ブニョンッ。
ブニョンッ。
ブニョンッ。
ブニョンッ。
「…………」
ブニョンッ。
ブニョンッ。
ブニョンッ。
ブニョンッ。
「……………………」
――うるっせぇ。
全員の心の声が一致したような気がした。
現在E組の面々は、教室へと戻り小テスト中。
本来ならば静かな空間の中で鉛筆と紙が擦れる音だけが響いているはずなのに、現実はというと、先程から壁に向かってパンチし続けている殺せんせーの触手と壁が接触する柔らかい打撃音しか聞こえてこない。
暴走族の集団と街中ですれ違うよりはマシだが、それでも充分に騒音の範疇だ。早くもしびれを切らしたらしい岡野ひなたが机を叩いて抗議する。
「ブニョンブニョンうるさいよ殺せんせー! 小テスト中なんだから!!」
「こ、これは失礼!」
どやされた殺せんせーは慌てて触手をひっこめる。
そんなやりとりの裏、教室後方において吉田・松村・寺坂の不良グループがカルマと有粋に突っかかっていた。
「よォ、カルマァ。あのバケモン怒らせてどうなっても知らねーぞー」
「花槍も、またおうちにこもってた方が良いんじゃなーい」
「そうそう。顔に傷が増える前にな」
どれだけ煽られようとも二人のペースが崩れることはない。
カルマはいっそ魅力的なほど飄々とした笑みのまま、有粋は気負いを感じさせない真面目な顔つきのまま、落ち着いた様子で切り返す。
「殺されかけたら怒るのは当たり前じゃん、寺坂。しくじってちびっちゃった誰かの時と違ってさ」
「なっ、ちびってねーよ! テメェ喧嘩売ってんのか!!」
「そりゃあ誤解だぜ、寺坂。アタシの親友に弱ェもんいじめの趣味なんざねェ」
「弱っ……!? 上等だコラ! 表に出やがれ!!」
「無理だよ寺坂。俺の親友も弱い者いじめ嫌いだもん」
「クソッ……テメェら散々におちょくりやがって……ッ!!」
遠まわしに「お前ザコだから俺らの相手にもなんねーよ」と馬鹿にされ弄ばれているこの状況に、寺坂のフラストレーションはたまりまくる一方。
ちなみにカルマはおちょくる為に天然を装っているが、有粋はわりと本気で言っている。彼女の場合は生来の生真面目さがこうして煽り効果を生むこともあるのだ。
だからといって悪意がない訳でもない。目の前で親友を揶揄する存在にかける言葉なのだから、刺々しさは意図せずとも含んでしまう。
「こらそこ! テスト中に口喧嘩を始めない!!」
主に寺坂の声が大きいせいで殺せんせーから注意が入る。
グループで絡んだのに結果的に精神ダメージを負ったのが寺坂だけなのだから、なんともまあ不憫な男である。けれども自業自得だ。
「ごめんごめん殺せんせー。俺もう終わったからさ。ジェラート喰って静かにしてるわ」
「付け合せでマフィンなんてどうだい? こないだ痴漢から助けた子に貰ったもんだが、なかなか美味そうだぜ」
「駄目ですよ! 授業中にそんなもの! まったく、どこで買って来て……」
マフィンは貰い物だと判明しているので、カルマのジェラートのほうに視線を移しながら質問しようとし……たところで、殺せんせーはそのジェラートが己の購入したものであることに気付いた。
「そ、それは昨日先生がイタリア行って買ったやつ!!」
「あ、ごめーん。職員室で冷やしてあったからさ」
しれっと謝罪を済ませてイタリアンジェラートを舐め続けるカルマ。悪びれた様子はまったくない。
有粋はマフィンを取り出してカルマに渡しただけで、自分が食べる気はないらしい。けれどもジェラートを食べるカルマを注意しないあたり間違いなくカルマ寄りだ。
怒りの収まらぬ殺せんせーはなおも抗議の声を上げる。
「ごめんじゃ済みません! 溶けないように苦労して寒い成層圏を飛んで来たのに!!」
「へー……で、どうすんの? 殴る?」
「殴りません!! 残りを先生が舐めるだけです!!」
それはそれで殴る以上の問題に発展しそうな気もするのだが、とにかくジェラートがこれ以上消費されてしまう前に取り返さんとカルマの席に急く殺せんせー。
そんな彼の触手が目の前のジェラートよりもあっさりと溶けた瞬間、先程校庭で二人にしてやられたことを思い出し、慌てて地面を確認。
危惧した通り、そこにはいつの間にか対先生用BB弾が散りばめられていた。
視界の端で、カルマの薄い唇がにんまりと弧を象る。
「あっは――まぁーた引っかかった」
さも面白げな囁きが空気の上を踊って消えた。
映画の中のカウボーイと変わらぬ速さでヒップホルスターから抜かれた拳銃は、的確な角度で引き金をしぼれば、銃口から対先生用BB弾を勢い良く射出する。
至近距離とはいえ、一寸の狂いもない頭部目掛けての見事な銃撃。それもやはり殺せんせーのスピードの前では鈍速でしかないようで、再び避けられてしまった。
しかしその背後から、混乱に乗じて回り込んでいた有粋が殺せんせーの後頭部めがけて何か大きな袋状のものを投げつける。
随分とやわな素材で出来ているらしいソレは、正体もわからぬまま咄嗟に避けた先生が避けると壁面に激突し、破裂すると同時に中身を撒き散らした。
「にゅっ!?」
ぶわっと舞い上がった中身は粉状の何か。しかしそれに触れた途端、殺せんせーの触手がまたしても液状化したことから、粉の正体は細かくなるまで砕かれた対先生用BB弾であることがわかる。
ナイフや弾丸は避けられても、やはりこれほどまでに微細なものとなると一瞬の判断で全て避けきるのは難しい。しかも地味に教室中の床のほとんどにまで広がってしまった。
「ナイス有粋、手筈通り!」
「伊達に長年つるんでねェさ!」
上機嫌に響くカルマの呼びかけ。呼応する有粋もまた、どこか楽しげだ。
二人が動かしているのは口だけではない。カルマは拳銃を持っていないほうの手を壁に叩きつける勢いで後ろへと引き、有粋は逆方向にスタートダッシュを決める。
周囲の生徒たちには二人の行動の意図が読めない。初めは殺せんせーもそうだった。しかし雲で隠れていた太陽がタイミング良く顔を覗かせ、窓から射し込む光量が増したことで彼らの思惑に気付いた。
そう。日差しを受けた二人の手首で、なにか半透明な糸状のものが煌めいているのを目撃したのだ。
(あれはピアノ線! ということはッ!)
とろけてしまった触手が回復するのを待たず、素早い判断で天井へと貼り付く。判断は正しかった。
いつの間に仕込んだのやら――ひょっとしたら5時間目の体育で皆が校庭に出ている最中にやっていたのかもしれない。
人目につかないよう巧妙に張り巡らせたらしいピアノ線の双方の先端は二人の手首に巻きつけられていて、二人が動けば当然、張られたピアノ線もその陣形を変貌させる。
ついさきほどまで立っていた場所を、ギロチンのようなピアノ線の一閃が通過した。
二人の意図に気付かず、あのまま立っていたら……間違いなく殺せんせーが足代わりにしている触手は根こそぎ切り離されていたはずだ。
ただのピアノ線ならそうはいかないが、硬い対先生用BB弾をわざわざ何十kg分も粉状にしてきたこの二人なら、同じように対先生用BB弾を溶かして薄くピアノ線に塗りつけるくらいはしてのけるだろう。
つまりこれがただのピアノ線という可能性は無い。
床全面への移動を封じてから移動手段となる触手を奪い、トドメを刺す確率を格段にアップさせるというこの作戦。
なるほど、成功していれば暗殺終了はならずとも奥の手を引き出すくらいはできていたかもしれない。
だが甘い。昨日の今日でさすがに天井にまで細工する余裕は無かったらしい。
けれども4時間目まで空いていたはずの教室の窓が全て鍵ごと締まっていたり、その鍵にすらよく見れば薄く切った対先生用ナイフの破片が貼ってあるあたり、他の逃げ道を絶つ手段は講じていたようだ。
この分では扉にも罠はあったのだろう。即座に天井という選択肢をとった自分を心の中でそっと褒める。
「あらら。失敗しちゃったか」
「成功の元が一つ増えただけだ。気長にやろォぜ」
気さくに言葉を交わす二人の姿は仲の良い普通の男子中学生同士にしか見えない。
けれどもカルマの視線が殺せんせーのほうを向いた瞬間、眼球の色は変わらぬまま、そこに宿る感情だけがぞっとするものに成った。
「何度でもこういう手使うよ。授業の邪魔とか関係ないし。それが嫌なら、俺でも俺の親でも殺せばいい」
「…………」
「でもその瞬間から、もう誰もアンタを先生とは見てくれない。ただの人殺しのモンスターさ。アンタという『先生』は、俺に殺されたことになる」
嘯いて、グチョグチョに溶けたジェラートを天井の殺せんせーへと放り投げる。嫌な予感がして当たりそうな箇所の触手をのければ、やはり中には対先生用ナイフが丸ごと一本混入されていた。
何重もの殺意と策略で固められた暗殺計画。これがほんの数十時間前に思いついて下準備まで終わらせた即興ものなのだから、この少年の素質は末恐ろしい。
それを相棒としてしっかり実行できてしまう少女の潜在能力もまた然り。
「とりあえず、俺と有粋のテストここに置いとくね。たぶん二人とも全問正解」
教卓に二枚の答案用紙を置いて、カルマはいつも通りのイタズラっ子の表情で出入り口へと向かってゆく。
暗殺失敗を悔しがる素振りも、ダメージを負わせたことを喜ぶ気配もなかった。
「じゃあねー、『先生』。明日も遊ぼうね!」
端正な顔立ちに爛漫とした笑みを浮かべて、この嵐を起こした張本人たちの片割れであるカルマは教室から出て行った。
残された、というよりは残ったというべきだろうか。一人で教室中の視線を独占している有粋は、先程までとは打って変わってどこか面目ない様子で己の髪をかき乱した後、教室のど真ん中で深く頭を下げてこう宣った。
「悪ィな。掃除は明日アタシがやるから、気にしねェでくれ。……アイツはいま傷ついて荒れてるだけで、根は上等な奴さ。それだけ覚えといちゃあくれねェか」
誰に向けたものなのか……たぶんこの教室にいる全員だ。
さっきの暗殺も嫌々やっているようには見えなかったし、有粋がカルマを見る目はいつも友愛に満ちている。
二人の関係は対等なものだ。それでも彼女があまり好みでない、周囲に一方的に迷惑をかけるような真似を手伝ったのは、やはり彼女がカルマの親友だからだろう。
荒れた人間を救ってやろうと――引き上げてやろうとすれば、高い場所に行かなくてはならない。つまり一度離れなければならない。ただでさえ傷ついて情緒不安定な相手と一緒にいてやれなくなる。
親友だからこそ、昔からつるんできた掛け替えのない相手だからこそ、花槍有粋は赤羽業を救えない。
二人の事情を何も知らないE組の生徒たちですら、思わずそんな深い想像までしてしまうほど、彼女の態度は真摯なものだった。
天井から殺せんせーが有粋に言葉をかけようとするが、その気配を察した彼女は素早く頭を上げて教室の扉から出て行ってしまう。
ふと渚が窓の外を見れば、校庭の端でカルマが有粋を待っているのが見えた。
(カルマくんに、いったい何があったんだろう)
それは渚にはわからない。
けれども何があったところで、きっと花槍有粋は赤羽業から離れることはないのだろう。
かつてカルマを庇った際にできたという右頬の傷を「アタシの勲章」と誇っていた彼女の姿を思い出し、渚は形容しがたい感情を込めた溜息を吐いた。
道を間違ったらぶん殴ってでも連れ戻してくれる親友と、道を間違えても死ぬまで笑ってついてきてくれる親友。
どちらかというと後者に近いのが有粋です。
ただしカルマ以外には前者の対応が近いです。