家庭科室はバニラエッセンスの甘い匂いに包まれていた。
雪ノ下は勝手知ったる様子で冷蔵庫を開けて、卵やら牛乳やらを持ってくる。
他にも秤やらボウルを取り出し、お玉や泡だて器などの調理用具をかちゃかちゃ準備を始めた。
……今更なのだが、許可取ったっけ?今、勝手に使用している状態なんじゃ……
最悪、責任者に対応してもらおう、うん。
で、その責任者さん(部長)が準備をしている間、由比ヶ浜はエプロンを着けていた。
着なれていないのか、紐の結び目が少々出鱈目になっているが、おそらく許容範囲内だろう。
「準備ができたわ。由比ヶ浜さん、まずは作ってみてちょうだい」
「あ、はーい、よーしっ!やるぞー」
由比ヶ浜はやる気満々のようだが、何故だか俺にはやらかす気にしか見えなかった。
……ところで、俺は何をすればいいのだ?
「なあ雪ノ下、俺は何をすればいい」
「比企谷くんは味見して感想を言うだけでいいわ。私が由比ヶ浜さんを監視しておくから、本でも読んで待ってなさい」
「了解」
味見以外することがないというにはつまらないが、監視が二人いたら今度は由比ヶ浜がやりづらいだろう。
故に、家庭科室の後方に積まれている椅子を下ろし、そこに腰を掛け、ブレザーのポケットにしまっておいた文庫本を取り出し、読み始める。
調理している場所と少し離れたところに座っているのだが、あまりにも由比ヶ浜が失敗し過ぎているらしく、それに対応する雪ノ下の声が聞こえてくる。
「由比ヶ浜さん、溶き卵に殻が入っているわ。まずはそれを除きましょう」
「小麦粉、ダマになっているわよ」
「バターを固形のまま入れるのはやめてちょうだい」
「バニラエッセンスは少しでいいのよ、苦くなるわ……練乳入れて緩和しようとしないで。あと牛乳も入れすぎ……」
「由比ヶ浜さん、それは砂糖ではないわ、食塩よ。しかも入れすぎ……無事なところを一旦回収しましょう……何故回収せずに砂糖を投入するの?おかげで出来なくなったわよ」
「まだあなたに隠し味は早すぎるわ。だからそのコーヒーは仕舞って……なんで入れるの!?しかも入れすぎよ。全然隠れてないわ。そして今度はなぜ味の素をいれるのかしら……」
相当悲惨なことになっているようだ。
気になって雪ノ下たちの方を向いてみると、雪ノ下は青い顔をして額を押さえながらうずくまっていた。
一方由比ヶ浜は鼻歌を奏でそうな表情で調理をしていた。ただしボウルの中身はゴゴゴゴッとでも聞こえてきそうなおどろおどろしい雰囲気を放っている。
……俺、帰ってもいいかなぁ……
例のブツが焼きあがった頃には何故か真っ黒なホットケーキの様なものができている。
これはもはやクッキーではない。物体Xだ。
「な、なんで?」
由比ヶ浜が愕然とした表情で物体Xを見つめている。
「理解できないわ……もしかして由比ヶ浜さんて、ギャグマンガの世界の出身なのかしら……」
未だ顔の青い雪ノ下が呟く。
小声であるあたり、由比ヶ浜に聞こえないように配慮はしているのだろう。
だが、その気持ちは痛いほどわかる。
料理下手が砂糖と塩を間違えるのは一種のお約束みたいなところがあるが、リアルでそれをする人はそうそういない。まして、味の素を入れるとか完全に向こうの世界の住人だ。
ある意味、それにリアルでお目にかかれた俺は幸運なのかもしれないが、そんな幸運などいらない。
「み、見た目はアレだけど……食べてみないとわからないよねー。ほら、腹に入れば皆同じって言うじゃん?」
「そうね、味見してくれる人もいることだし。比企谷くん、味見の時間よ」
そう言って雪ノ下はよろよろと立ち上がる。
だが雪ノ下、お前は言い間違えている。
「雪ノ下、これは味見じゃない……これは毒見と言うんだ」
もしくは拷問。または死刑(精神的な意味で)。
「どこが毒だし!……毒、うーんやっぱり毒かなぁ?」
威勢よく突っ込んだわりには見た目が不安なのか由比ヶ浜は小首をかしげて「どう思う?」みたいな視線を向けてきた。
物体Xを左手でつまみ、右手で弾いてみる。
すると、カキーンとクッキーであれば鳴るはずのない音が響く。
物体Xの見た目は木炭、または鉄鉱石。しかも固い。
食べられない原材料は使っていないだろうが、食べられるかどうか不安になってくる。
その不安が顔に出てしまったのか、雪ノ下が俺に声をかける。
「やっぱり、私も食べるわ。私はあなたに試食をお願いしたわけで処理をお願いしたわけじゃないもの。それにこの惨状を招いた責任は彼女の依頼を受けた私にあるもの。あと由比ヶ浜さん、あなたがこの物体を作ったのだから、勿論あなたも食べて処理に参加しなさい」
「うう、はぁい……」
結局、三人で物体Xを処理することになった。
「……死なないかしら?」
「俺が聞きてぇよ……」
結論から述べると、由比ヶ浜の作ったクッキー(という名の物体X)はギリギリ食べることができた。
マンガみたいに食べた瞬間にリバースして倒れることもなく、むしろ気絶できるだけ幸せだよな、と思わせるリアルな不味さだった。
塩辛く、甘苦い。そして時々味の素。
水で流しているとは言え、口の中が非常にカオスな状態だった。いっそ気絶してしまいたい。
それぞれに割り振られたノルマを達成すると、雪ノ下が淹れてくれた紅茶で口直しをする。
ようやくひと心地ついてそれぞれの口からため息が漏れる。
その弛緩した空気を引き締めるように雪ノ下がくちを開く。
「さて、じゃあどうすればより良くなるか考えましょう」
「料理本通りに作ること、隠し味とか一切使わないこと、材料を間違えないこと」
「え、でもそれなんかつまらなくない?」
「恐らくそれが妥当よね」
「うう、それが妥当なんだ……やっぱりあたし料理の才能ないのかな……。才能ってゆーの?そういうのないし」
いや、これは才能以前の問題だと思うんだが……。むしろ悪い意味での才能なら有りそうだし。
「由比ヶ浜さん、その認識を今すぐ改めなさい」
如何やら雪ノ下は前の由比ヶ浜の発言に許容できないものがあったらしく、先程とは打って変わって冷たく、辛辣な口調になる。
「あなたのクッキー作りを見て思ったのだけれど、あなた今までこういうのを作ったことは一切無いでしょう?」
「う、うん。確かにクッキー作ったのは今日が初めてだけど……」
「なら、あなたは最低限の努力をまだしていない。最低限の努力もしない人間には才能がある人を羨む資格はないわ。成功出来ない人間は成功者が積み上げてきた努力を想像できないから成功しないのよ」
雪ノ下の概ね間違ってはいない。
成功出来ない人間が仮に成功者が積み上げてきた努力を想像でき、かつ同じようなことをしたからと言って成功できるわけではない。本当に成功出来る人間は少数なのだから。
だからこそ成功している人間は人の何倍もの努力をしているのだ。あくまでも才能はそれを手助けしているだけ。正論ではある。
だが知っての通り、正論ではこの世界は回らない。まだ十六、七年しか生きていない彼女相手には少々、いやかなりキツイ言葉だろう。
その証拠に、由比ヶ浜の顔には戸惑いと恐怖が浮かんでいる。
それを誤魔化すように由比ヶ浜はへらっと笑顔を作った。
「で、でもさ、こういうの最近みんなやんないって言うし。……やっぱりこういうの合ってないんだよ、きっと」
由比ヶ浜がそう言い終えたその瞬間、カタッとカップが置かれる音がした。
それと同時に冴え冴えとした怜悧な雰囲気がこの家庭科室を支配する。
「……その周囲に合わせようとするのやめてくれるかしら。ひどく不愉快だわ。自分の不器用さ、無様さ、愚かしさの遠因を他人に求めるなんて恥ずかしくないの?」
雪ノ下の語調は強かった。ハッキリとした嫌悪がにじみ出ていて、流石の俺も「う、うわぁ」と小声で漏らす程リアルに引いた。
由比ヶ浜は気圧されて黙り込む。俯いてしまって表情こそうまく読み取れないが、ただスカートの端をぎゅっと握り締める手が彼女の心を表していた。
俺は周囲に合わせることは苦手だが、それを行っている人間を表立って責めようとは思わない。
何故なら、それも立派な処世術だからだ。
それ以外にも、日本人は昔から周囲に合わせることを得意とする民族であることも理由の一つだ。
これはアメリカや南米の日系社会の現地での溶け込みようを見ればわかるし、他にも『赤信号 みんなで渡れば 怖くない』のフレーズからもわかる。
おそらく由比ヶ浜はコミュニケーション能力が高いのだろう。そうでなくてはクラスでも派手なグループに属し続けるのは困難だ。そのため、人に迎合するのがうまい。
それは、孤独と言うリスクを冒してまで自己を貫く勇気に欠けるということだ。
下手すれば『自分』すら見失ってしまう。
逆に雪ノ下は我が道を突き進む人間だ。その突破力は単体なら折り紙付き。一人であることをむしろ誇らしいことであるこのように振る舞う。
この二人は全くタイプが違うのだ。しかも極端に。いっそ二人を足して二で割ったらこの世界でも生きやすい人間ができそうなものだ。
由比ヶ浜は瞳を潤ませながらも何とか言葉を紡ごうとする。
「か……」
帰る、とでも言うのだろうか。今にも泣き出しそうなか細い声が漏れた。
無理もない。ただ依頼をしてクッキーを作っただけでここまでボロクソに言われるなど一体誰が予想できるのだろうか。
肩が小刻みに震えているせいで、声はゆらゆらと頼りなげだ。
「かっこいい……」
「「は?」」
予想していた続きとはあまりにもかけ離れた言葉が彼女の口から紡がれたせいか、俺と雪ノ下の声が重なった。
……大丈夫かコイツ?
年内最後の更新となります。
では皆さん、良いお年を。