燦燦さんぽ日和   作:加藤泰幸

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最終話/卵の中身

 嵐が、段々と酷くなっているような気がする。

 風雨の吹き荒れる兄花島を、センダン、ミクリと共に歩くヒロは、度々そのような事を考えていた。

 つぶての如く降り注ぐ雨は痛いし、気を抜けば風に足元をすくわれて転びそうだ。

 それが酷くなっているというのは錯覚かもしれない。

 長時間、嵐の中に身を晒しているから、体力の減少を嵐の悪化のように感じているのかもしれない。

 だが、嵐が酷くなろうと、体力が減少していようと、同じ事。

 いずれにしても、好ましい状態ではない。

 特に、まだ十六歳のミクリにとっては過酷な状況だ。

 

 

「ミクリちゃん」

 前を歩くミクリの名を短く呼ぶ。

 僅かに速度を緩めながら振り向く彼女の表情には、未だに気力が満ちている。

 とはいえ、懸念している事は聞かなくてはならない。

「辛かったら、少し休んでも構わないからね」

「ううん。まだいける」

 予想通りの返事。

「無理をしてミクリちゃんまで怪我をしたら、元も子もないよ。本当にいける?」

「うん。辛くなったらちゃんと言うから。ありがとう、ヒロ」

 覇気のある声でそう告げたミクリは、口の端を上げてみせた。

 その笑顔に安堵を覚え、同時に少々の違和感も感じる。

 この信念を持った純粋な顔が、本当のミクリだとは思う。

 だが、ヒロには未だに、笑わないミクリのイメージが残っている。

 

 

 

(まあ、そのうち慣れるか。それより今は……)

 

 気を取り直して、前を向く。

 まだ歩き出して三十分で、観光地区を出たばかり。

 周囲からは民家が姿を消し、その代わりに左手には林が視界の限界まで延びている。

 ヒロ達は林沿いに歩いている為に、林は雨よけとして役には立っているのだが、風が木々の葉をざわめかせる度に、不安に煽られてしまう。

 右手に延々と広がっている荒れ狂う海や、空一面を覆う黒い雨雲も、同じようにヒロの心中を荒立ててくる。

 無事に、居住地区まで辿り着けるだろうか。

 着いたとして、医者を呼んでくる事ができるだろうか。

 ミクリの父は、命に別状はないと言っていたが、本当に大丈夫なのだろうか。

 考えれば考えるほど、マイナス要素が湧き出てくる。

 それを必死に、思考の隅に追いやりながら、ヒロは歩き続けた。

 今は、とにかく歩くしかない。

 サヨコの為に、歩き続けるしかないのだ。

 

 

 

「わわっ!」

 不意に、ミクリが慌てた声を出した。

 反射的にミクリを見ると、足を滑らせたのだろうか、彼女が後方へと転倒しようとしていた。

 後頭部を打つ。

 その一言が脳裏をよぎった。

 だが、その瞬間にはもう、ミクリの体は大きく傾いていた。

 今から手を差し伸べても、間に合わない。

 瞬間、駆け巡った戦慄に体を震わせる事しかできなかったが……ミクリの体は、倒れなかった。

 ヒロとミクリの間を歩いていたセンダンの手が、しっかりとミクリを抑えていた。

 

 

「ミクリちゃん、怪我は!?」

 抱きかかえたままで、センダンが慌てて尋ねる。

「滑っただけだよ。捻ったりしてないから大丈夫」

「でも……」

「本当に大丈夫だよ。ありがとう」

 明るくそう言って、ミクリは体を起こした。

 その様子にヒロは胸を撫で下ろしたが、すぐに、その安堵に次への保障がない事に気がつく。

 

 

 

 

「嵐が酷くなったのか、僕達が疲れているのか……。

 どちらにしても、ちょっと危なくなってきましたね」

「うん。そうね……」

 センダンも相槌を打ち、表情を曇らせながら周囲を眺める。

 それでも、前に進むしかない。

 それが分かっているだけに、やり場のない不安は一層募る。

 

 センダンとミクリを見れば、当然ながらずぶ濡れで、髪がぺたりと肌に張り付いていた。

 尋常ではない事をしていると、今更ながらに自覚する。

 体を打つ雨が、また強くなったような気がした。

 この先、大丈夫なのだろうか……。

 

 

「大丈夫だよ!」

 ミクリが大きな声を出した。

 心中を読んだかのような一言にはっとして、ミクリの顔を見る。

 彼女もまた、まっすぐにヒロとセンダンを見つめていた。

 吐かれる吐息は、少しだけ荒いような気がする。

 

「大丈夫。気をつければ、絶対大丈夫。

 だから行こう。サヨコを助けないと」

「………」

 少女の気持ちに、ヒロとセンダンは暫し言葉を失う。

 気をつければ、絶対大丈夫。

 脆弱な根拠の上に立つ保障だ。

 その保障に背中を押されるだけで、この少女は歩く事ができる。

 それだけ、ミクリにとってサヨコは大事な存在なのだろう。

 ならば。

 ヒロの答えは一つしかない。

 やはり、歩くしかない。

 自分はともかく、センダンとミクリが怪我をする事のないよう、細心の注意を払って歩くしかない。

 それが、ヒロのミクリに対する想いであり、もちろんサヨコに対する想いでもある。

 

 

 

「……行くしかないわね」

 センダンがにやりと笑った。

 おそらくは、似たような事を考えたのだろう。

 ヒロもしっかりと頷いてみせると、ミクリは顔を輝かせた。

 

「……ありがとう。二人とも」

「何言ってるのよ。ほら、もう転ばないようにね」

「疲れていなくても、途中途中で休憩を挟んでいこう。確実に行こうね」

 二人の言葉に、ミクリは力強く頷いた。

 それから、前を向いて、また先行して歩き出す。

 その足取りを頼もしそうに眺めながら、ヒロ達も続いて歩いた。

 

 ……だが、前を行くそのミクリの足は、すぐに止まってしまった。

 

 

 

 

 

「どうしたの、ミクリちゃん」

 立ち止まったミクリに、ヒロが声を掛ける。

 だが、ミクリは何も言わない。

 口をつぐんで、自分達の行く先を見つめている。

 彼女の視線を追うと、その先に進むべき足場は……見えなかった。

 暗闇に隠れていて、見えないのではない。

 

 川を跨ぐ木製の橋が、落ちていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 燦燦さんぽ日和

 

 最終話/卵の中身

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「橋が、落ちてるの……?」

 最初に口を開いたのは、センダンだった。

 先の足元に視線を向けながら、やっと捻り出したその声には、微かに震えが感じられる。

 

 川幅20メートルのこの場所には、木製の橋がかかっていたはずだった。

 そう古い橋ではなく、馬車で通過しても不安を覚えるような事はない、しっかりとした作りの桁橋。

 だが、その感覚は誤りだったのだろう。

 今、眼前には、あるべきはずの橋がない。

 正確には、橋台や、手前と奥の主桁は少々残っているものの、主桁の中央の大部分が折れたように抜けている。

 その抜け幅は10メートル強といった所だろうか。

 言うまでもなく、跳躍して越えられる距離ではない。

 視線を更に下に向ければ、増水した川が海同様に激しくうねっている。

 泳ぐのもまた自殺行為に等しい。

 風の音が、はっきりと聞こえてくる。

 橋は、この風でやられてしまったのだろう。

 絶望。

 その言葉が、浮かび上がってきた。

 

「迂回はできる?」

 ミクリが一歩前に踏み出ながら呟いた。

「山を通れば……多分三時間オーバー位になるわね」

 ミクリの言葉にはセンダンが答えた。

 だが、教えてしまえば、ミクリが次に言い出す事に予測はつく。

 ヒロは、慌ててセンダンの言葉に補足をした。

 

「でも、駄目だよ。この嵐の中じゃ危険すぎる。

 島の北側から大きく歩道を迂回すれば、少しは危険性も減るけれど……」

「……二人とも、ありがとう。

 北側から迂回すれば、十時間位かかりそうで、流石に厳しいね。

 山も絶対に駄目なら、答えは一つか……」

 ミクリが、また一歩前に足を踏み出す。

 ヒロは、すかさずその前に回りこんで、力強くミクリの両肩を握った。

 

 

「ミクリちゃん、駄目だ!」

「駄目って、何が」

「泳いででも渡るつもりだろう!? 絶対に駄目だ!!」

「なんで駄目なの!?」

 ミクリは、叫んだ。

 強引にヒロの両手を振り解き、物怖じせずにヒロに突っかかってくる。

 目には、めいいっぱい涙を溜めていた。

 

 それだけ、この少女にとってサヨコは大事な友人だったのだ。

 その涙に、胸が熱くなるのを覚える。

 それでもミクリを行かせるわけにはいかなかった。

 サヨコの事も、心配だ。

 だが、まずはミクリを落ち着かせなくてはならない。

 

 

 

「決まってるじゃないか! 嵐の川なんか泳いだら、絶対に溺れる!」

 ヒロも、ミクリを強く見据えながら答える。

「そんなの、やってみなくちゃ……」

「ミクリちゃん!!」

 ヒロは声を張り上げた。

 もはや、怒鳴り声と言って良い位かもしれない。

 

「う、うあ……」

 その声が、引き金になったのだろう。

 ミクリの目からとうとう涙が零れ落ちた。

 ぽろぽろと、止め処なく大粒の涙が溢れている。

 彼女はその涙も拭わず、それでもイヤイヤと言わんばかりに、頭を左右に振った。

 

 

「えっぐ……でも、でも、サヨコが……サヨコがぁ……!」

「それは分かってるわ」

 センダンが、ミクリの傍に近寄ってきた。

 背後から、そっと包み込むようにしてミクリを抱きしめる。

 ミクリを包んで交差したセンダンの腕は、激しく震えている。

 その震えを押さえつけるように、センダンは、抱きしめたミクリを強く引き寄せた。

 

「でも、ミクリちゃんが川に流されちゃったら元も子もないの!」

「……セン、ダン……」

「お願いだから、ミクリちゃん……その先は駄目……!」

「………」

 ミクリは、口を噤んだ。

 自分を抱きしめるセンダンの手に、そっと触れる。

 顔を伏せて、暫くそのままで動こうとしなかった。

 そうしている間にも、風雨は容赦なくヒロらに襲い掛かる。

 遠い海上からは、鋭い雷鳴が聞こえてきた。

 絶望の二文字が、また浮かび上がる。

 一体、どうすれば……。

 

 

 

 

「……家族、なんだ」

 ミクリが沈黙を破った。

 センダンの腕をそっと外しながら、小さな声で呟く。

 耳を澄まさなければ、嵐の音に掻き消されてしまう声だった。

 

 

「……ヒロとセンダンは、他人同士なのに、互いを家族のように思っている。

 それって……とても素敵な事だと思う……」

「………」

 まだ俯きながら、ミクリは言葉を続ける。

 ヒロとセンダンは、黙ってその言葉を聞いた。

 

「その事に気がついた時、世界が明るくなったんだ……。

 私にも、同じような人が沢山いる。

 お爺ちゃんに、スラムの人達、兄花島の人達……。

 もちろん、ヒロやセンダンだって、それには含まれている」

「………」

「そして、サヨコも。

 だから……私にとって、サヨコは家族みたいなものなんだ……。

 だから……だから……」

 

 ミクリが、顔を上げた。

 真っ赤に泣き腫らした顔を、恥じる事もなくヒロ達に向かって晒す。

 ヒロは、酷く狼狽した。

 この少女は。

 この少女の心中には。

 これ程までに。

 これ程までに熱い感情が宿っていたのだ。

 

 

「だから、絶対にサヨコを助けないといけないの!!

 サヨコーーーーーーーーーーっ!!!」

 ミクリが咆哮する。

 やり場のない感情を、爆発させる。

 

 

 ――その時だった。

 

 ミクリのポケットが輝いたのは。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

「え……?」

「なに、これ?」

 ヒロが、センダンが、目を丸くする。

 そして、その二人よりもミクリ自身が、言葉を失って自分のポケットを見下ろす。

 

 ポケットの輝きは、眩さを感じる程のものではない。

 だがその代わりに、光が届く範囲は広く、ヒロやセンダンの周囲までが明るく照らされた。

 暗い嵐の中に咲いた一輪の花のような輝き。

 不安な心に暖かさをもたらしてくれるような輝き。

 一体、これは何なのだろうか。

 そう思うのと同時に、その光源が、ひとりでに浮遊してポケットから出てくる。

 流石に直視すると目が眩むが、それでもその光源の正体を視認する事が出来た。

 

 

 

「……!」

 ヒロは、一瞬、呼吸を忘れる。

 光源の正体は、虹の卵だった。

 卵は、ヒロでも手の届かない高さまで浮かび上がると、唐突に左右に振動を始めた。

 何かを引っ掻いたような音が聞こえ、卵の表面には小さなひびが浮かび上がる。

 次第に、その震動とひび割れは大きくなっていった。

 

「ヒ、ヒロ君、これって……」

 同じく卵に視線を奪われたセンダンが狼狽した口調で言う。

 ヒロは、卵から視線を切らずにただ頷いた。

 

 卵が、孵る。

 

 ずっと正体が分からなかった卵が、今、孵ろうとしている。

 何故、このタイミングで。

 その疑問を反芻する暇もなく、卵のほぼ全体がひびで覆われた。

 そのひびからは、一層強い光が飛び出す。

 直視が難しくなってきたが、それでも卵を見上げ続けた。

 殻がはげ落ち、光は増し、

 そして……

 

 

 

 

 

「ピギャー……!」

 

 

 

 

 

 甲高い鳴き声と共に、卵の中から生物が産まれ出た。

 手のひらサイズの、小さい人型の生物。

 宙に浮きながらなおも光を放っている為に、その生物のディティールをはっきりと見て取る事は出来なかった。

 肌の色は、白にも透過色にも感じられたが、いずれにしても人間の肌の色ではない。

 その鋭い鳴き声にも聞き覚えがなく、ヒロの知っている生物ではない事は明らかだった。

 

「なに、この生き物……ミクリちゃん、知ってる?」

「ううん。私も知らない……」

 センダンとミクリも、その生物を見上げながら呟く。

 センダンに至っては、触れてみようと懸命に手を伸ばしているが、高身長のヒロでも届かない高さで浮き続けている為に、全く届いてはいない。

 当然ながら人間は空を飛べないし、空を飛ぶ亜人も存在しない。

 しかし、眩さの中で浮き続けるその生物の形は、確かに人型である。

 まだ見ぬ新生物とでも言うのだろうか。

 

 

 

 正体を漠然と考えながら宙を見上げていると、ふと、見上げる自分の顔に降り注ぐ雨量が落ちている事に気が付いた。

 視線を卵の中身から上空へとはっきり移動させると、雨雲が流れている。

 それも凄まじい速度だ。

 絨毯を巻いて回収するかのような勢いで、空の端から一気に雨雲が流れていき、晴天の空と入れ替わっている。

 無論、それほどまでに強い風が吹いているわけでもない。

 むしろ風は、雨雲が流れるのと並行して弱まっている。

 嵐は、瞬く間にその姿を消そうとしていた。

 

 

「どういう事なんだ……これじゃまるで……」

 ヒロは言葉を途中で切った。

 

 自身の推測に仰天し、その先は即座に言葉にできなかった。

 突然の嵐の消失。

 人智を越えた症状と言っても差支えない。

 これでは。

 まるで。

 そう……

 

 

「……魔法じゃないか」

 ヒロの言葉の先は、ミクリの口から零れた。

 

 

 

 

 

 

 

「そう。魔法です」

 ミクリの言葉に答える者がいた。

 声は、右手から聞こえてくる。

 そちらを向きながら、ヒロは違和感を抱いた。

 右手に広がっているのは一面の海のみで、そこには、人がいるはずはないのである。

 実際、右を向いても人はいなかった。

 その代わりに、人ならざる者が海上に浮いている。

 

 

 

「………!」

 ヒロの心臓の鼓動が、急激に高まる。

 

 彼は、その人ならざる者を知っていた。

 写真でしか見た事はなかったが、写真に穴があく程何度も見ている。

 水のように美しい青い肌をしていて、その肌を羽衣で覆った女性。

 今は病床にいるサヨコが、感謝の気持ちを告げる事を熱望している女性。

 ヒロが、そして彼の父が追い求めている存在。

 

 

「まさか、本当に……み、水の、精霊……?」

 その名を口にする事で、背筋を電撃のような衝撃が駆け昇った。

 

 センダンとミクリが、精霊の一言に反応を示したような気配を感じるが、二人の顔を見る余裕はなかった。

 水の精霊は、ヒロの言葉には答えない。

 その代わり、穏やかに微笑んでみせた。

 それだけで、濡れた全身が芯から暖かくなったような気がする。

 錯覚なのだろうか。

 それとも、これも魔法なのだろうか。

 

 

 

「この子を……私達の新しい子を、ずっと探していました」

 水の精霊がそう言って腕を掲げる。

 腕の動きが合図となったかのように、卵から生まれた生命は、吸い込まれるようにして彼女の羽衣へと飛んできた。

 それを優しく抱きとめると、水の精霊はヒロを一度だけ見渡す。

 一方のヒロは、何も喋る事ができずに、水の精霊に目を奪われていた。

 

 聞きたい事は、山程ある。

 マナは本当に精霊が生み出しているのか。

 人の前に姿を現わさないのは何故なのか。

 魔法は、何故廃れていたのか。

 虹の卵は、精霊の卵だったのか。

 今この時卵が孵ったのは何故なのか。

 

 他にもまだまだ、挙げ連ねればキリがない。

 だというのに、そのうちの一言さえも口にする事が出来ない。

 精霊が現れたという衝撃に、全てさらわれていた。

 

 

 

「人間よ」

 精霊が言葉を続ける。

「今はまだ、貴方がたと再び共存する事は出来ません。

 この子が一人前になったその時に……また共に歩きましょう」

 

 精霊が、より高く浮き上がった。

 行ってしまう。

 瞬時にそう感じ取ったヒロは、ようやく、海際まで弾かれるように駆けながら叫んだ。

 

「待って……待って下さい!!

 水の精霊、貴方には聞きたい事が沢山……!!」

「人間よ」

 水の精霊は、ヒロを見下ろしながら反応を示した。

 だがその間も、上昇する事を止めようとはしない。

 小さく、小さくなっていく。

 空に吸い込まれるように浮き上がりながら、水の精霊は優しい言葉を残した。

 

 

「新しい子を孵化させてくれたお礼に、貴方達の友人を治癒しました」

「サヨちゃんを……!?」

「戻ったら、友人に伝えて下さい。

 貴方の感謝の気持ちは、十分に伝わっていますよ、と……」

 

 

 

 精霊が、輝いた。

 瞬きをすれば見逃してしまいそうな、一瞬の鋭く尊い耀き。

 それと同時に、精霊の浮上速度が急激に増す。

 まるで流れ星が空を昇っていくかのように、その姿は瞬時に消えていった。

 ほんの僅かな間の事で、改めて呼び止める事もかなわない。

 

 

 

 

 

「………」

 

 ヒロ達は、精霊の去った空を見上げ続ける。

 精霊が雨雲をかき消した空では、マナがその存在を主張するかのように輝いていた。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 その日の晩と翌日の朝、ミクリは囲炉裏部屋で朝食を取らなかった。

 

 サヨコの容体の安定を確認してから帰宅したのが、その日の夕方。

 彼女は帰宅してからずっと、自室に篭ってレポートの取りまとめに勤しんでいる。

 精霊を、そして魔法を目にしたのだ。そうしたくなる気持ちは、ヒロには十分理解できた。

 そもそも、仕事柄、そうするべきなのである。

 とはいえ、全く食事を取らないのも、好ましくはない。

 翌朝、軽食を盆に載せたヒロがミクリの客室をノックすると、中からは明朗な声で入室を許可する返事が返ってきた。

 

「ミクリちゃん、おはようー」

 挨拶をしながら、中に入る。

 ミクリは案の定、机の上に向かっていた。

 脇机の上には、昨日運んできた夕食の器が置かれていたが、中身は殆ど食べられていた。

 床の上に敷かれた布団は少し乱れていて、睡眠を取った痕跡も見受けられる。

 睡眠と休息も適度に取っているようで、ヒロは胸を撫で下ろしながらミクリに近づいた。

 

 

 

「ヒロ。おはよう」

 ミクリは顔を起こし、目尻を下げて微笑みながら挨拶を返してくれた。

 改めて、この少女は本当に変わったと思う。

 その笑顔を満喫しながら、ヒロは机の隅に朝食の盆を置いた。

 

「これ、朝ご飯ね」

「わざわざありがとう。食べたらレポートの続きを書くよ。もう少しなんだ」

「分かった。終わったら、一緒にサヨちゃんの様子を見に行かない?」

「あ……うん。行く!」

 ヒロの誘いに、ミクリは元気良く頷いた。

 

 水の精霊の言葉は事実だった。

 

 昨日の時点で、既にサヨコは意識を取り戻していた。

 あれ程高かった熱はすっかり引いてしまい、食事も問題なくできるレベルまで回復していた。

 とはいえ、病み上がりの彼女の所に長らく居座るわけにもいかず、ヒロらは早々と撤収している。

 その為に、まだサヨコには水の精霊の事を話していない。

 水の精霊からの伝言を伝えれば、彼女はどれだけ喜んでくれるだろうか。

 その光景を想像すると、この上なく嬉しく思えた。

 

 

 

 

「ところでヒロ」

「あ、うん?」

「今取りまとめているレポートの件だけれど……魔法について、一つ仮説を立てたんだ。

 良かったら、聞いてもらえないかな?」

 ミクリの口調は、それ程堅いものではなかった。

 それでも、ヒロは居住まいを正しながら頭を下げる。

「僕で良ければ」

「うん。ヒロにこそ聞いて欲しいんだ」

 ミクリはそう言いながら、はにかむ。

 だが、すぐに卓上のレポートを手に取ってみせた。

 

 

 

「それじゃあ始めるが……まず、魔法の使い方について。

 これはやはり、マナ同様、精霊の力によって使えるようになるものだと思うんだ」

「水の精霊も、自分の力が魔法だと言っていたよね」

「そう。だから精霊と魔法が関係している事は確実。

 それに加えて、それを根拠付ける理由が、虹の卵にもあるんだ」

「ふむ……?」

 予想外の切り口だった。

 興味深そうに、上半身を少しだけ前に倒して耳を澄ます。

 

「魔法は、古の時代にのみ存在したとされている。

 そして精霊も、人の前には姿を現そうとしない。

 これは、精霊がいないから魔法が使えなくなった、とも解釈できる」

「うん。それは分かる」

「では、なぜ精霊が人前に姿を現さないのか。

 ……もしかすると、精霊はあの虹の卵を探していて、人前に出るような余裕がなかったのではないだろうか」

「………」

「水の精霊は、あの無色の生命体を『私達の新しい子』と言っていた」

「……そして『探していた』とも言っていたね。なるほど、一致する」

 

 

 

 ヒロは思わず、生唾を飲み込んだ。

 全身に寒気が走るような感覚さえ覚えた。

 

 そう考えれば、幾つかの謎が解け、そして絡み合う。

 太古の世では、人は精霊の力を借りて魔法を使う事が出来た。

 しかし、新しい精霊が見つからない事で、精霊は自分達の新しい子を探すのに躍起になり、人の前に姿を現さなくなった。

 精霊がいなくなれば、その力を源とする魔法も使えなくなる。

 そうして、魔法は世の中から失われていった。

 

 そしてそれは、過去の話だ。

 新しい精霊は、卵から孵った。

 精霊の悩み事が解決すれば、精霊は再び人との交流を始めるかもしれない。

 すれはすなわち、人間の新しい可能性、魔法の再誕に他ならない。

 人類は、新たな一歩を踏み出すかもしれないのだ。

 

 

 

「……ミクリちゃん、今更も良い所だけれど、これとんでもない発見だよ」

 ヒロの声は擦れている。

 表情には、歓喜と驚愕の入り混じった震えがあった。

 

「魔法が……魔法が、再現できるかもしれないんだね!」

「うん。……でも、それが何時の事になるのかまでは、分からない」

 ヒロとは対照的に、ミクリは落ち着き払っていた。

 肩を竦め、ちらりとレポートを見やってから、彼女は言葉を続ける。

 

 

 

「精霊は『この子が一人前になった時に、共に歩こう』と言っていた。

 それが何時の事になるのか、私には分からない」

「あ……」

「言うまでもなく、人間とは違う生命体だからね。

 人間と大差無い十五年を持って一人前となるのか。

 それとも一日二日ですぐに生体となるのか。

 或いは、百年、千年といった途方もない期間を要するのか……」

「………」

「でも」

 ミクリが、背筋を伸ばした。

 レポートを卓上に戻し、じっとヒロの目を見つめてくる。

 彼女の声は、活力に満ちていた。

 

「その日は、いつかきっと来る。

 その時に混乱が起きないよう、魔法の存在を世に周知させなくちゃいけない。

 それが、これからの私の新しい仕事になると思うんだ」

「……うん」

 ヒロは、彼女を激励するように力強く同意する。

「でも、それはきっと楽ではない。だから……」

 ミクリは、そこで言葉を切った。

 

 溜めを作るというよりは、言い淀んだ様子である。

 頬には、微かに赤みが差していた。

 その先の言葉を言おうと、何度か口を開いては、言えずに閉ざす。

 ヒロが不思議そうな顔をした所で、彼女はようやく小さな声を漏らした。

 

 

 

 

「だから……仕事に疲れたら……

 また、兄花島に……海桶屋に……

 ヒロやセンダン、サヨコ、島の皆の所に、遊びに来ても良いかな……?」

 

 言い終えたミクリは、固唾を飲んでヒロを見つめ続けた。

 そんな顔をしなくても。

 ヒロはつい表情を緩ませる。

 そんなもの、答えは決まっている。

 でも、それはミクリにとっては大事な確認なのだとすぐに気がついた。

 

 ミクリは、兄花島で触れ合った人達の事を家族のように思っている。

 だが、逆に自分がどう思われているのかについては、分からないのだ。

 他人の考えなのだから、確信が持てないのは当たり前だ。

 それを、確認しようとしているのだ。

 ならば、答えよう。

 自分の気持ちを、伝えよう。

 大事な言葉を、返してあげようではないか。

 

 

 

「もちろん。いつでも帰っておいで」

「……うん! ありがとう、ヒロ!」

 ミクリは、センダンのように歯を見せて笑った。

 

 

 

 

 

 

 

 ◇

 

 

 

 

 

 

 

 ミクリに朝食を出し終えたヒロは一階に下りたが、センダンの姿が見つからなかった。

 朝方にセンダンがみつからない時は、外で日向ぼっこをしている事が多い。

 海桶屋の外に出ると、案の定、彼女は晴天の下で海を眺めていた。

 

 

「センダンさん、また日向ぼっこですか?」

「おー、ヒロ君。だって気持ち良いじゃないのよ」

 センダンは首だけで振り返りながら言う。

 尾がブンブンと振られていて、言葉通り気持ちが良さそうだった。

 

「ミクリちゃん、どうだった?」

「レポートはもう少しで終わるそうです」

「ふむふむ」

「魔法や卵の事、仮説ですが大分まとまりそうですよ」

「そっか。……あ。卵と言えば、私も一つ分からない事があるのよね」

「なんでしょうか?」

「卵が孵った理由よ」

 センダンはこめかみに手を当てて振り返り、ヒロを見る。

 そう言われれば、その説明はミクリからは受けていなかった。

 

 

 

「絵本の情報だけれど、虹の卵は手にした者の気持ちに応えて孵るものなのよね」

「ええ」

「卵が孵った時のミクリちゃんの感情……あれは大切な人を思う気持ちだわ。

 だから、卵はその気持ちに反応して孵ったんだと思うのよ」

「まあ、そうかもしれませんね」

「……でも、ミクリちゃんの前に卵を預かった私達や、

 私達が知らない、昔に卵を持っていた人にも、そういう気持ちはあると思うのよ。

 だから、なんでミクリちゃんの気持ちにだけ反応したんだろう、って」

「ああ、なるほど」

 

 ヒロは腕を組んで考え込む。

 確かに、その点は疑問だ。

 ミクリだけ、何か違ったのだろうか。

 自分達とミクリの違いを考えるうちに、一つだけ思い当たりが出てきた。

 

 

 

「……あれかな」

「お。なになに?」

「ミクリちゃんは、長年笑わずに感情を抑えていましたよね。

 だから、その長年の気持ちが積算していたから、とか」

「ふむ。であれば、辻褄は合うわね」

「それで合っているのかは、分かりませんけどね」

「ま。外れていても良いわよね。

 私達にとっては、ミクリちゃんが笑ってくれた事こそが大事なんだから」

 センダンは嬉しそうにそう言って、また海を眺めた。

 ヒロも、彼女の隣まで歩いて海を見る。

 嵐の後のフタナノ海は、子守唄のように静かな波音を立てていた。

 

 

「ヒロ君」

 センダンが海を見たままで、また声を掛けてくる。

 

「今度はなんでしょうか?」

「良い事、成功したね」

「ええ」

 

「今年も、まだまだ良い事があるといいね」

「ええ」

 

「……もう、春だね」

 

 

 

 

 

 ヒロは返事をする前に、海桶屋の更に奥にそびえる山を振り返り見た。

 

 冬と嵐から解き放たれた木々は、その生命をアピールするかのように懸命に枝を伸ばしている。

 

 耳を澄ませば、周囲に生えている草花がさわさわと触れ合う音がする。

 

 草花を揺らす風は、生命を包み込むような暖かさに満ちていた。

 

 緑の中には、明るく艶やかに咲く花もぽつぽつと見受けられる。

 

 空では、鳥が駆けている。

 

 羽を大きく羽ばたかせた数羽が連なり、マナの間を縫うようにして駆けている。

 

 自然が、躍動している。

 

 年に四度の季節の移り変わり。

 

 そのうちの一回が、今。

 

 春を迎える為に、自然が燦燦と鼓動しているような気がする。

 

 

 

 

 

「……春ですね」

 

 ヒロは、風を掴むように片手を上げながら答えた。




燦燦さんぽ日和、これにて完結となります。
最後までお読み頂き、誠にありがとうございました!
最後の最後で評価に色までついて、皆様にはただただ感謝の一言です……。

今後の事なのですが、せっかく書いた本作、このまま終わるのも勿体無いと考えております。
そこで、別の形でも生かせないかと模索していきたいと思いますが、まだ暫く先の事。
或いは、新しく別のお話を書くかもしれませんが、その時はまたお付き合い頂ければ、これに勝る幸いはありません。

改めまして、最後まで本当にありがとうございました。

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