燦燦さんぽ日和   作:加藤泰幸

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第六話/梅雨閑話

 ヒロは、梅雨が嫌いではない。

 

 外に出難くなるのが梅雨の最大の難点だが、インドア派の彼には大きな問題ではない。

 海桶屋で働くようになった今では、職場の中に自室があるのだから、なおさらである。

 それよりも彼は、梅雨が生み出す風情を好んでいる。

 

 小粒の雨が地面を叩く音。

 そらきた、と言わんばかりに喉を一生懸命震わせる蛙の鳴き声。

 雨が振り込まない程度に窓を開ければ、温い風が肌を撫でてくれる。

 その窓から海を眺めれば、海上に浮かぶ水のマナは、普段よりも強く瞬いているように見える。

 季節の姿がこれ程はっきりと表現される事は、そうそうあるものではない。

 

 耳で、肌で、目で、季節を感じる事で、充実した時間を過ごす。

 願わくば、そこにちょっとした間食でもあれば格別に良い。

 ……結局は、花より団子なのである。

 

 

 

 

 

「最近雨ばっかりねえ」

 センダンが、フロント付近の窓から外を覗いてボヤく。

 梅雨の湿気のせいだろうか、彼女の耳や尾には重い毛束感が出ていた。

 人間の髪と同じなのだなあ、等と思いながらヒロは頷いて相槌を打つ。

 

「六月……梅雨ですからね」

「そうね。早く終わって欲しいわ」

「センダンさんは、梅雨は嫌いですか?」

「ん? んー……好きか嫌いかなんて、考えた事なかったかな。

 ただ、外出し難いから終わって欲しいだけだけれど……」

 センダンが腕を組んで天井を見上げる。

 どうやら考えてみているようだが、彼女の表情は天候同様に曇る。

 

「……うん。好きか嫌いかで言えば、嫌いね」

「あらら」

「外に出られないのも問題だけれど、何よりお客様が来ないからね」

「ああ、それは確かに」

 こくりと頷く。

 ただでさえ客が来ないのに、この時期はなおさら客足が遠のく。

 予約なしの飛び入り客に至っては、皆無の時期である。

 

 

「ま、ぼやいても来ないものは来ないわ!」

 センダンの声に、急に張りが出る。

 沈むテンションを上げたいのか、彼女は屈伸運動を始めた。

 膝を伸ばすのと同時に、両手を一直線に突き上げる。

 それを何度か繰り返したのち、彼女の動きが止まった。

 

 

 

 

「……ふむ! むふふふふ!」

 喉の中が見えるくらいに口を大きく開け、センダンが笑う。

「どうかしました?」

「良い事思いついちゃったかも」

「また「また、は禁止ーーっ!!!」」

 ヒロの言葉は、センダンの一喝に遮られた。

 

「雨が降るなら降るで、やる事はあるのよ!」

 カウンターパンチの一言にヒロが面食らっている間に、センダンが喋りだす。

「は、はあ」

「いや、この場合はやる事と言うより、聞く事ね」

「聞く事……」

「そ、聞く事! どうせ外に出られないんだから、お喋りでもしましょうって事。

 私、ヒロ君に聞きたい事があるのよ!」

 ずずっ、とセンダンが近づいてくる。

 上半身を寄せられて、彼女の不敵な笑みが目の前まで迫ってきた。

 思わずヒロは後ずさる。

 

 

 

「で……何を聞きたいので?」

「ずばり、ヒロ君の昔話!」

 センダンが力強く指を突き立てた。

 

「特に、上級アカデミーの話とか聞いてみたかったのよ!

 経済とか医療の学部とかだったら、どんな事するのか大方の想像はつくわ。

 でも、マナ学部となると、よく分からないのよね。一体どんな事してたの?」

「ふむ……」

 体勢を整えながら、考える。

 

 確かにする事はないのだから、何かテーマを持って話すのは良い。

 昔話をするのも、別に問題ではない。

 マナの話ができるのだから、やぶさかではない所である。

 結論はすぐに出た。

 

 

 

「そうですね。ちょっと話しましょうか」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 燦燦さんぽ日和

 

 第六話/梅雨閑話

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぱたん、と小気味良い音を立てて、薄手のアルバムが受付台に置かれる。

 表紙には『ヒロ・タカナ 上級アカデミー』のラベルが貼られていた。

 

「お~、アルバムを残してるのね」

 センダンの口ぶりには感心が篭っていた。

「下級や中級の頃は、両親がもっと撮ってくれてたんですよ。

 上級に上がって寮で一人暮らしするようになったら、あまり撮らなくなっちゃって」

「そんなものかもねえ」

「センダンさんは、写真とか残してないんですか?」

「ない事もないけど、それより早く見せてよ。ねっ!」

 ぺちぺちとアルバムの表紙を叩いてせがむ。

 何とも子供じみた仕草である。

 

 はいはい、と適当に返事をしながらアルバムを開く。

 最初のページに貼り付けられていたのは、入学式後の写真であった。

 初々しさの残るマナ学部新入生が、やや硬い表情で整列した様子が写されている。

 彼らの多くは現役合格生なので、まだ十五歳の者が多い。

 その歳で成人と認められはするのだが、それでも若年には違いない年齢だった。

 

 

「入学式の写真ね」

「ええ、そうです」

「どれ、ヒロ君は……はい、みっけ!」

「当たり。早いですね」

「こういうの、得意なのよ。神経衰弱とかもお手の物よ」

「神経衰弱とは別の能力な気もしますけど……」

「気のせい、気のせい!」

 気のせいではない。

 

 

 

「それより他の写真!」

「あ、うん」

 反射的に返事をしながら、適当にページを捲る。

 開かれたページには、ヒロを含む三名の男性と二名の女性が写った写真が貼られていた。

 山中で撮られた写真で、皆動きやすそうな服装をしている。

 

「ふむふむ。人数が減ると顔がアップになってよく見えるわね」

「……どうせ『昔から怖い顔ね』とか言うつもりでしょう?」

「むむっ!? どうして分かるの?」

 唸るセンダン。

「センダンさんの考えている事くらい分かります」

 首を左右に振りながら溜息をつく。

 

「むう……で、これは何の写真なの?」

「これは三年の頃かな。学部の友達と、山へ採取に出かけた時の写真ですね」

「採取? 昆虫?」

「マナ学部ですから、マナの採取ですよ」

「あ、そっか。マナの採取って企業がするものだと思ってた」

「基本的にはそうですよ。僕らは研究の為に採取してたんです」

 ヒロはそう言うと、窓の外を見る。

 海上には相変わらず、水のマナがぽつぽつと浮かんでいた。

 学生時代を思い出しながら、そのマナを眺めると、なんとも懐かしい気持ちになる。

 

 

 

 

 

 ――マナ。

 

 手のひらに乗る程の、小さな発光体。

 それは、この星の全域で観測されている神秘のエネルギーである。

 古い文献に曰く、各種の自然を司る精霊が産み出しているとされており、

 マナが多い地域では、創造主の意思を代弁するかのように、緑は発育し、川は澄み、火山は鼓動し、自然の力が強まっている。

 

 太古の時代には、このマナを用いた『魔法』なる、人知を超えた力があったとも伝わっている。

 人間はいつしかその能力を失ってしまい、今では誰も使う事のできない、証明のしようがない能力なのだが、

 非常に多くの文献がその事を伝えている為に、学会においては、魔法は実在していたという考えが主流である。

 

 

 いずれにしても、現代人は魔法は使えない。

 その代わりに、マナは現代においては生活エネルギーとして用いられている。

 冷蔵庫や照明といった生活機器、ごく一部の上流階級の者しか所有できていない車……他にも、マナのエネルギーを動力とする製品は数多い。

 だが、そうしてマナを消費し続けるだけでは、いずれマナは枯渇する可能性がある。

 その為に、遠い精霊に祈りを捧げてマナの分泌を促す、精霊歌歌手なる職業も存在していた。

 

 この様に現代では生活の一部となっているマナだが、まだその全容は分かっておらず、未発見のマナは、まだ多数存在すると言われている。

 精霊においては、自然界の奥深い所に生息しているとされる為に、観測例は少なく、コミュニケーションを取れた例に至っては皆無である。

 そして、それらの世界の神秘に近付くべく、マナ学は存在していた。

 

 

 

 

 

「ちなみに採取って難しくないの? 高い所に浮いているのもあるじゃない」

「空に浮かぶ光のマナなんかは、難しいというか無理ですよ。

 あれが採取できる場所は、一部の標高が高い地域だけです」

 センダンの質問に、ヒロの口調は少し早口になる。

 やはり、マナの話が出来るのは嬉しいものだった。

 

「なるほどねえ」

「でも、手が届く位置にあるマナなら大丈夫です。

 学生は、研究に使うマナを採取するんですけれど、

 たまに希少なマナが見つかる事もあるから、皆好んで行くんですよ」

「へえ。ヒロ君は希少なマナとやらを見つけた事はあるの?」

「……実はこの写真を撮った時に見つけました」

 ヒロが頭を掻きながら言う。

 見つけるには見つけたのだが、少々恥ずかしい想い出もセットだった。

 

 

「おお、やるじゃないの! どうやって見つけたの?」

「たまたまですよ。森を調査していたら、光のマナが一つだけ浮かんでいたんです」

「そんなに高い山なの?」

「いえ、たいした事ない山ですよ。多分、一つだけ風に流されてきたんですね」

 手をふらふらと掲げて、身振り込みで説明する。

 

「なるほど。ラッキーね」

「で、思わず手を伸ばしたんです。そしたら風が吹いて、ふらふらと流されちゃったんです。

 思わず追いかけたんですけれど、風が強くてどんどん流れていくんですね」

「それでそれで?」

「もう必死になって光のマナばかり見て追いかけていたから、足元が不注意だったんでしょうね。

 倒木があったんですけれど、それに気がつかず……足を引っ掛けて派手に転びました」

「ありゃあ、災難ねえ」

 センダンが言う。

 だが、彼女はそう言った後で、首を傾けて何か考え込みだした。

 

 

「……どうかしました?」

「いや、その時のヒロ君の格好を想像してみたのよ」

 センダンが一度言葉を切った。

 彼女の表情にはからかいの笑みが浮かんでいる。

 

「……なんだか、蝶々を追いかける子供みたいね」

「むう……」

 拗ねたような声を出す。

 だが、確かにそれと変わりなかったかもしれない。

 反論したくとも、言葉が見つからなかった。

 

 

 

 

「いいんじゃない? マナに目がないヒロ君らしいわ」

「……まあ、褒め言葉として受け取ります」

「それより、こっちの写真が気になっていたんだけれど……」

 

 センダンが採取の写真の向かいのページを指差す。

 それは夜の写真だった。

 コンクリートの床のようなものと夜空が斜めに写されており、誤ってレンズを抑えた指らしき影も写っている。

 要するに、写し損ねの一枚である。

 

 

 

「これ、写し損ねよね?」

「ああ、これは……」

 ヒロは目を細めながら頷く。

 

 センダンの言う通り、写し損ねの一枚。

 だが、それでもヒロにとっては想い出の一枚である。

 

 

 

「これはですね……」

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 ――それは、四年の六月の事だった。

 

 ロビン上級アカデミーマナ学部のラボは、どの学科もそれなりに充実している。

 マナ学がそれだけ必要とされている事も理由の一つだが、

 ロビンには上級アカデミーが一つしかない為に、その分、定員枠を多く取っていて、利用者が多い事が何よりの理由である。

 

 ヒロが学ぶ精霊学科もその例に漏れず、学生部屋には壁を覆わんばかりの資料が並び立ち、学生は不自由なく学業に勤しむ事ができる。

 とはいえ、精霊学科の学生部屋は、他の学科に比べると使われていない事が多い。

 これは、精霊学科の学生が不真面目という事ではない。

 精霊学科教授の、採取・観測を主とする現場主義が、個々の学生にも広く浸透している為である。

 

 よって、この日のように、深夜になっても学生部屋が明るいのは珍しい例であった。

 

 

 

 

 

「あれ……スピーチ用の原稿ってもう作ったの?」

 参考書の山に囲まれたヒロが、ふと思い出したように呟く。

 この数日間、彼は寮と学生部屋を往復する日々を過ごしていた。

 身だしなみを整える余裕はなく、アイロンの掛かっていない服はよれ、髪も少しばかり乱れている。

 だが、彼はまだ人の目をしていた。

 問題なのは、彼が声を掛けた相手である。

 

「ああ……? あー……」

 ヒロの隣で同じく参考書に囲まれた同級生の男子生徒が、返事とも呻き声とも取れる曖昧な声を漏らす。

 ヒロ以上に格好は乱れ、顔つきはやつれ、そして瞳は死んだ魚のようである。

 数日前まではまだ『学会に出るのは止めておけば良かった』と軽口を叩く元気もあった。

 だが、今ではその軽口さえも出てこない。

 

「……まだだな。何も手付けてねえ」

「そっか。じゃあ僕が草案を作るよ」

「作るったって、お前、大丈夫なのか?」

「まあ、なんとか……」

 苦笑いを浮かべながら言う。

 本当は、ヒロにも余裕はない。

 間近に迫っている男子生徒の学会準備は、まだ終わりが見えず、ヒロの作業量も結構なものである。

 しかし、状況を冷静に指摘すれば、既に限界間近の男子生徒がパンクすると察したヒロは、

 とりあえず新たに見つかった作業を自分の手元に置き、どう捌くのかは追々考える事にした。

 

「……わりぃな」

 男子生徒が机に突っ伏して呻く。

「いいよいいよ。全然大丈夫」

「でも、お前……」

 

 その言葉は途中で止まった。

 学生部屋の扉が開く音がした為である。

 二人は、背中を起こして扉の方を見る。

 そこには、白衣を纏った中年の男性が立っていた。

 彼も、ヒロ達の方を覗き込むようにしている。

 

 

 

「やあ、こんばんわ」

 中年の男性が挨拶をする。

 ヒロがそれに反応する前に、隣の男子生徒が口を開いた。

「教授、お疲れ様です」

「うん、お疲れ様。二人とも調べ物かい?」

「いえ、二人ともというか……ヒロには無理を言って、俺の学会の準備を手伝って貰っているんです」

 指導者相手とあってか、男子生徒の声に少し生気が戻っている。

「学会……そうか。そういえばもうすぐだったね。

 二人とも無理はしないように。今度の学会は小規模だから気軽に挑みなさい」

 教授と呼ばれた中年の男性は優しげな口調で言う。

 

「うん、心配してくれてありがとう、お父さん」

 そう返事をしたのは、ヒロだった。

 

 

 その中年男性……ヒロの実父であるダイスケ・タカナは、ヒロと似ても似つかぬ、眉と目の垂れた穏やかな顔の持ち主である。

 ヒロは母のキョウコ・タカナとも似ておらず、心無い者からはその事でからかわれた事もある。

 だが、父子には顔付き以外の共通点が多い。

 二人が持ち合わせる、柔らかい喋り方と控えめな性格、そして何よりもマナに対する愛着は、やはり父子であると思わせるものであった。

 

 

 

 

「うちの学生はマナや精霊の事になると熱心だからなあ。ご飯、食べ忘れたりしていないかい?」

「それはお父さんがよくやって、お母さんに怒られてた事じゃない」

「あれ、そうだったかな?」

「そうだったよ」

 ヒロはそう言って笑う。

 だが、それは研究に打ち込むあまりのものであり、その姿はヒロの尊敬の対象でもあった。

 

「ともかく、二人とも無理はしないようにね」

 ダイスケがもう一度言う。

 ヒロ達が素直に頷くと、ダイスケは安心して学生部屋を後にした。

 

 

 

 

 

「ふぅーー……」

 男子生徒が長く息を吐く。

 出せる息をあらかた出してしまうと、彼は立ち上がりながら首を鳴らした。

 

「さて……教授もああ言ってくれた事だし、今日はそろそろ帰るか」

「ん、そだね」

 ヒロも背伸びをしながら立ち上がる。

 ポケットから懐中時計を取り出すと、既に短針は十二の数字を過ぎていた。

 

「今回は本当に助けられてるな。学会が終わったら飯でも何でも奢るし、お前の論文も手伝うからな」

「あ~。好きでやっているんだから、気にしないで良いよ」

 ほややんとした口調。

 彼の事が心配で手伝っている面もあるにはあるのだが、好きでやっているという言葉にも偽りはなかった。

 疲労感を感じる日々ではあるのだが、それ以上にヒロは充実感を覚えている。

 

 

 

「……ぷっ」

 その言葉を受けて、男子生徒が吹き出す。

「ん? 何か僕変な事言った?」

「ああ、いや……お前も教授も、本当にマナ学が好きなんだなあと思ってさ」

「んん……」

 ヒロの返事は鈍い。

 自分はそれほどマナが好きだろうか、と思う。

 一般人と比べればそうかもしれないが、彼も上級アカデミーに進学してまでマナを学んでいるのだから、相当なものだ。

 ただし、父については同意見であった。

 

 

「僕はともかく、お父さんはそうかもね」

「だよなあ。お前、知ってるか?」

「知らない」

 抜けた声で言う。

 

「返事がはええよ。教授、今日で三日連続ラボに泊り込んでるらしいぜ」

 やはり、知らない事だった。

 上級アカデミーに進学してからは寮生活で、両親とは離れて暮らしている。

 

 

「遅くまでいるなあ、とは思ってたけど、泊り込んでたんだ……今度は何してるのかな?」

「俺も詳しい話は知らないけれど、なんでも特別なマナが出てくるかもしれない時期なんだとさ。

 屋上でずっと空を眺めているらしいぞ」

 

「……そっか」

 ヒロは、窓の外を眺めながら呟いた。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 ヒロは帰宅せず、男子生徒と別れると一人で屋上に上がった。

 屋上の扉を開けると、夜風が差し込んでくる。

 日中はともかく夜の風は、まだほんのりと冷たくて気持ちが良い。

 夜空を見上げると、星も見えない事はなかったが、雲が大部分を覆っている。

 明日は、雨が降るかもしれない。

 

 

「ええと……ああ、あれか」

 屋上を大して見渡さないうちに、屋上中央に陣取った黄色いテントを見つける。

 傍に近づくと、案の定、テントの影に敷いたマットレスの上に、仰向けになっているダイスケがいた。

 

 

 

「お父さん、お疲れ様」

 ヒロが中腰になって声をかける。

「ん? やあ、ヒロ。こんばんわ」

「夜の挨拶はさっきしたじゃない」

 笑いながら、ダイスケの隣で胡坐をかく。

 

「そういえば、そうだったね。ヒロはまだ帰らないのかい?」

「もう少ししたら。お父さんこそまだ帰らないの?」

「うん? 父さんは……」

「観測があるから泊り込む、でしょ?」

 父の言葉を先に言ってしまう。

 ダイスケは思わず上半身を起こすと、目をしぱしぱと瞬かせた。

 やや間があってから、二人の間に軽い笑いが起こる。

 

 

 

「はは。これは一本取られたな」

「今更止めたりはしないけれど、雨も近いし気をつけてね。はいこれ」

 そう言うと、父の近くに水筒を置く。

「これは?」

「給湯室で作ったコーヒーが入ってるよ」

「そうか。それは気が利くね」

 ダイスケは頭を下げると、テントの中からマグカップを取り出した。

 早速水筒を開け、マグカップに自分の分を、水筒の蓋にヒロの分を注ぐ。

 二人してコーヒーを喉に流し込むが、砂糖が少なかったのか少々苦い。

 

 

 

「お父さん、今日は何を観測してるの?」

「ふむ。この間、台風があっただろう?」

「うん」

「台風の後の晴天中に、本来は観測できない希少なマナが流れてくるかもしれないからね」

「そういえばマナの分布は気象によって変動するんだっけ」

「或いは、精霊が姿を現すかもしれない。こっちは単なる父さんの希望だけれどね」

「それで、三日連続泊り込み?」

「そうだよ」

 さも当然の如く言う。

 それから、もう一口コーヒーを飲んで、マットレスに横になった。

 ヒロは苦笑しながら、床の上で同じく横になる。

 

 当然、視界は一面の夜空に変わる。

 見えている星の数は、数える事さえできる状態だった。

 フタナノ海から流れてくる水のマナも幾つか浮かんではいたのだが、これもまた少数である。

 マナは、自然が多い所において多く発生する。

 それなりの自然保護をしてはいるものの『都市』であるロビンでは、あまりマナを見る事はできなかった。

 

 

 

 

 

「……お父さん」

 夜空を眺めたまま声をかける。

 

「うん?」

「暇じゃない?」

「ヒロこそ」

「僕は今来たばかりだし大丈夫だけれど、お父さんは三日目でしょう?」

「いやあ、何日だって眺めていられるよ」

 ダイスケの声は少し弾んでいた。

 

「それは凄いなあ」

「だって、精霊を観る事が出来るかもしれないじゃないか」

「………」

「精霊は父さんの希望でしかないのは分かっているよ。

 でも、精霊についてはまだ判明している事が少ないんだ。

 マナと同じように、気象に影響される可能性がないとは言い切れないと思うんだよ」

「うん」

「可能性があれば、眺めているだけでも十分に楽しいよ」

「……そっか」

 ヒロの口の端が緩む。

 さすがは我が父、と思う。

 

 

 

 

 ダイスケ・タカナは、マナ学の中でも精霊の分野で名を馳せた研究者である。

 

 精霊の観測に成功した者は、記録をとり始めてからまだ十数人という所である。

 彼らの言葉を統合すると、精霊は形こそ人と同じなのだが、肌の色は赤やら青やらと人間離れしていたらしい。

 いずれも、眩い程に強く瞬く多数のマナに囲まれており、コミュニケーションを図ろうとする前に逃げてしまっている。

 それらが観測されたのは、全長数千メートルの山、時折マグマを噴出す活火山の洞窟、足を降ろす場所のない海上、といった自然の中。

 そして、その海上での観測に成功したのが、ダイスケであった。

 

 ヒロがまだ十歳にも満たない頃に、ダイスケは調査団を編成してフタナノ海を調査したのだが、調査は連日空振りであった。

 諦めに入った調査団員も出る中、ダイスケはこの日の夜のように連日観測を続けていた。

 そして、調査最終日の夜に、大量のマナの突然発生と、精霊と思わしき生命体を観測する事に成功したのである。

 

 一枚だけ撮影した所で逃げ出したその生命体は、羽衣の様な衣服を纏った青い肌の女性であった。

 過去の観測報告にも一致する例が多数あった為、それは学会にて水の精霊と認定された。

 久々の精霊観測、しかもフタナノ海という小さな海での発見とあって、当時は学会外でも大きな話題となり、ダイスケは時の人となった。

 だが、ダイスケは驕って自身の権限や財産を強めようとする事はなく、一研究者として現在に至るまで、現場に拘っている。

 その父の姿は、ヒロがマナ学の世界を進むきっかけになっていた。

 

 

 

 

「そうだ」

 ヒロは体を起こした。

「待っている間、お父さんが海のマナを見つけた時の……あれ?」

 昔の話をせがもうと父を見ると、ダイスケは安らかな寝息を立てていた。

 どうやら、相当お疲れのようである。

 

「お父さん、お疲れ様」

 ヒロは苦笑を零す。

 それから、足元に丸まっていた毛布をダイスケに掛けようと手を伸ばす。

 空が光ったのは、その時だった。

 

 

「ん……?」

 空を見上げずとも、光が差し込んだのが分かる。

 それ程の強い輝きを感じ、それに反応して再び空を見ると、夜空の一角にマナが密集していた。

 

 手が届かない上空なので詳しい事は分からないが、青く光る辺り、水のマナだと思われる。

 水のマナなら先程までにも幾つか浮かんでいたが、それらはそれらで、未だに夜空に浮かんでいる。

 つまりは、突然大量のマナが発生したという事になる。 

 

 

 

 

 

「お、お父さんっ!!」

 ヒロは慌てて隣の父を揺り起こそうとする。

 あの光景は、父から何度も聞かされていたものに類似している。

 すなわち……精霊の出現なのかもしれない。

 

「ん、んん……?」

 ダイスケは目こそ覚ましたが、まだ意識ははっきりとしていないようである。

「お父さん、あれ! あの光!」

「もうちょっと寝るよ……」

「それどころじゃないよ! マナだよ! マナが密集してる!!」

「そうかね。それじゃあカメラを……」

 未だに覚醒してないダイスケは、自分の枕元に手を伸ばした。

 引っかくように何度か手を動かすものの、その手は何も捉えない。

 

 

「……ヒロ、カメラどこだい?」

「僕知らないよ! な、なんで準備してないの?」

「そう言えばそうだなあ。ははは……ふぁ~あ……」

「ああ、もうっ!!」

 どうにも、今の父は頼りにならない。

 ヒロは珍しく焦りの声を張り上げると、カメラを探しに傍のテントの中へと突っ込んだ……。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

「……で、写し損ねた上に一枚しか撮れなかったのが、これってわけ?」

 センダンが興味深そうに、写し損ねの写真を見ながら聞く。

「ええ、そういう事です」

「ありゃあ、それは残念」

 軽い口調である。

 それほど残念そうではない。

 

 

「で、それは精霊だったのかな?」

「ううん、どうでしょうね」

 ヒロが首を捻る。

 

「マナが密集していた事は確かですけれど、その中央にまで気が回らなくて、よく見てなかったんです。

 これ一枚を撮り終えた直後に、例がない動きを見せはしたんですよね。

 と言うのも、突然海がある西の方へ高速で流れて行ったんです。

 だから、精霊の可能性もなくはないと思うんですが……」

「そか。学会には?」

「さすがにこの写真だけじゃ、提出のしようがないですよ」

「だよねえ」

 センダンが何度か頷く。

 頷き終えた彼女の視線は、ヒロへと向けられた。

 まるで観察でもするかのように、まじまじと顔を見られている。

 

 

 

 

「……なにか?」

「ん? いやあ、ヒロ君のお父さんの顔を想像してたの」

 そう言うと、センダンは両手の親指と人差し指で枠を作り、枠を縦横に動かしてはそこにヒロの顔を収めようとする。

「………」

「ふむう。やっぱり黒目は小さいのかな。眉は遺伝しそうよねえ」

「言いませんでした? 僕とは全然似てませんから、僕の顔からじゃ連想できませんよ」

「あ、そうだっけ。それに話を聞く限り、性格も正反対みたいねえ」

「正反対でしょうかね?」

 尋ねるようにして言う。

 見て分かる容姿とは異なり、性格の方は自分では正確な判断が下し難い。

 

 

「穏やかな所は似ていても、しっかり者とのんびり屋って所が違うわね」

「ふむ。……確かにお父さんはのんびり屋だと思います」

 

 本当は、その先に言葉を続けたかった。

 目の前の狐亜人を見ながら、ヒロは自己分析する。

 自分では、それほどしっかりしているとは思っていない。

 世話の焼ける人物が周囲にいるので、自然と突っ込み役になっているだけである。

 

 

 

 

 

「……へへ。こういう話が聞けるなら、梅雨も悪くないね」

 ヒロの心労を知る由もないセンダンは、無邪気に笑って見せた。


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