「おいしい! なにこの焼きそば?」
「おう……うめえな」
焼きそばを食べたヒロとゴウの第一声は、どちらも普段よりトーンが高かった。
「えへへ。ありがとう」
サヨコが柔らかいパーマの掛かった黒髪を揺らしながら笑みを浮かべる。
昼営業中のちとせには、ヒロとゴウ以外に客はいなかった。
他に客がいると、人見知りのサヨコはこうは笑わない。
なかなかお目にかかれない、混じり気のないサヨコの笑顔と、注文した焼きそばの味に、ヒロの頬も自然と綻んだ。
「ふむ……」
隣に座るゴウが、また一口焼きそばを食べる。
つられてヒロも食べた。
ソースで味付けされたそばの味が、口の中に充満していく。
これはこれで美味しいのだが、感嘆の声の源は別にあった。
「このお肉が違うのかな?」
「みたいだな」
二口目を食べ終えたゴウと顔を見合わせる。
肉が旨いのである。
豚肉ではなく牛肉のようだが、もも肉ではない。
赤身にはしっかりと火が通っていて、やや黒いようにも見える。
特徴的なのは歯応えである。
牛すじ程の歯応えはないが、適度に噛み締める事が出来て、程良い食感だ。
更に、噛み締める毎に、ジューシーな味わいが肉から開放される。
旨みと甘みの混ざった豊潤な味。
特に脂身を噛み砕くと、味が脂身から弾けるように広がる。
センダンなら、肉の新世界だの新時代だのと言い出しそうな感覚である。
「それ、しょぶり肉って言うの」
サヨコは待っていましたと言わんばかりに、冷蔵機の中からトレーに入った肉を取り出した。
ヒロとゴウは、眼前に出されたそれを覗き込む。
トレーの中の肉は、やや脂身の比率が高いように見えた。
「これがしょぶり肉?」
「うん。ヒロちゃんは聞いた事がない?」
「ないよ」
「ゴウちゃんは?」
「俺もない」
「そっか……牛の中落ち肉の事。あまり取れないお肉だから、ちょっとだけ高いんだ」
「へえ。これが……」
その言葉を受けて、焼きそばの肉だけを抽出して食べてみる。
中落ち肉なら食べた事はあったが、焼きそばのソースに絡まるとまた味が違う。
濃い目の味付けが好きな者なら、たまらない味だった。
「……うちでもお肉、出そうかな」
ヒロがぼそりと呟く。
海桶屋の献立は、現状で及第点だと思っている。
だが、これを客に食べて貰えば、より満足してもらえるのではという気持ちが湧き上がった。
しょぶり肉は、それ程までに衝撃的な味だった。
「ヒロちゃんのお店、お肉出していないの?」
「出していない事はないけれど、メインで出す事は殆どないかな」
「じゃあ、今はお魚ばっかり?」
「うん。ゴウ君のお店から買ってる奴ね」
「その方針は変えなくて良いぞ」
ゴウが強い口調で二人の会話に入ってくる。
「ええー? でもこんなに美味しいし……」
「駄目だ、駄目駄目。言う事聞かないとお前の店に売る魚だけ値上げするぞ」
横暴である。
「ふふふっ。……あ、ところでヒロちゃん」
「あ、うん?」
「お店と言えば、お昼に抜けてきて大丈夫なの?」
「今はセンダンさんが店番してくれているから大丈夫だよ」
のほほんと言う。
「危機感ない顔しやがって……お前の店、本当に大丈夫なのか?」
ゴウが眉をひそめる。
「今日は夕方から珍しくお客様の予約もあるよ」
「ああ、そういえば、今日魚の注文受けてたな」
「うちだって、たまにはお客様が来るんだよ。帰ったら夕食の準備しなくっちゃ」
そう言って、昼食を再開しようとする。
だが、一度焼きそばに落とした視線をすぐに上げ、サヨコを見た。
「そうだ……サヨちゃん、ちょっと良い?」
「うん、どうしたの?」
「一つ持ち帰りで作って欲しいものがあるんだけれど……」
「今はお父さんが休憩しているから、私で作れるものだったら大丈夫。何が良いの?」
「うん……」
ヒロは頭を掻く。
自分が食べたいわけではないのに、なんだかその名を口にするのは恥ずかしい気がした。
「……きつね納豆」
燦燦さんぽ日和
第四話/お肉が食べたい!
「ようこそ、いらっしゃいませぇ!!」
センダンの甲高い声が海桶屋に響き渡る。
久々に聞く接客の声は、普段よりもテンションが高いように感じられた。
それだけ彼女も嬉しいのだろう。
(嬉しいのは良いんだけれど、お客様が驚いてないかな……)
不安になって、顔を持ち上げるようにして、フロントから土間にいる客を覗き込む。
若い夫婦と、まだ下級アカデミーにも入学していなさそうな女児の三名の客は、
案の定、センダンの第一声に少々驚いたようであった。
だが、すぐに夫がにこやかに微笑んでセンダンに会釈をしてくれる。
夫人と女児もそれに続き、一行は靴を脱いで中へと入ってきた。
「こちらにご記帳をお願いします」
「ん……分かりました」
ヒロの強面に、夫は思わず僅かに狼狽してしまったようだった。
だが、それ以上過剰に反応する事はなく、宿泊者カードに記帳を始めた。
その間にセンダンが、夫人と女児をソファへ案内してから、飲み物を取ってきた。
「島で取れたオレンジジュースです」
「あら、ありがとう」
カップを受け取った夫人は上品に微笑んだ。
「はい、オレンジジュース」
続けて、センダンは身を屈めて女児と視線の高さを合わせる。
両手で包み込むように、女児にもカップを差し出した。
人見知りなのか、それともセンダンをまだ警戒しているのか、女児は戸惑って、センダンと夫人を交互に見て反応を求めた。
「キィちゃん、貰っても良いのよ。ちゃんとお礼を言ってね」
「ん……」
キィちゃんと呼ばれた女児が返事をする。
カップをしっかりと受け取って、キィは大きく頭を下げた。
「お姉ちゃん、ありがとう」
「いえいえ、どういたしまして!」
センダンが歯を見せて笑いかける。
その笑顔につられて、キィの表情も綻んだ。
朗らかな空気が出来上がる。
「キィちゃん達は、今日はどこから来たのかな?」
「んっとね。おっきい島」
「そっか、おっきい島かあ。島には何しに来たの?」
「んー……分かんない」
「そっか、分かんないかあ」
「うん。分かんないの」
センダンがキィと談笑している。
そこへ夫人が、フタナノからヒノモト文化の観光に来た、と補足するのが聞こえてきた。
フタナノは、楕円状の国土の南部に、楕円を抉るように位置している大きめの島だ。
ロビンから船で二時間もあれば着く島で、ロビンのみならず兄花島にとっても、フタナノ島は『ご近所』である。
実は、海桶屋宿泊客には、そのご近所から来る者が多い。
その多くは、ヒノモト風の街並みや建造物を求めての観光である。
(観光かあ。やっぱり裏の兄花通りを薦めようか……いや、でもそれ位は知っているかな。
それに小さい子がいるし、もっと遊べるような所が良いかな……むう……)
女性陣のやりとりを眺めながら、案内を求められた時の流れをシミュレーションする。
そうして接客の流れを考えるのは、従来よりも楽しかった。
センダンのみならずヒロも、久々の予約客に気分が昂揚していた。
「これで良いかな?」
夫が宿泊者カードを書き終えた。
ヒロは思考を断ち切ると、両手でカードを受け取って深く頭を下げる。
「はい、問題ございません。
それではお部屋まで仲居が案内させて頂きます」
「うん、宜しく頼むよ」
受付が終わったのを見計らって、センダンが前に進み出た。
一行を、二階に通じる階段へと先導する。
その際に、夫人とキィがフロントの前を通過した。
「ごゆっくりお寛ぎ下さい」
「あ、は、はい」
近距離で初めてヒロの顔を見た夫人が少し戸惑う。
よくある反応である。
特に悪く思う事はない。
「キィちゃんも、楽しんでいってね」
「ふぇ……?」
同じくヒロの顔を見たキィの足が止まった。
茫然と立ち尽くし、目を大きく開けてヒロを凝視する。
嫌な予感が、ヒロの心中に訪れた。
「う……」
「う?」
「うぇ……」
「キ、キィちゃん……?」
「うぇええええええぇぇぇぇぇぇーん!!」
キィが声を張り上げて泣きだした。
これも、よくある反応である。
だが、困る。
大いに困る。
相手は客なのだから一層困る。
取り繕おうとすれば余計怖がられるのだから、とにかく困る。
「あ……えっと……うあ……」
「あー、キィちゃん、ごめんねー!」
前を歩いていたセンダンが慌てて戻ってきた。
ここはセンダンに任せる事にして、ヒロは行方を見守る。
「うぇえええええーん!」
「本当にごめんねー」
「このお兄ちゃん鬼さんみたいで怖いよねー。ごめんねー。後でお姉ちゃんがやっつけておくから!」
センダンに言われると少々癪に障るのだが、とにかく任せる事にする。
「ふ、ふぇ……」
「ね? だから泣かないで。お姉ちゃんが付いてるから!」
「ん……」
センダンがあやした甲斐あって、キィはようやく泣きやんでくれた。
ヒロと同じく、申し訳なさそうに行方を見守っていた夫妻に、手振りで問題ない事を伝えたセンダンはまた前に出る。
「さあ、お姉ちゃんが奇麗なお部屋に連れて行ってあげるから! こっちだよー」
キィの方を振り返りながら歩くセンダン。
そんな彼女に一つ忠告しようと思い立った時には……もう遅かった。
「さあ、二階に……あたっ!??」
朱塗りの柱に頭をぶつけたセンダンの声は、間の抜けたものだった。
◇
ヒロの仕事は、夕方まではそう忙しいものではない。
昼の休憩が済むと、彼はその日の食材の仕入れと備品の管理に取り組む。
それらの仕事が終わる頃には、予約客を出迎える時刻になる。
忙しくなるのは、ここからだ。
ヒロは板前である。
その役職柄、当然ながら、包丁を握る時間が最も忙しいのである。
予約客の出迎えがひと段落すると、フロント業務をセンダンに任せ、彼は厨房で夕食の準備に取り掛かる。
この日の予約客は親子連れ一組のみの為、ヒロが厨房に入るのは比較的早い時刻となった。
「さて、今日は……と」
献立を記したメモと、冷蔵機の中の食材を一つ一つ照らし合わせる。
食事は朝食、夕食共に店側のお任せメニューとなっている。
客からの特別な注文にも対応するが、基本的には店側が、その日一番良い魚を軸に組み立てていた。
この日は、ゴウの店から仕入れたカツオがメインディッシュである。
五月のこの時期のカツオは、さっぱりとしていて食べやすい。
そのカツオはタタキで仕上げ、他には、たけのこの煮物、吸い物、おひたし、あとは白米。
安価ではあるが、ボリュームはそれほどでもない。
だが、海桶屋の料理はヒノモト特有の料理が多く、あまり他の地域で食べられるものではない。
その為、ヒノモト文化を経験しにきたという者には、受けは良かった。
食材に不足がない事を確認すると、ヒロは料理を始める。
事前に研いで水に浸していた米を、早速釜で炊く。
たけのこは、既に皮を剥いで煮る所まで下処理を終えている為、そう時間がかかるものではない。
適度な大きさに切って、調味料や鰹節と共に煮てしまう。
海桶屋には焜炉は二つしかない為、釜とあと一つで塞いでしまうと、
どちらかが空くのを待たなくては、次の加熱調理ができない。
そこで、今のうちにカツオと野菜を切り終える事にする。
「ふふふふん~♪」
鼻歌を歌う。
包丁を握っていると鼻歌を歌ってしまうのが、彼の癖だった。
大した速さの包丁捌きはないが、一定のペースでリズミカルに野菜を刻む。
その隣では、クツクツとたけのこが煮えている。
米を炊いている釜からは、風が細く吹き抜ける音と、ブツブツと水蒸気が蓋を押し上げる音がする。
気がつけば、窓の外では、春の日差しを浴びた雀が気持ち良さそうに鳴いていた。
煮物の音。
釜の音。
まな板の音。
風景の音。
そしてヒロの音。
ヒロ一人しかいなくとも、厨房はいつも賑やかだ。
「相変わらずお前は楽しそうに飯を作るのお」
厨房の入り口から声をかけられる。
振り返ると、ウメエが立っていた。
「お婆ちゃん」
「うむ。お前の婆じゃ」
ウメエが飄々と言う。
厨房内を見回しながら、ウメエは焜炉の近くまでやってきた。
「ほれ、どっちもそろそろ火を緩めんと」
「あ、ごめん」
慌てて火を緩めようとするヒロを手で制し、代わりに自分で火力を落とす。
ウメエは、怪訝そうな表情でヒロを見上げた。
「で、なんじゃったかの……」
「相談があるんだ」
ヒロは包丁を置くと、ウメエに正対する。
「そう、相談じゃったな。急に相談があるとか言って呼び出しおって、なんじゃ?」
「店の献立の事で、思う所があってさ」
「ふむ?」
「実は……店で肉料理を出そうと思うんだけれど、どうかな?」
「ほう。肉のお」
ウメエはあまり興味がなさそうにそう言うと、そばにある椅子に深く腰掛けた。
「今日のお昼に、サヨちゃんのお店で焼きそば食べてさ。入ってたお肉がすごく美味しかったんだ」
「うむ」
「その点、ほら、ヒノモト料理って殆ど肉は使わないじゃない」
「まあな」
「いきなりメインディッシュにステーキ、とまでは言わないけれどさ。
少しずつ、肉を使った料理を出していくのはどうかな、と思うんだけれど」
「なるほどのう。
……それに、お前達の賄い料理でも肉が出る、って所か?」
「……まあ、幾分そんな気持ちも」
「駄目じゃな。却下する」
ウメエはすっぱりと切り捨てた。
「ええー……なんで……」
「少し考えれば分かる事じゃろ、アホチン!」
ウメエがヒロを睨み付けた。
「まず、地域柄、魚の方が新鮮な料理を提供できる」
「それは確かに」
「次に、肉は高い。高いもんはいかん」
「むう」
「最後に、お前にそんな技量がない。昨年一年間で魚料理を覚えるのがやっとだったじゃろ」
「あ、うん……」
もっともである。
そう言われては、反論のしようがなかった。
「まあ……それもそうか」
「納得したか?」
「うん」
素直に頷く。
正直な所、諦めきれない気持ちはある。
だが、ウメエの言う事も当然で、その点については納得がいった。
同時に、さすがは祖母である、と思う。
奔放な人物だが、仕事の考え方は堅実で、頼り甲斐がある。
先日の祭りの打ち合わせで、勝手な行動を取る祖母に不満が出なかったのも、皆祖母のそういう所を知っていたからなのかもしれない。
「よし、それじゃあワシは帰る」
ウメエはゆっくりと立ち上がった。
「わざわざごめんね」
「なぁに。……さて、明日は忙しいの」
「明日は何かあるの?」
首を傾げながら尋ねる。
その途端、ウメエは口を大きく開けて笑った。
よくぞ聞いてくれました、と言わんばかりの笑顔である。
「肉の話をしていたら、肉が食いたくなった。
明日はロビンまで出かけて、良い肉仕入れてステーキじゃ。
お前は余り物の魚でも食っとれ」
◇
夜になると、ヒロの仕事はそれほど多くはない。
夕食の運搬や客室の管理はセンダンの仕事である。
時折、センダンがドジを踏んでそのフォローに回る事もあるが、そこまで頻繁に起こる事でもない。
外出客の案内の為、ヒロは二十一時まではフロントに座り、その後は洗い物や朝食の仕込みに手をつける。
仕込みが終わるのは大抵二十二時頃で、その時刻になると海桶屋は門限の為に施錠される。
基本的な業務はそれで終了し、客の急病等の予期せぬ事態でもない限りは、以降は自由時間である。
この日も、センダンが夕食の運搬を開始したのを見届けて、フロントに座る。
昔から使用している横長の受付台は、膝までの高さしかない独特の形状で、店員も客も座して対面する形式となっていた。
そこで胡坐をかき、何をするでもなく時間を過ごす。
そうしているうちに、センダンがふらりと現れた。
「ヒロ君、お疲れー」
軽い調子で声をかけてくる。
彼女は、何やら小皿を手にしていた。
「お疲れ様です。夕食はもう出し終えたんですか?」
「うん、終わったよ。ちょっと休憩したら掃除するー」
「そうですか。……で、それは?」
「あ、これ?」
センダンはヒロの隣に腰掛けながら、小皿を受付台に置いた。
小皿を見れば、こんがりとと焼かれた納豆入りの油揚げが入っている。
ヒロが土産に買ってきたきつね納豆だった。
「ヒロ君も食べたいの?」
ジト目で言われる。
あげたくないオーラを全身から発していた。
店員の夕食は自由時間まで待たなくてはならない為、空腹ではある。
だが、睨まれながらセンダンの間食を貰う気はない。
「いや、いいです」
「なら良いわ」
安心した様子のセンダンが、きつね納豆を一つ頬張る。
咀嚼の都度、彼女の表情は緩んでいった。
相変わらず美味しそうに食べるものである。
「美味しそうに食べますね」
「んー……まあねえ」
もう好物である事を隠そうともせずにセンダンが頷く。
「皆きつね納豆で満足してくれるなら、リーズナブルで良いのになあ」
「ん? 急にどったの?」
「あ、いや、実は……」
ヒロはセンダンに向き直った。
それから、今日のウメエとのやり取りを話す。
「……なるほど、肉料理ねえ」
「ええ。確かにお婆ちゃんの言う問題はあるんですけれど、なんとかならないかな、と……」
「そうねえ。私もどうせなら、肉料理の賄い食べたいなあ」
「そこも重要ですよね」
苦笑しながら言う。
「……でも、あれでしょ?」
と、センダン。
「あれ?」
「ヒロ君、お店を変えようと思って提案したんだよね?」
「……まあ、そんな所です」
なんとなく、視線を逸らしながら言う。
ヒロにも、店を変えていかなくてはいけない、という気持ちは前々からある。
センダン程やたらめったらに提案はしないものの、その機会は常々探している。
しょぶり肉の衝撃は、それが出来ると思わせる程、大きなものだった。
「うんうん、ヒロ君もちゃんと考えているのね。偉いわあ」
「……むう」
思わず唸る。
面と向かって褒められると照れ臭かった。
「変えようとするのは良い事だと思うわ。私も考えていた事だし」
「ええ。でも……」
「うん。ウメエさんの指摘を解消しなきゃ、どうにもならないわよねえ」
「そこですよね」
ふぅ、と嘆息を零す。
センダンもそれに同調するように眉をひそめた。
「それに『肉じゃなくヒノモト料理を食べたい!』ってお客様も多いわけだし」
「ふむ……」
ヒロは腕を組んだ。
隣に設けられている厨房への入り口に視線を移し、考え込む。
「……やっぱり、肉料理は駄目なんですかね」
「どうなのかなあ……」
◇
一日の業務を終え、自由時間になっても、ヒロは夜更かしをせずに二十四時には床に就いている。
遅くとも翌朝七時には朝食を作り始めなくてはならないからである。
起床は、作る量にもよるが、大抵は六時半頃。
朝の身支度を済ませれば、早速厨房入りである。
海桶屋では、朝食の提供時間を八時以降と定めている。
よって、ヒロはそれに間に合うように朝食を作る。
朝食は一汁一菜の非常に簡素な料理で、前日夜に仕込みも終えているのだから、そう時間を要するものではない。
加えて、海桶屋の二階全四室の客室が全て埋まる事も滅多になく、他の宿に比べれば朝食の負担は軽い。
だが、ヒロはヒロで、厨房に立つようになってまだ一年の新米板前である。
調理に手間取る事もあり、日々時間に余裕を持つようにしていた。
そして、朝食を作り終えても、朝の仕事は続く。
チェックアウトの時刻は客によって異なる為に、ヒロかセンダンのいずれかが、なるべくフロント付近にいなくてはならない。
その上で、皿洗いや、リネンに出す寝具の準備がある。
共用風呂を含む海桶屋全体の掃除を行うのも午前中だ。
自身が朝食をゆっくりと取る間はなく、客への朝食を作る際に、ついでに作ったおにぎりを、合間をみて食べるのが精々である。
とはいえ、それはあくまでも宿泊客がいる朝に限った話ではあるのだが……。
当然ながらこの日も、朝食で洗い物が出た。
宿泊客がチェックアウトする前に洗い物を終えてしまおうと、ヒロは厨房に篭った。
……そうして、洗い物を始めて間もない頃である。
「……?」
不意に、出入り口から視線を感じた。
顔を向けるが、そこには誰もいない。
いや、正しくは、視線の送り主はそこにいたのである。
ヒロとは視線の高さが大きく異なる為、瞬時に捉えることが出来なかったのである。
「あ……」
思わず声が漏れる。
よくよく凝視すれば、出入り口付近にはキィの姿があった。
半身を柱に隠し、不安げな様子でヒロを見つめている。
反射的に、昨日の失態が脳裏を過ぎった。
「キィちゃん……だよね?」
「ん……」
キィが頷く。
「ええと……どうかしたのかな?」
洗い物の手を止め、その場から動かずに尋ねた。
下手に声をかければ、また泣かせてしまうかもしれない。
かと言って無視するわけにもいかない。
センダンを呼びに行こうかとも思ったが、その為にキィの近くを通れば、やはり驚かせそうである。
「あ、あの……」
キィが消えてしまいそうな声を出す。
やはり警戒されているようであった。
だが、キィはヒロから視線を外さなかった。
「うん?」
「お、お魚……」
「お魚?」
「お魚。昨日の、お魚……」
昨日の魚。
つまりは、カツオのタタキの事なのだろうか。
「……お魚、凄く美味しかった」
「!」
「お兄ちゃん、ありがと」
たどたどしい口調。
なんとも愛らしいものであった。
思わず、ヒロは破顔する。
「……どういたしまして」
「えへへぇ」
キィも、ヒロと同じように笑う。
もうその表情からは、警戒心は一切感じられない。
強面で怖がられるのは、よくある事である。
それは仕方のない事だし、相手を悪く思うものでもない。
だが、それはそれとして、やはり悲しくもある。
だからこそ、こうして打ち解けた時は嬉しい。
心中が、穏やかな気持ちで満たされていくのが感じられた。
(……やっぱり、魚料理のままで良いか)
笑いあいながら、ヒロはそう考えた。
――そして、その日の晩。
「おぉ~い、ヒロー! 晩飯のステーキ、うまかったぞぉ!!」
(……やっぱり、肉料理の方が良いかな?)
ステーキを自慢しにきたウメエの言葉に、ヒロの気持ちはまた揺らぐのであった。