新・うっかり女エミヤさんの聖杯戦争(完) 作:EKAWARI
今回の話、「慟哭」はにじファン時代に乗せていた旧作でも前中後編の三部作だったのですが、例によって加筆修正しまくった結果、4~5部作に膨らみ上がりました。
なので、長い話ですが、「慟哭」というタイトルがついている話は全部併せて一つの話として宜しくお願いします。
ついでに今回から本格的に薄ら暗い内容に入っていきますが、それでも第五次聖杯戦争編に比べるとこれでもまだ全然マシだったりしなくもない。
それと何故かはっきり宣言しているのに誤解が絶えないので、もう一度述べますが、あくまでも「第四次聖杯戦争編」とは、第五次聖杯戦争編に対するプロローグであり、丸ごと伏線回であり、ただの前日談でしかありませんから、本筋は第五次聖杯戦争であるSNのほうがメイン原作であり、あくまでもZEROはサブですからその辺は間違え無きよう改めて宜しくお願いします。
お願い、泣かないで。
そんな顔をしないで。
傷ついて、必死に私の名前を呼ぶ貴女。
今はもう朧気にしか見えないけれど。
やっぱり貴女はあの人と似ている。
不安で傷ついて揺れる時のあの人と同じ顔をしている。
冷酷なフリをしていても、本当はどうしようもなく弱くて、とても優しいのよ。
数日間だけ共に過ごした私の愛しい娘。
あら、そういえば私どうなったのかしら。
必死に伸ばされる褐色の手、赤い血が滲んでいる。
駄目よ、怪我をしたのならちゃんと手当てをしなくちゃ。
叫んでる喉、ああ、女の子がそんな大声出しちゃ駄目。
「……かあさんっ……」
いつか、私が彼女に呼んで欲しいと望んだ呼び名、その名で呼ばれた気がした。
慟哭
side.衛宮切嗣
アーチャーやセイバー、ランサー達がキャスターと巨大海魔に相対しているその頃、僕は人除けの結界が申し訳程度に張られた薄汚れた廃墟へとやってきていた。
そしてそこで僕は、目当ての人物でもあったベッドの上に横たわっている金髪の男を機械的な瞳で見下ろす。
そんな僕を前にその男は、ひゅうひゅうと苦しげに喉を鳴らしながら僕を見上げていた。その青い瞳に映っているのは不安と縋るような色、それとまるで死神のような顔をした僕そのものだ。やがて自由にならない喉を通して男は言葉を紡いだ。
「……これ……で、ソ……ラウは……」
「ああ、大丈夫だ、問題ない」
懐からたばこを取り出し、かちりと火をつける。
「そう……か」
僕の言葉を聞いて安心したからだろう。
この男と僕が交戦したのは、約2日前のことだった。
セイバー、ランサー、アサシンの三名の英霊がキャスターを相手に激しい戦いを繰り広げていたその日は、マスター殺しには打って付けの夜だったといえよう。
傲慢を胸に油断しているエリート魔術師を狩るなど、魔術師殺しの異名をもつ僕にはさほど難しいことでもない。
それはロード・エルメロイと天才の呼び声高く言われていたケイネスが相手とて例外ではなく、対峙した際に僕の持つ切り札の1つである、当たれば「切って繋ぐ」という僕自身の起源に基づいて敵の魔術回路をショートさせる弾丸……起源弾をその身に打ち込んだ結果、男は瀕死の重傷を負って倒れこんだ。
本来ならそこで命も即座に刈り取るのが常のやり方だったが、いくら交戦中とはいえ、主君の命の危機にサーヴァントが反応しないはずがない。つまり重傷を負わせた時点で時間など無いに等しかったのだ。
そう、サーヴァントを連れていないし頼るつもりもない生身の僕が、サーヴァント相手に太刀打ちできるはずがないことは痛いほどわかっていたことだ。なので、その場では特別性の発信機を男に仕込んだだけで去ることにしたのだ。いずれ来るチャンスで仕留めるために。
そして今日こそがそのチャンスだったといえよう。
彼のキャスターが起こした蛮行を止める為に殆どのサーヴァントが出払っている今、各々のマスター達の守りが手薄となっている事は想像に難くない。それは僕の願ってもみない好機だ。
誤算といえば僕のサーヴァントとして呼び出された彼女……アーチャーも戦闘に参加すると言い出したことだったけれど、考えてみれば彼女がそう言い出すのは当たり前の事だったのだ。
彼女がどれほどいっそ歪に真っ直ぐで、他人の犠牲を厭う人間なのかなど、夢を通して痛いくらいに知っている。自分の命すら進んで捧げる様子はまるで殉教だ。いっそ完全な他人であるのならここまで感じなかったのかもしれないが、これが
その真っ直ぐな声に、在り方に、自分の醜さを思い知らされるようで苦しくなるのだ。
子供の頃、僕は正義の味方になりたいと思っていたし、そう在ろうとした。それは本当だ。だけど、知った現実を前に僕は彼女ほど純粋になどなれなかったし、あそこまでひたむきでもない。
僕のこの感情はもっと後ろ向きで、今まで犠牲にしてきた人々の為にも止まってはいけないという、そんな強迫観念にも似た思いでしかないのだから。正直に言えば、かつて焦がれた己の理想を呪ってさえいるのだ。失うばかりの人生と、それでも捨てきれずここまで抱え続けた憧れを憎んだことさえある。そんな僕は、もう彼女のように、子供の頃の憧れをただ綺麗なものとして見ることなんて出来ない。あんなふうには僕は生きられない。生きることが出来なかった。それが僕という人間だ。
……いっそ、彼女がもう少し汚い人間であるならばよかったとそう思う。
人として当たり前の幸せを望めるような、そんな人間であったのなら。
親のエゴだとはわかっている。
相手が英霊にまで昇華された存在である以上、今更僕が何をしたところで、その過去が変わることはないだろうことも。それでも、他の誰でもない彼女にだけは戦ってほしくないと思った。あんなふうに想い報われず、それでも誰を恨むこともなくズタズタにされて殺された彼女が、これ以上苦しむのは何かが間違っている。そう思う一方でもう一人の自分が冷静に彼女を使うことを検討する。
そうしてつけた条件が視力の共有と、1km以上離れた位置からの射撃許可だった。
アーチャーの射撃範囲は半径4kmにも渡るという。1km以上離れた位置からならば、敵の反撃を食らうこともないだろうという計算。そして同時に彼女の千里眼のスキルで戦場を把握することは、僕にとって随分と大きなメリットを生み出すこととなる。
舞弥にまずはキャスターのマスターである存在を見つけ出し、射殺するように命じ、自分は発信機を元にロード・エルメロイの元に向かう。間も無く無事目標を狙撃したことを無線で受け、続いてエルメロイの婚約者であるソラウ・ヌァザレの確保に向かってもらった。
奇しくも、アーチャーが陣取っているビルの真下の階にいたのが予想外といえば予想外だったが、居場所がわかっている分探し回る手間が省けて好都合だった。(実は先にソラウが屋上を拠点としていたのだが、アーチャーが近づいた気配に慌てて階下に潜んだのだということは知らない。また、余談ではあるが、川にいたランサーからアーチャーの姿が見れなかったのは、見たのは一瞬だったのと、たまたま互いのいた位置が悪かったが故の偶然である)
そして、舞弥がソラウを捕らえたと同時に僕は、ケイネスの元へとたどり着いた。
あとは舞弥が男の婚約者をいつでも殺せる状態にいるという証拠映像を瀕死のこの男に見せ、婚約者を無事帰し殺さない代わりに、令呪全画を使ってランサーをこちらの指示したタイミングで自害させろと、そう要求すれば事は終わった。銃を突きつけ婚約者を餌にすれば、指一本さえ動かす力の残っていない男が陥落するのは簡単だった。
タイミングを指示したのは、キャスターとの総力戦を行っている最中にランサーを倒すのは得策ではないとわかっていたからだ。あの二槍の槍兵がもつ
あれほどのことをやらかしたキャスターだ。僕がやらずとも誰かが斃すだろうという判断でマスター狩りこそ優先したが、僕だってあのキャスターの危険性は重々承知している。
あれを放っておくということは多くの犠牲を生み出すということだ。聖杯が願いを叶えられない可能性があると知った今の僕に容認できる存在ではない。だから、アーチャーの目を通して、ランサーがその役を果たしたのを確認してから、目の前の男に令呪を発動させた。
そして、あの美貌と悲恋の伝説に彩られた男がしっかと消えた様子も、アーチャーの目を通して確かに視ていた。
もう、ここにいる理由もない。僕は男を置き去りにしてこの廃墟を去る。
同時に舞弥に連絡をいれて、ソラウ嬢をこの男の元に約束通りかえすように指示する。ただし、仮にも魔術師の女をただで返すほど僕もお人よしではない。僕の事について実家に報告でもされたら面倒だ。肉体に損害は与えない代わりに、その記憶は奪わせてもらう事にするが。
舞弥と合流して、彼女の運転する車に乗り込む。
「どうしたのですか」
「何がだい?」
舞弥とは長い付き合いだ。その付き合いはアイリよりも古い。この手で育て右腕とした女。例えいつも通りの無表情でも彼女が何を言いたいのかはわかっていながら、僕はとぼけた返事を返す。
「殺さず記憶だけを奪う、など。貴方とも思えない」
「何……思うところがあっただけさ」
おそらく、今回召喚したのがあのアーチャーでなかったのなら、いや、他人だったのなら、決して僕は今回のこんな選択を選ばなかった。容赦なくソラウもエルメロイの命も奪っていたことだろう。
それが僕という人間……衛宮切嗣という名の戦闘機械の行いだからだ。
けれど、それを躊躇した理由。
それは並行世界の自分がアーチャーを拾い我が子として育てた世界では、聖杯は呪いに汚染されていたという紅い弓兵が以前口にした言葉だ。そして僕は彼女の夢を通して、本当に聖杯が汚染されていた場合それがどのような悲劇をおこすのかも見ている。
聖杯が全てを救うと、この世から争いを無くせると信じたからこそ、僕は躊躇なく誰をも切り捨てられると思って今日までの9年の月日を過ごしてきた。
やがて全てを救えるのだから、どんなことでも僅かな犠牲なのだと自分に言い聞かせることが出来た。例えその失う対象に最愛の
いわば、聖杯で願いを叶えると言うことは、自身の外道行為に対する免罪符であったのだ。
今でも聖杯に縋る気持ちはある。それでも、本当にアーチャーの言葉通り聖杯が汚染されていたのなら、僕が始める行いはただ犠牲を増やすことになる。それは、そんなのは天秤が釣り合わない。
それでもあくまでも『聖杯が汚染されていた』というそれは平行世界の話なのだからと、この世界でまで同じ筈がないなんて想いも消しきれないし、一体どちらが正しいかなんて今の僕にはわからない。
無色の願望器であると信じたい気持ちと、汚染されていたのなら、呪いが噴出す前に僕の手で止めなければならないという気持ちの狭間で揺れる自分を自覚する。
時間が経てば経つほど、
嗚呼でもどんな結果になるにせよ、僕のこの手で一体何をどこまで守れるというのだろうか。
いや、僕はこの手で「何か」を守ることが出来るのか? 経験はない。わからない。分かるはずがない。全てがグチャグチャだ。ただ、そのとき脳裏を過ぎったのは、初めて彼女を見たとき……羊水槽の中にいた銀髪の美女と出会ったときの記憶だった。
「……舞弥」
「はい」
「明日の朝になったら、アイリたちの元へ向かってくれ」
舞弥は僅かに躊躇らしきものを見せて、小さな声でそっと「それでいいのですか」と尋ねた。
「ああ、構わない」
今は無性にアイリの顔が見たかった。たとえ、それが妻との最後の語らいになるとしても、だからこそ愛しい女性の体温を身近に感じたかった。
……怪物が倒れた後の静かな夜に、車の排気音だけが音を立てて街を彩っている。
side.言峰綺礼
ぽたりぽたりと、血が私の腕を紅く染め上げている。
(私は何をしている?)
眼下にいるのは、自分が生まれてから今まで、自分という存在を誤解し続けてきた父親の姿。そう、自分の右手に心臓を貫かれて絶命している聖杯戦争の監督役、言峰璃正の姿があった。
‘どうした、綺礼。もっと悦んでみせよ’
その声ならざぬ声が耳元で囁く。うっとりと、唇が笑みの形を作る。喪失感に震える。震えている、なのに、こんな満ち足りた気持ちは初めてだった。
(これが、悦びだと?)
このようなものが悦びであっていいはずがない。聖職者である自分が他人を傷つけることを愉悦に感じるなどあってたまるだろうか。でも、この超越者の声のまま父を手にかけた自分は認めるしかなかった。
これは甘美な
(嗚呼、なんて穢らわしい)
しかしどうして……どうしてこんなにも、空洞であった筈の心を満たしていくのだろう?
(まるで動物以下だ)
獣だってもっとマシだろう。
敬愛する父を己の手で葬り、覚える感情が悦であるなどと。
なんだ、我が父は狗にでも私を産ませたというのか。
嗚呼、なんて…………有り得ない。
(気持ちが良い)
誰よりも正しかった父、言峰璃正。そこに落ち度があったとすれば、きっとそれは私という生みだしてはいけない者をこの世に生みだしてしまったことだろう。
(だから、これは貴方の罪であり、私の罪だ。父上)
そんな風に感傷に浸る私に、超越者の声が脳内で響く。
‘もう、いいだろう? さあ、綺礼。神父の腕から令呪を剥ぎ取れ’
「ああ……」
その言葉に従うように、死の直前に父から読み取り出した、聖言を諳んじる。
「神は御霊なり。故に神を崇める者は、魂と真理をもって拝むべし」
それを合図に、父の腕で光る令呪の数々がするすると自分の腕に移植されていく。父の腕に収まっていた時は美しく左右対称だった文様が、自分の腕に宿主を変えた途端歪み左右不対象の文様を描き出す。それが、自分と父の隔絶のような気すらした。
そんな光景を前にぽたりと、涙が伝った。それはどういう種類の涙だったか。父を殺した悔恨……ではないことだけは確かだ。かつての恐怖に答えを見出した喜びなのか? それとも、父を自分の手で殺したことによる嬉し涙か。
父殺しを果たしながら、未だ私の心は揺れ続けていた。
side.遠坂時臣
その連絡を受けた時、まさかと思った。
「言峰神父が……死んだって? はは、何の冗談かな。君でも冗談を言うことがあるんだね」
遠坂の魔術で弟子である青年と連絡をとりつつ、それでも私は出来るだけ冷静になろうと心がけていた。けれど、そのあまりに突飛過ぎる弟子の言葉を前に、声音からは動揺が隠せず声が震えていた。
そんな私とは対照的な声音で綺礼は言葉を吐き出す。
『いえ、事実です。昨夜のキャスター討伐のドサクサに紛れた何者かに襲われ、父は死にました』
その淡々と紡がれた報告を前に、ぐわんと、頭をハンマーで叩かれたような衝撃が脳裏を走った。死んだ? あの言峰璃正が? あの老練にして屈強な神父が?
「……本当に?」
『ええ。知っての通り、私は教会の保護を受けられない立場にいましたので、容易に近づくことも出来ず、発見が遅れました』
「そう、か」
言峰神父の死は私にとってもショックだが、弟子の綺礼にとっては尚更だろう。何せ実の父親なのだ。きっと、発見が遅れたことで一番辛い思いをしているのは綺礼に違いない。そう思えば、こんな風に冷静な声で報告をしてくれている弟子のことが哀れな気持ちになり、私は労うような言葉を彼にかけた。
「わざわざ連絡すまなかったね。色々と君もこれからが大変だろうが頑張りたまえ」
『いえ。では』
切れた通信を見つめる。
「セイバー」
そうして数秒の沈黙の後、静かな声で呼びかけると、すっとどこからともなく赤いドレスの少女が姿を現した。
「何用だ、
「これから、出かける。護衛を頼む」
「ほう」
その私の言葉を前に、にやりと美しい少女の顔に傲慢な笑みが貼り付いた。
「ずっと閉じこもってばかりだと思っておったが、閉じこもるのはやめたのか? どこにいくというのだ。奏者よ」
「隣町だ」
その言葉にセイバーが否やを言うことは無かった。
side.エミヤ
眠っている白皙の美女の顔をそっと見つめる。
土蔵に設置した魔方陣の上で彼女はまるで眠り姫のように、昏々と長い眠りについている。
昨夜のキャスターとの戦闘から帰ってきた時から、既に彼女、今回の聖杯たるアイリスフィールは眠りについていた。その顔を見ながら様々な想いが胸に押し寄せる。
悪戯っぽい顔に、少女染みた可憐さ。そして母親としての一面と、アイリは実に色鮮やかにそのときによって顔をころころと変える。だが、もう彼女に私が紅茶を淹れることもないだろう。これは、彼女が今回の聖杯であるということから、わかりきっていた結末だ。
『ふふ、私のこと、お母さんって呼んでくれてもいいのよ?』
何故か会ったばかりの頃に言われたその言葉を思い出す。
私と
私には母との記憶なんてものはない。何故なら私は切嗣に拾われたあの大災害以前の記憶がないからだ。……正確には膨大な時の流れを前に忘れてしまった、というのが正しい表現なのだが。
生前は覚えていたのかも知れなくとも、それでも生みの母との思い出など既に守護者に成り果てた私には欠片も残っていない。私を引き取った切嗣はその頃には独り者で、
それでも、母親とはアイリのような女性のことをいうのだろうとそう思う。
彼女は私に母と思って欲しいという。そうして慈母の愛をいくつも私に示した。それはとてもくすぐったい経験だった。けれど……そうだな。たった数日間だったかもしれないけれど、それでも接した彼女は誰より母親だった。
だけど私は英霊だ。既に死んでいる存在。
それが、この時代を生きている彼女を母親と思うなんておかしいだろう? 許されることじゃない。私はこの聖杯戦争のためだけに呼び出された道具なのだから。
そんな風にとりとめのない思考に陥っていると、キィと、車のブレーキ音が聞こえてはっと顔を上げる。この気配は
実体化し、すぐさま玄関に赴き主人を出迎える。
くたびれた黒いコートにぼさぼさの黒髪、ぞんざいに伸びた無精髭。僅かに香る煙草と硝煙の匂い。そのどれもが魔術師殺し衛宮切嗣を代表するものだろう。
けれどそんな自分の感情を殺し、私はあくまでも1人のサーヴァントとしての態度で、言葉を放った。
「アイリなら、土蔵で眠っている」
「……そうか」
(……?)
私の回答を前に、切嗣はどこかほっとしたような顔をしている。珍しい。今の私の前でそんな顔をするなんて。
「夫婦で語らいたいこともあるだろう。私は消えていよう」
そう言ってすっと霊体に戻り、屋根の上へと飛ぶと、切嗣は僅か手を彷徨わせて私が消えたほうを見、きゅっと口を引き結んで土蔵へと向かった。
本当にどうしたというのだろうか。なんだか様子がおかしい。変だ。
噂に聞いた魔術師殺しとはもっと機械のような男なのではなかったのか? まさか、体調不良ではあるまいな? それはいけない。どうせあの人のことだ、食事も睡眠も碌にとってなかったのだろう。その無理が生じたというところか。ならば、霊体化して周囲の見張りをするよりも、粥とかちょっとした食事を用意したほうがいいのだろうか。なにせ私と違ってあの人は生身の人間なのだから。
すっと、霊体のまま下に降り台所に立つと、魔力で身体を形作り投影した赤いエプロンを身に着ける。材料はそれほどあるわけではないが、全く無いわけではない。その少しで十分だ。水を沸かしながら、トントンとリズム良く野菜を切る。
本当は色々マスターに尋ねるべきなのだろうとそう思ってはいる。
例えば、昨夜のランサーの急変。あれをやったのはマスターなのか? とか。
でも、わざわざ聞くまでもなく、私は原因があの男であると確信していた。そして、それを咎めるつもりもない。おそらく、爺さんが本来呼び出すはずの
彼女はそういう人だ。真っ当な勝負の果ての消滅であるのならば文句はないかもしれんが、あんな風な結末は騎士として見過ごすわけにはいかないとそう思うことだろう。あまりにも卑怯だと。でも、別にアイリが言った言葉に乗っかるつもりはないが、基本的に私と切嗣は同類なのだ。一体私に何を責められるというのだろうか。
だが、まあ、この時代にきてから私は色んな人に色んな誤解をされているような気もする。
別にそれで損をするわけでもないから放っておいているが、現状、どうも私は騙まし討ちや相手を策略に嵌めるタイプだとは思われていないらしい。ライダーなんかは完璧に私をお人よし呼ばわりだ。必要がないから今の所その手の事を行っていないだけで、私はそんな上等な人間ではないのだがな。
そう、昨夜のランサーが突如自害した件についても、ライダーもセイバーもあんな倒れ方をしたランサーのことを不憫に思ったらしく、ランサーに自害を命じたであろうランサーの主君に対して大なり小なり怒りを覚えていた様子だったわけだが、私にとっては決してランサーが倒れた件は怒りを覚えるようなものではなかった。
それは当然だといえよう。なにせこの身は由緒正しき正英霊などではなく、薄汚い守護者の反英雄でしかないのだから。世界の掃除屋。それが本来の私だ。
誇りのある戦いよりも、目的を達成するためには何をも犠牲にするし、誇りなんて自ら投げ捨てる。それが私の戦いにおけるスタンスだった。
正規の英雄連中とは違う。三騎士のクラスで召喚されていようとも、私は騎士などではないのだ。大事なのは過程ではなく結果だ。ランサーの件についても、敵サーヴァントが一人脱落した。私にとって価値ある事実はそれだけだ。
私は、私の目的さえ遂げれればそれでいい。
銀髪紅眼の少女の、幼く純粋な顔を思い出す。
イリヤスフィール。私の妹であり姉の少女。
彼女との誓いはここにある。約束を違えるつもりはない。もう二度と私は主を裏切らない。今生は私を呼び出したマスター……衛宮切嗣の為に捧ぐ。其れが私の戒めと望みだった。
side.衛宮切嗣
玄関で出迎える白髪の女の姿を見たとき、僕はどう反応すればいいのかわからなくて僅かに戸惑った。
そんな僕に対し、彼女は硬質な声音で言葉を紡ぐ。
「アイリなら、土蔵で眠っている」
「……そうか」
なんだ、僕の戸惑いに気付いたわけじゃないのか。そんなことに少しほっとする。
こうしてアーチャーと顔を正面から突き合わせるのは日本にきてからは初めてのことだったと思うが、彼女の記憶を見てきた事に気付かれていないならそれでいい。やはり、自分の記憶が勝手に見られていた事を知るのはいい気分ではないだろう。
そう思っていると、アーチャーは仏頂面ながらも僅かに眉根を寄せ、不思議そうな顔を浮かべたあと、元の従者としてのスタンスに戻してこう言った。
「夫婦で語らいたいこともあるだろう。私は消えていよう」
そういって霊体化して消えていく様を見て、思わず呼び止めそうになる自分を自覚する。馬鹿馬鹿しい。こんなところでボロを出してどうする。僕は葛藤を押し殺して、当初の予定通りアイリの元へと向かった。
暗い土蔵の片隅で、魔方陣の中に横たわる眠り姫。
その姿に羊水槽の中で眠っていた彼女との出会いを思い出す。
思えばあの最初の出会いの時、アイリの緋色の瞳に魅入られ僕は彼女を深く愛するようになっていったのだ。あの光景をきっと僕が忘れる日はないだろう。そんな風に思いながら妻の顔を見下ろす。
そんな僕の気配に気付いたのだろう。覗きこむ僕の目の前で彼女はゆっくりと目を開いて、それから嬉しそうに柔らかく微笑んだ。
「あ……キリツグ、だ……」
冷え切った弱々しい指が、僕の頬を緩く包む。
そして彼女は夢見心地の優しく柔らかい声で言葉を紡いだ。
「……夢じゃないのね。本当に……また、逢いに来てくれたのね……」
「ああ。そうだよ」
出来るだけ優しい声音を意識して妻の声に応える。
そんな僕を前に、アイリスフィールは紅い瞳に透明な雫をためて、ぼろぼろと溢していく。それはまるで真珠のように彼女の白い肌を彩っていた。
「私ね……ずっと……これで満足だと思っていたの……」
しゃくりあげる元気すらなく、体を動かすことも出来ず、それでも妻は健気に言葉を吐き続けた。
「……人、じゃない私が……人みたいに恋をして……愛されて……夫と、娘と、九年も……あなたは、全てを与えてくれた……私はなんて幸せ者……なんだろうって……ずっと、そう……思ってた」
でも、と言葉を切って、妻は目を細めて僕を見上げる。
「今は……怖い。……本当に、アーチャーの……言うとおり、聖杯が……汚染されていたら、そうしたら……私はどうなるの……? あなたは……どうなるの? ……あの子やイリヤは……私、私……」
「アイリ」
ぎゅっと彼女の白い手を両手で握り締める。僕の体温が伝わったのか、アイリは涙はそのままにどこかほっとしたような顔をして再び僕を見つめる。
「ねえ……キリツグ……約束して。生きて、イリヤの元に帰る……って。イリヤをいつか……この国に連れてきて、私が見れなかったものを全部……見せて……一つでも多くの幸せを……あの子にあげて……」
今朝仮眠中に見た夢を思い出す。
アーチャーの記憶。
「ああ、約束する」
我が子を守るのは親の役目だ。並行世界の僕が果たせなかったというなら、その分も僕が果たしたい。
「聖杯が、ね……本当に、汚染されていたら……あなたの手で私を終わらせて……私、あなたがいい…………」
「わかっているよ」
他の誰でもなく僕の手で引導を渡す。愛しているからこそ、それは僕の役目だった。
「あと……ね」
これが最期だとわかっているからだろう、妻は言葉をやめることなく続ける。その姿に胸が軋む。
「アーチャー……のこと、まもってあげて。……あの子を、残していくのが……一番心配……あの子は、だって……もっと幸せになるべきだもの……」
報われない人生、剣の丘に佇む赤い背中の剣の王。その光景をアイリは知らないはずだ。
裏切られ、傷つきながらも正義の味方たろうとして生きてきたことも、自らを差し出して死んだことも。だけど、そう言葉を紡ぐ
「ねえ……お願いよ、キリツグ……アーチャーを、私たちのもう一人の娘を……守ってあげて」
「……ああ」
そうだ、彼女はもう一人の僕の娘だ。
「わかってる」
血の繋がりなんて関係ない。僕はあの子の父親なんだ。娘を守るのに他に理由がいるだろうか。
「わかっているよ」
全てに裏切られ、無数の剣に刺し貫かれ息絶える。もう二度とあんな終わりを迎えさせたくない。
「僕にとっても彼女は……アーチャーは大切な、娘だ」
初めて言葉に出して、そう、かの紅き弓兵のことを認めた。
何を守れるのか、僕のこの手で守れるものなどあるのだろうか、そうずっと自問自答してきたことの答えがもたらされたような気がした。
(守れるか、ではなく、守る。そうか、それでよかったんだ)
僕は今、果たして笑えているだろうか?
アイリがそっと目を細める。起きてこうして人のように話す、その限界が近いのかもしれない。
「これを……返さないと、ね……」
アイリスフィールは、震える手で自らの胸に精一杯の魔力を紡ぐ。すると、彼女の手の中から黄金の鞘が具現化され、その白い貴婦人の手に収まった。
「アイリ……!?」
本当はアーサー王を呼ぶ為の媒介だったそれは、所有者を不老不死にするとされ、あらゆる病や傷から身を守るとされるアーサー王の失われし宝具。聖剣エクスカリバーの鞘だ。
アーサー王の魔力さえあれば、どんな傷もたちどころに治すというそれは、持ち主が召喚されなかったことによって、本来の能力が引き出されることはないが、それでも一級品の武装概念ではある。人としての機能を失っていくアイリの進行を僅かでも止める力くらいならあるはずだった。だからこそ彼女の体内に封じていたのだ。
なのに何故自ら取り出す真似をしたのか。
「なんで……」
「……あなたは、アーチャーから……きいてなかったかしら……?」
聞いてなかったか、とは一体何の話だ。
「アーチャーが召喚されたのは……聖剣の鞘と縁があったからよ……彼女の歴史で、聖杯が引き起こした大災害で……彼女の命を救ったのは、キリツグ、あなたが……埋め込んだ……聖剣の鞘だった……そう言ってたわ……」
はっとした。以前見た、聖杯の泥が引き起こす大災害の情景を思い出す。そうだ、あんな中、普通の子供が五体満足で生き延びれるものだろうか?
「……十年、彼女は鞘と……共にあったらしいわ。……だから、きっとこれは……アーチャーの助けになってくれる筈……今は意味がないかもしれないけど……でも、もっていって」
そう言って無理に笑う妻の姿を見て、その細い身体をそっと抱きしめた。
「ああ……必ず」
当初、僕はこの戦いで、9年前の魔術師殺しと呼ばれた頃に戻るつもりだった。
「必ず……君との約束は、守る」
だけど、おそらく、あのアーチャーを召喚したときからそんなこと土台無理だったのだろう。そう痛感する。
「じゃあ、行ってくるよ」
「はい……お気をつけて、あなた」
そう言って妻は優しく微笑む。
そうして僕は土蔵に背を向けた。
外に出ると、そこにはタイミングを読んだかのように白髪褐色肌の弓兵が立っていた。その顔を見た途端、先ほどまでの誓いはどこにいったのか、どう対応していいのかわからなくなって僕の頭は軽く混乱した。
「マスター、もういいのか?」
そう言って近づいてきたアーチャーを、反射的に避けるようにしてつかつかと歩く。
「ちょっと、待ちたまえ」
「?」
その言葉に、こんな風にアーチャーに呼び止められるなんて初めてじゃないのかと思い、思わず足をとめる。
一体どうしたのか。そうして彼女の口から飛び出したのは、僕にして見れば思いがけない言葉だった。
「顔色が悪い。体調管理もマスターとしての仕事だぞ。食事や睡眠はちゃんと採っているのか?」
今更のことだけど……僕のことをマスターと呼ぶわりに、アーチャーの言動や行動はあまりサーヴァントらしくはないな。それはきっと親愛の情からきているのだろうが……。
アイリにはああ約束したし、僕自身彼女を守ると誓いはしたものの、それでも
ここまで取るべき態度がわからない相手は初めてだった。
そんな僕の心境には気付いていないのだろう。アーチャーはどことなく遠慮がちにも聞こえる声音と少し恥じらうような態度を見せながら、次のような提案を僕に示す。
「その、粥を作ってみた。少しくらいなら時間はあるだろう。だから……」
「結構だ」
その言葉は、自分でも少し予想外なくらい冷たい声になってしまって内心驚く。
「そう、か」
そうやって自分の言葉を元凶にして肩を落とし、落ち込んだ様子を見せた彼女の姿に、罪悪感がじわじわと胸に押し寄せた。いや、今のは違うんだ、と笑いながら言えばいいものの、僕の頬の筋肉は依然張り付いたままだ。喉がからからと渇く。
「余計な気をまわして悪かった」
言うなり、アーチャーは霊体となって消えた。
確かに守りたいと思っているのに、上手く接することも出来ず、心に澱みを抱えたまま僕はその家を立ち去った。
続く