東の空が白んできた頃、バージルは目を覚ました。アティもポムニットもまだ寝入っている時間だが、彼はそのまま起き上がり家を出た。
いくらこの島が南国に近い気候とはいえ、さすがに日の出すら迎えていない今の時間では、少し肌寒く感じる。
ゆっくり歩きながら海岸に着くと、ちょうど水平線から太陽が姿を見せたところだった。こればかりはリィンバウムであろうとかつての世界であろうと変わりのない光景だった。
水平線から顔を出した太陽を一瞥したバージルは、杖のように閻魔刀を砂浜に突き立て目を閉じた。
これまでは家の縁側で行っていることだが、最近は砂浜のような家から少し歩いたところで行うことが多くなっていた。瞑想のついでに軽く素振りを行うことも考えてのことなのだ。
再びこの島で生活するようなってからバージルは、閻魔刀を抜いたことはおろか戦闘一つ行ったことはない。以前ならともかく、現在の島は平和そのものなのだ。
唯一の不安要素である喚起の門もしばらく稼働したことはない。そのため最近はろくに体を動かすことが少なくなっているのだ。精々、たまに行っているポムニットへの教導の際に軽く動かす程度だ。
(これでは体が鈍るな……)
自嘲気味に胸中で呟く。もちろん悪魔の血を引く彼が、しばらく戦いから遠ざかったとしても力が落ちることはありえない。バージルが思ったのはあくまで精神的なことだ。近頃やけに起床が早いのもその影響かもしれない。
既にこの島に来た目的は果たしてある。したがって島から出るという選択肢もあるはずだが、バージルはしばらくそれを選ぶつもりはなかった。
彼の悪魔としての勘がここに残るべきだと言っているのだ。
もともと島から出たとしてもやることは以前と同じようなことである。そちらも少し行き詰まりを感じていたため、ここは自分の勘に従ってみることにしたのだ。
そうしてしばらく瞑想していると後方からアティがやってきた。
アティは寝起きのためか、いつもの白い帽子とマントは着けておらず、代わりに毛糸で編んだケープを羽織っていた。
「そろそろ、朝ご飯できちゃいますよ、戻りましょう?」
ここ最近の朝食は全てポムニットが作っている。彼女はバージルに次いで早起きであり仕事も早い。アティが起きてくる頃には既にあらかた準備が終わっており、彼女の出る幕はないのだ。
正直、それは教師としてどうなんだとバージルは思ったことがあるが、当の二人は不満もなく納得しており、なおかつ自分には影響がないため口に出したことはない。
結局アティがやることといえば、先に起きて瞑想をしているバージルを呼びに行くことだった。
「ああ、わかってる」
並んで道を戻る。二人の間に会話はないが、心なしか距離は以前より縮まったように見える。
その理由は定かではないが、少なくともバージルにとって今の生活は多少の不満はあれど、悪くないと思っているのは紛れもない事実だった。
もしかしたらバージルはアティやポムニットを気の許せる存在として見ているのかもしれない。
「そういえばポムニットちゃんはどうですか? 最近は前みたいな無茶はしてないみたいですけど……」
ポムニットの力のコントロールに関してはバージルが全てを取り仕切っている。したがってアティが具体的な内容を知る術はなく、最初期にポムニットの悪魔の力を引き出すために瀕死にさせたときは、彼女の傷だらけの姿を見てひどく混乱したこともあったのだ。
「問題ない。じきに完全に制御できるようになる」
前回のポムニットの様子を思い出しながら答えた。その時は大雑把ながらも悪魔の力を引き出すことができていたのだ。このペースでいけば完全に力をコントロールできるようになるのもそう遠い事ではなかった。
「なら人の姿に戻れるんですか?」
「おそらくはな」
バージルの答えを聞いて安堵した。
ポムニットが人間とは異なる己の容姿を嫌っていることをアティは既に知っている。それが母親を命を奪った元凶なのだと自覚させ、いまだに彼女を苦しめているのだ。
「私、あの子にはもっと笑ってほしいです」
命を奪うという行為は決して許されないことだとアティは思う。それを為した者はずっと背負っていかなければならない。
しかし、そもそもあの子は自らの意思で母親の命を奪ったわけではない。にもかかわらず、彼女はいまだに悪魔の力に囚われている気がしてならないのだ。
もちろん、決して母親の死から目を背けていいわけではない、忘れていいわけではない。しかしポムニットは十二分に悔いた。もう解放されてもいいのではないかと思えるのだ。
「自分とどう向き合うかを決めるのは自分自身だ。他の、誰でもない」
バージルがポムニットに教えているのは力の扱い方だけだ。力とどう向き合うかまでは教えていない。しかし、いずれ彼女も己の力と、ひいては自分自身と向き合わなければならない時が来るだろう。
かつてのバージルがそうだったように。
「……はい」
アティは小さく頷いた。
これはあくまでポムニット自身の問題だ。そこにはアティはおろかバージルも入る余地はないのだ。
「だが……」
バージルが少し過去に思いを馳せるように間を置いて言った。
「あいつが母の言葉を受け入れることができれば、お前の望む通りになるだろう」
自分の幸せを見つけて。それこそがポムニットの母のたった一つの願いなのだろう。だが、それが通じたかはあの場にいたバージルにも分からない。
それでもバージルは、心のどこかでポムニットが母の言葉を受け入れることを望んでいた。
ここ数日、喚起の門がこれまでにない反応を見せている。
バージルがその話を護人から聞いたのは昨日のことだった。
喚起の門の稼働自体はこれまでに何度もある。そしてそのたびに異世界から様々なものを召喚してきたのだ。
しかし今回は、これまでにない様子なのだという。
いつもなら何らかの物体や生物が召喚されるような状況であるにもかかわらず、何も召喚されずに門の活動が収まっていくのだ。まるで召喚できない何かを呼び出そうとしているようなのだ。
そこで門と遺跡を調査することが決まり、護人から同行を依頼されたのである。
もう何年も前のことになるが、遺跡から大量の悪魔が湧きだしたことがある。万が一、今回もそのような事態になっても即座に対応できるようにと彼らはバージルに同行を求めたのだ。
「バージルさんなら大丈夫だと思いますけど、気をつけて下さいね」
「頑張ってね」
「ああ」
アティとポムニットからそれぞれ見送りの言葉を受け取り家を出る。
アティが同行しないのは差し迫った危険がないことと、彼女の持つ
ちなみにアティはいつも通り授業を行う予定だそうだ。
集合場所である集いの泉に到着したバージルを迎えたのは四人の護人だった。今回の調査は遺跡に詳しい護人にバージルを加えた五人で行うことになっているのだ。
「これで全員揃ったわね」
「では、早速出発しましょうか」
「……先にどちらから調べるつもりだ?」
その問いにヤッファが答える。
「まずは喚起の門からさ。ここから近いしな」
バージルが来る前に相談していたのか、調査の段取りは整っているようだ。
喚起の門を目指し、しばらく無言で歩いているとファリエルが話しかけてきた。
「そういえば先生と一緒に住んでるんでしたね、どうですか?」
「ここには前も住んでいたんだ、何も問題はない」
バージルの返答にアルディラはクスッと笑いながら言う。
「ファリエルが言いたいのはそういうことじゃないわ。あなた先生と暮らしてるでしょ、一つ屋根の下で。そのことについてよ」
彼女の言いたいことが彼にも理解できた。つまりはアティとの男女間のあれこれについてだ。
「今更だ。特に思うところはない」
かつてはバージルがこの島にいたときもアティと共に生活していたのだ。もっとも住んでいたのは今のような住居ではなく、カイル一家の船だったが。
そもそも二人きりならまだしもポムニットもいるのだ。アルディラが期待するようなことなどあるはずもない。
「ああ、そう……」
呆れたと言わんばかりに彼女は大きな溜息を吐きながら肩をすくめた。
「でも先生のこと、少しは気にかけてあげて下さいね。あの人はいっつも無茶ばかりするから」
「ええ、その通りです。先生は何でも背負い込んでしまうようで……。今回のことだって最初は自分が行くと言って聞かなかったんですから。あなたにお願いするつもりだと、何とか説得して残ってももらったんですから」
ファリエルの言葉にキュウマが同意する。
「ま、ありゃあ性分だな。……そういや何であんたはこの話を受けてくれたんだ。俺は正直断られるもんだと思ってたんだが」
アティが利他的とすればバージルはとにかく利己的だ。戦闘が起こることが確実な依頼ならともかく、遺跡の調査への同行という戦闘の発生も期待できない依頼を引き受けた理由がヤッファは気になっていたのだ。
「……特にすることもなかったからだ」
いつものように瞑想でもしていてもいいのだが、遺跡に詳しい護人と調査を行えば、以前は気付けなかった場所に行けるかもしれないと考えたのだ。そしてそこに何か気になる本でもあれば持って帰ろうと思っていた。
「なら寝てりゃあいいじゃねえか。俺なんかマルルゥに起こされるから満足に昼寝もできやしねえんだぞ」
ヤッファが羨ましそうに言う。護人としての彼は広い視野と経験に裏打ちされた判断力を持つため、非常に頼りになる存在である。しかし同時に普段の彼はぐうたらで面倒くさがりなのだ。
ちなみにマルルゥとはヒマワリに似たメイトルパの「ルシャナの花」から生まれた小さな妖精で、いつも明るく元気に動き回り誰かの手伝いをしているのだ。ある意味ユクレス村のもう一人の護人といえるかもしれない。
「当然でしょ。あなたは放っておくと四六時中眠ってばかりなんだから」
「まあ、そうだけどよ……」
辛辣ではあるもののアルディラの言葉は紛れもない真実であるため、ヤッファは返す言葉もなかった。そうは言っても彼はいくらマルルゥに注意されても昼寝をやめる気配はないようだが。
「話はそれくらいしましょう。そろそろ着きますよ」
周囲を真面目に警戒しながら先頭を歩いていたキュウマの声がかかる。喚起の門はもう目の前だった。
門は見た目には特に変わったところは見られない。魔力も現時点ではいつも通りだ。もっとも魔力が変動するのは門の稼働時だけだということは、以前ジルコーダが召喚された時のことから把握している。
「……今のところ、おかしなところはありませんね」
「やはり、動いているところを見なければ判断も難しいのでしょう」
ファリエルとキュウマの言葉に残る二人も同意する。喚起の門が異常な反応を見せるのは、ほんの数分の間だけだ。最初にこの事態に気付いたアルディラがそれを確認していた。
「これまではおおよそ、半日に一回程度の割合で発生してるわ。昨夜以降何も起こってないからそろそろ始まるんじゃないかしら?」
「遺跡の方はどうする? こっちを確認してから調べるか?」
「発生時の遺跡の反応も気になりますし、私達で確認します」
ファリエルの提案ではアルディラ、バージルに彼女自身を含めた三人で遺跡に赴くとしていた。残るヤッファとキュウマは喚起の門で待機だ。
「そうね、あなた達は門のほうをお願い」
「ああ、そっちは頼むぜ」
「お気をつけて」
遺跡の調査も今回の目的の一つである以上、二人の提案には誰も異論を挟まなかった。
「おかしいわね……」
「何がだ? 遺跡に変わったところはないのだろう?」
独白するように呟くアルディラにバージルが尋ねた。
遺跡の調査を始めてから数時間、いまだ異常な個所や兆候は発見できていなかった。しかしバージルは彼の興味をそそるいくつかの本を発見することができたため、目的は果たしたと言える。
そもそも遺跡に異常がないこと自体は護人にとってはいいことのはずなのだ。
「いえ、そうじゃなくて、もう半日以上たっているのに何も起こらないのよ」
既に太陽は頂点を過ぎている。喚起の門の異常な反応は、これまで半日一回のペースで定期的に起きているのだ。現時点でも発生していないのであれば、これまでにはなかった状況だ。
「単に気付いていないだけかもしれんがな」
バージルも今のところ何も感知していなかった。もっともいくら彼でも距離が離れてしまえば、虫や小動物などの小さすぎる魔力を感知することはできないのだが。
「……そうね」
「次で全部見て回れますから、終わったら喚起の門へ戻りましょう」
先導していたファリエルがそう言いつつ扉を開けると、一際大きな部屋に出た。いや、周りに無造作に置かれた資材等を見る限り、巨大な倉庫と表現した方が正しいだろう。
「ここには実験設備はありませんから、多分大丈夫だと思いますけどね」
倉庫の中を歩きながら辺りを見回していたバージルに目にある物体が映った。
(あれは……地獄門か?)
倉庫の片隅に置かれていた物は上半分が破壊され消失しているものの、紛れもなく魔界への扉である地獄門に間違いはなかった。
「あれが何か知っているか?」
辺りを見回している二人の護人に尋ねる。かつては無色の派閥の実験施設だった遺跡にあるのだ。なにか知っているかもしれない。
「あの壊れている石板みたいなものですか? ……ごめんなさい、私が最初にここに来た時にはもうあったと思います」
「私もよ。あの人に召喚されたときから、ここには何度か来たことがあるけど……始めからそこに置いてあったと思うわ」
「そうか……」
二人の返答を聞きバージルは考え込んだ。彼がこのリィンバウムに来てから地獄門を見たのは、以前に無限界廊で発見したのに続きこれで二度目だ。
見つけた場所こそ異なるが、どちらの地獄門も破損し、その機能を失っているという点では共通していた。
一体誰が造り、そして破壊したのか。
バージルは地獄門に近付き手で触れた。
(これはフォルトゥナのものと同種の物質か……魔界で造られたものに違いないか)
魔界で造られた地獄門を構成する物質は非常に強固だ。並みの悪魔の攻撃では傷一つつかないだろう。
だが地獄門自体は人の手でも作り上げることは不可能ではない。例えばフォルトゥナの魔剣教団のような長年に渡り悪魔と戦う術を研究したきた者達であれば決して不可能ではないだろう。もっとも魔界の物質を使用しないのであれば強度は落ちるだろうが。
しかしリィンバウムでは別だ。この数年、世界各地を旅してきたが、魔界の悪魔についてはおとぎ話の類すらなかった。さらに、その悪魔と戦ったのも無限界廊と遺跡での戦闘だけである。
これらのことからバージルは、リィンバウムと魔界との繋がりが人間界以上に非常に希薄で、存在自体がほとんど知られていないのだろうと考えていた。
リィンバウムに存在する地獄門は人間界同様に悪魔が侵攻のために設置したのだろう。無限界廊で地獄門を守っていたのがフロストだったことを考えると、その悪魔とはおそらく魔帝ムンドゥスに違いない。
そこまで思考が及ぶと地獄門を破壊した者についても考えつく。
かの魔界の帝王に抗える存在は、ただの一人だけ。
スパーダだ。
伝説の魔剣士たる父なら地獄門を破壊する程度、児戯にも等しきことだろう。
(その際に
自らの持つ情報をもとに一つの仮説を組み立てはしたが、やはり仮説の域を出ないものであった。
「そんなにそれが気に入ったのなら持って帰ってもいいのよ?」
いつもの彼らしからぬ熱心な様子で地獄門を見ていたバージルに、アルディラがいじわるそうに声をかけた。
「……くだらん。気に入ってなどいない」
短く告げるとコートを翻して歩き出す。もともと地獄門を見ていたのも考え事をしていたからだ。特に気に入ったわけではない。
「こっちも空振りでしたし、一度喚起の門まで戻りましょう」
結局、遺跡にもなんら異常は見つけられなかったため、三人は一度喚起の門に戻り情報の共有を図ることにした。
「そうですか……そちらも何も収穫はありませんでしたか」
喚起の門に戻り、遺跡での調査の結果を二人に伝えた。
「その様子じゃあこっちも何もなかったんですね?」
「ああ、まったくの平和そのものだ」
ヤッファが投げやりに答えた。
異常がないのは良い事ではあるが、こうも何もないと逆に不安を煽られているのか護人達は釈然としない様子だった。
「とにかく今日は解散しましょう。ただ近いうちにまた調査を――」
「その必要はない」
アルディラが言い終える前にバージルが口を挟んだ。突然のことに驚いた護人が彼の方に目を向ける。
バージルはじっと喚起の門を見つめていた。そのまま数秒が経過した時、護人達もその異常に気が付いた。喚起の門にはこれまでの稼働時とは異なる、信じられない量の魔力が溢れていたのだ。
門の異常を確かめるために慌てて動き始めた彼らを尻目にバージルは集中する。この魔力の動きとその裏で起こっていることを確かめるために。
一見すると喚起の門が異常な動きをしているようにも考えられる。しかしこれは、圧力が加わり行き場を失った魔力が最も抵抗が少ない箇所へ集中した結果なのだ。
もしこの世界を一つの潜水艦に例えるなら、まわりの水圧が急激に上がりもっとも弱い箇所である「喚起の門」から浸水が発生しているといったところか。
だが問題は魔力が溢れていることではない。圧力をかけている者の意図こそが問題なのだ。
世界全体にかかっている圧力。これがいくら強まったとしても世界が壊れることなど、もちろんありえない。しかし、魔界と他の世界を隔てる境界は薄くなってしまうだろう。
(もしそれが狙いなら、その目的は――)
思考がそこまで進んだ瞬間、突然に晴天だった空を黒雲が覆った。そして雷が落ち轟音と閃光が周囲を包み込む。
光と音が収まるとその中心にはバージルの予想を肯定するように、一体の悪魔が姿を現していた。
第21話いかがだったでしょうか。
次で放浪編も終了し、いよいよサモンナイト1、2の話へ移行していきます。今後も楽しんでいただければ幸いです。
ご意見ご感想お待ちしております。
ありがとうございました。