間桐臓硯になりました。―ありえんから始まる聖杯戦争― 作:桜雁咲夜
ひらひらと夜の空を青色の燐光をまとった蝶が舞い飛ぶ。それは見るものを魅了しそうなほど、はかなく美しい。
だが、その姿は認識阻害の魔術をかけられているため、誰にも見られることはない。
見ることが出来るのは、開かれた魔術回路を持つ人間くらいのものだろう。
その蝶は一軒の邸宅の敷地に入り、何かを探すように窓辺を舞い……やがて一室の開け放たれた窓枠に羽を休めた。
「……当家に何用か? このような夜更けに」
室内にいた男は机に向かったまま、窓の方を向いた気配はない。
しかし、窓辺に蝶がいることはわかっており、それに向けての言葉のようだった。
「―――やはり、使い魔は感知されますか」
蝶の燐光がきらめき、静かな声が響く。その声は、変声機を使用したかのような機械音声で元の声は判断できない。
「何を言うのやら。魔術感知させるようにわざわざ強めの魔術をその蝶にはかけてあるようだが?」
「はは、当主殿とのみ話がしたかったもので……出迎えて頂こうとしただけですよ、遠坂殿。何、そちらに取っても悪い話ではないはずですよ」
明るい物言いに室内の男――遠坂時臣は、やっと視線を蝶に向け
◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆◆
「ほんとすんません。昨日は寿司を奢ってもらった上に、朝飯用意して貰って」
昨日は話し込んでしまい、時間も時間だったので夕食は出前の寿司を頼んだが、今朝の朝食は私が作ったのだ。
彼は、憑依する前も今も朝はパン食だったそうで、和食であることに感激していたが、一見手が込んでいるように見えて、実は簡単な手抜き料理であることは言わないでおく。
「あの……おかわりいいっすか?」
「はいはい、構いませんよ」
申し訳なさそうに言う龍之介の手から笑って茶碗を受け取り、五穀飯を盛って渡す。
大根と油揚げの味噌汁に五穀飯、里芋と鶏の煮物、海苔を巻き込んだ卵焼きに大根おろしを添えた小鉢とほうれん草の胡麻和え、そして大根と大根の葉を使った浅漬け。
献立にやけに大根が多いのは、数日前に大根が安かったため、つい買いすぎたせいなのだが――それはそれとして。
これが、本日の朝食だ。
大根と油揚げは多少煮過ぎても味噌を入れる前であれば味は変わらない。
里芋と鶏の煮物は圧力鍋を使い濃い目に味付けすれば、芋を煮る時間を短縮できる。
卵焼きは少し油を多めにフライパンに敷けば、厄介な焦げ付きはしない。
ほうれん草の胡麻和えは、市販のすりゴマとめんつゆがあれば楽。
浅漬にいたっては大根を千切りにして、よく洗った大根の葉をみじん切りにしたものを塩で揉んでから塩昆布を和えて一晩冷蔵庫に置いただけ。
元主婦なので手抜きでもそう取られない料理は心得ている……作ってる絵面はおっさんが作っている残念なものだとしても。
「そういえば、昨日はどの辺りを見てきたんですか?」
「新都のあたりっす」
煮含めた鶏肉と五穀飯を食べ、余り噛まないうちに味噌汁で流すように龍之介は飲み込むとそう言った。
文字通りの老婆心ながら、もう少し噛む習慣をつけた方がいいと思うのだが、さすがにそれは口にはしない。
「こっちついてから、とりあえずハイアットホテルの写真撮って、倉庫街見に行って。コペンハーゲンとアーネンエルベにも行ってみたくて探したけど見つからなくて諦めました。最後に言峰教会に行ったんですよ。いやー、教会行って驚いたけど、一般人にも開放されてて結婚式の申込できるんすね。受付してる神父さんがやたらマッチョなおっさんで……アレって、やっぱり言峰璃正神父っすよね? あまりにそのまま過ぎて笑いこらえるのが大変でした」
その後タクシーを拾って、間桐邸まで来ましたと一気に語るとまた食事を続ける。
あー……うん。
コペンハーゲンとアーネンエルベって何?とか、冬木教会だって一応普通の教会としても機能してるんだから結婚式だって受け付けてるだろうとか言いたいことはたくさんあるのだが、一番心配になったことを聞いてみた。
「……龍之介くん。冬木教会……言峰教会で変なことはしてませんよね?」
「普通の観光客な行動してましたから大丈夫っす。写真ダメって言われないし、表示にもなかったので撮りまくってましたけど」
一抹の不安を感じるが、羽蟲からの情報をかえりみても同じようなものなのだから恐らく大丈夫だろうとは思う。
「今日はどちらに行く予定です?」
「えーと……今日は遠坂邸と衛宮邸、それから柳洞寺、穂群原学園に行ってこようかなと。折角なので写真に納めてくるつもりっす」
ポケットに入れていた手帳を開いて、龍之介は予定をチェックしている。
「じゃあ、あえて言っておきますが、遠坂邸は見るだけにして写真に撮るのはやめたほうがいいですね」
「写真撮るだけなのに、だめっすかね……?」
「普通の観光客なら問題はないでしょうが……貴方の立場は間桐の客人です。遠坂と間桐は不干渉の決まりですから、その行動は寝た子を起こすことになりかねませんよ」
彼も一応は自分の立場を理解しているとは思うが、念を押しておくことにする。
これで諍いが起きては困るのだから。
「く……宿代浮かそうと思って臓硯さんとこに泊まらなければ良かったのか……!」
がっくりとうなだれた龍之介。後悔するくらいなら、最初からよく考えてから行動すればいいと思うのだが、私はあえてそれは言わないでおいた。
◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆◆
ポニーテールをなびかせた真新しい半袖のセーラー服姿の少女が、竹刀袋と道場着をカゴに入れた自転車に乗り、商店街の人ごみを器用に避けて走っている。
セーラー服はこの近くの公立中学の制服だ。同じように付近にある私立中学の制服は、学園と呼ばれる高等部と同一のブレザータイプのものだから、学校名がすぐわかる。
「あ」
少し先の道に濃い灰色の日傘を差して歩く男性の後ろ姿を見かけると、少女は嬉しそうに声を上げて自転車を止めた。
「やほーっ!! 間桐のおじちゃんっ!」
力いっぱい手を振り、大きな声で挨拶をする。
その行動と声に気がついた男性が足を止めて振り返った。
「おや。こんにちは、大河ちゃん」
彼女が間桐のおじちゃんと呼ぶ彼は、五十代前後のいつも着物を着て白髪混じりの長い髪を一つにまとめた一見芸術家のような男だ。実際の年齢は聞いたことはないが、自分の祖父ときっと同じくらいなんだろうと大河は思っている。
この商店街から少し離れた所に大きな洋館の屋敷を構えており、時々この商店街に買物に現れ、同居の家族もいないせいか大河のことを実の孫のようにかわいがってくれている人だ。
「これから部活かい?」
「うん! おじちゃんは買物?」
そして自転車を降りて近くによった大河は、彼のそばに見慣れない若い男性がいて、自分を見ていることにようやく気がついた。
「えっとぉ……?」
「こんにちは」
ニコニコと青年は微笑んで、大河に挨拶をする。
「この人を案内してたんだ。紹介しよう、彼は雨生龍之介。大学生で休みを利用して観光に来たんだよ」
「よろしくな」
握手を求めてか、青年は右手を差し出してきた。
思わず大河はまじまじと相手を見た。
歳の頃は十代後半から二十代になるかならないか。細い猫っ毛のようなサラサラの黒髪で、銀縁の眼鏡をかけていて、顔立ちは整っている。
クラスメイトや友人達なら、カッコイイなどと騒ぐのだろうなと大河はぼんやりと思った。しかし大河から見れば、優男過ぎて龍之介は好みからは若干離れている。彼女の好みは年上なのはもちろん、どこか影があるような渋い人がいいと密かに思っているのだ。そんな相手は今の所映画やドラマの中でしか見たことはないけれど。
とはいえ、いくら傍若無人な大河といえど、今は年頃の女の子。だから、少し挙動不審になってしまった。
「……藤村大河デス! よろしくね、おにーさん」
さすがに自分の行動が少々恥ずかしかったのか、ほんのり頬を赤く染めて龍之介と握手をした。
◆◆ ◆◆ ◆◆ ◆◆
……おかしい。
なぜ、私はベンチに座って、たい焼きを食べているのだろう。
確か当初の予定では、龍之介を商店街まで案内して、私は買い物してから屋敷に先に帰るという話だったはず。
間違い無くこの原因になったポニーテールの少女を横目で見て私は少し遠い目になった。
藤村大河。腹ペコ傍若無人娘の彼女も今年中学生になったが、相変わらずの欠食児ぶり――剣道部にも入ったせいかそれがさらに加速している気がする――で、今日も私を見かけると嬉しそうに声をかけて駆け寄ってきた。
龍之介に彼女が中学生時代の藤村大河だと小声で教えると感嘆の声を上げていた。
彼女にも龍之介はできるならば会いたかったらしい。
そして、お腹が空いているという大河のお願いにより、屋台の江戸前屋でたこ焼き二箱とたい焼きを一つ購入し、今に至る。
私の隣に座って美味しそうにたこ焼きを食べる大河と、龍之介は立ったまま楽しそうに何か会話をしていた。
龍之介を見た大河が少し赤くなって挙動不審になっていたのを思い出すと、これは龍之介に少し脈があるのかもしれない。だが、あの大河だ。衛宮切嗣に一目惚れするはずだし、身近に居ないタイプだからちょっと恥ずかしいという所だろうか。
それにしても、よく食べる二人である。
確かに時刻は十時のおやつ時ではあるが、龍之介にいたっては朝は茶碗三杯もおかわりし、おかずまで追加したというのによくたこ焼きが入るものだ。
そういえば、大河は部活に行く途中だと言っていたが、時間は大丈夫なのだろうか?
「大河ちゃん、時間は大丈夫なのかい?」
「んぐ……んんっ、問題ないよー。体育館の使用時間の都合で十一時集合だし!」
ふと見れば、彼女の箱はもう空になろうとしていた。
私はまだたい焼きを食べ終わってさえいないというのに。
「ふぅー……ごちそうさまでした! じゃ、部活頑張ってくるー」
たこ焼きの箱をゴミ箱に放り込むと、大河は自転車のペダルに足をかけた。
「おう、がんばれ。一級試験受かるといいね」
「がんばる!」
激励に嬉しそうに笑顔でピースをすると、そのまま大河は自転車で走り去っていった。
「……一級試験って大河ちゃんは何の試験を受けるんでしょう」
私は大河との会話を龍之介に丸投げしていたため、全く内容を聞いていなかったのだ。
「ああ、来月に剣道の一級試験があるそうで」
そう言って龍之介は剣道の段級位を取るためにかかる年数について教えてくれた。
意外なことだったが、今の龍之介は剣道二段という段位を持ち、過去の教師時代には剣道部の顧問をしていたのだという。
「ま、大河は一発合格だと思うっす。
肩をすくめて、カメラを片手に龍之介は笑った。
――そんな"日常"の出来事。
……どうして、大丈夫だと思ったのだろう。
zeroの物語は既にはじまっていたのに。
商店街で龍之介とは別れ、予定通り買物を済ませて私は先に屋敷に帰った。
別に彼を案内しても良かったのだが、下手に関わりあいになる姿を見せるよりはいいだろうと思ったのと若者の体力に自分がついていける自信がないのでそれはやめた。
それに部屋の掃除や家事といった作業が私を待っている。
お昼を軽く済ませて、読みかけだった小説を開いたのは午後二時を少し回ったくらいのことだった。
玄関のチャイムが鳴った。
龍之介は夕方には帰るとは言っていたが、それにしてはずいぶん早い。
視点を使い魔の羽蟲のものにすると龍之介は玄関先で右手を抑えたまま、真っ青な顔色をして立っている。
慌てて、扉を開けて彼を迎え入れた。
「どうしたんですか? どこか具合でも悪くなりましたか?」
その言葉に、彼は
「臓硯さん……どうしよう……右手に令呪が……」
……どうして、大丈夫だと思ったのだろう。
zeroの物語は既にはじまっていたのに。
龍之介のその一言に私は打ちのめされることになった。