ち上げられ、渚の体が宙に浮く。目を見開いたヒバリは、ずっと傍観していた超生物教師が彼女のナイフを取り上げ、渚の全身に触手を絡みつかせて拘束されている姿を目にした。彼とヒバリで明らかに扱いが違ったが、見た目が女顔の渚が全身をヌルヌルされている姿のインパクトが強すぎて気にする暇もなかった。
「殺せんせー⁉︎ なんで僕だけ⁉︎」
「女性にむやみにヌルヌルするわけにはいきませんし……それに今回の喧嘩は君が悪い」
咎めるように言った教師は渚を下ろし、ヒバリにナイフを返して互いに向き合わせる。
冷静になった渚は、ヒバリに対して非常に醜い一言を発したことを思い出す。ヒバリにその意思があるのかもわからないのに、ヒバリが人々の命を軽く見る冷酷な女であるかのように叫んでしまったのだ。
「……ごめん、なさい」
「…………」
悲痛な顔で頭を下げる渚。ヒバリはさっと目をそらし、返されたナイフをしまって背を向けた。
「…………もういい。言いたいことは、僕も言った」
表情を見せず、冷たい声でそう言ったヒバリの背を、渚は申し訳なさそうな顔で見つめる。
肩を落としてしゅんとなる渚に罪悪感が湧いたのか、ヒバリは顔を盛大にしかめて振り向き、キッと鋭く睨みつけてから人差し指を突きつけた。
「と、とにかく! 君はもう関わるな。もしまたZECTの干渉があっても、絶対に断れ!」
「…………」
必死な顔で、渚にそう命じるヒバリ。その顔は邪魔者を邪険に追い出そうとするような意地の悪いものではなく、どこか、不安げに渚の身を案じるような表情だった。
奇しくも、それに気づいたのは一歩引いた場所に立つ、黄色い異形だけだった。
「……ヒバリさん、貴女はもしかして……」
殺せんせーが僅かに目を見開き、言いかけたその時だった。
† † †
同じ時、E組のサバサバ系ギャル中村莉桜は、クラスでも仲のいいポニーテール巨乳・矢田桃花、生物好きの倉橋陽菜乃とともに買い出しに出ていた。他より安く日用品を購入するため、友人とともに少し遠出をしていたのだ。
「いやー、結構買っちゃったね」
「思ったより安かったもんね」
両手に持った戦利品の袋を掲げ、中村が呟くと矢田と倉橋も同意しながら苦笑する。明らかに復路は内容量が限界で、女子たちの手には辛い重量となっていた。
さらには日頃の訓練の賜か、一般的な女子では持ち上げるのも辛いはずの重さを支えているあたり、本人たちも複雑な感情を抱いているようだった。
「しかしこんだけで足りるかねぇ。……男どもへの差し入れは」
袋を掲げる中村はつぶやき、ある一人の男子生徒のことを思い浮かべる。
「……渚の奴、大丈夫かねぇ」
虚空を見上げ、思わず中村が言うと矢田と倉橋も表情を曇らせる。
烏間先生から伝えられた話の後、渚の姿は見ていない。それどころか、帰宅途中にカルマたちとともにワームに襲われたと言う話を聞いている。その後、渚はZECTに身柄を預けられ、かろうじて無事であると知って安堵しているのだが。
「無事だと良いけどね……」
どこにいるとも知れない渚のことを案じ、ため息をつく女子三人。
と、その時中村の表情が一瞬で変わり、真剣な顔つきで辺りを見渡し始めた。その顔からはいつもの飄々とした様子は微塵も感じられなくなる。
(……何かいる………?)
矢田と倉橋も異変に気づいたのか、あからさまに顔を強張らせて互いに身を寄せる。三人の女子は背を合わせ、異変の正体を見極めようと声を殺す。
そして気づく。あたりから、無数の羽音とギチギチというきしむような音がしていることに。まるで何匹もの虫が詰め込まれた壺を開き、中を覗き込んだかのような気持ちの悪い音に、ようやくその正体に気づく。
ハッと振り向いた中村が、その光景を目にして言葉を失う。
ワームが大勢で群がる、悪夢の光景を。
† † †
「‼︎」
その声に、一斉に全員が振り向く。目のすぐ近くに耳の穴を開いた殺せんせーは、その声が自分の大事な生徒の一人のものであることに気づいた。そしてそのすぐ近くに、他にも生徒たちがいることも。
「この声は……倉橋さんと矢田さん⁉︎」
血相を変えた殺せんせーが、マッハで飛ぶ体勢に入る。そして一瞬だけ渚に目を向けると、真剣な表情で少年に告げる。ヒバリもまた、状況を理解して表情を変えた。
「渚くんはここに‼︎ 動いてはいけませんよ‼︎」
「チッ……またワームか‼︎」
舌打ちしたヒバリも懐からベルトを取り出し、腰に巻いて片手を天に掲げる。すぐさま飛来したカブトゼクターを掴み取ると、ヒバリはそれをベルトに装着し、角を反転させた。
「変身‼︎」
【
身にまとった瓶の装甲が弾け飛び、シンクの装甲が露わとなる。
【
そのままヒバリは、マッハで飛び出した殺せんせーを追うように加速し、一瞬で姿を消す。その間、一度も渚に目を向けることもなく、狩るべき獲物の元へと向かってしまった。
ただ一人残された少年は呆然となり、うつむいたまま佇んでいた。
「…………僕は、何も…」
目の前ではっきりと告げられた言葉に、渚は力なく肩を落とす。
“何もするな”
その言葉が深く、深く渚の胸に突き刺さる。元から世界を救うなんて大それたことを夢見たわけじゃないし、信じていたわけでもない。ただ、そんな夢物語が本当に叶うのならとわずかに期待し、惹かれてしまっていただけだ。
それなのに、なぜか心が痛い。突き刺さった言葉が、心を貫く。
そして同時に、どろりとした黒い感情が湧き上がるのを感じていた。
「……僕は、そんなにも弱い……⁉︎」
ギリギリと歯を食いしばり、拳を爪が皮を突き破らんほどに握りしめてしまう。
悔しい。そんな感情が渚の心を蝕み始めていた。
実力があり、それを自覚し認めてもらえているものたちが目の前で戦っているというのに、自分だけが足手まといのように切り捨てられているという現状に、渚は唇を噛んだ。
ーーー違う。
激情が、渚の体の中を駆け巡った。
ーーー僕は、英雄になりたいんじゃない。
僕は、認めさせたいんじゃない。
落とした視線が映すのは、昨日から腰に巻いたままのベルト。
今の自分には、害悪を斃す力がある。圧倒的な力で全てをねじ伏せることのできる存在が、渚にしか使えない絶対的な力が、今渚の手の中にある。戦う力が、そこにある。
「僕は……‼︎」
目に力がこもる。全身にみなぎる力が、瞳に炎を灯らせ、燃え上がらせる。
もう渚は、先ほどまでの気弱な雰囲気を有していなかった。温厚な表情は引き締まり、優しい眼差しは釣りあがり、眉間には険しい皺がよる。流れに翻弄される少年の姿はもうそこにはなく、代わりに立っていたのは。
“覚悟”を決めた、男の姿だった。
「変身……‼︎」
渚の声に応え、どこからか青い金属の甲虫・ガタックゼクターが飛来し、渚のベルトに収まる。瞬時に六角形のエネルギー膜が形成され、その下に重厚な鎧が形成されていく。それとほぼ同時に、渚はガタックゼクターの牙を左右に開いていた。
【
鎧が弾け飛び、その下から二本のヤイバと青い装甲、そして風にはためくチャイナドレスが現れる。クワガタを模した鎧と仮面を纏い、真紅のバイザーを輝かせ。
渚は、ゆっくりと顔を上げた。
風を切り、殺せんせーとヒバリは悲鳴の聞こえた方へと急ぐ。
本来、ヒバリに誰かを助ける義理などなく、戦う必要などない。教師とともに向かっているのは、単に悲鳴を聞いて見殺しにすることが気に食わなかったためだ。
だが、そのほかにも、渚との口論が胸に残っていることもあった。
「くっ……‼︎」
自分らしくもない、と内心で舌打ちする。
隣では焦った表情の殺せんせーが一心不乱に宙を飛び、生徒の安否を案じている。まさかこの怪物のせいで調子が狂っているのではないだろうな、と考え込み、今はそんな場合ではないと頭を振る。
そして時期に、ワームに取り囲まれる少女たちの姿を目にする。じりじりと迫ってくる異形を前に、弱腰になりながらも棒切れを構えた中村たちが身構え、鋭く睨みつけながら後ずさっている。度胸は目を見張るものだが、さすがに絶望的に見えた。
「皆さん……‼︎ 今行きまーーー」
殺せんせーが、さらに速度を上げようとした時。
青く鋭い風が、二人の傍を駆け抜けた。
「ーーー⁉︎」
目を見開く、超生物と赤い暗殺者。
そして両者は、目撃する。少女たちに群がる異形の群れに向かって、閃光を走らせた青い風が刃を振るい、一瞬のうちに異形の体に食らいつき、切り裂き、バラバラにし、一撃で絶命させていく瞬間を。汚い緑色の肉片へと変わり果てた異形の肉片が膨れ上がり、爆散する瞬間を。
淡々と、冷酷なまでに振るわれた死神のヤイバがワームたちの体を両断し、汚らしい体液を身に浴びて辺りに撒き散らす光景を。
ドォン‼︎
爆散し、緑色の炎を吹き上げる中で、中村は咄嗟に閉じていた目を開く。強い風で髪が揺らされる中、中村は自分たちを守るように立つ、青い鎧を纏った少女のような少年の姿を目にし、目を見張った。
「……な、渚……?」
その声に、渚は答えなかった。
ただじっと、吹き上がる炎を前に、立ち続けているばかりであった。
† † †
加賀美の部屋を、再び訪れる者がいた。その少年は異様な雰囲気を放ち、加賀美をじっと見つめていると、やがて小さく口を開いた。
「…………僕が、やります。やらせてください」