ゼラムに戻ってしばらくの間、バージルは刺激のない日々を送っていた。とはいえ、それは彼に限ったことであり、今のゼラムではある噂で持ちきりになっていた。
それは旧王国が聖王国への大規模な侵攻を企てている、というものだった。
スルゼン砦のことを考えれば、トライドラの他の砦やトライドラそのものを陥落させることはたいして難しくないだろう。しかし、旧王国が聖王国に対する侵攻作戦を企てているのは明らかな誤りだ。もはやデグレアの意思決定権はすべて何者かに握られているのだから。
しかしそれを知っているのはバージルとマグナ達のごく少数だけである。真実を知らない大多数の人々は戦争が間近に迫っていると考えているようで、どこか不安げな雰囲気を漂わせながら顔をしながら街並みを歩いていた。
それでもゼラムはまだマシな方だ。物流は乱れていないし、買い占めも起こっていない。見回りの騎士は増えたが、治安も心配されたほど悪化していない。むしろ騎士が増員されたことでよくなったと感じる者も少なくないだろう。
そんな状況の中、バージルはいつも通り好きなように過ごしていた。週休六日を標榜する弟もびっくりの状況だ。
黒の旅団やレイムやガレアノなど悪魔に関する案件は、ひとまず向こうの出方を伺っている状態だった。
彼ら悪魔は人間よりずっと強力な力を持つにも関わらず、ずっと裏方に徹しているところを見ると随分と用心深いように思える。そんな者達にバージルが直接関わろうとすれば、逃げの一手を打たれる恐れがあった。おまけに仮に見つけたところで、もはやそれはバージルが期待したような相手ではないのだ。
だからこそバージルは、向こうも後戻りができない段階になるまで待ってやろうと考えているのだ。
「あっ、先生! お久しぶりです!」
玄関の掃除をしていたポムニットが喜びの声を上げた。彼女が先生と呼ぶ人物は三人だけ。その内の二人は島から離れることはまずないので、実際にはたった一人に絞られる。
「急にお邪魔しちゃってごめんなさい」
ポムニットに案内されてきたのは思った通りアティだった。少し前にこの家の場所を手紙に書いて教えていたため、それを頼りに尋ねてきたのだろう。
「アティか」
「えへへ、来ちゃいました」
バージルに視線を向けられたアティは、はにかみながら言った。手には外套を持っている。さきほどまではいつもの恰好の上に羽織っていたのだろう。
「今、何か淹れますから座って待っていてくださいね!」
嬉しそうに笑いながら元気よくそう言ったポムニットは厨房に消えていった。アティは勧められるままにバージルの正面に座った。
「あ、そう言えば私、サイジェントから出発するとき手紙を預かっていたんでした」
「俺に?」
聞き返した。少なくともバージルにはサイジェントの誰からも手紙をもらう理由は思いつかなかった。
「はい、渡してくれたのはスカーレルですけど書いたのはレイドさんらしくて……」
アティも少し困った顔をしながら答えた。現在、サイジェント騎士団の副団長を務めているレイドとバージルは、一応面識はあるものの、数回会話した程度に過ぎない。
そんな相手からの手紙とは不思議に思ったが、とりあえず読んでみることにした。
「……ほう」
一通り目を通したバージルは薄く笑いながらそう呟いた。
手紙に書いてあったのはサイジェントに現れた悪魔のことが主であった。もちろん冒頭には簡単な挨拶も書かれていたが、全体的な内容から考えれば手紙というより報告書と称したほうがしっくりくる。
その中でバージルが注目し、レイドも伝えたかったことは、霊界と魔界、二つの世界の悪魔が連携しているような動きを見せたことだった。これはどう考えてもサプレスに現れた悪魔と無関係ではないだろう。
これまでの情報から推察するにサプレスに現れた悪魔はやはり最低でもゴートリングなどの中級悪魔以上で、場合によっては大悪魔の可能性も捨てきれない。その上、サプレスの悪魔も使っているとすれば、魔界からは下級悪魔以外を呼び寄せられないのかもしれない。あるいはただ単にお山の大将を気取っている愚か者か。
いずれにせよこれでムンドゥスが関わっていないことははっきりした。もしも、かの魔帝ならば呼び寄せることができなくとも、己の力で悪魔を創造するに違いない。さらにムンドゥスは配下の幹部クラスの大悪魔でさえ、役立たずと判断すれば切り捨てる冷酷さを持っている。そんな存在がサプレスの悪魔を利用するはずがないのだ。
「何が書いてあったんですか?」
珍しい反応にアティは手紙の内容が気になり尋ねた。バージルはあっさりと手紙を差し出した。
「読みたければ見ろ」
アティはその反応に拍子抜けしつつもやはり好奇心には勝てなかったのか、手紙を受け取った。
「それじゃあ、遠慮なく見せてもらいますね」
手紙を渡したバージルはさきほどまで読んでいた本を再び読み始めた。
「あの、バージルさん。これってどういうことですか?」
しばらくすると、読み終えてさらに分からないことがあったのか、アティは疑問を呈した。
「書いてある通りだ。悪魔が手を組んだに過ぎない」
ただ、バージルはなんの物的証拠もないが、この動きが本格的な攻撃の前の偵察行動であるように思えた。人間も悪魔も変わりなく偵察や拠点の構築など目的は様々であるが、人の軍隊と同じで戦力の一部を先行させるのは決して珍しくはない。
バージルは手紙に書いてある悪魔がそうした先行する戦力なのではないかと疑っていたのだ。
「それって大変なことなんじゃ……」
サプレスの悪魔は過去にリィンバウムに侵攻したことがある好戦的な種族だ。
「そうだとして、お前に何ができる?」
言外に何もできないだろうという意思を込めながら言った。現れた悪魔に対抗するならアティも力になれるだろうが、悪魔同士の協力関係を解消させることはまずできない。なにしろ相手はサプレスにいるのだから当然だ。
「それはっ……そうですけど……」
もちろんそれはアティも理解している。しかし同時に今の状況に嫌な予感がしているのだ。まるで大きな災いの前触れのようなそんな予感だった。もしかしたら彼女がゼラムまで来たのは、その予感に無意識に突き動かされた結果かもしれない。
「納得したなら大人しくしていろ。……それに、もし本格的に現れるようなら俺がやる」
もしバージルの予想が当たっていて、手紙に書かれていたことが本格的侵攻の前触れだとすれば、本体はきっとそう遠くない日にリィンバウムに姿を見せるだろう。
そうなれば彼は一人で戦うつもりでいた。別に格好つけているわけではなく、犠牲を減らしたいわけではない。ただ誰にも邪魔されたくないだけなのだ。
バージルの力はもはや何者の追随も許さぬほど大きく、そして強くなっている。それ故、誰かと肩を並べて戦うということには極めて向いていない。元々、共闘に向く性格ではなかったが、今はそれに加え彼自身の強すぎる力が共闘の障壁となっているのである。
そうした理由のため、以前に増してバージルは単独での戦闘を行えるよう気を払っているのだ。
「わかりました。……でもそうなったら、私にも手伝わせてくださいね」
「考えておこう」
彼女の言葉に淀みなく答えた。あのお人好しのアティがただ大人しくするわけがないことくらい、十年以上の付き合いのバージルには予想できていた。そう答えたのは勝手に動かれるよりも、こちらで指示を出してある程度行動をコントロールしたほうが、彼にとっても都合がいいからだ。
幸い悪魔についてはバージルの方が一日の長があるため、サイジェントの時のように自然とこちらが主導権を握ることは可能だろう。
そんなことを考えているとポムニットがカップを持って現れた。
「お待たせしました」
とりあえずこの話はここまでとして、一息つくためにバージルとアティは持っていた本と手紙を机の上に置いた。
霊界サプレス。霊的な存在が住むはずのこの世界に肉体を持った存在が悠然と佇んでいた。その名はベリアル。この世界の覇者となった悪魔である。
もはやサプレスに彼と正面からぶつかるだけの勢力は存在しない。もちろんベリアルがここに来たばかりの頃は、天使も悪魔も彼を敵と認定し三つ巴の戦いになったものだが、それも今は見る影もない。
魔王と名乗る比較的大きな力を持つ悪魔は大部分を始末し、残る少数の魔王も辺境に身を潜めているのかほとんど姿を見なくなった。
ベリアルのかつては炎獄と呼ばれる魔界の一角を制し、数多の悪魔を支配下に置いていたことがある。しかし、ここではそうした魔界の悪魔を呼ぶことは極めて難しかった。正確に言えば依り代を必要とする下級悪魔なら、呼び寄せることにはたいして苦労はしないのだが、己のように肉体を持つ悪魔を呼ぶのは困難を極めた。
それでも一時的に境界を薄くすることで数体は呼び寄せることはできたのだが、それだけでは再びかつてのような軍勢を組織することなど夢のまた夢だった。
そこでベリアルはこの世界に住む悪魔を利用することにした。従っていた魔王を失った悪魔たちの命を助ける代償に己に従わせたのである。それはこの世界の存在を下等生物と見なしていたベリアルにとって苦渋の決断だったのは言うまでもない。
「リィンバウム、そして人間……」
霊界の覇者は次に攻め入る世界の名を呟いた。肉体のない存在ばかりのこの世界とは異なり、リィンバウムには人界のように人間が住んでいるらしい。
ベリアルにとって人間はただの餌に過ぎない。しかしそんな矮小な存在のために同胞たる悪魔を殺し、魔界の支配者である魔帝を封じた存在を知っていた。
その名はスパーダ、かつては魔帝の右腕でありベリアルが憧れた悪魔である。
スパーダの裏切りは二千年たった今でも尾を引いている。幾分か前にはようやく封印から解放された魔帝が、スパーダが人との間に成した息子によって再封印されたのだ。
そしてベリアルもまたその男に敗北した。だが、瀕死の状態の時のことをほとんど覚えていない。次に彼の記憶が鮮明になったときには既にこの世界に来ていたのだ。
意図せず霊界サプレスにやってきたとはいえ、悪魔たるベリアルの為すべきことはこれまでと何一つ変わらない。
「あの世界の愚か者どもはどう抗うのか、楽しませてもらうとしよう」
すなわち、戦いである。
リィンバウムに侵攻するのも悪魔の本能ともいうべき戦いを求めてのことだった。
そのための準備は着々と進んでいる。サプレスとリィンバウムの間には結界が張ってあるようで自由に移動することはできない。もっともベリアルの力ならば穴を開けるくらいのことは難しくはないのだが、その前に配下を送り込んで状況を確認しているのである。
独白しながら考えごとをしていると、不意に後方から天使の力を感じた。
「ふん、どうやらまだやるらしいな」
振り向くと感じた力の通り天使たちがこちらに向かっていた。その理由は一つしかない。ベリアルの打倒である。
ベリアルの存在を知った後、それぞれの魔王ごとにベリアルとも天使とも戦った悪魔とは違い、天使たちは一致団結しベリアルの打倒を第一として戦いを挑んできたのだ。そこに作為的なものを感じていたベリアルだったが、今となっては、もはやたいした問題ではない。
なにしろその戦いの結果は天使の大敗北だったのである。しかしそれでも、まだ戦いを挑む力が残っているあたり、団結して戦うという彼らの選択は間違っていなかっただろう。
ただ、どれだけ正しい選択をしようともそれが勝利に結びつかないのが戦いというものなのだ。
実際、この戦いは僅かの間にベリアルの完全勝利で終結したのである。
サプレスでそんなことが起こっているとなど知る由もなく、ゼラムに集まったバージル、アティ、ポムニットは夕食を囲みながら会話に花を咲かせていた。
「それで、みんなとも話したんだけど、そろそろ島の外を見せた方がいいと思うの」
「そうですよね、でもみんなだけで大丈夫でしょうか……」
アティとポムニットが話しているのは島の子供たちに外の世界を見せるかどうかだ。そもそもアティが風雷の郷のミスミから教師をしてほしいと頼まれた時も、ミスミはいずれ外の世界の者と関わる時がくると話していたのだ。
それを考えれば次の世代を担う学校の生徒達には、積極的に外の世界を見せたほうがいいと思い至るのは当然の帰結なのだが、問題はその方法だった。
「うーん、やっぱり誰か一緒に行った方がいいかなぁ」
アティが悩んでいるのは生徒達だけで行かせるか、あるいは自分やヤードあたりが同行するか、という点だった。リィンバウムでは召喚獣だけで行動していれば「はぐれ」と見なされる可能性が高く、そうでなくとも召喚獣というだけで、色眼鏡で見られ、差別されることなど日常茶飯事だ。生徒だけで行かせることは相当のリスクが伴うのである。
ちなみにその生徒とはミスミ息子のスバルとその友人の犬型の亜人バウナス族のパナシェ、花の妖精のマルルゥの三人だ。彼らはアティが初めて受け持った生徒であり、もっとも多くのことを学んでいたため、候補となったのだ。
「そういえばバージルさんはお一人でこの世界を回っていたんですよね。どうでした?」
ポムニットがふと思い出したように思い出したように尋ねた。
「特に困ったことなどない」
はっきりと断言する。バージルの見た目は普通の人間と変わらないため、こちらから何も言わない限り宿屋や店の利用には何も支障はなかった。路銀についても余裕のない時もあったが、傭兵として賊やはぐれ召喚獣の討伐等の依頼をえり好みせずに受ければ、まず困ることはなかった。
「まあ、バージルさんならそうでしょうねぇ」
苦笑しながら言葉を返した。そもそもアティはバージルが困っている姿を想像することができなかった。彼女が持つバージルのイメージは無表情で不愛想だが、どんな時も冷静で迷わない男性というものなのだ。
「でも、もし先生がついて行かないなら自分の身くらいは守れるくらいはできないと……。今は悪魔も現れますし」
「うん、そこはしっかり教えるつもり。……と言ってもミスミ様がやる気だから、私は必要ないかもしれないけど」
ミスミは今でこそ風雷の郷の長として落ち着いているが、若い頃は武芸に通じており白南風の鬼姫と呼ばれ随分と血気盛んだったのだ。それもあってか彼女は息子のスバルやパナシェ達を自ら鍛えると言い出したのだ。
「あはは……ちょっと同情しちゃいますね」
ポムニットが苦笑いを浮かべながら言った。彼女も一時はスバルたちと同じようにアティやヤードのもとで学んだことがあるため、スバルの親であるミスミとも面識があった。それにスバルが彼女に稽古をつけられていた時に居合わせたことはあったため、その教え方の厳しさはよく知っていたのだ。
そんな話をしながらしばらくして、テーブルに並べられた料理をあらかた食べ終えたあたりで、ポムニットはデザートを運んできた。
「このケーキどれもおいしいですよ! ぜひ食べてみてください」
テーブルに置かれたケーキはパッフェルがバイトしているケーキ屋のものだった。大皿に並べられた様々なケーキを見たバージルはふと、あることを思い出した。
「アティ、以前島に来たヘイゼルという暗殺者のことを覚えているか?」
「えっと、……ええ、はい。覚えています。あの、無色の派閥と一緒に来た人ですよね」
目を閉じて昔を思い出しながら答えた。
「そうだ。それで奴は島にいた時なにかあったか?」
彼女から以前とほとんど変わりない姿についてははぐらかされ、その時はバージルもさほど興味がなかったため、詳しく追及しなかった。ただ、今は偶然にも昔のパッフェルのことを知っているだろうアティと話していたとき、そのことを思い出したため尋ねたのだ。
「いえ、あの人は怪我が治ってすぐに島を出ましたけど……。あの何かあったんですか?」
「少し前に会ったがほとんど老化してなかったのでな。少し気になっただけだ」
島では何もなかったとすると、パッフェルがああなったのはそれ以後ということだ。案外蒼の派閥で仕事していることと何か関係があるのかもしれない。もしそうなら、彼女の雇用主たるエクスにでも尋ねてみればわかるだろう。
「あの、彼女……まだヘイゼルと名乗っていましたか?」
「いや、パッフェルと名乗っていた。今は蒼の派閥やこのケーキを出す店で働いているはずだ。会いたいなら行けばいい」
今度は逆にアティから質問された。どういった意図があるかはわからないが、別に隠す必要もないのでバージルは自分が知っている情報を教えた。
「いえ、ちゃんと本名を名乗っているのが分かればいいんです」
アティもパッフェルとはいろいろあった。彼女がバージルとの戦いの後、アリーゼと同じくラトリクスのリペアセンターに入院したため、よくお見舞いに行っていたのだ。
入院した当初は全くと言っていいほど、将来のことが考えられずに自暴自棄になっていたようだが、かつては彼女と関わりのあったスカーレルや同じく入院していたウィゼルらの協力もあって、退院するころにはそういった考え方はしなくなっているように思えたのだ。
そういったやり取りもあってアティは彼女からパッフェルという本当の名前を教えてもらったのだが、もしもいまだにかつての名前を使っているのだとしたら、まだ何か問題があるのではないかと心配していたようだ。
「……あ、おいしい」
安心してケーキを選び、一口食べたアティが言った。どうやら口に合ったようだ。
「他にもいろいろありますから、よかったらどうぞ」
「ありがとう。……ところでこれ、よく食べてるの?」
ポムニットがケーキの味を知っていたことを不思議に思ったアティが尋ねた。
「バージルさんが好きみたいで、よく届けてもらっているんです」
それを聞いたアティは、バージルとケーキという似合わない組み合わせに少し驚いた。食べ物に関しては島に暮らしていた時から好き嫌いはないと思っていたため意外だったのだ。
「意外ですねぇ……甘い物が好きなんですか?」
「それなりにはな」
「なら私も少しは作れますよ。今度作りますね」
あまり裕福な家の出身ではないアティだが、あらゆる礼儀作法も教える軍学校にいたこともあって、お菓子の類にもそれなりの知識があった。
とはいえ、バージルはアティがお菓子を作ったところなど見たことなかったため、過度な期待は寄せぬように答えた。
「……まあ、期待せずに待っておこう」
「あ、それなら、私も手伝いますね!」
「ありがとう、二人でバージルさんにおいしいって言わせようね!」
バージルの言葉で逆にやる気が出てきたのか、やけに気合を入れながらポムニットに言う。
外はもう日が沈み、ゼラムの歓楽街はこれから更なる賑わいを見せるだろう。そして三人の会話も同じようにまだまだ盛り上がりを見せるのだった。
アティ先生が来たところで、そろそろ2編の話は大きく動いていく予定です。
ちなみに次回は4月9日(日)に投稿予定です。
ありがとうございました。