「あぁ、ハス太を行かせたのは失敗だったかな」
そう呟いて、またもため息を吐く真尋である。もしツイッターであったら、朝から延々と『はぁ』だけ書き込んでいる状態だ、間違いなく知り合いから心配の電話が掛かってくる。誰だってそーするだろう、真尋もそーする。
「はぁ」
しかし、まさか彼女持ちの弟分に、彼女無しの自分が、デートに行かないでなどと言えるわけがない。明らかに嫉妬であり、嫉妬は大罪だ。
以前何かのロボットアニメで、嫉妬をしている事を認める事で必殺技を会得していたはずだが。真尋はこれ以上人間離れした技能など必要無いので、嫉妬には無自覚でいたい。そもそもそのキャラは後に嫉妬で裏切ったし。
なのだから、ハスターには今日一日で順調にルートを進めてもらいたい。そう、もはや彼の風の神性を欠片も年上扱いしていない真尋である。
さて。
先ほども話に上ったが、八坂真尋に恋人はいない。彼女も彼氏もいたためしは無い。
そんな真尋のキスの経験は、幼少期に母にした事を抜かせばゼロ……ではない。ないのだが、最もインパクトの大きかった、口と口の貪られる様なキスは、妙な話、相手が真尋の肉体であった。
ならば、ガラス越しはアリではない真尋の経験は、頬への一回と、ついさっきの間接という事になる。マスコット? それはのうりん、もといノーカンだ。
ついでに、こないだの幻夢郷で……いやあれは確定していない。赤字で書かれていなかった。
うん、本当にハスターには男になって来いと、意外と引き締まってると一部に評判の胸を張って言えるだろう。
クトゥグアと二人きりにさえならなければ。
「……ん、これはわたしの想像力が足りなかった? 海に漂って生存も、想像の外だったけど」
その相手、炎の神性クトゥグアはソファーに座らずにわざわざそれを背もたれに、床に腰を下ろして分割二画面の携帯ゲームをやっている。
確か以前は、背面タッチパッドのあるゲーム機をやっていたが、どうやらこいつは熱狂的に好きなハードがあるだけで、ライバル会社の商品は買わないという宗教にハマっているわけではないらしい。
この性質は人間関係にも表れているようで。ニャルラトホテプを病的に愛しているが、幼なじみの唯一の男という本来なら色々ToLOVEるなポジションになりそうなハスター。ニャルラトホテプの高校時代を知る親友である銀アト子。地球で出来た親友である暮井珠緒。そんな自分の火焔の自由恋愛を妨げかねない面々にも普通に接しているし。母親やルーヒー達ともよく話しているように思う。
一方的に恋敵認定している真尋にさえ、その炎を向けるつもりは無いみたいだ。ルルイエランドでの邂逅時には無慈悲な灼熱をくれるつもりだったと聞くが、現在は愛人にすると宣言されていて。
それが真尋には気に入らない。
恋敵と認識されている事も、愛人止まりにしたいという事も、間接キスの話題を振ったくせにいつもと変わらずゲームをしている事も。そして、その事にイライラしている自分が気に入らない。
「って、いかんいかん、落ち着け僕」
男のヤンデレは見苦しい。そう真尋は、以前読んだ漫画に出てきたヒロインに片恋していた医者の息子を見て学んだはずだ。
ちなみにその漫画は、青少年らしい欲求を発散する為の、こっそり隠し持っている物なのだが、母親や這い寄る混沌にはいつばれるか分かったものではないので処分しようかとも思っている。
譲ってくれた中学時代の友人には悪いが、過激な純愛といった感じだった一巻はともかく、全三巻の大半が真っ黒いあれを見られたら、趣味と人格を疑われそうなのでやはりさっさとどうにかしよう。
この幼げな生きている炎に軽蔑されたくはないし。
「いや、そうじゃなくて」
なんでいちいちこいつが思考に引っ掛かるのか、と首を振って考えを元に戻す。
そう、この電流が流れるコースを鉄の棒で進んで行くかの様なイライラについてだ。別にこれを最後まで維持しても百万円が貰えるわけでは無いので、さっさと解消しよう。
Q・なんでクトゥグアにイライラするのか?
A・少しはクトゥグアに意識して欲し……。
「いや、これ以上いけない」
この思考はマズい。終わりの無いのが終わり、なループに突入しかねない。僕ってほんとバカ。
では、その前の思考。クトゥグアのハードの好みについて……。
「これも止めとこう。変につつくと今回のオチが、宇宙ゲハ論争という最高に最悪なくだらない事になりかねない」
またもため息を吐いて、いい加減この不毛なたった一人の宇宙論争を締めくくる事に決めた。きっと二人きりなんて特殊な状況に、粘膜が幻想を生み出したのだろう。
だったら、積んである本でも読もうかと立ち上がろうと思ったら。
「……じー」
真紅の双眸が、紅蓮の弓矢の如く真尋を射ぬいていた。
「クー……」
「……少年、何しているの?」
クトゥグアはソファーに後頭部を乗せて、上下逆さにこっちを見つめてくる。そんなはしたないポーズをするから、Tシャツの襟元が大変な事になっている。ニャルラトホテプらと違い、本当に小さいので致命的な部分が見えかねない。
ちなみに、Tシャツの胸元には『踊り子号』と書かれている。多分母親が旅行のお土産に買って来た、サイズ間違えだろう。真尋も同じ物を持っている、ダサ……個性的なので着ていないが。
「べ、別になんでもない。ほら髪が足に当たってくすぐったいぞ」
「……当てているの。少年、嘘はよくない。若いうちのタイタス・クロウは買ってでもしろって言うけど、頭の上であんな凄SANな声を出されたら、気になって夢に少年が出てくる」
器用に、背筋その他を使い真尋の足に頭を乗せるクトゥグア。
いわゆる膝枕となってしまい、高めの体温と香水みたいな香りに、真尋の心臓が刻む血液のビートが燃え尽きるほどヒートしかねない。
ちなみに、クトゥグアから香るのは白梅香。
「若いうちのタイタス・クロウってなんだよ」
「……例えば、一○○万Gの借金を背負ったり。お金を貸したら前の借金以上の額を背負ったり。呆れるほど有効な戦術の演出がくどいと総ツッコミを受けたり?」
「それ、なんか別のクロウじゃないか?」
それで会話終了。と、クトゥグアが頭を打たないようにゆっくり足を引き抜こうとしたが、がっちりホールドされた。
「……少年、話は終わっていない。わたし公務員だよ? 相談くらいできるよ?」
スリープモードにしたゲーム機を抱えて、膝枕の体勢で見つめてくるのが公務員として正しい姿ならば、現代版ジュゲムが承認されても仕方ない。
「……ん、正直な少年は好き」
「茶化すな。単にハス太がちゃんとエスコート出来てるか心配なだけだ」
嘘は言っていない。真尋の思考の一割にも満たない話題だが。
「……ハス太君の事?」
クトゥグアが少し不満そうな空気を発する。
「なんだよ?」
「……てっきり、珍しく二人きりだから、少年は緊張してくれてるんだと思ってた。わたしがそうだから少年もそうだと嬉しい」
「んなっ!? ぼ、僕はニャル子じゃないんだぞ」
流石は炎の神性というべきか、真尋の体温はクトゥグアが口を開く度に上昇している。メルトダウンという爆弾を抱えた怪獣王を彷彿とさせる。
ちなみに真尋は、バーニングよりもヒートウォーク派だ。
「……知っている。部屋中に紅い薔薇の花をいっぱいに敷き詰める準備はあるよ? 八坂家の最後の守りだから毒薔薇だけど」
「それ、僕はアウトだよな!」
「……魚座のクトゥグア星人は毒に免疫があるから、血液交換すれば大丈夫。伝説のアフーム=ザ・エックスが少年にも反応するかもしれないけど。それに……」
「これ以上僕に変な設定を付与しようとすんな。で、それに、なんだよ」
ようやくいつもの、色気の欠片も無い空気に真尋は安堵。
「……体液交換で、少年の赤ちゃんが出来ちゃうかも」
出来ませんでした。声と表情にはっきりと浮かんだ色に、真尋の熱量は再び混沌の炎に包まれる。
「出来ねえだろ血液じゃ」
「……シュブ=ニグラスなら、イケる。あ、思い出した。ハス太君、昔結構モテてたから女の子のエスコートは得意だと思う」
茹った頭にも聞き逃せない話題がいきなり飛び込んで来た。あの小動物邪神が? 真尋は目線で続きを促し、クトゥグアは軽く首肯する。
「……黄衣の王の格好よさと、意外と荒々しい戦い方から、ワイルドの黄魅と呼ばれてた。普段のぽわんとした感じだと、マイルドの黄魅扱いだったけど。で、シュブ=ニグラスの子から結構熱愛を受けてたよ? ハス太君まるで気付いてなかったけど」
「へえ」
かなり興味深い話なのだが、魚の小骨じみた引っ掛かりを感じている。
確かこいつはアラオザルで、黄衣の王となったハスターにこう言っていた。
『……かっこいいからたまになればいいのに』
「…………」
分かっている。クトゥグアとハスターの付き合いが、たかが三週間程度の真尋よりも遥かに長い事を。
これは大罪だと。これは醜いと頭では分かっている。
でも、人間はそんなに綺麗にも便利にも出来ていないのだ。
「なぁクー子、お前ってハス太をどう思ってるんだ?」
クトゥグアも自分を意識してくれていると知って芽生えた暖かい物が火種となって、真尋の醜い部分を加速させる。
その醜さを目の当たりにしたクトゥグアは。
「あ」
微笑んで下から手を伸ばし、真尋の頭を撫でた。
「……ハス太君は親友だよ。ニャル子とも、少年とも違う関係。姉弟みたいな、兄妹みたいな関係。多分、十年経ってお互いの子供が将来結婚するといいね、って笑ってお酒を飲む関係」
一瞬、クトゥグアはどこか遠くを、きっと真尋の知らないハスターとの思い出を見て、どこか達観した笑みを浮かべる。
その表情が、いつもより遥かに大人びて見えて。
「……少年やニャル子と違って、絶対に結婚なんかしない関係だよ」
真尋の中の嫉妬の炎が鎮静化するのが分かる。
「そっか」
お返しとばかりに、クトゥグアの頭を撫でてやる。
「ごめん、変な事聞いた」
そのお返しにと、クトゥグアがさらに撫でてくる。
「……ん、いいよ。少年とお話するの楽しいから……えへへ」
「なんだよ?」
真尋の左手とクトゥグアの右手、互いのなでなでが究極のバランスで、さらなる域にプログレスしそうだ。
「……少年、二人きりじゃないとできない事いっぱいしよ? いっぱいお喋りして、一緒にお出かけしたい」
嫉妬が去り、すっと爽やかな風が吹くくらい落ち着いた頭で思う。どうせ夕方にはハスターが帰って来るのだ、その前に真尋も出来る事はやっておきたい。
「そうだな、準備してくるからちょっと待ってろ」
「……うん、極めて了解、少年」
起き上がったクトゥグアは、そのまま上着を羽織る、犬の尻尾みたいにツインテールが揺れている。
その様子を横目で見ながら、自室に戻る真尋。
「えーと、財布はっと」
思わず歌でも歌いたい気分を抑えながら財布やその他を準備していると、自分の服が目に止まった。
「あー、結構汗かいた……よな?」
そう、これから女子と出掛けるのだから、清潔な服に着替えるのはマナーだ。例えば、母親が買って来たタンスの肥やしになっているTシャツとか。
「よし、これでいいか」
上着を羽織り、軽く髪を整え玄関に向かう真尋。
「お待たせ」
「……ううん、わたしも今来たところ」
「なんだよそれ」
互いに笑って、靴を履きながら真尋は思う。
この臆病にも名無しの感情に名前を付けられる程度に、今日は何事も無く過ごせますように。
「よし、行くか」
世の中には、伏線やフラグと言った概念がある。それは蜘蛛の糸の様に絡み合いながら人生に影響を及ぼすのだ。
だから、真尋の願いも虚しく蜘蛛の邪神に出会ったのは必然だったのだろう。