「魚がないっ!?」
ヒロの声が裏返る。
普段の海桶屋なら、客に出す魚がなくとも痛手ではない。
悲しいながら、痛手ではない。
だが、今日は『普段』ではないのである。
珍しく予約客のいる日……それだけに、ゴウから告げられた一言はショッキングだった。
「ああ。魚がないんだ」
魚屋『後醍醐』の軒下で、ゴウは改めてそう答える。
その表情には珍しく沈痛さが篭っていた。
「ど、どうして……」
「最近、船の調子が悪かったんだ」
「………」
「で、親父が今日の明け方にエンジンを弄ってたら、煙を吹いたんだ。
どうにも本格的に壊れちまったみたいで、今日は漁に出ていない。
それで今日は魚を置いていないんだ」
「昨日の分の魚は?」
少し早口で聞く。
「昨日のうちに全部はけちまった」
「船はいつ直るの?」
「今、親父が馬で本土の技師を呼びに行っている。
多分、技師が来るのは夕方だから、直るのはそれ以降だな」
「そっか……」
ヒロは頭を抱えて俯く。
どうしたものかと考え込む。
とはいえ、ないものはない。
どう逆立ちしても、後醍醐で魚を買う事はできないのだ。
「あ……もしかして今日の海桶屋は……」
ゴウがはっとした表情になる。
「うん。珍しく予約のお客様が入っているんだ」
「むう……それは拙いな」
ゴウの声は重い。
だが、彼はすぐに両手を打った。
「そうだ、なんとかなるぞ」
「なるの?」
「居住地区に買いに行けば良いじゃないか」
「あ……!」
ヒロは目を丸くする。
居住地区は、兄花島の東部に位置する、人口密度の高い一帯である。
観光地区と比較すれば商店は多く、当然ながら魚屋もある。
ただ、そこまで足を伸ばさずとも海桶屋は営業できていた為に、ヒロはその存在を失念していた。
「居住地区か……ゴウ君、今何時?」
「ええと……おう。十時過ぎだ」
上半身を捻って店内の掛け時計を見たゴウが答える。
その返答を受けて、ヒロは脳内で移動時間を見積もり始めた。
海桶屋では馬を飼っていない為、兄花通りの裏にあるギルド支部で馬を借りるまで、手続き込みで三十分かかる。
借り終えて十一時頃に出かけたとして、馬なら居住地区まで速歩で一時間もかからない。
時折常歩に落としたり、買い物する時間を加えても、往復するまでに二時間。十三時には帰ってくる事ができる。
夕食の準備は十六時からを予定している為、十分に間に合う。
これが徒歩ならば、往復五時間といった所。
馬を借りる時間を差し引いても、十六時までに帰れるかどうか怪しい。
また、過大な疲労を伴う事にもなる。
季節は七月。日差しは本格的にきつくなっている。
その様な中を長時間歩くのは御免被りたかった。
「よし! 決めた!」
ヒロが握り拳を作る。
「居住地区まで行くのか?」
「うん。できればゴウ君のお店で今日の魚を買いたかったんだけれど、今回ばかりはね」
はにかみながら言う。
「そうか。悪いな」
「事情が事情だし、仕方ないよ」
「それじゃあ急いだ方が良いな」
「そうだね。じゃあ、早速ギルドで馬を借りてくるよ」
「あ、おい、ちょっと待て!」
ヒロが元気良く踵を返そうとする所を、ゴウは慌てて止めた。
「どうかした?」
「お前、忘れたのか?」
ヒロを案じる口調。
嫌な予感がヒロの脳裏を過ぎる。
それが何なのかを考える前に、ゴウは言葉を続けた。
「今日は休日だ。……ギルドは閉まってるぞ」
「……あっ!」
燦燦さんぽ日和
第九話/サヨコの思い出
結局、ヒロは一人で居住地区まで歩く事にした。
店を空にするわけにもいかない為、センダンに事情を説明して留守番をしてもらう。
薄手のシャツを纏い、日除けの為の麦藁帽子を被ると、昼食代わりにパンを二個食べてから海桶屋を出た。
兄花島の道路は沿岸に伸びていて、東部の居住地区に行く為には、南北いずれかの道から島を半周する必要がある。
ヒロは、距離が若干短い南部ルートを選択した。
島の主要道路だけに、整備はされている土道で、足の負担が軽いのがせめてもの救いであった。
「いやはや……しかし、これは……」
ぶつぶつと呟きながら歩き続ける。
既に三十分程歩き続けているが、暑い。
とにかく暑いのだ。
ひたすらこれに尽きる。
余す所なく青色で埋め尽くされた空。
ギンギンと突き刺さる日差し。
光のマナを直視したような眩さ。
蒸し上がった風。
フライパンの上を思わせるような照り返し。
延々と鳴き続けるセミの声。
単なる気温に限らず、あらゆる要素が夏の暑さを作り上げていた。
その上、まだまだ夏の本番はこれからなのである。
気が滅入って仕方がなかった。
「夏だなあ」
眩い光の下で、噴き出す汗を拭いながら、当たり前の事を口にする。
嫌気が差す程の炎天下に晒されて、自然と零れた言葉だ。
夏なのである。
今年も、夏が来たのである。
ヒロが歩く道沿いには、田畑が広がっている事が多い。
育てられているのは、米か、島の名産品である蜜柑が大半だ。
もう少し余裕がある日なら、その成長を眺めながら歩くのも良いだろう。
だが、今はそのような余裕はない。
田畑の傍は早足で通り抜ける。
その代わりに、時折姿を覗かせる民家や林の傍はゆっくりと歩いた。
それらが微弱ながらも日陰を作ってくれるので、その恩恵に預かりながら進むのである。
そうして、万全の態勢で歩いているつもりだったが、それでも辛い。
どうしたものだろうか、と考えている所で、前方に商店が見えた。
駄菓子や、鉄板で作る簡単な料理を取り扱っている店である。
ヒロも、幼少時代に海桶屋に遊びに来た時には、この店でよく駄菓子を買っていた。
本名は知らなかったが、オバアと呼ばれる優しい老婆が切り盛りしている店である。
「よし、休憩、休憩!」
人間、目的が視界に入れば気力が沸くものである。
元気良く声を上げて、駆け足で商店まで向かう。
途中で『閉まっていたらどうしよう』という不安にかられたが、開け放たれた商店の入口が、その不安を払拭してくれた。
「こんにちはー」
店内を覗き込みながら声を掛ける。
オバアは鉄板の前で新聞を読んでいたが、ヒロの声に気がつくと明るい笑顔を見せた。
「おや、ヒロちゃんでねえの! 久しぶりだねえ!」
「オバア、久しぶり。今日はお店やってる?」
ヒロは言葉を砕く。
ヒロがこういう態度を取る相手は、基本的には親しい人物である。
オバアとはそれ程親しいわけではなかったのだが、
彼女の前では、無意識のうちに少年時代の無邪気さが戻っていた。
「もちろんやっとるよお。入りなさい、入りなさい」
「オバア、ありがとうー」
オバアに手招きされるがままに店内に入る。
風のマナを用いた送風機が利いている店内は、入口が開け放たれていようと、外とは比べ物にならない涼しさだった。
「こんな所を歩いているなんて珍しいねえ。どうしたんだい?」
「居住地区に向かってるんだ」
そう返事をしながら席に着く。
「馬は?」
「今日はギルドが閉まってて借りられなかったんだ」
「あらまあ。そりゃ難儀な」
「で……ちょっと休んで行っても良いかな?」
「もちろん。好きなだけ休んでいきなさいな。あ、そうだねえ」
オバアは緩慢な動作で立ち上がった。
部屋の隅にある冷蔵庫を開けると、中からオレンジジュースを取り出す。
戸棚からはガラスのコップを取り出してオレンジジュースを汲み、それをヒロの前のテーブルに置いた。
「喉も渇いとるじゃろ。飲みなさい。おかわりもあるから」
「ありがとう、オバア。いくら?」
「ヒロちゃん、何を言っとるんかい」
オバアが笑い飛ばす。
「お金なんかいらんよ。ヒロちゃんお仕事頑張っているから、オバアからのご褒美だよ」
「ご、ご褒美って、僕はもうそんな歳じゃ……」
「ヒロちゃんは相変わらずだねえ。オバアからすれば、うちのお客は皆はずっと子供だよ」
穏やかな口調。
二度、元気付けるように背中を叩かれた。
「……オバア、ありがとう」
ぺこりと頭を下げる。
「ええんよ、ええんよ。ヒロちゃんは礼儀正しい子やね。
でも、もうちょっとワガママ言ってもええんよ。
その方が、相手も嬉しい事もあるもんだよ」
「うん」
「さて、オバアはちょっと仕事があるから上に行くよ。おかわりは自分で注いでええからね」
オバアはそう言い残すと、土間を越えて、店の奥の居間へと上がっていった。
店内には、ヒロだけが残る。
「……優しいなあ」
居間の方を眺めながら、しみじみと呟く。
同時に、祖母ウメエの事を考える。
これがウメエだったら、どういう対応をされるだろうか。
『徒歩で居住地区まで? ハハハ、徒歩だけにトホホじゃの!
ジュース? ああ、今日だけ三倍値上がりセール実施中じゃ!』
「……オバアがここの店主で良かったな」
その想像に、眉をひそめてしまう。
脳内のウメエを払いのけるように顔を左右に振ると、麦藁帽子を脱いでテーブルに置いた。
それから、オバアが用意してくれたオレンジジュースを早速飲む。
どくり、どくりと力強い音を立てて、ジュースが喉を流れていく。
救いの冷気が、全身を駆け巡る。
火照った身体が、たったコップ一杯のジュースで急激に冷やされていくのが感じられた。
「っぷはぁ」
一気に飲み干してしまった。
遅れて、つんざくような冷気が頭部に襲い掛かる。
頭に手を当ててその冷気を堪えきってから、コップを机の上に戻した。
「んんー」
ヒロは席から動かずに背伸びをして、店の外を眺める。
先ほどまで歩いていた道路の向かい側は、海だ。
海上では、遠い所で水のマナが瞬いているようだがはっきりとは見えない。
真っ青な空と海がどこまでも伸びているだけの、静かな光景である。
だが、光景とは対照的に音の主張は強い。
騒がしいセミの鳴き声。
海の微かな波音。
それから店の軒先に吊られている風鈴の音色。
夏の和音が、聞こえてくる。
「昔も、こんな感じだったなあ」
オバアに子供と言われたからだろうか。
ふと、子供の頃に過ごした夏を思い出す。
――思い出の地はロビンではなく兄花島だ。
夏には、毎年のように祖父母の家に遊びに連れて行ってもらった。
遊ぶ所は殆どない兄花島だが、それでも思い出は多い。
祖父ダイゴローと海遊びをした時には、ダイゴローの背中に掴まって泳いで貰った。
ダイゴローが溺れた為に、自分まで溺れたはずだ。
父ダイスケが、包状の草にマナを入れ、夜の海に流して輝かせた事もあった。
祖母ウメエが作ってくれる海鮮丼がうまくて、慌てて掻きこむ度に叱られていた。
母のキョウコと一緒に、海で冷やしたスイカは、店売りのスイカよりもうまかった。
サヨコと遊べるのも、年に一度のこの季節だけだった。
今では会おうと思えば毎日会えるのだから、奇妙なものだ。
小銭を出し合い、オバアの店で一緒に一杯のジュースを買おうとしたら、今日みたくオバアが奢ってくれた記憶がある――
……ッカ……パッカ……ッタ……
「……あれ?」
ふと、耳に届く音に、新たな音色が加わった事に気が付く。
馬の蹄の音のような気がする。
耳を澄ませると、車輪の音も聞こえてくる。
店の外を眺め続けていると、観光地区側から馬車が走ってきて、店の前で止まった。
聞こえていたのは、この馬車の音の様である。
綺麗な栗毛をした馬車用の馬で、バギーと呼ばれる軽量の二人乗り用の馬車を引いていた。
「ヒロちゃん……?」
馬車の中から女性の小さな声がする。
聞き覚えのある声。
そして、先程まで考えていた女性の声である。
「あれ? サヨちゃん、どうしたの?」
席から立ち上がり、馬車に近づきながら尋ねる。
手綱を握っていたのは、サヨコ・モモトセだった。
「ゴウちゃんから話を聞いたの」
「話?」
「うん。ヒロちゃんが歩いてお魚買いに行ったって話」
「ありゃあ」
「ヒロちゃん、何も無理に歩いて買いに行かなくても良いのに」
サヨコが口に手を当ててくすくすと笑う。
愛らしい仕草だった。
「いやあ、ゴウ君から聞かなかった? ギルドが閉まってたんだ」
「聞いたよ。だから追いかけてきたの」
「と言うと……」
「歩いていたら大変だよ。馬車で一緒に行こう?」
「一緒に……?」
「私も近々、居住地区にお店の買出しに行く予定があったの。
だから、ゴウちゃんから話を聞いて、ちょうど良いと思って」
(ふむ……)
話の途中から、なんとなく、その様な提案をされる気はしていた。
正直な所、助かる。
これ程有難い提案は他にはない。
だが、同時にサヨコに対して申し訳なさを感じてしまう。
サヨコにはサヨコで用事があるとの事だが、予定を繰り上げて来てくれたのでもある。
だが……
「ありがとう。それじゃあ、お言葉に甘えさせて貰おうかな」
ヒロは素直に礼を述べて頭を下げた。
考えてみれば、ここで乗車を断る方がよっぽどサヨコに悪い。
オバアの言葉も、その答えに辿り着く道標になってくれた。
もう少し、甘えて良い人には甘えても良いのかもしれない。
◇
オバアに礼を述べて、サヨコの馬車に乗り込む。
バギーは小型ながら、なかなかの乗り心地であった。
まず、屋根付きの為に、降り注ぐ日差しが格段に弱まっている。
炎天下の中をとぼとぼと歩いていた身にとっては、これが特に嬉しい。
更には、スプリングか車輪のどちらかが良いのか、時折悪路を走る事があっても、バギーには然程震動が伝わってこないのである。
隣に腰かけているサヨコにその事を聞くと、バギーの管理は彼女の父が行っている為に詳しい事は分からないが、
やはり、食材を運搬する際に食材が痛まないよう、良いバギーを使っているらしい。
居住地区に着く頃には、バギーを引く馬の蹄の音を楽しむ余裕さえ生まれていた。
居住地区には大きな商店街があり、ヒロの目当ての魚はすぐに購入できた。
サヨコの食材もまとめて商店街で購入できた為に、買い物はすぐに終わってしまった。
その時点で時刻を確認すると、まだ午後一時を過ぎたばかりである。
休憩がてらに何か食べて行こう、という話になったのだが、ヒロは出かける前にパンを食べており、サヨコも同様に昼食を終えて来ていた。
がっつりと食事をする必要はない為、サヨコの提案で、二人は商店街内にある木造の甘味処に足を踏み入れた。
雷の音にも似た、特徴的な音を立てながら引き戸を開ける。
「二人。禁煙席で」
すぐ傍にいた店員に人数と席を告げる。
休日という事もあって空席は少なかったが、禁煙席は空いていたようで、二人はすぐにテーブル席に案内された。
席に着くと、サヨコは手書きのメニューを手にして、その中から抹茶セットを選ぶ。
ヒノモト特有の飲み物なのだが、ヒロはまだ飲んだ事がなかった。
良い機会だと思い、同じものを注文する。
「ふぅー……」
注文を終え、やっと一息つく。
店内は空調が利いていて、とても涼しい。
本当に夏なのだろうかとさえ思える涼しさだったが、すぐに、この気温差こそが夏なのだ、と思い直す。
「涼しいね、ヒロちゃん」
対面に腰かけたサヨコが笑いかけてくる。
強めの空調の効果で、彼女の黒のボブカットが静かに揺れた。
「そうだね。外とは大違いだね」
「ん。日差しも無いのが良いよね」
「あはは。サヨちゃんは夏は苦手?」
「ううん……苦手って程じゃないけれど……」
サヨコは照れ臭そうに片手を頬にあてがう。
「やっぱり、日焼けが気になっちゃうから、日差しは気になるかな……」
「サヨちゃんも日焼けとか気になるんだ」
「もちろん。
ヒロちゃん……私、もう子供じゃないよ?
昔のイメージが固まってない?」
サヨコが苦笑した。
そんな彼女の笑い顔を、ヒロは見つめる。
彼女は童顔で、見た目にはまだ十四、五歳の学生の様に感じられる。
その為に実年齢を意識する事はなかったが、実際には十八歳だ。成人してから三年も経つ。
成人……中級アカデミー卒業と同時に実家の居酒屋を手伝っているのだから、社会人歴に至ってはヒロよりも長い。
「……どうかしたの?」
「あ、ううん。なんでもないよ」
気が付けば、長い事サヨコの顔を見つめていた。
首を傾げるサヨコに対し、適当に言葉を濁す。
そうこうしているうちに、注文した抹茶セットが届いた。
薄手の茶碗に泡立った抹茶が注がれており、他には生菓子が一つ付いている。
透き通った葛が清涼感を与えてくれる、見た目にも涼しげな生菓子だった。
「ヒロちゃんは抹茶を飲んだ事はないんだっけ?」
サヨコが尋ねる。
「そうだよ」
「じゃあ、私が飲み方を教えてあげるね」
「ただ飲むだけじゃないんだ」
「ん。美味しく飲む為の手順があるの。
ふふ。今日は私の方が年上みたい……」
半分途切れた同意の言葉は、サヨコの癖だった。
控え目な笑みもまた、サヨコの特徴だった。
「よろしくお願いします、お姉さん」
ヒロもサヨコの冗談に乗る。
「はい。まずは黒文字を持つの」
「黒文字?」
「うん。和菓子に添えられている木製の菓子切り」
確かにそのようなものがあった。
言われるがままにそれを手にする。
「これ、楊枝じゃないんだ」
「菓子切りだよ。生菓子を切る為の用具なの」
サヨコはそう言って、黒文字で生菓子を半分に切った。
それに続いてヒロも切ろうとする。
「む、むうっ」
「ふふ。なかなか難しいよね」
「お菓子が小さいから切りにくいね」
どうにも、生菓子が逃げてしまう。
空いている手で菓子の容器を押さえて、ようやく切った。
「切れたあ……」
「お疲れ様。あとは生菓子を食べ終えてから、抹茶を頂くの」
「生菓子を先に食べ終えないと駄目なんだ」
「駄目じゃないけれど、そっちの方が美味しいの。
抹茶だけを先に飲んだら苦いよね……?」
「そうらしいね」
「でも、先に生菓子を食べていたら、口内に残った甘みが、抹茶の苦さを味わい深いものに変えてくれるの」
「へえ」
そう言われてもピンとくるものではない。
なので、実践してみることにする。
二つに切った生菓子を次々食べると、葛で包まれた餡の重い甘みが、口内に広がる。
それを食べ終えてから茶碗を手にし、ゆっくりと口内に流し込んでいく。
抹茶は非常に飲み易く、苦さよりも、むしろ香ばしささえ感じられた。
サヨコの言う通り、苦味が消化されていたようである。
「……ふぅう」
抹茶を一気に飲み干して茶碗を置く。
サヨコも茶碗を机に戻していたが、ヒロとは違ってまだ一口飲んだだけだった。
「美味しいね。なんというか……満足感がある味がする」
「ん。顔にも満足感が出てるよ。
……ヒロちゃんが満足してくれて良かった」
「サヨちゃん、こんな飲み方、どこで習ったの?」
「ヒロちゃんのお婆ちゃんからよ」
意外な答えが返ってきた。
「うちの? うちのお婆ちゃんから?」
「ヒロちゃんのお婆ちゃん、お抹茶を頂く時のヒノモト流の作法に詳しいのよ。知らなかった?」
「ああ、そう言われれば、そういう話を聞いたような……」
言われて、記憶が蘇る。
サヨコの言う通り、ウメエは礼儀作法には博識であると、父ダイスケから聞いた事があった気がする。
だが、ヒロはその様なウメエを見た事がない。
彼の知っているウメエは、自由奔放を地で行く女傑である。
「あのお婆ちゃんが、ねえ……そういう姿を見た事はないけれど……」
「ウメエさんからは、子供の頃からずっと教えて貰っていたの。
本当は、飲み方にも細かい作法があるのよ。
でも、こういう席では、気にしないで自由に飲んで良いとも教えてもらったわ。
ウメエさんも、時と場合に応じているんじゃないかな……?」
「そっか」
サヨコがそう言うのなら、そうなのだろう。
その代わりに、別の疑問が浮かび上がる。
「……でも、サヨちゃん、なんでそんな事習ってたの?」
「花嫁修業」
サヨコはよどみなく言う。
「えっ? サヨちゃん、結婚するの?」
唐突な一言に、ヒロの声が少し大きくなった。
「ふふ。別に予定があるわけじゃないの。ただの嗜みって事」
サヨコは含み笑いを浮かべてそう言う。
表情から察するに、ヒロの反応を楽しんでいるようである。
どうにも、花嫁修業の一言は、自分をからかおうとしたものらしい。
「……サヨちゃん、最近意地悪になってない?」
「気のせいだよ」
サヨコの口調は楽しげである。
「でも、普段は人をからかったりしないじゃない」
「知らない人は怖いから、そんな事絶対できないよ。
今日みたいに意地悪できるのは、ヒロちゃんみたいな、親しい人だけ」
「やっぱり意地悪じゃないの……」
かくり、と肩を落とすヒロであった。
「ところでヒロちゃん、お祭りの準備は順調?」
サヨコが話を変えてきた。
「僕達は設営だから、本格的な準備が始まるのはもう少し先らしいよ。
集客の方は上手くいきそうだけれどね」
「そうなんだ。集客はどうする事にしたの?」
「ステージイベントで、精霊歌歌手のナポリさんを招く事になったよ」
「え……?」
サヨコが固まる。
「サヨちゃん、どうかした?」
「ナポリさんって、あのナポリさん?」
「うん」
「一流の歌手さんよね。出演料、どうしたの?」
「縁あって、僕とセンダンさん、ナポリさんとは知り合いなんだ。
ナポリさんの効果で、今年のお祭りはたくさん人が来るって、お婆ちゃんが凄く意気込んでるよ」
「……そうなんだ。良かった。本当に……」
サヨコは両手を胸にあてがって深く息をつく。
悪い反応はしないとしても、ここまで喜ぶとも思っていなかったので、ヒロは少々面食らってしまう。
「良かったって、何がそんなに良かったの?」
「あのね。実は、私も精霊歌の歌手さんを呼ぶ事を提案しようとしてたの」
「ああ、そういえば打ち合わせの時に、なにか言いかけてたよね」
「ん」
サヨコが小さく頷く。
それから、彼女はおずおずと言葉を続けた。
「精霊さん、来るかな?」
「さすがにそれは難しいかなあ」
「……そうだよね。昔ヒロちゃんのお父さんが見つけたきりだもんね」
(むう……)
ヒロは内心唸る。
ダイスケの発見は、当時は大々的に報じられていた。
確かにサヨコが知っていてもおかしな事ではない。
だが、その後に精霊が見つかっていないという情報まで把握しているのは、相当な通である。
「サヨちゃん、随分詳しいんだね」
「学校で勉強していたヒロちゃん程じゃないよ……」
照れ隠しなのか、俯いて横髪を掻き分けながらサヨコは言う。
「でも、普通の人じゃ、あれ以来精霊が見つかっていないなんて知らないよ」
「……独学で勉強していたから」
「独学かあ。凄い入れ込み様だね」
「ん」
サヨコが下を向いて口ごもる。
かと思えば顔を上げてヒロの顔を見るが、すぐにまた下を向く。
それを何度か繰り返し、最終的にサヨコは上目遣い気味でヒロを見た。
「……言わない?」
それだけ尋ねて首を傾げる。
何か打ち明け話をしたい、という事なのだろう。
「うん。言わないよ」
「絶対言わない?」
「もちろん」
笑顔で答えた。
「……私が四歳の頃の話なんだけれど……」
ようやく決心が付いたのか、サヨコはおずおずと話し始める。
「何だったかな……
何をしたのかまでは覚えていないけれど、私が悪戯をして、お父さんに凄く怒られちゃったの」
「サヨちゃんにもそういう時代があったんだね」
「ヒロちゃんだって、子供の頃はもう少し腕白だったよ?」
「そうだっけ?」
自分では良く覚えていない。
「ん。そうだった。……話、続けるね」
「あ、うん」
話の腰を折った事に気が付き、申し訳なさそうに頷く。
「私ったら、泣きながら家を飛び出して、自分の家のボートに乗ったんだ。
とにかく家から離れたい、って一心だったんだと思う」
「うん」
「そしたら、幸か不幸かロープが緩くて、ボートはすぐに海上に出ちゃったの。
その日は悪天候で波も激しくて、みるみるうちにボートが島から離れていって……」
「………」
「雨が打ちつける中、どんどん、どんどん、島が離れていくの。
急に怖くなって、わんわん泣き叫んだけれど、当然、その泣き声を聞く人なんかいなくて。
怖かった。本当に……」
「………」
「そのうち、とうとう島も見えなくなっちゃったわ。
泣き叫んでも無駄だとようやく分かってからは、ボートの上で丸くなって、
雨に打たれながら、ずっと『お父さんごめんなさい、お母さん会いたい』って呟いてた」
「サヨちゃん……」
ヒロの声が自然と沈む。
当時のサヨコの心境を思うと、胸が強く締め付けられる気がする。
だが、当のサヨコの表情には、一切の曇りはなかった。
「ヒロちゃん、そんな声しないで。嫌な思い出じゃないの。
……そうして、ずっとお父さんとお母さんの名前を呼んでいるうちに、
ふと、空が明るくなったの」
「うん」
「思わず振り返ったら、誰もいないはずの海上に、青い肌の女の人がいたの。
あの時は本当にびっくりしちゃった。何がなんだか分からなかったわ」
「青い肌……!」
サヨコのその言葉には、思い当たりがあった。
そもそも、これは精霊に関する話なのである。
反応すると同時に、予測は外れていないだろう、と思う。
「そう。水みたいに綺麗な色の肌をした女の人。
私が固まっていたら、その人は穏やかに笑ったわ」
「………」
「……あの感覚は今でも覚えてる。女の人が笑ったら、雨でずぶ濡れの身体がとても暖かくなったの。
お母さんに抱きしめられているみたいな、落ち着く暖かさ。
……その後の記憶はないんだ。気が付いたら、ボートが兄花島に戻っていたの。
それがおそらく、水の精霊さんだと分かったのは、ヒロちゃんのお父さんが水の精霊さんを発見した時……」
「……そっか。そうだったんだ!」
感慨深いものを感じながら、ヒロは大きく頷く。
やはり、水の精霊はフタナノ海にいたのである。
そしてサヨコは、笑いかけられただけとはいえ、精霊と始めてコミュニケーションを取った人間なのである。
凄まじい高揚感で身体が震えかけるのを、意識する事で必死に抑える。
「ふふ。ヒロちゃん、なんだか興奮してるみたいね」
サヨコが上品に笑う。
この興奮を言葉に言い表したい所だったのだが、サヨコの笑顔を見ると、その気持ちが落ち着いた。
今は、サヨコの話をしていたのである。
「ごめん。ちょっとびっくりしちゃってさ」
「謝る事じゃないよ」
サヨコは笑ったまま、首を横に振る。
「……それ以来、私には、夢ができたんだ」
サヨコの口調に照れが混じる。
「夢?」
「うん。その夢の為に、暇があったら海を眺めているんだけれど、なかなか叶わないみたい。
……私の夢は、水の精霊さんにお礼を言う事。
お父さんお母さんの所に帰してくれて、ありがとうございます……ってお礼を言う事」
「……そっか」
良い夢だ、とヒロは思う。
個人的な精霊への興味を抜きにしても良い夢だ、と思う。
「ふふっ。もう毎日のように眺めてるのよ。
……また、会えると良いなあ……」
サヨコが天井を眺めながら言う。
ヒロは、そんなサヨコを見つめ続けた。
暫くの間、二人の間に沈黙が流れる。
だがそれは、むしろ居心地の良さを感じられる沈黙だった。
「サヨちゃん」
先にヒロが口を開く。
「……会えると良いね」
「……ん。ありがとう、ヒロちゃん」